母の誕生日
砂藪
豚汁ともつのどて煮
私の母は小さくて少し曲がった背をしている。白い割烹着の細い紐をなんなく背中で結ぶ。その蝶々結びはよれてもいないし、左右どちらの輪っかも同じ大きさで、下へと垂れた紐の長さもほとんど同じ。
くつくつと音をたてる鍋の火を消し、目分量で切り取られた味噌がゆっくりと鍋の中に降ろされる。
少しずつ少しずつ、味噌はその身を溶かされ、鍋全体に広がっていくのだろう。
「ねぇ、お母さん。本当に私、手伝わなくてもいいの?」
久しぶりの我が家に勢い勇んで帰ってくると、母は私が保冷バッグに入れていた食材を見て、皺だらけの顔を綻ばせた。私が「もつ鍋でもつくろうか」と聞くと母は私をダイニングの椅子に座らせた。
「いいから座ってなさい。遠くから来て疲れたでしょう?」
「いや、でも、今日は……ていうか、お父さんは?」
「お父さんなら、今朝から用事があるって出かけているわよ」
私は思わずため息をついた。
何故、よりにもよって今日という日にうちの親父は出かけているのだ。
今日は母の誕生日なのに。
私だって、母の誕生日に合わせて帰ってきて、今日ぐらい母には休んでもらおうと思ったのに、結局台所に母のことを立たせている。
「ほら、外は寒かったでしょう? 出来立ての豚汁よ」
大根と人参とごぼうと山芋といんげん。一人で食べるにしては食材も多く、大量に作れない。最近はもっぱらインスタントの豚汁しか食べていなかったが、インスタントは小さな細切れにされた野菜が汁に浮かんでいた。インスタントも生活には切り離せないものだが、やっぱり、母の豚汁には敵わない。
一口すするだけで、じんわりと身体の芯が温かくなる。
「何作るの?」
私が持って帰った豚のもつを取り出した母に尋ねると母はにっこりと笑うだけで答えてくれなかった。
お湯を沸かしている間にてきぱきと母はこんにゃくを切り始めた。短冊のように切られたこんにゃく達が、半月切りにされた大根と同じボウルに入れられていく。
「ケーキありがとうね」
「えっ」
もつと一緒に保冷バッグの中に入れていたものの、白い箱に入っているからバレていないと思っていた。母も中身は見ずに冷蔵庫に箱ごとケーキをいれていた。私が驚きの声をあげると母は振り返らずに「ふふっ」と笑い声を漏らした。
「だって、箱の取っ手にケーキ屋さんの名前は入っていたわよ。駅前のケーキ屋さんよね?」
「……」
箱の取っ手まで確認していなかった。
「て、ていうか、お父さん、どこに行ったんだろうね。こんな日なのに……」
私が無理やり話を逸らそうとしていることに気づきながらも母は笑いながら「さぁねぇ」と口にした。
「でも、今日はうんと寒いから、身体が温まるものを作らないとね」
沸いたお湯に投入される豚のもつ達。
そして、もつを放って、母が立派なネギを持ってくると、とんとんとん、と心地いい音が台所に響く。
「ねぇ、お母さん。お母さんってお父さんのどこが好きになったの?」
「そうねぇ、ちょっとおっちょこちょいなところかしら」
「おっちょこちょい? あの岩みたいに頑固で融通の利かないお父さんが?」
私はお父さんとあまり話したことがない。なにを話しても静かに「ああ」「そうか」と応えることが多い父よりも笑って聞いてくれる母に話をする方が有意義だと思っていたからだ。私の進路や就職に関しても父は特別止めることもなかったが「真面目にやるんだぞ」とはっきりと言ってきた。
そんな父がおっちょこちょい。
一番、父に似合わない言葉だ。
ねぎがいつの間にか切り終わっていて、母は鍋に浮かんだあくを丁寧にとっていった。
私が料理をすると慌ただしい背中を曝すことになるだろう。あんな綺麗で落ち着いた背中になるには、いったいあといくつ歳を重ねればいいんだろうか。
ざるにあげられたもつは、空になった鍋に戻され、こんにゃくと大根もそこに合流した。酒に砂糖にみりん、そして、味噌が投入される。
「……どて煮? お父さんの好物じゃん」
「お父さんだけじゃなくて、私の好物でもあるのよ」
「え? そうだったっけ?」
「たくさん好物を作ってあげてたら、いつの間にか私の好物と得意料理になっちゃったのよ」
なんて惚気だ。まさか、この歳になって親の惚気を聞くとは思わなかった。しかし、母はここまで父のことが好きなのは見て分かるが、肝心の父の気持ちが私には分からない。
あとは待つだけよ、なんて母が一通りの作業を終わらせたみたいで、私の向かいに座って、家に帰ってない間の話を聞いてきた。
もつのどて煮が出来上がる頃にやっと玄関の方からがらがらと音が聞こえた。母が立ち上がって、玄関まで行くのを私も迎えに行く。なんと父はクーラーボックスを肩からさげていた。まさか、母の誕生日に釣りにでも行っていたのか。
「持ちますよ」
「いや、いい」
「ただいま」
「……ああ、おかえり」
私に会ってもあまり嬉しがっているようにも見えない。父は母にも私と同じ態度なのかと訝しみながら見ていると、冷蔵庫の前でクーラーボックスを置いた父が、白い箱を取り出した。
そして、冷蔵庫の扉を開けて、同じ大きさ、同じ色、そして、取っ手に同じ店のロゴが入っている箱を見つけて父は分かりやすく固まった。
「……」
「……」
父が私を振り返ったがなにも言わない。私もなにも言わない。
「中身はさすがに違うでしょう」
母が笑いを堪えながら冷蔵庫の中に置かれた私が買ってきたケーキを取り出した。一応、お祝いとして、ホールケーキを予約していたのだ。さすがに被るわけがない。母が好きなチョコレートケーキのホール。
父はテーブルに置かれた私のケーキの隣に自分のケーキを置いた。そして、父が先に箱を開け、それに倣うように母が箱を開ける。
チョコレートケーキのホールが二つ。
「……」
「……」
父は黙った。私も黙った。
「他にもある」
父がさっさと箱を冷蔵庫の中にしまうとクーラーボックスをまた開けた。その手には業務用スーパーで買ったらしい豚のもつ。
「……」
私はなにも言わないことにした。
母は笑った。
「あなたたち、本当に似た者親子ねぇ。ほら、あなたも身体が冷えたでしょう? ご飯にしましょう。明日はもつ鍋ね」
母の誕生日 砂藪 @sunayabu
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