第10話

「おい、小童。一つよォ、お前に話がある」

「……なんだよ」


 敵ではない。磔にされた悪魔の言葉からは、全ての神樹生物が持つような、人間に対する刺々しい敵意を感じられない。

 しかしそれはヴァンが警戒を解く理由にはならなかった。

 だからヴァンはその悪魔の言葉へ、ぶっきらぼうに言葉少なく、あからさまな警戒を滲ませて応えた。そのあまりに露骨すぎる彼の対応には、知恵ある者と敵対してきた経験の乏しさが窺える。

 悪魔はそんな彼の言動に特に気を害した様子もなく、むしろいじらしいと言わんばかりに笑みすら浮かべて言った。

 

「契約だ」

「……契約?」


 灰の香りが漂い、瓦礫が満ちるこの空間に似合わない、『契約』という言葉にヴァンは困惑を隠せなかった。

 悪魔はかろうじて縫い付けられていない右腕を、錆び付いたブリキの人形のようにゆっくりとぎこちなく上げると、その鋭く尖った刃物のような指を一本、倒れているゾフィーへ向けた。

 そうして、悪魔は壊れかかった蓄音器のように笑って言った。


「助けてェんだろう、ソイツ」

「……ゾフィーを、助けられるの?」


 咄嗟に、悪魔の言葉を飲み込めなかった。ヴァンにとって、その言葉は何よりも切望した言葉であり、同時に、霞のように決して掴むことのできない妄想であると理解していたから。

 あまりに都合が良すぎて、ヴァンは今にも喰いついてしまいたい悪魔の言葉に訝しげに聞き返した。


「おうとも、ちゃぁんと、助けられるとも」


 壁に打ち付けられた体を煩わしそうにしながらも、悪魔は語句の度に首を動かしてしみじみとするように頷いた。

 ならば、ヴァンに迷いはない。彼は彼女を助けられるのならば、わらにも、そこらの雑草にも、そして何の思惑を秘めたか分からない異形の怪物にすらも縋る思いだった。

 何もしなければ、彼女は死ぬだけなのだ。

 

「助けたい。ゾフィーを、助けたい!」

 

 頬に残る涙の痕を消し去るように、ヴァンは悪魔に向けて叫ぶように求めた。すると悪魔は、ああぁ、と酒に酔うみたく悦に満ちた吐息を吐き出したあと、


「ならば契約だァ!契約をするぞォ……!」


 と言って、口端を七つの目に届かんばかりに吊り上げて、欲しい玩具を買ってもらった子供のように右腕を大きく振り回した。

 体が裂けたゾフィーの姿が、視界の隅に色強く写り、焼き尽きた焦燥が再び息吹く。

 はしゃぐ悪魔をヴァンは睨むように見つめる。


「どうすればいい」

 

 一つ、唾を大きく飲み込んで、蛆虫のように心を這いずる恐怖心に気づかないよう、努めて力を込めて強く彼は言った。


「まずは、望みを言え」


 悪魔がヴァンに問うた。

 そして、彼が応えないそのわずかな合間を待たずに、上擦った、人を苛立たせるような声音ですぐさま続けた。


「なんでもいいぞ、なんでもだ。『甘い菓子を出せ』なんてもんでもいい。或いは、『眩く煌めく巨大な宝石が欲しい』なんてもんでもな。いっそ、紅い月が気に食わないから『月を雲で隠せ』っつうもんも悪くねェ」


 その姿は人を惑わし、誘惑し、己の目的のところまで相手を引き摺り下ろす詐欺師のようで、その秘めたる悪性にヴァンは思わず眉を顰める。

 だからだろう。

 最後に、


「ただ、お前てめえの望みは間違えるんじゃあねェぞ」 

 

 と言ったその声音の、妙な心地よさをヴァンは顕著に感じ取れたのは。温もりというべきか、ヴァンはを何と言っていいか分からなかったが、少なくとも、悪魔のその恐ろしい外見からは酷く違和感を覚えるようなものだった。

 故にヴァンは咄嗟に『ゾフィーを治してくれ』と叫ぼうとした口を、唇を噛むように噤んだ。間違えているように思えた。間違えていると言われている気がした。悪魔のその紅い瞳は自分が気付かないほど深い心の内すら、見通しているように思えたから。

 望み。今、僕がこの場で望む、最上とはなんだ。

 ヴァンは自分の心に、冒険者としての記憶に強く問いかけた。そうして、よく考えた。

 数々の記憶を連想し、掘り起こす。楽しく、苦く、淡く、辛い、様々な情報を頭に吐き出す。そんな中でもやはり、どの記憶にも彼女がいた。彼女はいつも自分の目を見て笑っていた。

  

『夢を忘れてしまったのか、ヴァン』


 しかし、記憶に新しい先日の出来事。そう言った彼女の顔は、これまでの笑みなんかは一欠片もなく、今にも崩れてしまいそうな、必死に涙を堪える迷子のようであった。

 その顔だけはきっとヴァンは一生忘れることは出来ない。忘れてはならない。

 単純なことだった。なんてつまらない、推理小説であったら絶版間違いなしのチンケでくだらないオチだった。

 僕たちヴァンとゾフィーは二人で一つなのだ。


「ゾフィーを治して、僕達二人をここから出してほしい」


 それを聞いた悪魔の表情は、恐怖そのものであった。口端は七つの目に届き、それに止まらず、ぐいっと、なんと目の上を通り過ぎるまでに吊り上がった。縫われた瞼も紅い瞳も口によって裂かれ、その隙間からは普通の口であるかのように歯茎と牙を覗かせて、涎を晒し垂れ流していた。

 その表情は笑みであった。人ではない悪魔だからこそ浮かべられた、狂気的なまでの笑みだった。


「イィいダろう」


 歪に変わった口から、凹んでしまった管楽器のように不自然に違和感を孕んだ変わり果てた声で、悪魔はヴァンの願いを肯定した。

 その笑みは凄惨で、喃語を話す赤子から、死を悟った老人まで誰もが恐怖を覚えるような相貌であったが、ヴァンはそれに何かを誤魔化すようないじらしい気配を覚えてならなかった。

 ヴァンがそんな思いを感じていることは露知らず、悪魔は自由な片手で頭を覆い、ぐにぐにと刃物のように鋭利な指で顔を揉み始めた。

 すると、悪魔の顔はまるで粘土のように柔らかく歪んでいき、吊り上がって歪んだ口端が瞼や目尻を縫い合わせるようにして徐々に元の場所へ、最初に会ったときのような(ただの獣の口のように)普遍的な場所に整えられていった。


「ダがこれは契約、相応の対価も頂かなくちゃアな」


 その途中、顔を手の甲で覆いながら、悪魔はこれは忘れてはいけない、とゾフィーが助かる足掛かりを掴んで高揚していたヴァンに水を差すように言った。

 

「対価……」

「そう、対価だ」


 ただ言葉を口の中で反芻したヴァンに、悪魔は一つ指を立てると、それをメトロノームのように左右に振りながら小さな笑みと共に言った。


「『闘士のハルトヴイッシュ』は己の舌と引き換えに、誰もが黙する怪力を手に入れた」

「『画家のカイロウ』は愛する妻の両目を捧げて、あらゆる者を釘付けにする魅惑の絵の具を手にした」

「『屑拾いのリールラーナ』は母の遺品である下着を差し出し、宝石がいたるところにあしらわれた絢爛なドレスを身に纏った」


「お前はどうだァ、小童。

 お前は一体、何を差し出せる」


 空に浮かんだ忌々しい赤い月をそのまま顔に嵌め込んだような、深く、透き通った赤い色を宿した瞳が、これまで悪魔に感じてきた軽薄さからは打って変わって、臓物を押し潰すような重圧とともにヴァンの身体を貫いた。

 その重さに舌の根が引きつりそうになりながら、ヴァンは対価とは、何を差し出せばいいのか焦燥に炙られた脳で必死に考える。

 どうすればいい、何を差し出せばいい。

 彼女の傷を治して、僕らをここから出せるのに値する対価って、なんだ。値が張るような、宝石めいた高価なものも持っているわけがない。ましてやかねなんて持っていない。バベルギにそんなものを持ち込むはずがないのだ。

 ならば、今、身につけているなかで一番高価なものを。

 一番、万人が欲するであろう物品を。

 そう考えたヴァンの視線が、瓦礫が散らばる地面に放り出されていた、片翼を無くして一本となった双剣へと向かった。

 かの先達、シューベルトより賜ったその双剣は、バベルギ第十層に生息する『カラガグ』と呼ばれる生物の、中でもとびきり丈夫な脊椎を老練の鍛治師が幾度も打ち重ねて作られた、優れた逸品である。

 もちろん、その価値は相応に高く、そこらの凡百では触れることすら叶わない、ある種、刃の形をした宝石でもあるのだ。

 冒険者として優れ、多くの名声と富を手にしたシューベルトであるからこそ、大きな金の無駄遣いとも呼べる、冒険者として中堅であったヴァンに買い与えることができたのであり、大抵の冒険者が購入するのに躊躇う金額であったのには違いない。

 故にその価値は万金にも等しく、片翼を欠いてしまった今でも、凡その人が欲するには値するはず。

 そう考えたヴァンは、彼女のどす黒く、人肌よりも熱い血に濡れて紅に染まった手で、瓦礫のなかに隠れるように溶け込んでいた剣を掴んだ。

 ヴァンは右手をそのまま掲げるように、悪魔の前へと剣を差し出す。柄の尻から彼女の血が涙のように滴った。

 

「この剣は、どうだ。僕の師匠から貰った、名うての鍛治師が打った優剣で、きっとそれなりの価値があるはず……」


 胸を内から圧迫してくる緊張にヴァンが懇願するように言えば、悪魔はケ、と歪な笑いを短くて発して、脅威的な牙がずらりと二列に生え揃ったその口を、固く錆びたトラバサミを強引に、力強く開けるようにゆっくりと恐怖的に開いた。


「足りねェなァ」

「足りない……ッ!?」

「ああ、足りねェ。まったくもって、足りていねェよ」

 

 そう言って悪魔はその細く、鋭利に尖った剣めいた指先でポリポリと頭を何度か掻くと、やれやれ、といった様子で浅くわざとらしいため息を一つ吐いた。

 お前は分かっちゃいねェ。ため息の残り香に混じって悪魔の皺がれた声がヴァンの耳へ届く。そうして、出来の悪い教え子に優しく教える教師のように、悪魔はのろまな口調で言葉を綴り投げた。

 

「価値とは、色だ」

「色…?」

「例えば、だ。赤、目が醒めるような赤に、燃え滾る炎や、心が震えるような情熱を覚える奴がいる。だが、光に透けて見えた母の胎の中を思い浮かべ、仄温かい安らぎを感じる奴もまた何処かには居る」


 悪魔はヴァンを指差し、彼の体を空中でなぞった。


「赤は変わらねェ。お前の身体を馬鹿みたいに駆け巡ってるそれと同じ、命の色。それが変わることはない。

 しかしよォ、それを見た奴の印象は大木の根っこの途方もない分岐のように無数にあって、それぞれが大小の差はあれどそこに違うものを抱く」


 悪魔はよく笑った。

 ヴァンにとって、得体の知れない怪物そのものであった悪魔は邂逅からの短い間でも、幾度となく頬を吊り上げて楽しげに笑みを浮かべていた。

 しかし、次に悪魔が嗄れた声を震わせながら浮かべた笑みは、これまでに悪魔が見せてきたものとは毛色が違っていた。嘲るようなものでも、揶揄うようなものでもなく、まるで母のように慈しみや鼻高しさが込められた、どこか暖かみのある笑みだった。

 気色の悪い笑みだ。ゾフィーならそんな言葉で一刀に切り捨てたであろう、脅威的な相貌に似合わないその笑みはしかし、ヴァンの思考には不思議とよく馴染んだ。

 何処か空を眺めているように、しかし空ではない何かを見つめるように、上擦った声で悪魔が言葉を発する。


「なんて孤独で可哀想なんだろうなァ。

 なんて気高く誇らしいんだろうなァ」


 悪魔は何を見ているのだ。

 ふと、ヴァンはその笑みに呆気に取られるように、そんな小さな疑問が降って湧いてきて、その疑問を吟味するように舌で転がした。

 空?違う。雲とも違う。あるいは、真っ赤な月を見ているのか?たぶん、違うと思う。

 あれはきっと、そうだ、僕らと同じように何かを懐かしんでいる目だ。触ることができない、淡い過去の色を目の裏で見ているんだ。


「キミは、一体……」


 それは生気に満ちていて、叩けば埃が舞うようなカビ臭い人間の感情。過去を想う、懐古の感情を悪魔は静かに噛み締めていた。

 そんなの、まるで人じゃあないか。その光景を耳にし、目の当たりにしてしまったヴァンは目の前の異形で不気味な悪魔を、ただの怪物としては見えなかった。


「あァ、ちがうちがう、いけねェなァ。歳を無駄に食っちゃァ、話が右往左往チラついて仕方がねェ」


 いやだ、いやだと手を仰ぐように振って、ため息を一つ、唾でも吐き出すように口からこぼした悪魔は、

 つまりだ、

 と続けて、笑うように口を開いた。


「誰ぞの一番じゃねェ、お前の〝最も〟を言ってみろ」


 最も。悪魔がそう言ったのはそれがもっとも適切であったからか。それとも(悪魔がこれまでに見せた意外性に則っるように)その外見に似つかない優しさを見せたからか。

 しかしそんなこと、悪魔のその言葉の前には些事であり、塵にも満たない大きさなのだ。

 最も、という言葉を言われたヴァンの脳裏には、血に濡れ死人のように血色を欠いた彼女の姿が強くよぎっており、迫られた選択を前に彼の思考は火事場のようにせわしなく、慌ただしく加速を帯び始めていたからだ。

 


 


 最も。

 最も、僕の中で価値が有るもの。

 僕の一番なんて、そんなの、最初から決まっている。

 自分を振り返る必要も、鑑みる必要もない。

 彼女だ。

 ゾフィーだ。

 僕にとって、彼女が何よりも宝なんだ。

 明日を願う原動力も、夢を追う志も、ただの何気ない日々を生きる一歩も、全てのものに彼女の香りが漂っていて、僕の奥にある芯を優しく包んでくれたのは他でもない彼女だった。

 ゾフィーがいたからこそ、今の僕がいる。 

 ゾフィーがいるからこそ、これからの僕がいる。

 だから僕は彼女を救いたい。

 ゾフィーを決して死なせたくない。

 だから僕は悪魔と契約をする。

 彼女を癒すために、悪魔という訳のわからない怪物と言葉を交わして契約なるものを交わす。

 しかし、彼女を癒すための契約に彼女を差し出さなきゃなんて、てんでおかしな話だ。そんなものを僕はするつもりは断じてないし、命に賭けても決して認めない。

 だから、

 悪魔、君が僕のを差し出せって言うなら、僕は差し出そう。

 だけど、

 最も“大切”なものじゃなくて、僕が最も“必要”とする物を、君に捧げよう。

 




 ヴァンは深い息を、頭の中をとぐろのように渦巻く熱を全て吐き出すように深く長い息を喉を震わせながら吐いた。そうして、真っ赤な釘で縫い付けられながらも不気味に笑みを浮かべながらこちらを見つめる悪魔に、ヴァンもまた不敵に笑みを浮かべ返して、瞳に炎のような決意を激らせ、宣誓、或いは宣戦布告めいた怒声とも取られてしまうほどの生気を込めて、舌を激しく打ち鳴らせながら言った。


「僕の両腕を、

 差し出そう……ッ!」


 彼が抱いた覚悟とは、海の底のように厚く黒く重いもので、太陽の如き極光を纏うような気高く誇りあるもの。しかし、少年と呼んでしまえるヴァンが持ってしまうにはあまりにも悲惨で、そして何よりも勇敢であった。

 しかし、


(……ごめん、ゾフィー)


 そう、心の中で吐露した少女への謝罪は吐き出した言葉に熱を全て奪われてしまったかのように弱々しく、頼りなく、力の抜けた覇気のない内なる声は幼さを感じさせ、今にも泣きだしてしまいそうな子どものようであった。

 両腕を失くしてしまえば、剣も、盾も握れず、包帯すらも満足に巻けなくなり、それどころか一人で満足に日常を過ごすことすらも出来なくなるだろう。

 ゾフィーにもきっと、大きな負担を抱えさせてしまう。

 そして何よりも彼女と共に叶えると誓ったあのも、叶えることが難しく、いや、不可能になってしまうのは火を見るより明らか。

 故の謝罪。夢を諦めてしまったことへの、彼女への謝罪をヴァンは心中で吐いた。


(……君は怒るだろうか。夢を捨てて君を選んだ僕を、君は叱るだろうか。いや、きっと怒るだろうな。『見捨てればよかったのだ!』だなんて、君は僕の両腕を見ながら言うんだ。だけど分かってほしい。君がそうだったように、僕も君と二人で叶えるからこそ夢を追っていたんだ。ゾフィー、君と叶えられない夢なんてこっちから願い下げだ) 


 選択した先に待ち受ける数多の苦難が頭に過ろうとも、ヴァンは悪魔に吐いた言葉を取り消そうなどとは微塵も考えない。

 ゾフィーを救う。そして彼女と共にいる。その為なら、両腕なんていくらでも差し出そう。

 ふと目を閉じれば、目の奥に焼き付いたように鮮明に思い出せる、彼女の顔。


『もう、あんなことは言わないよな……?』


 あまりに弱々しく、儚く、触れれば崩れて居なくなってしまいそうな彼女を前に、僕はあの時、誓ったのだ。

 僕は絶対に彼女の傍から離れない、離れてなるものか。

 何があろうともゾフィーの傍に。

 彼女と交わした約束は絶対に破らない。

 しかし、もし、仮にゾフィーが僅かでも迷惑に思ったその時は、僕は静かに彼女の元から去ろう。考えただけでもどうしようもなく辛く、ぎる孤独感はまるで吹雪に佇んでいるようだ。しかし僕は去る。

 必ず、去る。

 彼女の幸せを思えば、僕の不幸など、蜂蜜よりも甘い菓子でしかないのだ。

 

「彼女を治してくれッ!悪魔ッ!」


 壮絶なる覚悟を内に秘めて、空気を握り潰すように拳を握り掌の微かな震えを強引に掻き消しながら、ヴァンは悪魔に叫んだ。

 そうして彼の叫びが紅に照らされた空間を木霊して、やがて波が引いていくように静かに消え去っていった。

 悪魔は沈黙していた。吊り上がっていた口の端は下がり、牙の隠れた口は真っ直ぐ横に一の字を結んでいる。紅の瞳が無機質にヴァンの体を見ていた。

 悪魔の異質さを強く主張してくるその瞳を不気味に思いがながらも返事の言葉を待って、ヴァンはつぶさに悪魔の様子を伺った。そうすると、自然に長く、耳が痛くなるような沈黙がこの場を埋め尽くして、何時まで経っても返ってこない言葉にヴァンは不安げに眉を下げた。

 ドガリ、と部屋の隅で重なっていた瓦礫がその沈黙に耐えかねたかのように崩れて、小さ筈のその音がヴァンの耳をやけに強く叩く。

 そのときだった。悪魔は小さく息を吐いて、瓦礫の雑音に紛れてしまいそうなほどに小さな声で言った。


「足りない」


 な。と息が掠れた声を歯切りにヴァンは呼吸を忘れた。

 まるで世界から音が消えてしまったかのような感覚になった。瓦礫が崩れる音も、ゾフィーのか細い呼吸音も、自分の心音もまるで全てがなくなってしまったかのような感覚にヴァンは陥った。

 それはきっと絶望と云うんだろう。

 四肢の神経が狂ってしまったような無力感。

 くらり、と足元が揺れる錯覚に上る吐き気は肺を内と外から握りしめる圧迫した。

 必死に決意したあの覚悟をこけにされたように思えた。


「こ、これでも駄目なのかッ!?」


 喉を引きつらせ、僅かに声を裏返らせながらヴァンは声を荒げて叫んだ。

 しかしヴァンの猛る声の熱を真正面から浴びせられようとも、悪魔は黙してならなかった。

 一拍。ヴァンが口に湧いた唾を呑み込もうと口を閉じて喉を嚥下した、瞬きほどの僅かな静寂を見計らって、悪魔は静かに口を開いた。

 

「……すまねェな、小僧」

「……なん、だって?」

 

 それは謝罪であった。苦々しい罪悪感と舌の根を蠢く後悔が滲んだ、ヴァンに馴染んだ言葉であった。

 その音を聞いたヴァンは怒りに震えた。

 そんな言葉が欲しくて𠮟責したのではない。

 悪魔から酷く人間的な感情なんて聞きたくなかった。

 何故なら君との交渉に待ち受けるはずだったのは僕の幸福だったのに、今更、出来ないだと。

 僕が抱いた覚悟なんて肩透かしでただの杞憂で終わり、ゾフィーを癒すことは叶わず、彼女は冒険者として普遍的な死を迎えてしまう?

 ふざけるな、ふざけるな。


「どういうことだ、悪魔ッ!」


 腹が煮えくり返るような怒りを吐き出すように、ヴァンは悪魔に強い口調で言った。

 冷静さを欠いたヴァンとは裏腹に、悪魔は悍ましくも月のように紅く静かな瞳でヴァンを真っ直ぐに見つめて、やがて口を開いた。


「お前が助けようとしているソイツは、そんじょそこらの人間とは出来が違ェ。お前も、仮にもソイツと一緒に居たのならイヤでも理解しているはずだ」

「………ッ」


 『出来が違う』。心当たりがある、ありすぎるその言葉。はっ、と息を呑んだヴァンに、悪魔は小さく笑い続けて言った。


「俺も随分と腐っちまったもんだ。今の今まで、ソイツがただのニンゲンだと疑ってならなかった。

 ソイツは神と運命の寵愛を授かり、英雄になるべくして生まれた、真なる武勇の申し子よ」







「つまるところ、ソイツはだ」






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