待って
山田あとり
小さかった頃、よくお父さんとお母さんを追いかけていた。
「まって。まってぇ!」
笑って振り向くお父さんの所までトテトテと歩くように走って、待ちかまえるお父さんにギュッと抱きつく。
高い高いしてくれたお父さんが、今度は先にいるお母さんを指さす。
ほらほら、とおどけて走るふりをするお母さんがおかしくて、キャアキャア笑いながら私はまた、お母さんを追いかけて走る。
そんなことを、覚えている。
小学校初めての夏休みに、お父さんは病気で死んだ。
病室でしがみついた私が、
「おとうさん。おとうさん」
呼んでも、お父さんはもう待ってくれなくて、逝ってしまった。
お母さんは、中学生になった私から見てもふわふわした人だ。お父さんに頼って、守られて、幸せそうにしていたのをなんとなく覚えている。
そんな人だけど、母一人子一人で暮らすために事務員として働いてきた。
そうして六年半。
お母さんは、同じ会社の人と再婚した。
義父になった人も再婚だ。私より三歳上で高校生の義兄と、五歳上で大学生の義姉ができた。
義理兄妹とはいえ、昨日までは他人。
中高校生の男女が同居するのは嫌だろうと義父が言ってくれて、どちらかが独立するまでは今まで通り暮らすことになった。
二年すれば義兄は大学に進学するかもしれないし、それまではとりあえず。
元々わりと近い所に住んでいたこともあって、私は引っ越しや転校をせずにすんだ。
常識的な義父でよかった。
義父はとてもしっかりした人で、真面目だけど危なっかしいお母さんを放っておけなかったらしい。
よかったね。
お母さん、頑張ってたもん。
お母さんはちょくちょく向こうの家に行く。新婚だから、それは当たり前。
でも仕事をして、うちの方の家事をして、向こうの家のこともやって、義理の子ども二人と仲良くしようとして。
お母さんが無理をしているのがわかったから、私も家事はやるから、うちでは手を抜いて、とお母さんに言った。
お母さんはホッとした顔で、弱々しく笑った。
義父も同じように思っていたらしい。お母さんも私も、もっと僕に甘えてほしい、と週末に会った時に言ってくれた。それを聞いてお母さんはすごく嬉しそうだった。
頼れる人がいるって、いいよね。
帰り道にそう言ったら、お母さんは泣いてしまった。そして、うんうんうなずいた。
お母さんは、根っから甘えん坊なんだ。
なのにずっと誰にも甘えられずに、気を張って生きてたんだ。私を守るために。
それから、お母さんは平日の夜、義父のそばでのんびり過ごす時間を増やした。
そのぶん私は一人の時間が増えた。
もう中二だし、家にいるだけだから。まあ、お母さんが残業で遅い時みたいなもの。
一緒に行く? と言われたけど、私は甘えられない。
あの人はお母さんの夫だけど、私には義父で、お父さんじゃないんだ。
私のお父さんは、お父さんだけだから。
そうして過ごすうちに、お母さんが遅くなって向こうの家に泊まる日があった。
私は一人で朝ごはんを食べ、学校に行った。
それから、時々そういうふうになった。
ゆっくりしていたら遅くなりすぎて、危ないし疲れたから泊まってしまうの、とお母さんは言った。
―――そう。
お母さんが倒れたら、たいへんだもんね。
言ったら、お母さんはふわふわと笑った。
今夜もまた、遅くなったから泊まるね、と電話があった。
ちゃんと鍵かけてね、朝ごはんに食べる物あるよね、と確認される。
うん。うん、大丈夫。
じゃあ、と電話は切れた。
「待って」
私は切れた電話に、声を絞った。
「待って。待って。お母さん待って」
どうして、ちゃんと言えないの。
私がちゃんと、待って、て言葉を伝えなきゃお母さんは帰ってこない。
お父さんだって行っちゃった。手の届かない所に。
私が、待って、て言わなかったから。
もう、置いて行かないで。
翌朝、一人でちゃんと支度して、登校時間に家を出た。
私は一人でも大丈夫。
お母さんは大変なんだから、ずっと一人でなんでもやってきた。だから大丈夫。
一人で大丈夫。
「待って!」
後ろから走ってきた人に肩をつかまれて、私はビクッとなった。振り向くと、息を切らしてそこにいたのは、義姉だった。
義姉は真剣な面持ちで、息を整えると、私に頭を下げた。
「お父さんが、お
私はポカンとした。
何を突然。
義姉は、喧嘩して家を飛び出したそうだ。
お母さんがあんまり度々泊まるようになったから、いい加減にしろ、と怒鳴ったと言った。
義母が来なくても家事ぐらい自分が切り回せるのに、中学生を一人にして何してるんだ、この新婚ボケ中年ども。
そう言い逃げしてきた、と怒った顔で吐き捨てる。
ああ、そうか。
私はなんだかわかった気がした。
この人も、苦しかったんだ。
「お
義姉は目を見開いた。その顔がくしゃっと歪むと、私をぎゅうっと抱きしめる。
ありがとう、と義姉は耳もとでささやいた。
ひとしきり抱擁すると、義姉はハッとなって私を放した。
「学校行くんだよね。私、家出人だから、家にかくまってくれる?」
「うち?」
うなずく義姉が、チャラッと見慣れたキーホルダーを見せた。お母さんの。
鞄から盗ってきた、と義姉が笑った。これで籠城できるよね、と。
私は面食らったけれど、楽しくなってニッコリうなずいた。
「じゃあ行っといで。学校終わるの、待ってる」
義姉に見送られて、遅刻しそうな私は走った。
私は義姉の家出の共犯者になった。
二人だったら、言わなきゃいけないこともちゃんと言えるかもしれない。
だからお義姉さん、力を貸して。私はまだ一人ではいられない子どもだった。
学校から帰るから。なるべく早く帰るから。
「待っててね」
私は頬を紅潮させて走りながら、言い慣れないその言葉を呟いた。
待って 山田あとり @yamadatori
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