第12話
毎日、煩いとしか感じない蝉の鳴き声も、今は沈黙が訪れないことを保障してくれている。それだけでもありがたかった。思えば、兄の存在を初めて知ってから、一年と少しが経っていた。それだけの時間があったのに、今日私はやっとこの人と話をする。
覚悟はしていたものの、正面に座るとまさに「気まずい空気」というものが手に取るように感じられる状況。私は私で、やはり彼女の顔を見てしまうと、脳内で不要な意地がチラつくのが分かる。何か言おうとすると、言葉の端々にトゲが潜んでいた。それをなるべく表に出さないよう、聞ける事を聞こうと深呼吸を一度挟む。そして私の正面に座る母は母で、私からの「少し、話でもしない」なんていう提案に、最初は少し驚いた顔を見せたものの、基本的には今までの態度とさして変わらない、ように見える。
父の存在も、兄の性格も真田の話しでしか知らない癖にお盆という建前で、夏の長期休暇中の私は実家に帰った。いざ帰ると連絡をしても、母から特段大きなリアクションはなく、やはり私と彼女の間には常に何かが欠け続けているように感じる。その欠けているものの具体的な正体を、そろそろ私は本人から確かめなくてはならない。恐らく、そういうタイミングであり、めぐり合わせなのだろう。
私は律儀に真田との約束を果たすべく、今母と向かい合った。遠巻きに聞こえる風鈴の音は、きっと水原おじさんの趣味なのだろう。テーブルの上にはグラスに入った麦茶がふたつとボイスレコーダー。会話を録音していいか、という確認に「貴方がしたいのなら」という遠巻きな同意が返される。こういうところなんだけどな、と喉元まで再び出掛かる不平を抑えながら、私は録音ボタンを押した。
20××年08月12日 14時37分
―まずは、こんなお願いに頷いてくれてありがとう。
―うん。
―ええと、どこから話そうか。この前、葬儀に来てくれて、お父さんを見てくれていた真田さんという心理士の方に呼び出されたんだけれど。覚えてる?あの見た目が派手な人。
―うっすらとだけれど。
―以前、大学のサークルで雑誌作りしててね。その一環でちょっと縁があって、その真田さんに話を聞くことになったんだ。
―うん。
―そこでね。取材とは関係なく、私の兄の事、そして一部だけれどお父さんの事も聞いた。私が生まれる前に、この家に何があったのか、ざっくりとした概要だけだけれど掴んだつもり。その上で、お母さんと私の会話を真田さんは聞いてみたいんだって。
―そう。
―その・・・なんていうか。私が幸せかどうか、お母さんとの会話から確かめたいんだってさ。すごいこと言うよね。
―うん。
―でも私もね、そろそろ、今までにあったことをお母さんから聞きたいの。
―今までのこと。
―そう。もう、ここまで私が色々知った後であれば、話してくれてもいいんじゃないの。私に対して言葉が足りなかったのは、聡が遺した言葉が原因なんだよね。
―・・・それもあるわ。
―私が物心ついてから、親として最低限の事はしてくれたけれども、必要以上の事は言ってくれなかった。特に家族のこと、お父さんの事、ましてや兄の存在なんて、あの電話で知った訳だし。
―あの時は私もどうすればいいのか分からなくて。
―そもそも葬儀するかどうかも悩んでたんでしょ。
―ごめんなさい。水原さんに言われるままにしたの、本当は私したくなかった。貴方にまで迷惑をかけちゃって。
―いや、謝らないで。水原おじさんは悪くないし、お母さんの気持ちもなんとなく分かる。あの人の考え方について、真田さんからも聞いたから。聡・・・、お兄さんからもかなり強く口止めをしたんだよね。私に対して自分の存在も、父親の存在も曖昧な事にしろって。私が、この家で過去あったことを知らないまま生きていけるように。
―うん。
―なんでそこまで従ったの。
―聡はとても優しい子だったかったから。私も、出来れば聡の考えを尊重したかったの。ごめんなさい。
―だから、責めているわけじゃないわ。いや、確かに色んなことで文句を言いたいのは確かだけれど。そういえばお母さん、さっき話に出た、真田さんの事は以前から知っていたの。
―ええと。直接会ったことはないけれど、確かお父さんがお世話になっていた心理士の人、ってくらいは。聡から一年に何度か、メールが来ていたの。
―メールだったんだ。
―電話だと話すのも目立つし。
―徹底していたんだね。
―向こうの家の状況報告と、こちらの様子をうかがうのにね。聡も直接その人とよく話すようになったと言っていたわ。そこに、真田さんという名前があったと思う。
―他にどんなことが書かれていたの。
―主な内容はお父さんの体調よ。あとは、こちらからの由香の状況報告ばかり。常に聡が知りたがっていたから。
―知りたがってた、か。ほんと噂通りなのね。
―噂?
―真田さんからの話通りってこと。よほど愛されてたみたいじゃない私。
―間違いないわ。
―そろそろ、私が聞きたかった本題に入っていくけれど。いい?
―うん。
―まず、葬儀の時だけれど。聞けば、お兄さんはもともとの姓である古賀で生活をしていたって話でしょ。なんで古賀聡でなく、興梠聡にしたの。
―それは、私が絶対に聡の存在を由香に伝えたくないって言ったのだけれど、彼が聞いてくれなくて。せめて、過去のことだけは隠すようにとお願いしたら、水原さんが「じゃあ由香ちゃんに余計な混乱を招かないため」って。周りの職場の人にも事前に伝えたみたい。
―なるほど、折衷案だったのね。確かに私も違う人の葬儀に来たと思っちゃうか。それにしても私のお兄さんは、私含めて家族に対してかなり極端な考え方を持つに至ったようだけれど、何かお母さんから原因として思い当たる節はあるの。
―そうね・・・
―まぁ、思いついたらで構わないけれど。
―私も、結局その考えに従ってしまったのだし。一人考え込んでいたあの子の事を支えてあげられなかった。
―なければいいんだよ。
―でも、そういえば古賀家の事、あの子嫌っていたかもしれない。
―お父さんの実家、ということ?
―そう。父方の両祖父母が生きてた頃ね。北九州の家まで何度か顔を出しに行ったのだけれど。その、お義父さん、言葉遣いがちょっと粗暴で、声が大きかったもんだから。少し認知症も入ってたのかな。聡、それが怖かったみたいで帰ってる間ずっと泣いててね。聡が小さい頃からあまりいい印象を抱いてなかったのかも。物心ついてからは、盆正月も行きたくないって散々わめかれた記憶がある。
―もう亡くなっている?
―うん。聡が小学校入る前に。お義母さんもちょっとして体調崩しちゃって。
―そうなんだ。じゃあ、お父さんも性格はもともとそんな感じだったの。
―いや、お父さんはそんな両親を反面教師にしていたのかもしれない。言葉遣いはむしろ丁寧で、でも聡なんかが学校で覚えた変な言葉を家で使うとよく怒ってた。とにかく決まり事とか作法だとか、そういうのにも厳格な人だったわ。
―そっか、厳しいお父さんだったんだね。
―世代ってこともあるね。叱る時は、それはもう怒ってた。でも、それ以外の時は、実家のような言葉遣いっていうか。激しさはない人だったんだよ。手を出す事もなかったし。
―そうなんだ。そういえば、お父さんとはどこで出会ったの。
―確か、私が働いてたお店だったと思う。お父さんは就職してから東京に出てきて、接待か何かの席だったかしら。あの人が北九州で私も久留米だから、同郷ってことで盛り上がってね。そのあとも何度か通ってきてくれるようになって、そのうちに。
―アプローチは向こうから?
―そう。本当に優しい人だったの。大体当時のそういうお店だと、女の子を無碍に扱う人って多かったのだけれど、お父さんはそんな事もなくって、他の働いている人にも好評で。
―付き合いだしたんだ。
―そのうち、結婚することになって、聡が生まれて。トントン拍子で色んな事が進んでいったから、細かく覚えていないんだけれど。
―本当に優しい人だったんだね。やっぱし、心を病んでから変わったの?
―・・・そう、なのかも。あの人自身何か後ろめたいことをしてしまったということは、すぐに分かったし。隠すのも下手だと、自分でも分かっていただろうから、余計に参ってきちゃったんだろうね。
―お父さんが、何をしたかも分かってたんだ。
―うん。でも、多分この人は過剰に自分を責めているということも分かってたから。
―お母さんも、優しいんだね。
―私は何も言えなかっただけ。掘り下げて色々な事が崩れていくのが、怖かったの。そうしているうち、しきりに何もない所で、何か見えているような素振りをするようになったり、その何かに対しては、凄い口汚く罵ってた。近くにいる人が、そういう罵倒を繰り返していると、自分に対してじゃなくっても、徐々に疲れてきちゃってね。聡なんか、小さかったから余計に抱えちゃったんだと思う。
―兄さんもその変わっていくお父さんをずっと、見ていたのかな。真田さんが言ってた。聡さんは仕切りに、父の子である僕も消えるべきだと言っていたって。
―・・・止めてあげられなかった。様子がおかしくなっていくお父さんに古賀家への嫌悪感を重ねたのかもしれない。そして、自分自身もその一人だと自覚してしまったんだと思う。その真田さんに言ったのと、同じ事を真っすぐ私にも言ったの。
―言いづらいけれど。その時には、自殺まで決めていたように思う?
―分からない。私には「少し距離を取ろう」って。それで「別れたということにして、由香を一人でもしっかり育てて下さい」って。こんな結末を選ぶとは、その時はまだ思ってもいなかった。そう言われても、信じたくもなかったでしょうね。
―お父さんとお兄さんと離れて、お母さんも体調を崩したんだよね。
―うん。なんとか水原さんが居てくれたから、多分聡も見切りを付けられたんだと思う。あまり、由香が生まれた頃の記憶がいまいちなくて。
―気づいたら、物心がついてたと。
―・・・これを貴方に言うべきなのか、わからないのだけれども。由香にはお父さんのことや兄がいたことを言わないって、聡の言いつけを守ってきたけれど。貴方との会話が少なかったのは、そのせいだけでもないの。
―他に理由があったの。
―聡と離れる直前かな。錯乱したお父さんに、この子は違う男の子だろうって責められた事もあった。そんな筈ないのに。でも、由香が生まれてから、いよいよ私も一人になって、すべて分からなくなっちゃって。私と由香って、一体何なんだろうって。
―なんだろうね。家族の形、みたいなものがスッポリ抜け落ちてるのかな。
―もちろん、そんなお父さんがずっと家にいた日々も辛かった。聡が私を庇おうとするのも、そんな言葉や暴力に無力な自分も情けなかった。だけれど、いざ、一人になって、辛さが取り除かれて、由香を抱えてみたら、そのあるべき形がわからないことに気づいたんだと思う。
―きっと、私もお母さんと同じことを思っていたのかもしれない。
―同じ・・・。
―ここには、私の家には家族の形がないとずっと思ってた。私とお母さん、二人でもきっと家族の姿って作れるはずなのに、何か足りないって。水原のおじさんが精一杯、会話や日々の生活の中で、私たちを繋げようと努力してくれていたけれど、そもそも元通りにする為のパーツがないような。多分、一度壊れた形は捨てるべきだった。二人の家族の形を、一から作り直さないといけなかったんじゃないかな。
―私は壊れたままの形を、捨てられなかったと。
―そうかも。ハッキリ言ってしまえば、いや、もう分かってるかもしれないけれど。小さいころから、私、貴方と上手くいくことはないと思っていた。ずっと、私のピースが入る余地のない、古賀家としての家族の形を抱えてるんだもの。ようやく色んな回り道をして、それが今回分かったの。
―ごめんなさい。
―いえ、大丈夫。そんな謝罪よりも、私の兄。聡のこともっと聞かせて。私の名前を決めたのも彼なんでしょ。
―そうね。私が懐妊してすぐ、女の子なら由香がいい。男なら雄大だったかしら。そう言ったわ。妹が出来ると知ったあの子は本当に喜んでた。年の差があったから、こんなにも喜ぶと思ってなかったけれど。家族が増えること、純粋に貴方と出会うのを楽しみにしてたんだと思う。
―生まれてから、聡とは会っているの?私。
―うん。数回は面会しているはずよ。嬉しそうな顔が今でも思い出せるほど。確か出産を間近にした頃、聡はお父さんを連れて二人で暮らすって決意したの。いよいよお父さんの様子も危険な状態に近づいてきたし、病院に連れていくのも大変で。
―よく別々に離れて暮らすこと、お父さんは納得したね。
―たまに幻覚が見えているということを自覚してたのよ。聡がすごい剣幕でお父さんに説得してね。由香の為にお父さんは、俺と一緒に暮らすべきだって。
―説得は理解していたの?
―うん。もともと厳格というか真面目な人だったから、癇癪やら幻聴の抑え方も分からなかったお父さんも、自分がすべてを壊してしまうかもという可能性が怖くなったんだろうね。徐々に聡に従うようになったの。
―なんだか、悲しいね。こうなる前にもっと出来ることがあった気がする。
―そうね。お父さんの暴力も、聡の思い込みも。私がもっと強ければきっとなんとかなっていたんだと思う。
―お母さん、そういうの悪い癖だよ。
―そう思えば思うほど、言葉が出てこなかった。貴方が生まれる前も、産んだ後、育てている時も。その自責は消えなかった。
―ある意味で、お兄さんの言いつけって、呪いみたいになっちゃったのかな。口止めみたいなものじゃない。私を幸福にさせるための。
―それでも聡は本当に貴方を愛していたのよ。それを言うなら、お父さんだって最後は、貴方を不幸には出来ないと言って家を出たの。呪い・・・だなんて私からは言えない。
―でも私としたら、もっと小さいころからお母さんと話がしたかった。本当の事を、最初から聞きたかった。素直な気持ちでお母さんと会話したかった、そう思う事が本当に多くあったの。愛されていた、ということは事実かもしれない。でも、その思いは本来、双方的であるべきじゃないの。
―ごめんなさい。私はいつまでも、古賀家がもう一度もとの姿に戻れたらと思っていたの。お父さん、聡、そして由香と四人で一緒に暮らせるような日が来ることを、もうあり得ないと分かっていても、祈っていたの。
―祈り、か。
―聡から言いつけられていたのにね。二人で新しく作る家族の形をいつまでも受け入れられずにいた。
―今は、どうなの。その聡が亡くなった今、どう考えているの。水原おじさんも居る。再婚して、今、お母さんは幸せなの。
―・・・お父さんも、聡も、私が止められなかった命かもしれないのに。それを差し置いて幸せだなんて、言えない。
―ねえ、これだけは言わせて。貴方のその表情が一番嫌い。
―・・・うん。
―お母さんがそんな顔で、自分を責め続ける限り、私が幸せになれないの。聡は自分の命を投げうって、私を愛したって言う。むちゃくちゃな理屈だけれどね。私が健やかに生きられるのであればと、古賀家の形を壊した。その息子、兄、家族の意思くらい、私たちで拾ってあげようよ。私、自分が今幸せなのかどうかなんて分からないし、将来どうしたいのかも分からない。何をすれば、彼が期待した私になれるのか答えはどこにもないの。だって、その本人はもういない。私たちに、形のない期待と愛を残して逝ってしまったの。
―・・・うん。
―だからさ、お母さん。私たちで、家族になろうよ。水原おじさんも含めて、新しい家族の形を作り直そう。
―・・・聡が、許してくれるかしら。
―きっとだけれど私の幸せを願った兄が、お母さんの幸せを否定することはないと思うよ。ていうか、そんなことは絶対にない。この家を去った姿を見ていないから、お母さんの悲しみのすべては負えないけれど。これから、積んでいく幸福の一部くらいは手伝わせて。
―ごめんなさい・・・
―だから、謝るところじゃないでしょ。
―・・・(ノイズ)ただいま、ってあれ?由香ちゃんじゃん。久々じゃない、珍しいね、って里美さんどうしたの。え、由香ちゃん泣かせた?って、由香ちゃんまでなんか・・・俺また出かけた方がいい?
―ご無沙汰してます。今、母と大事な話をしてたんですけれど、ちょうど一区切りついた所です。逆に何も言わずお邪魔しちゃってすみません。
―そっか・・・いや、ありがとうね。
―え、どうしました?
―ほら里美さん、スッキリした顔してる。
―最初と変わらなくないですか。
―いや、違うね。毎日会ってる俺が見るんだもの。間違いないよ。
―由香、ありがとうね・・・
―うん。
―そうだ。由香ちゃん時間ある?近々さ、聡君のお墓参り行かない?お盆だし、せっかくならこの三人で行ければと思っていたんだけれど、どうかな。
―そうですね、いいかもしれません。お母さんは。
―・・・うん。
―お、じゃあ決まり。車は出すから、日程決めよう。なんなら、ここに泊まって明日行けばいいんじゃない?
―それは急すぎるのでまたー
20××年8月12日 16時05分
日に焼けて、未だに熱をもったうなじに手を当てる。あんなに日陰のない場所だったら、もっとツバの大きな帽子を被って行けばよかったと後悔しながら、改めて音声データを聞き直す。幾分か不自然さはあったけれども、墓に手を合わせ、泣き顔で笑った母の表情は、今までの私の記憶にないものだった。
真田からは対談という形を所望されてはいたものの、途中で私は文字起こしをやめた。レコーダーから音声ファイルを抜き出し、メールに添付する。単純に文字起こし作業が面倒だったこともあるけれど、この音声データを直接送った方がきっと、癪だけれど真田も喜ぶのではないだろうか。皮肉ぽい顔を思い出しながら、自分のお人よしさに唇を噛む。
友人である聡が願った、自分のいない家族の形。私が育てられた期間を全て清算するには、幾分か短い時間の会話だった。内容も十分ではないかもしれない。それでも私は言いたいことを言えたし、母もどうやら、少しずつ水原おじさんを受け入れているように見える。何か新しいものを受け入れるには、やはり何かを捨てなければならないし、自分を責めていても、結局それは自分の為にしかならなかったりする。
今、自分が幸せかどうか、なんて断言することは出来ないけれど。あの日の会話を聞き直す限りでは、兄の願いは叶っていると、とても身勝手ではあるけれど、そう思うことにした。
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