第11話 雪中月下の決意


「ソイツは超人だ」

「超人、だと……?」

「なんだ、知らねェのかお前。今の人間っツうのは超人の知恵まで失伝しちまってんのかよ」


 聞いておかねばならない。聞き慣れないその単語にヴァンは強くそう感じた。冒険者として培われたに対する獣のような直感が、へどろのように、やけに耳について離れない『超人』という言葉に警鐘の叫びをあげたのだ。


「……教えてくれ」


 故に、ヴァンはばくばくと耳元で強く鼓動する心臓を放っておいて、静かに悪魔に問いかけた。

 

「超人ってつぅのは万人の頂きに胡座あぐらをかいて座れちまうような、尋常とは一線を画すおぞましいほどに優れた才気を持った、人であって人でないものだ」

「だから、僕の両腕じゃあ足りないと?」

「あァ、そうだ」


 上手く、情報を咀嚼できなかった。

 降って湧いたように悪魔の口から出てきた話はあまりにヴァンに不都合で不条理で、到底、はいそうですかなどと受け入れることができなかった。

 ヴァンは歯茎を食い縛り、くそ、くそ、と汚い悪態を口の中に静かに吐いた。それしか、できなかった。

 いかに剣を振るう才能があろうとも、堅実に学びを行う勤勉さがあろうとも、この場のヴァンはひたすらに無力。指先一つ動かせやしない雁字搦めの中にいるようだった

 強く握りすぎて白く変色した拳から、爪が皮膚を突き破り血が滴り、乾き切った彼女の血と混じる。

 ヴァンは振り返って縋るようにゾフィーを見た。


「………あぁ、嗚呼、ゾフィー」


 僕の覚悟なんて、無意味だった。

 僕の決意なんて、無価値だった。

 こんなことで知りたくなかったけど、やっぱり君はとってもすごいんだ。

 優しくて、強くて、綺麗でとても頼りになる君は、それでも僕を必要としてくれて、だけど僕はそんな君を助けてあげられない。

 ごめん、ごめん、ゾフィー。

 僕はどうしようもなく無力なんだ。

 いま、なにをしていいのかわからなくなっている。

 悪魔に斬りかかって脅せばいいのか、君の冷たい頬を撫でればいいのか。

 分からない。何が正しい選択なのか、分からないんだ。

 だから、ただ今は君の顔を見ていたいんだ。生きている君の顔を目に焼き付けていたい。

 逃避だ、前を見て思考を廻せ、と冒険者としての自分が強く訴えかけてくるのをヴァンは明確に感じつつも、無理やり蓋をして気づかないふりをした。そうして、ただゾフィーの顔を見続けた。


「ごめん、ごめん……」


 ヴァンの心は、眩いばかりに盛っていた意志の炎は絶望という抗うことの出来ない大きな風に熱を奪われ、今まさに消えて無くなろうとしていた。

 舌はただ謝罪を紡ぐために動き、揺れる青い眼は泥に塗れた水溜りのように濁る。そこに輝きはなく、いっそ哀れで憐れみを感じるほどに無力さを痛烈させた。

 絶望はヴァンの耳を包み、彼を世界の音から遠ざける。

 酷く薄い現実感。いっそ、夢と思わせてほしい。そうヴァンは消え失せた音の中で細く考えた。

 そんな中、枯れ葉が擦れたような独特の音色を含んだその嗄れた声は、不思議と絶望の手を突き破りヴァンの耳に届いた。


「ソイツの怪我を癒して二人を家に帰せ、そう、お前は言ったな」


 間違いようのない、悪魔の声だ。

 いまさらなんだ、と反骨めいた精神をもってヴァンは悪魔に小さく返事をした。


「……あぁ、そうだよ」

「一つ、提案をしてやろう」

「……なんだ」

「ソイツを助けられるぞ」

「ッ!?」


 弾かれるようにヴァンは悪魔のほうへと勢い良く振り返った。

 

「本当かッ!?」


 嘘だったら許さない。ヴァンの言葉には怒りにも似た気迫が強く籠められている。だが同時に込められたその熱量は、悪魔に対する希望の裏返しとも言えた。 


「あァ、簡単だ。お前の望みを変えちまえばいい」

 

 悪魔は刃のような指を一本立てながらヴァンへと言った。


「ソイツの治すのは良い、まだ。だが二人を家に帰せっツうなら、足りない。だから、だ。一人だけを家に帰せ、とお前が願うのならばその望み、叶えてやれる」


 悪魔は笑った。

 楽しそうに、嬉しそうに。もしかしたら悲しそうに、泣いているように。どこまでも道化的だった。


「さァ、どうす―――」


 悪魔の問いはまさしく『愚問』だった。

 そんなもの、もう既に答えを持っているのだから。

 紅が照らす瓦礫の群生のなかで、悪魔をにらんだ少年の瞳には炎があった。その炎とは二度目の覚悟の炎。気高く、力強い輝きが再び少年の瞳に宿ったのだ。


「―――ゾフィーを治して、彼女を家に帰してくれ」


 人が生まれ老いて死ぬに余りある、百二十年という長い時を越えて、契約は再び為された。

























 まるで体の中に鉛を流し込まれたようだった。

 指先一つすらまともに動かすことは出来ず、辛うじて、それでも縫い付けられたように重いまぶたを開けると、暗く果たしてない暗黒が彼女の瞳一杯に映った。

 ゾフィーは暗闇にいた。

 そこはひどく薄ら寒く、生肌を超えて骨の芯、それどころか自分の根幹にあるような、そう、魂すらも凍てつかせる冷たさを持った場所だった。

 果てしなく孤独で、どこまでも無限に広がる暗闇にゾフィーは身の毛がよだつ恐怖を覚え、体が動かないことを分かっていても、咄嗟に腕で自分の体を抱こうとした。

 腕は動かなかった。肌を撫でる鋭い冷気は確かに感じられるのに、しかし体を動かす肉の線だけが、鮮やかにすべからく断ち切られてしまったように動かすことができなかった。

 滲んだ恐怖と焦燥に怯えてゾフィーは、

 『ヴァン』、

 と縋るようにたった一人の家族の名前を呼ぼうとした。

 しかし瞬きすらやっとのなかで、彼女の口は縫い付けられたように動かすことができず、固まった舌根を芋虫のように蠢かせるのが精々だった。

 ゾフィーはその時、悟った。

 私はずっとここにいるのだと。

 この暗く、冷たく、寂しい場所に私はたった一人でいなければならないのだと。

 鉛のように固まった彼女の瞳から、つうぅと、涙が一筋、音もたてずに静かに落ちた。


(ヴァン、どこだ。どこに行ってしまったんだ、ヴァン)


 私を、ひとりぼっちに、しないで。


 寂寞じゃくまくというにはあまりに物悲しく、寂然というには大きすぎる孤独感に、ゾフィーは縋るように何度も、何度も少年の名前を言おうとした。しかし舌の根は動くことを拒んでならず、喉は嚥下の機能すらも働くことをやめていたため、彼女の思いは言葉の形にできず、下手くそが吹く笛のように、ただ唇の隙間から漏れる細い空気の音に成り果てるばかりだった。

 水に溶けて形を失う砂糖。

 それと同じく、ゾフィーという強く賢く勇敢な少女を、その形を跡形もなく溶かしてしまうのは『孤独』である。

 彼女にとって孤独とは恐怖であり、一人の家族を自分の元へ縛る鎖であり、一つの愛の表現である。

 震えれば彼は抱きしめてくれる。泣くと彼が頬を拭ってくれる。

 ただの甘えで、見るに耐えない幼児退行のようで、だがそれは紛れもない彼女の本質なのだ。

 彼女は寂しがり屋で、人との繋がりを大切にする少女。ヴァンはいつか、彼女のことをそう表現した。しかし、それもまた彼女の本質のほんの小さな一面に過ぎない。

 彼女は子供なのだ。彼女の深層に眠る本質とは、未だ反抗期すらも迎えないような、せいぜいが五、六歳の少女なのだ。

 ただ彼に褒めてもらいたくて。

 ただ彼に触れて欲しくて。

 ただ彼と一緒に居たくて。

 少女は夢を追う。

 彼と共に決めた、夢を追う。

 一緒に追うと誓った夢を見る。

 彼女にとって、待ち受ける苦難が如何なるものであろうとも、例えどんなに辛い不幸に見舞われようとも、彼が一緒ならば全ては髪を微かに撫でるそよ風になるのだ。


 ヴァン、ヴァン、ゔぁん、ばん、と彼女が何百回、何千回、もしかしたら何万回。どれほどの時間が過ぎて、何回、ゾフィーは彼の名前を呼んだだろうか。動かせていたら舌の根が千切れ落ちていたであろう、果てなき彼女の無音の呼び声はいつしか彼女自身の時間の感覚すらも忘れさせていた。

 ここには眠りを覚ます太陽も、夜の訪れを告げる月もない。あるのは暗闇という大きな孤独だけで、ゾフィーの涙は闇のうすらとした寒気に簡単に飲み込まれてとっくに枯れていた。

 それでもゾフィーはヴァンの名前を呼び続けた。

 彼の優しい、ほんのり小さな笑窪ができる笑みを見たい。

 昔とは違ってゴツゴツとした、たこが出来ては潰れて重なり硬く厚くなった彼の手に触れたい、触れてほしい。

 

 私の名前を呼んで欲しい。

 

 ゾフィーが願った、その儚く小さな願いをも闇は優しく抱き込むようにして静かに奪っていく。

 小さな子供が笑みを浮かべて遊ぶ砂場の山崩しのように。或いは緻密な計算を挟んだ、ネジで動く鉄の絡繰りのように。闇はその無機質で無慈悲な無邪気さをもって、確実にゾフィーを切り崩し、黒く染め上げ、蝕む。

 比喩ではない。底の見えない闇は確かにゾフィーの気概を啄むように奪っていくが、目に見える形でもまた、闇は彼女の四肢の爪先からじんわりと、あたかも底なし沼に沈んでいくように黒にうもれさせていった。

 闇には感触はなかった。闇に飲み込まれた指先からは、冷たさも暑さといった熱が伝わってこず、ともすれば、へばりつくような粘り気も無ければ、さらさらとした心地もなかった。

 まるでただの空気のようで、黒く消えゆく四肢を見なければ気付くことすら出来ないだろう。

 そう、口すらまともに動かすことが出来ないゾフィーは、自分が今まさに闇に飲み込まれていることに気付いていなかった。

 だが彼女の、悪魔に超人とまで言わしめた肉体とその研ぎ澄まされた精神は、例え姿が見えずとも自身の危機に大して警鐘をけたたましく打ち鳴らしていた。

 いつしか、私はこの闇に全て奪われてしまう。背中を這いずる冷たい悪寒に、そうゾフィーは漠然と感じ取った。

 それはきっと血も肉も、記憶も魂も、全てを一緒方に根こそぎ奪っていくのだろう。瞳も、両親の記憶も、産毛の一本すらも、昨日の夕餉の記憶ですらも。

 もちろん、『ヴァン』も。

 それだけは、どうしてもいやだった。

 例え自分の全てを奪われようとも、彼を失うのだけは堪えられない。

 だからこそゾフィーは何度も彼の名前を呼ぶ。きっと彼女は、闇に全てを飲み込まれるその最後の瞬間すらも彼の名前を唱えつづけるだろう。

 決して奪わせないように。

 決して失わないように。

 孤独な闇のなかで彼の温もりに縋るために。

 彼を抱いて、少女は死にたいのだ。


(ヴァン。ヴァン……)


 闇は彼女の肢体を覆いつくし、その白く細い首に手を掛ける。

 確かに這い寄る死の気配。しかしそれでもゾフィーにとって姿の見えない死の幽霊よりも、この凍えてしまう孤独が何よりも恐ろしい。そして、彼を独りにしてしまうことが何よりも彼女の心を締め付ける。

 独りが怖い。独りにさせてしまうのが怖い。


(……ヴァン)


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 頭からつま先まで体の中を激しく打ち付けるように木霊する罪悪感と目の奥を握り潰されるような恐怖に、ゾフィーの思考は掻き乱されてぐちゃぐちゃになっていた。


『………ゾフィー』

「ッ!?」


 それでも彼女は決して彼の声を聴き逃さない。

 突然聞こえた彼の恋焦がれたその声にゾフィーはハッとし、辛うじて動く眼球で辺りを隈なく見渡した。だが目に映るのは底の見えない闇だけで人間どころか虫の一匹すら見当たらず、当然そこに彼の姿などない。

 だが、聞こえた。今まで何度も何度も聞いて、時に泣いて怒り、笑い楽しんだ彼の声が確かに聞こえたのだ。


(……ヴァン!!)


 ゾフィーは在らん限りの力を込めて叫んだ。

 答えなければならない。

 彼が私の名前を呼んでいるんだ、必要としているんだ。 


「…………ァ」


 何故なら彼女は冒険者。数多の怪物を打ち払い、斬り伏せ、屍の灰の山で飯を喰らう、今を生きる英雄。超人であるのだ。

 そして『孤独』が少女の形を崩すならば、『家族』さえあれば少女はどこまでも高く飛べる翼を得る。

 今でも体は鉛に置き換わってしまったようで、口はまともに開かず舌を蠢かせるだけで一苦労。


『……ゾフィー』


 だが、それでも答えなければいけない。

 私は冒険者で、友人で、たった一人の家族であるのだから。

 だから叫ぶのだ。全身を縛る死の鎖をぶち切れるほどに、力を込めて叫ぶのだ。


『ゾフィー!』


「ヴァン!」


 彼女の決死の叫びは体の麻痺すら通り越して、暗い空気を激しく揺らした。

 その瞬間、ぶちり、と鈍い音がゾフィーの耳を微かに掠めたと思えば、白く輝く眩い極光が突如として現れ、暗い闇を払うように彼女の体を包み込んでいった。









 紅い月光が照らす廃墟の中で、お世辞にも綺麗とは言えない埃くさい空気をふわふわと揺蕩うように舞っている白い燐光は童話でしか見たことのない蛍のようであった。

 その光景はひどく幻想的で、ふと気を抜いてしまえば状況を忘れて阿呆のように魅入ってしまいそうだった。

 契約成立だ。そう言ってすぐ、悪魔の口から溢れるように出てきたその白い燐光は宙を滑空するようにゾフィーの元へ飛んでいき、彼女の深い傷を隠すように纏わりついた。

 まるで彼女が貪り食われているようなその光景にヴァンは不安を覚えるが、動くなと告げる悪魔の瞳の力強さに呑まれて、静かに見守ることを決めた。

 

(お願いだ、治ってくれ)


 期待とイヤになるほどこびり付いた不安を滲ませながらヴァンはハラハラとした気持ちで、祈りめいた想いを噛み締めるように心の中でつぶやいた。

 もし、と不吉な考えが頭を過って仕方がない。

 悪魔が彼女を治せなかったら。

 今この瞬間に、悪魔がその鋭い真っ赤な爪で僕の背中を貫こうとしたら。

 瓦礫が降ってきて治療の邪魔をしてしまったら。

 浅く、ふと思いついた陳腐な絵空事のように馬鹿馬鹿しくて、一顧だにも値しない詰まらない考えだとヴァンは理解していても、どうしてもそれを止めることができなかった。

 だが無理もないことだった。

 もう彼女を助けるにはこれしかないのだ。怪しげな悪魔という怪物に両腕を捧げて彼女を治してもらう。そんな蜘蛛の糸よりも細い光にしか今のヴァンは縋れない。

 

「ソイツに、声を掛け続けろ」


 だから彼はその突拍子もない悪魔の言葉にもすぐさま反応できたのだろう。

 ヴァンは血に濡れたゾフィーの手を割れやすい陶器に触れるような慎重さで優しく握る。掌から伝わってきた彼女の体温はゾッとするほど冷たく、冷えた鉄の棒を握っているような感覚だった。

 それは焦りを覚えさせるのは十分すぎるもので、しかしそれでもヴァンは静かに穏やかな口調で彼女の名前を呼び始めた。

 そうして、しばらく。

 氷のように冷たかったゾフィーの手の平はほんのりと暖かくなり、ヴァンの手にじんわりと滲んだ汗で彼女の固まった血が溶かされて互いの腕に幾つも赤い筋が描かれていた。

 ひたすらに彼女の名前を呼び続けて、長い時間が過ぎた。次第に呂律は空回り始め出してきて、張り詰めた緊張は如実に体力を奪っていく。

 それほど時が過ぎても二人を照らす月光の柱は微動だにせず、ここが異界であることを否応なしに叩きつけてくる。


「ゾフィー……ッ」


 次第にゾフィーの傷を覆う白い燐光も、地面に溶けて消えゆく粉雪のようにその数を減らしていった。そうして垣間見え始めた燐光の下にあるものは、黒と紅と白のグロデスクなものではなく、真っ白のすべすべとした彼女の柔肌である。

 傷は確かに癒やされていく。

 だが一向に彼女が目を覚ます気配は無い。そんな彼女へヴァンは、さながら焼きごてを首元に押し付けられたような酷く強い焦りを覚えながらも、それでも悪魔を信じて我武者羅に彼女の名前を呼び続けた。


から、呼び戻せ」


 悪魔は静かに告げる。

 その声音は真剣味を帯びていて、ヴァンにこの瞬間が瀬戸際であることを強く感じさせた。

 緊張と不安で舌が攣ってしまいそうだった。

 血と汗に濡れた指先がとても冷たく感じる。

 それでも彼女を救えるのならば、生きていてもらえるならヴァンの心には無限とも思える熱い気力が湧いてくる。

 だからヴァンは吐き出す息に願いと祈りを込めて、彼女の名前を呼び続けるのだ。


「ゾフィー」


 戻ってきてくれ。

 死なないでくれ。

 お願いだ。

 そのとき、彼女の指が微かに動いた。

 それは筋肉の痙攣と言えばそこまでの、ほんの僅かな動きだったが、ヴァンはそこに彼女の意志を見た。


「ゾフィー」


 彼女も足搔いているんだ。

 生きようとしてくれているんだ。

 それだけでヴァンの胸には春の陽だまりのような朗らかな気持ちが湧く。

 

「ゾフィーッ」


 頑張れ、頑張れゾフィー。

 届いてくれ、僕の声。

 

「ゾフィーッ!」


 自然と、涙がヴァンの瞳から溢れてくる。

 頬を伝って落ちた滴がゾフィーの瞼を軽く打つなか、彼は一際大きな声で彼女の名前を叫んだ。


「………ぅあ」

「ッ!?ゾフィー!」


 それは風の音にすら搔き消されてしまいそうなほど小さな呻きで、紛れもないゾフィーの口から出たものだった。

 はっと目を見開いたヴァンは彼女を抱き起して、しかし、何かの拍子でまた彼女は死んでしまうのではないかという心配が過り、まるで割れ物を扱うかのような慎重さで彼女を優しく揺さぶった。

 そうして、彼女の耳元で囁くように呼び起こす。


「ゾフィー。ゾフィー、お願いだ、起きて」


 数えるのが億劫になるほど、胸が張り裂けんばかりの切実な祈りを込めて何度も彼女の名前を呼んだ。死にゆく彼女を前に噛み締めた無力感は、自分への殺意に繋がった。

 その懇願は最も情けなくて、一番哀れで、しかしどこまでも誠実であった。

 彼女は呆れて起きたのだろう。後のヴァンは、そう振り返り、笑って言う。

 彼女は固く閉じられていた瞼をゆっくりと開いて、アメジストの瞳でぼうっとヴァンの顔を見つめた。


「……ヴァ、ン?」

「ああっ!そうだよ、僕だ!」

 

 彼女の声は喉が引き攣っているように掠れていたが、その口は確かに彼の名前を紡いだ。

 二度と開かないのかと思ってしまった彼女の瞳が、自分の目を見てくれている。

 名前を呼んでくれる。

 それが何よりも嬉しくて、ヴァンは思わず泣いてしまって、不恰好な鼻声で彼女へ返事をした。


「ここは、どこ…?」

「教会の地下だった場所だよ。なんとか逃げ切れたんだ」

「逃げ……?。ッ!?」


 ゾフィーははっとヴァンの言葉で状況を思い出し、眠けが残っていた目を見開いてすぐさま立ち上がろうとしたが、その瞬間に大きな眩暈に襲われて思わず態勢を崩してしまう。

 ヴァンはすぐさま彼女を優しく抱き留め、彼女へ言った。


「ゾフィー、話を聞いてほしいんだ」

「なにを、今はまず水面の花を探すべきだ……っ」


 ごほごほ、と目覚めたばかりのゾフィーの喉は、急に大きな声を上げたものだから、堪らず咳き込んだ。

 吐き出す咳に応じて震える背中。膨らむ肺に瞑る目。息を吸う音。そんな彼女の動きにすら、ヴァンはどうしても笑みを抑えられない。

 ああ、生きている、生きているんだ。僕は彼女を救えたんだ。

 その事実が何よりもヴァンを奮い立たせ、無類の勇気を与えてくれる。しかし、の事を伝えなければならないと思うと、闇夜の蝋燭のように心細く思えて、舌の根が攣りあがりそうだった。それでも伝えなければならない。

 きっと、もう時間はない。

 彼女の体を覆っていた光の粒子が、ほんの僅かではあるが自分の両腕に着き始めているのをヴァンは見た。

 迫る刻限に心を痛めながら、ヴァンは努めて穏やかに言葉を紡ぐ。

 

「お願いだ」

「………どう、したんだ。ヴァン」


 ゾフィーの並外れた瞳と嗅覚は、穏やかな笑みに隠された並々ならぬヴァンの様子を精密に捉える。ゆえに、彼女はその不穏さに怯えて、堪らず、震える声で彼に問いかけた。

 

「ゾフィー。しばらく、お別れだ」

「何を…」


 また、変に不貞腐れて、ふざけたことを言っているのだと思った。もう一度、彼の頬を打って真面に戻さなければと、ゾフィーは重い腕を上げようとしたがヴァンが抱きしめるように肩を押さえていたためにできなかった。

 あるいは、ヴァンはそれすらも分かっていて、その行いは彼女の逃避だと気づいていて、わざとそうしていたのかもしれない。

 

「ちゃんと、聞いてほしい」

「………」

「大丈夫、何も一生だなんて言ってないよ。僕たちの夢が終わるわけじゃない」


 どの口で言っているんだ、とヴァンは心中で自分を嘲った。

 自分は夢を捨てて、彼女を選んだのに。


「ただ、少しだけ、どうしても一人にならなきゃいけないんだよ」

「どういうことだ」

「うーん、説明すると長くなっちゃうんだよなぁ。大したことじゃないよ。なんというか、まぁ、気紛れに近い、感じ?」

「気紛れ、だと?そんな誤魔化しが通じると思うのか、私に!駄目だ、最初から全て話すんだッ」

「そうだ、勝負をしよう、ゾフィー」


 ゾフィーの言葉を無視して、ヴァンは彼女の蒼い髪を優しく撫でながら言った。


「僕がここを出るのが先か、それともゾフィーがここを見つけるのが先か。勝った方が負けた方になんでも一つお願いを言うんだ」


 これから両腕を失うヴァンに生き残る術などない。

 呑み込んだ筈の死の恐怖が、言葉を吐くたびに胸を刺す罪悪感と共にヴァンの臓物を撫で回す。

 ヴァンはそれでも笑みを絶やさず、気丈に虚言を吐き続ける。

 少しでも、これから孤独を生きる彼女の、日々を活きる糧となるように。


「なんでもだよ、なんでもだ」

「話してくれ、ヴァン……。お願いだ、力になるから」


 弱々しくそう言った彼女は目尻から一つ涙を流した。

 ヴァンは何も話さない。しかし彼が居なくなってしまうことがゾフィーには分かった。そして闇の中に囚われていた時のように、大きな孤独感と喪失感に怯えて泣いた。

 それを見てしまったヴァンもまた、溢れ出そうとする涙を抑えるのに必死になって何も言えなくなってしまった。

 ずっとゾフィーと一緒に居たい。

 ゾフィーとご飯を食べて、仕事をして、一緒に生きていたい。

 そんな淡い思いが、今まで過ごした暖かい日々が頭に過ってしまったから。

 

「………そろそろ、時間だ」

「ッ!……そっか」

 

 息を殺すように、今まで気配を消していた悪魔が静かに呟いた。

 ヴァンはハッとして、目元に滲んだ水気を振り払うように顔を動かして、もう一度笑みを作り直して返事をした。


「なんだ、ソイツは……」


 ここで初めて悪魔の存在に気付いたゾフィーは、異形で怪物然としていながらも言葉を介すその存在に息を呑み、気配を悟れなかったことに慄いた。

 ヴァンはそんなゾフィーの頬を撫でるように触れて、彼女の意識を自分へと向けさせる。

 最後なのだ。彼女ときちんと会話したかった。


「ゾフィー、落ち着いて聞いて。ほんの少しの間、僕たちの夢を君に託す」

 

 ヴァンは言葉に少しの嘘と大きな願いを込めて、ゾフィーへ優しく渡す。

 言葉に織り交ぜられた彼の感情を察せないほど彼女は愚かでもなく、容易く受け入れられるほど大人でもなかった。

 ゾフィーは血に濡れたヴァンの手を握ると、いやいやと頭を振りながら、縋るようにヴァンを見た。

  

「い、嫌だ!ヴァンがいないと、意味なんてない!!」


 するとゾフィーは一転して、その端正な顔を憎悪に歪めて、悪魔を射殺さんばかりの目つきで睨みながら言った。


「お前がッ、ヴァンに、ヴァンに何を言ったァッ!」

「……………」


 悪魔は何も言わず、何もせず、ただその憎悪を浴びていた。

 偽悪的に嘲笑うことも、怪物のように憤怒に満ちることもなく、静かにゾフィーとヴァンを見ていた。


「ゾフィー」

「ヴァンッ!アイツに何か言われたのか?聞いては駄目だ!今すぐ殺すべきだ!」

「……ゾフィー」


 もし、自分と彼女の立場が逆だったら、きっと似たように言葉を悪魔に吐くだろう。ヴァンはそう悟りながらも、しかし彼女が悪魔に憎悪を向けてしまうのが、彼自身でも分からないがどうしても悲しかった。

 しかし、誤解を解く時間などない。

 だからヴァンは懇願するしかないのだ。

 聡明な彼女に身勝手な期待を寄せて、自己満足な願いを託すのだ。


「頼むよ」

「っ!」


 悲嘆に暮れていて、泣きたくなるほどに儚さが込められた声だった。

 その声を聞いたゾフィーは冷や水を浴びせられたように相貌を落ち着かせて、ヴァンを見た。

 迷い子のような顔で、ヴァンを見た。


「……どうしても、駄目なの?」

「うん」


 ゾフィーは、彼の胸に顔を埋めた。

 鎧越しでは彼の体温など分からない。

 しかしそれでも、ゾフィーはひたすらに彼の温もりを求めた。

 分かってしまった。ヴァンがそうせざるを得ないほど、現状が八方塞がりであり、もう言葉をまともに交わす時間すらもきっと残っていないのだと。


「………わかった」

 

 濁流のような感情の渦を飲み干して、ゾフィーは涙を流しながら返事をした。

 

「ありがとう」


 ヴァンは涙を堪えながら、想いを汲み取りそう返事をしてくれた彼女の頭を、その感触を必死に覚えるように目を閉じながら撫でた。

 辛かっただろうに。

 投げ出したかったろうに。

 悲しかったろうに。

 それでも彼女は確かに返事をしてくれた。

 ありがとう、ゾフィー。

 ヴァンも限界だった。

 ゾフィーが顔を上げて、そうして見えた互いの顔は涙と鼻水に濡れた、ぐちゃぐちゃな顔だった。

 彼女へ見せる最後の顔は笑顔が良かったのに。

 幾ら瞼に力を入れても、歯を食いしばり口を噤もうとも、溢れる涙を抑えることができなかった。

 二人の周りを白い粒子が囲み始める。

 その様はあたかも粉雪が舞い上がる、冬の厳かな冷たさと生命の強かさを連想させる。


「………私が、絶対に見つける」

「…待ってる」

「私達の夢は終わらせない」

「うん、終わらない」

「だから、お願い、死なないで」


 死なないで。

 彼女の言葉に息が詰まる。

 もう生きることは諦めていた。

 ここで嘘を吐くのは簡単だった。

 ただ『うん』、と頷けば良かった。

 だけど、これが最期の会話になるかもしれない。

 そう思うと、嘘は言いたくなかった。

 

「僕は……」


 『無理だ』、とは口が裂けても言えない。

 言ってたまるものか。

 彼女は僕の大切な家族なんだ。

 たった一人の愛する家族なんだ。

 ならば。

 束の間でもいい、彼女の背中を押す追い風になるのならば。

 もう一度、誓え。ヴァン・ブルックス。

 いつかのあの日のように。

 彼女の涙を拭うために。

 決意を彼女に誓おう。

 彼女の日々を生きる燈になるように。

 前を向く道標になるように。

 僕は彼女の家族なんだ。




「僕は、死なない。絶対に死なない」

 



 それを聞いてゾフィーは笑った。

 ヴァンも釣られるように笑った。


「ヴァ———」


 その瞬間、白の粒子が大きく動いてヴァンの視界を真白に染め上げた。

 そして一瞬のうちに白のベールが無くなると、そこに彼女の姿はなく、眼前に写るのは崩れた瓦礫の山と、無造作に揺れる空になった両袖だけだった。

 覚悟していた。しかしそれでもあまりある喪失感を涙を流すことなく呑み込むと、ヴァンは目を閉じて祈りを捧げた。


「どうか、どうか———」


———彼女の生きる人生に、溢れるばかりの幸せがありますように。














「俺も大概だと思っちゃァいたが、お前に比べたらそうでもねェな」


 今まで、何もかもが優れたゾフィーとグループを組んできて、ヴァンは嫌がらせや誹りなどは数えきれないほど受けてきた。

 『お前は彼女に鞍馬に抱っこの役立たずだ』『お前が彼女の足を引っ張っている』。

 聞こえるか、聞こえないかの陰の隅で、或いは真正面から、耳にタコが出来てしまいそうなほど聞いてきたこの言葉に、ヴァンはこともなく、まるで風の音を聞いているばかりの態度で今まで受け流してきた。

 ヴァンは思う。

 自分は人の、醜く濁り、爛れきった悪性というものには出会ったことはない。先の言葉を吐いた人は、いずれもただ、肺から息を吐いて喉を震わせ、空気を揺らしただけに過ぎない。小さな嫉妬心や妬みから育まれた彼等自身の等身大の悪意であった。

 肉を裂く鋭い剣を振るうこともなく、骨を砕く鉄槌を振りかざすこともなく、内臓を犯す毒を盛ることもなかった。

 自分は真なる悪辣を知らない。あるいはそれらに分別を付けることができない。

 しかし、そんなヴァンでも確かに分かったことがあった。


「お前、良い奴だろう。悪魔」

「そんなんだからおめでてぇ奴なんだよ、お前は」


 悪魔はそう言って、つまらなそうに鼻を鳴らした。









 彼女の体温と血の感触。

 それらは鮮明にヴァンの心に刻まれている。


「……死んでたまるものか。見ていろ紅い月、僕は絶対に生き残る」


 そう言って月を睨むヴァンの、儚く揺れる空洞の両袖が別れを惜しむように大きくはためく。

 微かに残った白い残滓がヴァンの頬を優しく撫でて静かに消えた。

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廃国の君へ 小林蛙霰 @KobayashiArale

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