第9話
勝てない。
ゾフィーの身に着けていた金属の鎧がまるで紙のように意味を為さず、彼女の肉がいとも簡単に切り裂かれ、血飛沫を上げた。
舞い散る真っ赤な血を見て、ヴァンは脳の奥がカっと熱くなる感覚を覚えつつも、冒険者としての理性は冷静に判断を下す。
ヴァンは戦うことを思考から消し去り、速やかなる撤退を決定した。
納剣する時間も惜しいと、双剣を片振り殴るように捨てて、腰のポーチから取り出したのは針葉樹のように尖った膨らみを持つ葉“ハクバク草”である。それを四つ。
口を窄め、乱暴に唾を吐きかける。ハクバク草へ唾液が付着すれば、そこから瞬く間にボコボコと白く膨張を始めた。
加速度的に大きくなっていくそれをヴァンはボヤけた何かに投げつけると、ハクバク草は子供の顔ほどにまで膨らんだかと思えば、パンッと軽快な音を立てて破裂し、一瞬で辺り一面を呑み込むほど巨大な白煙を撒き散す。
真白に染まった視界の中でヴァンは走り、空いた手でポーチを弄りつつ、もう片方の剣を持つ手でゾフィーの体を抱えた。
片手間で取り出したのは小さな巾着袋。それはハクバク草と同じく冒険者の七つ道具が一つで、“臭い袋”と呼ばれる、獣の害意を惹く結晶が入れられている革で作られた巾着袋である。
(効くかは分からないけど、やらなきゃ死ぬだけだ…!)
指先で中の水晶を袋越しに砕きつつ、巾着袋の口を留めていた紐を咥えて解く。
一瞬の内にそれらを行ったヴァンは臭い袋をあらぬ方向へと、できるだけ遠くへ飛ぶように力強く投げた。
臭い袋とは云うが、その実、それに香りは無い。砕いた水晶の破片に鼻を近づけようとも何も臭わず、ただ細かい粒子が鼻を擽るのが精々である。
では何が獣を惹きつけるのか。
ユシルより彼方南にある、歯車と鉄の科学の国【リップランド】より来訪した、とある科学者は言った。
『人が自分の家で寛いでいるとき、その空気の香りを繊細に嗅ぎ取れないように、もしかしたらこの結晶は、人が嗅ぎきれない人の香りみたいなモンを発してるんじゃねぇの?』
それが真理かはわからない。
ただ、その科学者は破天荒な言動が目立つ一方、頭の中身は明敏明晰極まる傑出した人物である。
それにそんなこと、大半の冒険者にはどうでも良い。彼らにとってただ使えればそれで良いのだ。
閑話休題。
ヴァンはゾフィーを抱きしめながら、一寸先も見えない真白の煙幕を駆ける。
その顔は全身全霊、まさに決死と呼ぶに相応しく、薙ぐつもりであった草木を厭わず、冒険者としての身体能力を使ってそれらを踏み倒し千切り進んで全身に緑の汚れを付着させながら、アレからの逃走をしていた。
腕の中の彼女がとても重く感じられる。
ぶらりと垂れ下がった腕に、地面を蹴る度に無造作に揺れる頭からは彼女の意識を感じられず、しかし、乱暴に運ぶしかない現状にヴァンは歯痒さを感じた。
(ごめんゾフィー!頑張ってくれ……!)
ヴァンの腕がゾフィーの血で濡れていく。彼女の血は燃えるように熱く、ヴァンにはそれが彼女の命が溢れていっているように思えてならなかった。
早く止血を、治療を、と逸る思考が脳裏を埋めるがしかし、そんな呑気なことはこの状況が許さない。今ヴァンにできるのは、ひたすら安全な場所に逃げるのみであった。
不自然に荒んでしまう息を必死に整え走り続けて、いつの間にかヴァンは白煙を抜けていた。僅かに血走った目で背後をチラリと、走りながら見ればそこにアレの姿は無い。
しかし勿論、ヴァンの足は止まらない。
幾ら草木が生い茂り視界が遮られているとはいえ、腕から滴る彼女の血は、明確に自分たちの道標となってしまっている。
(臭い袋でどれくらい惹きつけられたか分からない。今のうちに、できるだけ距離を離さないと…!)
ゾフィーを抱き直して、出来るだけ彼女に揺れが伝わらないように注意を払いながら、ヴァンはより一層強く地面を蹴った。
何処か、安全なところはないか。紅の月光が差し込む森をヴァンの視線は
しかし幾ら見渡しても視界に写るのは、既視感すら覚える木や草の群生。身を隠せる場所などどこにもなく、ヴァンの頭には同じ光景がひたすら続くのではないかという焦燥が募るばかり。
そんな中でヴァンが切望したのは、この森の真下に広がる前時代的な街々、そしてそこに下れる場所である。
(あそこならきっと、身を隠せる場所も簡単に見つけられる筈)
一刻も早く、この森を出なければならない。ヴァンにとって、最早、この森に自分達の救いになるものがあるとは思えなかった。
血に濡れ、痺れを覚え始めた腕に、間違ってもゾフィーを落としてしまわないよう、筋が千切れんばかりに力を込めて活を入れる。
そうして血が籠り熱を帯び始めた腕とは真逆に、ヴァンはゾフィーの体から確実に熱が失われていくのが分かった。
(お願いだゾフィー、頑張れ……!頑張れ!)
声は、敵を招く一因に足り得る。故に、ヴァンは歯を食い縛り、彼女の健闘を心の中で必死に祈った。
呻めき一つ上げない彼女に、逸る焦燥は焔のようにヴァンの脳を焼いていく。
しかし、思考の手綱だけは決して渡さない。それを手放してしまったら、自分達の命など容易く潰えてしまうのを冒険者として研ぎ澄まされた感覚が激しく訴えてきていた。
努めて冷静に、激しく意志を燃やしてヴァンは不屈を心に刻む。
そして、ヴァンの視界が突如開けたのはその直後であった。
彼は思わず立ち止まり、辺りを隈無く見渡す。
「ここは……!?」
そこにはヴァンが待ち望んだ古びた街並みでも、ましてや、そこへ下れる道があるわけでもなかった。
辺りは木々に囲まれていて、未だ二人は森の中にいる。しかし、円形に開けたその場所の中央には、今までとは明らかに様態を異ならせる建造物があった。
それはまるで古びた教会のようであった。漆喰だろうか、真白であったろう壁は薄茶色に色褪せて所々剝がれており、疎らに空いた穴からは中を見るが出来たが、月光が差し込んでおらず、精細に様子を伺うことは出来ない。
それを囲む地面には幅の広い石畳が一面に敷き詰められていて、しかし風化して久しいのか、苔むした凹凸が無数に刻まれていて酷く足場が悪そうだ。
ヴァンがその建物を見て脳内に渦巻いた思考は、まるで絵の具を乱暴にぶちまけたかのように混沌とした乱雑なものであった。
(どうする!あの建物に入るべき?なんでこんな場所に建物があるんだ。またアレみたいなヤツが潜んでいるかもしれない、危険だ。追い付かれる前に森を出れるとは限らない。ゾフィーの怪我をはやく治さなくちゃ。脆そうだ、頼りない。もしかしたら罠かもしれない!)
肺が膨らんでまた縮んで、荒んだ呼吸の音がやけに耳の奥を激しく叩く。
額から滴る汗を剣を持つ手で拭い、ヴァンは溢れ出てきた苦い唾を無意識に嚥下した。
「……ぅぁ…」
「ッ!ゾフィー!」
肺から空気が漏れて、ただほんの少し喉が揺れただけの、か細く小さな呻めきをゾフィーは漏らした。
意識が戻ったのかと、ヴァンは混乱すらもすっ飛ばして彼女の顔を覗き込む。
しかし、彼女の瞳は閉じられたままで、それどころか、顔は血の気が失せた土気色に染まり、腕から微かに伝わる心音がなければ死人と勘違いしてしまいそうな様子に、ヴァンは思わず息を止めた。
(もう、時間がない……)
ぐったりと腕の中で凭れるゾフィーは、こうしている今も確実に死へ近づいていく。
故にヴァンは迷いを捨てて決断をした。
大きく呼吸をして一歩、緑を生やした段差の激しい石畳へ足を踏み入れる。
(あそこで治療する!)
ゾフィーを抱き直して、ヴァンは教会のような建物を目指し走り出した。
足元を掬われないよう石畳に注意を払いながら近づくにつれて、ヴァンの目には建物が精細に見え始めてくる。
そうすると教会らしき建物の、今にも崩れてしまいそうな壁には緋色に輝く小さな金属らしきものが、無数に埋まっていることにヴァンは気がついた。
それらがきらりと、月光を反射させ赤い光がヴァンの目に飛び込む。
(あれは、釘?いや、今はそんなこと―――)
煌めきが咄嗟にヴァンの気を惹いて、彼の、今まで針のように鋭く研ぎ澄まされてきた集中に、僅かに乱れが生まれたとき。
ヴァンがこの瞬間に踏み締めた石畳のその奥から、軋むような音が聞こえた。それは非常に小さく、風の騒めきにすら掻き消されそうな大きさであったが、少なくともバベルギを探索中のヴァンであるなら決して聞き逃さない音だった。
集中を欠いてしまったその代価は大きかった。
ヴァンが更にもう一歩、走ろうと地面を強く蹴ったその瞬間、二人の足場は一瞬にして崩壊してしまった。
「なッ!?」
激しい落雷のような音と共に崩れさる足場。
驚愕に包まれ、真白に染まる思考とは裏腹に、冒険者であるヴァンの体は着地に備え、ゾフィーを自身の体で包むようにして庇った。
その一拍後、強い衝撃がヴァンの足からつむじを突き抜ける。
舞い散る砂塵の中で積み重なった瓦礫の上で、決してゾフィーに衝撃が伝わらないように全力で殺し、また、落下してくる瓦礫から身を守るため、剣を持った手で頭部を覆った。
やがて砂塵は消え失せていき、大概の瓦礫は落下し終えただろう頃を計らったヴァンは腕を下ろして、ゾフィーの様子を窺う。
そうしてヴァンが見えた、腕の中の彼女の様は凄惨たるものであった。
左の鎖骨から臍の少し右下にかけて深い刀痕が刻まれ、ゾフィーの華奢な肢体をぱっくりと割っていた。
長く深い、彼女の深い蒼色の髪とは真逆の赤には砂がこびり付き、こと人が悍ましいもの見た時に生まれる、生理的嫌悪感を掻き立てるには十分なものであった。
「あぁ…そんな……」
あまりにも深すぎる傷だった。
幼い子供が見ても、或いは呆け始めた老人でも、誰が見ようとも死を連想する、まさに致命傷であった。
死に体のゾフィーが、弱々しいがそれでもまだ息があるのは、彼女が冒険者の中でも上位に位置する身体的素質と、それに準ずる生命力を持っているからに他ならない。
しかし、心臓が無くなってしまえば死ぬように、如何様にも避けられない死というものがある。
それは間違いなく、ゾフィーの首をその悍ましく気色の悪い両手で掴んでいた。真綿で首を絞めるように、老婆が口端に泡を吹きながら般若のような相貌で子の仇の首を絞めるように、ゆっくりじわじわと、確かに死へ彼女を引き摺り下そうとしていた。
ヴァンには分かってしまったのだ。冒険者となってからバベルギの中で様々な遺体を見て、死を身近に感じてきたからこそ、分かってしまう。
彼女は、もうじき、死ぬ。
「だっ、や、やめてくれ……!」
瓦礫の山でヴァンは呻めくように懇願する。その声は引き攣り、酷く細い。
そして顔をくしゃくしゃに歪めて、ヴァンは震える手でゾフィーの顔に触れた。揺れる指先から伝わるのは血の暖かさではなく、凍えるように冷たい、氷の大地のような無機質さであった。
「くそ、クソ……!」
その冷たさに誰にともなく悪態を吐いて、ヴァンは忙しなく覚束ない手つきで腰のポーチを漁り、“傷埋め薬”を取り出す。
お願いだ。と歯を噛み砕かん勢いで食い縛り、これまでに捧げたことのない熱を込めて、ヴァンは祈りつつ、傷埋めの軟膏を大盛りに掌に取り出して彼女の患部へ塗りだくる。
傷埋め薬とは、バベルギ第二階層に群生する『ジンニクソウ』と呼ばれる、奇妙なことに肉の花を実らせる花の茎と根を、強い粘り気が出るまでどろどろにすり潰すことで作られた塗り薬である。
その性質は単純で、塗られた患部の擬似的な肉となり、切られた血管の血を通わせて止血を行うと同時に、軽微な治療も行うことができると云うもの。
【血の羽掃き】という秘宝がある。
見た目はそっくりそのまま木で作られた、まるでただの箒のようであるが、秘める力は神秘の落とし子に違いなし。
穂先で床にぶち撒けた血を掃くことでそれらを吸い取り、傷口を木の葉でも払うように撫でれば、切り傷、擦り傷、刺し傷、咬み傷、などなどあらゆる外傷を容易く治療することが出来、極め付けは四肢の欠損すらも治療せしめるのだから神の真技に他ならないだろう。
南地区にある、とある大病院に所持者は籍を置いておりそのお陰か、客足は途絶えることも、ましてや失ってしまうこともなく、毎日繁盛して仕方がないようだ。
聞けば、笑顔で人の血を地べたに引き摺り回し、血が穂先から滴る箒を怪我人へ殴りかかるように被せる彼女の姿は、目元に刻まれた深いクマも合間って、医療人と云うよりはむしろ加害者さながらである。
閑話休題。
傷埋め薬はそんな【血の羽掃き】と同質の効力を齎すように思えるが、傷埋め薬には期限があり、塗ってから一日経てばポロポロと砂のように崩れていくうえ、代用できる範囲に限りがあるのだ。
決して、致命に至る傷を埋めることなど出来ず、ましてや、それを治療するなど到底不可能。
傷埋め薬ごときでは、彼女の傷を埋めることはできない。
彼女を救うことはできない。
「お願いだ、頼むから、頼むから治ってくれ……」
ヴァンとて、そんなこと分かりきっていた。
眩むほど値が張るアカシの根とは違い、傷埋め薬はその入手の容易さから大抵の、駆け出しの若葉ですら多く所持しており、だからこそ冒険者の七つ道具の一つに数えられている。
故に協会が行う十三個の講義の一つには、傷埋め薬を用いた治療の方法を指導する講義があるのだ。
効率的な塗り方から代替え可能な傷の深さまで、傷埋め薬にまつわる様々なことを学べるその講義を、当然、復習も兼ねて幾度も講義を受け直しているヴァンがそれを受けていないわけがない。
しかし、彼はそれでも目尻に涙を滲ませながら震える手で必死に、しかし彼女の傷を深めてしまわないよう丁寧に、ひたすら傷埋め薬を塗り重ねた。
「ゾフィー……ゾフィー…ッ!」
こんなところで。
こんな場所で、彼女の人生は終わってしまうのか。
灰に
違う。
断言できる。絶対に、違う。
しかし、彼女の命の灯は今、間違いなく消えゆこうとしている。
「……ごめん。ごめん、ゾフィー」
ゾフィーの顔を覗き込むように項垂れたヴァンは、血と傷埋め薬で汚れた手で彼女の冷たい頬に触れた。
母を見失った迷い子じみた顔でヴァンは謝罪を口にする。その言葉に含まれた自責の念は、濁流のように深く濁っていた。
苦々しいその味の所以。
二人で帰ると誓いながら。
彼女を守ると言いながら。
彼女に向かって、黒い刃が振り下ろされたその瞬間。
「僕はあの時、何も、出来なかった……!」
体が解けてしまいそうな感覚は、かつて馴染んでいた無力感であり、今すぐに自分の首を端折りたくなる衝動は、不甲斐ない己への憎悪であった。
「…守れなくて、ごめん。こんな、無力な僕でごめん、ゾフィー……」
ヴァンの視界が涙で歪む。
微かに砂塵が舞う瓦礫の上で、曇天に隠れゆく紅の月光に照らされる彼女の顔は、彼の滲み揺れる視界の中でも動かなかった。
くそ、くそぉ。と鼻声で吐かれる悪態に、時折り嗚咽が混じり始める。そうして、ひたすらにヴァンの啜り泣く声が、崩壊した教会の地下に木霊した。
「喧しいなァ、小童」
枯葉が掠れるような嗄れた声が、しかし不思議と強くヴァンの鼓膜に響いた。
ヴァンはすぐさま剣を拾って立ち上がると、声の元を涙の痕が残る瞳で射殺すように睨み付けて、何時でも斬りかかれるように油断なく構えた。
「誰だ!」
眼前は暗闇。唯一の光源であった月光は今は曇天に隠れてしまい、声の主がいるであろうその場所を見ることは出来ない。
声の主はヴァンの言葉に暗闇の奥から喉を引きつるようにして静かに笑うと、その今にも死んでしまいそうな老人のような声を弾ませながら言葉を発した。
「誰だ、とは礼儀がなっちゃいねェ。ここは俺の
曇天より月が、少しずつ顔を出し始める。
差し込み始めた紅の月光が、ゆっくりとヴァンの眼前にある暗闇を照らしだす。
声の主が顕になり始める。
「な、んだ」
その姿を表す言葉を、ヴァンは持っていなかった。
血管が描かれた、趣味の悪い真っ白なカーテン。翼が無数に、体の至る所から乱雑に生えてしまった醜い欠色の蝙蝠。
それらしい言葉は頭に過ぎるが、明確かと云われれば否と言わざるえない。
何せそれらには声の主のような長く細い腕は無いし、恐らくは顔であろう位置にある、七つの瞳のうち五つが、黒い糸で縫い付けられていることもないからだ。
残った二つの、空に浮かぶ不気味な月のように真っ赤な瞳がヴァンの体を静かに射抜く。奇妙なことにそれらの瞳孔は四角で白かった。
「何だァ、お前。悪魔の姿を見たことがねェのか。随分とおめでてぇ奴だ」
「悪魔…?」
「そうだ、悪魔だよ、あァ、くゥ、まァ」
悪魔はそう言って、意地の悪い老婆のようにヒッヒッヒと笑った。
ヴァンには、『悪魔』が何かは分からなかった。即ち、彼にとって眼前の何かはまったくもって未知であった。
バベルギ内に於いて、『未知』とは最も怖れるべき存在である。姿が見えない死神を避けることはできず、姿も分からない死神の鎌を避けることは決してできない。
にもかかわらず、ヴァンは悪魔という未知を前に剣を腰に収めて、歯牙にも掛けないという様子で再びゾフィーの方へ向き直った。
何故か。
悪魔の様形を見て、己に無害な者だと判断したからか。
否、かの悪魔の細い腕先に付いている五指は刃のように長く鋭く、笑う度に覗かせるズラリと鮫のように二列に並んだ牙には、強い肉食性を感じざるおえない。それに言葉を交わせる神樹生物など、見たことも聞いたこともない故に、悪魔が持ち得る知能は計り知れなかった。
では何故、ヴァンは悪魔から背を向けれたのか。それは単純な理由だった。
かの白き悪魔は、十数本の、真っ赤な杭によって、子どもが作る昆虫の標本のように、身体の至る所を貫かれ石壁に縫い付けられていたからだった。
もし、仮にそれが、生餌のような悪質な罠だとしても、
(……殺すなら、いくらでも隙があった)
そもそも悪魔に声を掛けられる前まで、ヴァンはその存在にすら気付いていなかったのだ。彼がみっともなく泣き喚いていた時なんかには、殺せる時など掃いて捨てるほどあったはず。
こうして、ヴァンは悍ましくも何処か退廃的な美しさを持った悪魔から背を向け、死に瀕している美しい少女へ向き直った。
「ゾフィー……」
ヴァンが名前をいくら呼ぼうが、叫ぼうが、そよ風にすら劣る呼吸を辛うじてしているようなゾフィーはもちろん返事をしない。
痛ましい彼女は見ていられない。見たくない。
しかし、目を逸らしてはならなかった。
友人として、相棒として、仲間として、そして家族として、そんな彼女から目を逸らしてしまえば一生消えない後悔を残してしまうから。
ヴァンは彼女の前に跪いて、彼女の氷のような手を両手で包み込むように握ると、懺悔をするように口を開いた。あたかもその様は祈りを捧げているようでもあった。
「ごめん、ごめん、ゾフィー。死なないで……死なないでくれ……お願いだ……!」
その言葉は砂塵が舞う教会の地下に、染み込むようにして響く。
「おい、小童。一つよォ、お前に話がある」
二人がいる瓦礫の山。
その麓には堕ちた十字架が一つ、逆さまになるように瓦礫の山に寄りかかり、それを紅の月光が血に染めるように優しく照らしていた。
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