その遠さ、わたしたちのなかなか近づくことのできない。

@isako

その遠さ、わたしたちのなかなか近づくことのできない。

 大仏の鼻の奥にひとがいる、と真由子が言って、我々がそちらに目を向け、やはりそんなものは存在しないと確認して、視線を戻したときには彼女は消えていた。

「真由子」

 義堂がきょろきょろしながら彼女の名を呼んだ。奈良東大寺の人ごみの中には、我々の友人である坂本真由子はいなかった。さっきまで、退屈だと文句を垂れていたあの小うるさい女は、大仏の鼻の奥に何かを見て、そして我々のそばから消えた。それから我々は二時間かけて東大寺周辺を駆け回り、彼女を探したが、見つからなかった。

 彼女は行方不明者になった。大学一年生の、やや頭の悪いあの女は、古都においてその消息が絶たれた。警察沙汰になり、真由子の家族ともやっかいなやり取りが発生し(そのだいたいの原因は義堂の態度にある。彼女は頭は良かったが、ことを運ぶその一般的な筋をなぞることを嫌がる)、そしてなんだかんだ、坂本真由子は行方不明となった。手続きとして彼女は、「いまどこにいるのか分からないひと」になって、その事実と状況を公的に承認された存在に成った。つまり他人は、もう真由子の消失に関してはまったくマニュアル通りの態度をとれるようになる。例えば大学とか、バイト先とか、所属していたサークルなんかだと行方不明になったとなると、なんとなく話は通って、特にややこしいことにはならない。坂本真由子は間違いなく十八年間を生きてきた人間であって、世界的に広く認知されるような存在でなかったことは確かだが、それでもあっさり彼女の存在が様々な形であいまいに否定されていくのを我々は目の当たりにした。あの東大寺にいたメンバーで、義堂を除くすべての人間がまあそういうものなのでしょう。という納得を経てとりあえず生きている。義堂だけは、彼女だけは未だに毎週奈良まで行って、東大寺の大仏の顔面を睨んでいるらしい。他の東大寺メンバーの朝倉や高島は「ギドちゃんやっぱ頭おかしいよ」なんて言って義堂から距離を置いた。義堂がまだ、失踪した真由子に対して高い温度を保ち続けている一方、彼らや私は、もうその熱を冷ましていた。その差が、朝倉と高島に居心地の悪さを感じさせたのだ(あるいはそこには、彼らが男であることも、関係しているのかもしれない)。真由子は勝手にいなくなったのであって、我々が彼女をどこかに捨てやったわけじゃない。つまり義務も責任も我々には発生しない。そう考えるのはそこまでおかしなことではないと思う。急に真由子が消えて、警察の世話になったり、そのあとの家族とのごたごたに巻き込まれたという意味では、我々もまた、ある種の被害を受けているのだといえる。だから私や朝倉や高島は温度を冷ますことができたし、そうしなければ、生活が成立しない。我々は大学生なので、行方不明になった知人のために、一時的であれ人生の多くの容量を割くわけにはいかない。そんなことがしたくて受験勉強をしていたのではない。というわけである。だから義堂みたいに徹底するものに対しては距離を置かざるをえない。義堂は異常ではあるが、道徳的には、ある限定的な一面においては、正しい。

 彼女はまだ真由子を探している。自分の自由な時間を使って、奈良に消えた友だちを探している。大仏の鼻の奥にひとを見つけたあの女を、見つけるまで探すことを、自分の義務であると認識している。

「でもおマツは悲しんでないよな」と言ったのはやはり義堂だった。私は「そんなことないよ」と返した。そして義堂の目を見て、彼女が冗談やからかいでそれを言ったんじゃないことを知る。それは真由子が消えてから一ヶ月が経ったころのことで、我々は大学食堂で遅い昼食をとっていた。真由子と面識はあったものの、あの時の奈良観光のメンバーではなかったサンコだけが、きょとんとしていた。サンコだって「坂本真由子」という同学年の学生が行方不明になったことは知っているし、その失踪の現場に私と義堂がいたことも知っている。義堂の捜索活動についても知っている。すでに一ヶ月が過ぎて、ただ不気味な不安を我々に味あわせることになった真由子失踪事件について、なんの前振りも、文脈の合致もなく、義堂は真由子の名さえも出す前から私の心情について指摘した。会話の内容としてはまったく飛躍した、意味不明の指摘であっても――実際、サンコは場のきりきりとし始める空気にただ困惑の表情を浮かべている――義堂は私には伝わると確信しているし、その確信は正しかったと言える。私はすぐに「でも私は悲しんでないこと」として真由子の失踪が示されているのが分かった。そしてそれを否定した。

「悲しいっていうか、もうわけわかんないでしょ? どう気持ちの処理つければいいのか、さっぱりでさ」

 義堂は、なにも見逃すつもりはない、とでもいうように強烈な視線を私に向けている。一重で小さな目が私を釘付けにする。怖いのではなく、その力強さに私は彼女から目を離せなくなる。

「マツ、あんたさ」

 ステップとしての呼びかけ。イン・ステップで思い切りボールを蹴飛ばすための助走がこの「あんたさ」だということを私は知っている。義堂が自分のなかでぐつぐつと煮込みあげた論理的掃射を放つ直前の行動がそれである。私はそれを今までに二回聞いたことがある。私が知っているうちで、その論理的掃射を受けた二人は、一方は黙ってその場を立ち去り、一方は一時間泣き続けた。今度は私にその銃口が向けられている。食らうわけにはいかない。

「トイレ」と私は呟くと、ノート類の入ったトートバッグを掴んでテーブルから飛び出した。義堂とサンコの二人が私の名前を呼ぶけど、振り返らない。私は食堂のやや混んでいる人波を、早足で抜け出した。もちろんトイレには行かない。

 その日から私と義堂は疎遠になった。仕方ないことだった。結局私も、朝倉や高島と同じように義堂から逃げざるをえなかったのだ、ということになる。あの男たち二人が義堂との温度差を気味悪がって避けたのとはやや違うが、その温度差を今度は義堂の方が私に問うてきた形になる。

 決別の昼食会のあと、一度だけ義堂が私にメッセージを送信してきた。

 〈あんたはなんで真由子のことをてきとうに済ませようとできるの?〉

 この残酷な指摘をできるのが義堂雷鳥という女であり、彼女は私がこれに答えられないことを知っていながら、こういうものを突き付けてくる。でもそれは悪意ではない。義堂が、正論を用いた友人の論破に愉悦を覚え事あるごとにそれを実行し心の栄養にしているような軽い生き物なら、わたしは彼女と関係を続けることはないし、また、今みたいな苦しみも存在しない。義堂は私の反応を見ている。彼女は自分の居場所とかたちを確認するために強い言葉や、清潔な言葉を吐く。その反射を、彼女は見ている。彼女はそのことを自覚していない。彼女は自分の感覚が、どことなく周囲とずれていることだけはどうやら感じているらしく、自分の位置やかたちを知るために、無意識的に、他人の瞳に映る自分を見ている。これは彼女なりの不安の表れだとも言える。こんなことを知っているのは私だけだ。その辺の連中には義堂の精神を理解することはできない。だから、朝倉や高島のような寝ぼけた男どもには、「義堂は正しいがクレイジーだ。彼女は潔癖に過ぎる。あんなんじゃまともな人間関係は続けられないだろう」というような意見しか持てない。彼女は人々が考えている以上に繊細な人間で、我々よりもはるかに他人の目や、評価みたいなものに強い関心を寄せているというのに。

 義堂を理解できるのは私だけだというのに、義堂はそのことも分からず私に銃口を向けた。私は彼女の優しいお母さんではないから、差し向けられた攻撃性を受け止めることはできない。だから私は彼女と距離をとった。義堂がせっかくの理解者をそうとも知らずに自ら失ったことに、私はほの暗い喜びを覚えていた。しかし一方で、どうやらサンコがまだ義堂と遊んでいるらしいことを私は知った。私と義堂の関係は冷戦不干渉のかたちに転落したが、義堂とサンコの関係はまだ続いている。

 サンコは一言でいえば「ぼんやりした女の子」で、愛嬌はあるが美人ではないという感じだった。そしてどちらかというと活発なタイプでもない。しかし割といろんなところに顔を出していたりして、義堂はいうまでもなく、私よりも交友関係が広かったりする。知らないうちに彼氏をつくっていたりして、写真を見せてもらったところ、サンコらしいというか、「お似合い」の二人なのだが、その「お似合い」加減が幸福のひとつの形の究極のように見えて、私は時々彼女が無性に羨ましくなったりする。もちろんその「彼氏くん」を自分の恋人の位置に据えたいのではなく、サンコが、あのおっとりしていてもどこか理知的な女の子が――消えたあの馬鹿でうるさい女とはまったく違って――自分で見つけてきて恋人に選んだひととその関係を築き上げ、そしてそれを善く保っているらしいことに、私は憧れを抱かざるをえないのである。サンコの享受している幸福が羨ましい。サンコは――もちろん私からみて、という限定においてだけど――ある種のふさわしさを獲得している。誰にも指摘されない、される余地のないような幸せを、彼女の努力によって得ている。もちろん彼女だって、どこまでも幸福な人間というわけではないだろうし、本当は心のどこかにびっくりするくらいの陰鬱や負を抱えているのかもしれない。でも少なくとも彼女は、そうしたものを表面的には隠しきっているし、彼女に与えられたものと与えられなかったものの違いを認識した上で、うまくやっている。サンコはうまくやれるひとだった。完璧(というものはどんな形においてもありえない、のだとしても)ではないし、そうは見えないが、それでも彼女は最適ではある。望んでそれができるなら、彼女が意図的にその椅子に座っているのだとすれば、私は、我々がサンコと呼んでいる、伊藤三都子という女の子に嫉妬しないわけにはいかない。だがこんなことは、口が裂けても人には言えない。

 そして私がサンコを羨ましく思うところの、その一つが、義堂との関係でもある。義堂と一緒にいるということは、少なからず義堂から清潔な言葉を差し向けられて、その反応を精査される抜き打ちテストのような試練を日常的に受けるということでもある。「あんたさ」から始まる強烈なあの掃射は滅多にないにしても、日々の細かいものもあって、むしろ義堂はそういうものからよく自分の位置やかたちについてを確かめていると言ってもいい。それでもやはり、ある程度は攻撃的なので、人によってはこれを受けて「義堂雷鳥は異常に攻撃的な女だ」という結論を導き出して(私に言わせれば大いに間違った結論である)、義堂から離れていく。それを前提にして義堂と日々を過ごせるのが、私とサンコと、そして真由子だった。消えた真由子のことは語っても仕方ないとして、今も義堂と一緒にいるサンコに対しては、やはり羨望の目を向けてしまう。これまで我々は同じ場所にいたのだが、結果的に私はそこからドロップアウトしてしまった。私なら義堂と共にいられるのだという優悦は幻想だったらしい。

 私は彼女との決別(あるいは彼女からの逃走)以来、そのことにずっと頭を痛めていた。何か私の心を動かすものを見かけて、きっと義堂ならこれを見てこんな風に言うだろうな。という想定をしたあと、これまでなら、その情報を共有して答え合わせもとい彼女の「摂取」が可能だったのが、それができなくなっているのに気づいて、しかもそれに言い表しようのないもどかしさと後悔があることに、その感情に、どうしても私は悶絶せざるをえない。義堂雷鳥の名が表示される携帯端末を握りしめながら、私はベッドの上で顔を歪ませ、唸るのだ。


「ギドちゃんがさ」とサンコが講義終りに呟いた瞬間、私の意識は急激に昂ぶりを見せ始め、温かなものと冷たいもののふたつが心の中を混じり合って満たした。サンコが私の様子を伺うように、そこで言葉を切ったので、私はなるたけ平素なふうの顔を意識しながら、「が?」と聞き返すが、あまりにも強大な感情はその疑問符に力のこわばりを大きく付与してしまう。講義が終わって、妥当で醜いざわつきが広がる大教室の一角で、私の「が?」は思いのほか大きく響いた。顔が赤くなる。

 サンコは私の心中を察するようにはにかんで、同様に頬を染めてから言った。

「ギドちゃんが」

 私は息を呑んだ。

「マっちゃんに、一緒に奈良に来て欲しいって」

 私の逃走から一週間と二日が経った日のことだった。サンコに言われて、義堂に会いにいった私は、前回と同じ食堂の同じテーブルで同じ席に、私・義堂・サンコの三者で集まることになった。サンコは「何が起こるか分からない」とでも言いたげな凍り付いた表情をしていて、私と義堂を交互に見つめた。お前が私を連れてきたんだろ、と言いたくなるが、実際のところ、サンコは義堂に言われてやってるだけで、彼女だってことの流れを見通せているわけではない。場所があるかぎり、そこでは、義堂がどう動くかという問題に尽きるのだ。

「理科の実験と同じだよ。状況を再現するんだ。真由子がいなくなったときの状況を再現する。同じ時間、同じ場所、同じ人間……、といっても揃えられるのはあのときの奈良観光のメンバーだけだけど。とにかくやれそうなことはなんでもやってみたいんだ。条件が揃えば、同じ事が起こるかもしれない。そうすれば、そのとき、真由子がいなくなった理由がわかるかもしれない。とりあえず高島と朝倉には声をかけてある。おマツがOKしてくれないと、始まらない話だから、どうしたものか心配してたんだけど、サンコに頼んで正解だった。来てくれて嬉しいよ」と義堂はそんなことを言った。

 義堂はまだ真由子の捜索を続けている。ごく個人的な活動として。警察による捜査も下火になって来たこのごろで、真由子の家族さえも諦念ほのめかすところ、義堂はまだ真由子が見つかるものだと考えているらしい。

 実体的な捜索(つまり、奈良東大寺近郊にビラを配ったり、あちこち歩き回ったりするようないくつかの泥臭い作業)に限界を感じていて、そして彼女が思い至ったのは、「大仏の鼻の奥にいるひと」だった。私もその言葉を憶えていた。確かに真由子は消えていなくなる直前、それを言った。ぐずる子供のように、退屈だのなんだのと不満の声を上げていた彼女が、突如とした静けさを伴い、そしてどこまでも感情を欠かした声色で言った。大仏の鼻の奥にひとがいる。それはあのときあの場にいた人たちにとってはやはり印象的なものだった。あのいつも騒がしく、下品で、幼稚な女が、彼女を彼女たらしめる部分をすべて抜き取ったかのような静かな声で、「大仏の鼻の奥にひとがいる」というまるで怪奇な文章を言い放ち、その直後に忽然として消えたのだから、それは当然だった。彼女の最後の言葉だった。そして考えうる限り全ての一般的な方策を試し、それらへの期待を失った義堂は、最後にその妄言にすがることになった。

 彼女はにっこり笑っているけど、眼が笑っていないような気もするし、いつもこんな感じでしか笑っていなかったような気もする。私は義堂のそんな語りを聞いてふらっとしかけるが、持ち直す。私には一つの(貫き通すべき)態度がある。それは、義堂が私と友好的でありたい限り、先週の私への攻撃は彼女にとって失策であり過ちであったのだ、というものである。

 義堂は絶対に謝ったりはしない。「こないだは変なこと言っちゃってごめん。あんたにはあんたの考えがあるよな」といったような、みんなで分け合うためだけの、その場の空気を柔らかくするだけの言葉は絶対に吐かない。彼女は自分が意図的に行うことには絶対の自信があって行うし、その自信は――彼女の中の論理的整合性に限定されるが――倫理的な正しささえも保証する。だから謝罪はしない。彼女はそういう思考がはじき出す行動原理とそれが生み出すあらゆる衝突の中に生きている。自由なように見えるけど、本当はそうじゃない。私は彼女の思考や態度を一面的に過ぎると思っている。彼女は、人間のなかで生きていくには余りにも硬すぎる。そして私には彼女の硬さに合わせるだけの余裕がまだある。というかこの一週間の冷却期間によって、その余裕を手にした。義堂は謝らない。私は悪くない。それならもう、それでいい。むしろこの態度こそが私の武器となる。義堂は白黒はっきりつけて、どうこうしようとする。私は灰色だろうと玉虫色だろうとなんでも構わないのだ。義堂雷鳥にはどうあがいても到達できないこの緩やかな誤魔化しの態度こそ、私が彼女と付き合っていくための最大のアドバンテージになるはずだ。居心地の悪さみたいなものを感じるのだとしたら、それは私よりも、義堂の方に深く及ぶものだ。彼女は全部分かっている。それでもやめない。だったら、苦しめばいい。私を苦しめた分彼女もそれを背負えばいいのだ。それに、サンコを介して、私に接触を図ってきた時点で、私の方が一歩勝っている。先に足を踏み出したのは、どんな形であったとしても義堂の方なのだから。

 義堂は私の言葉を待っている。私もいざここに来るまでの時間はたっぷりあったはずなのだが、彼女に何というべきなのかという問題について何も考えていなかった。後悔しても、もうその時が来ていて、ちょっとまごつく。

「そう、で、奈良にいって、状況を合わせるってこと……だからメンバーの数を合わせるということで、今度はわたしもついていくことになったんだよね。ギドちゃん」

 場の冷め込んでいく空気に耐えられなくなったサンコが言葉をなんとか浮かばせた。義堂はサンコの方なんかまったく見ずに、うんと短く言う。目は私を見ている。

 私は言った。「でも朝倉と高島が行くって言わないとなんにもできないんじゃないの。義堂的には他の人間でもいいわけ?」

「よくない。できるだけ同じ状況を再現したいから、なんとか強引にでもあいつらを連れていくよ」義堂が返す。あんまりうまくことは運んでいないらしい。彼女の表情は曇る。

「てかさ。さっきも軽く聞いたけど、状況を再現するって何?」私は詰める。どうでもいいことが話題になってくると、いくらでも言葉が湧き出てきた。

「……現場検証的なやつだよ。できるだけ物理的に同じ状況を作って、何が起きたのか再現したら、真由子がどこに消えたのか分かるかもしれない」

「それって普通に警察がやってるよね」

「警察がやってるからって私たちがしない理由にはならないでしょ」

「いや、なるでしょ。私たちがやったあと、それのレポート書いて奈良県警に出すつもりなの? 『私たちも素人ながらにやってみました。よかったらそちらの検証ともすり合わせて是非事件解決に貢献したいんですけど』とか言いにいくの? 義堂、それがうまくいくと思うほど馬鹿じゃないよね」

「どしたのマツ、今日めっちゃ喋るじゃん」鼻で笑うように義堂は言った。

「え? 今日この話しに来たんだけど。どうでもいいなら帰っていい?」

「……いやだから、何か起こるかもしれないってことでしょ」義堂は口ごもる。

「何か起こるかもしれないって、何が起こるの?」

「それは……、だから、大仏が」義堂がようやく言う。

「大仏? そりゃあるだろうね。東大寺なんだから。私も見に行ったし。一緒に」

「真由子が」

「真由子が?」

「真由子が言ってたでしょ」

「なにを?」

「大仏の鼻のなかに何かいるって」

「言ってたね」私の中で、どんどん言いたいことが増えてくる。

「いや、あの聞きたいんだけど、真由子のそれってさ、だからなにってことになるよね? 大仏の鼻の奥、になんとか。だよね。あれってほんと意味不明だし、もうなんか冗談としか思えない言葉でしょ。まさか、あれがそのまま真由子を探し出すのに有効なものになると思ってるの? ありえないでしょう。あんなの。あれこそ妄言だよね。何のことだかさっぱりだし、言われたときわたしも大仏の鼻見たけどなんにもいなかったし」

「それはそうだけど」義堂が苦しそうに顔を歪める。人間関係の常識にはまったくひるまない彼女だけど、自分が血迷ってオカルト的なものに片足踏み込んでいる点には、常識的な強い批判の感覚があるらしい。私はどんどん楽しくなる。

「うん。義堂がこれまで真由子探しにいろいろ頑張ってきてて、義堂なりにやれることはもうほとんど全部やり尽くしたっていうのは分かるんだけど、でも、それはもう現実のものじゃないじゃん。馬鹿が無意味にぽんと呟いた言葉か、あいつの見間違いか何かでしかないわけで。それはもう、ここらでおわりってことなんじゃないの? あんたにできることはもうないっていう、現実の限界が来てるってことなんじゃない?」私は分かっていて言う。

 義堂は答える「いや、それはない」

「あんたはそうだよね。うん。でもね、そうは言うけど、まったくリアリティないじゃん、そのやり方。状況を再現するとかそれらしいことも言ってるけど、あの妄言をそのまま再現すれば、どこからか真由子が戻って来るわけじゃないし、それに、あんたのその確信だって、結局は自分の意地を貫き通すための最後の道がそれしかないってことだし。私に頼みに来たのは全然いいんだけど、私としては参加する以上現実的な意見を言わないわけにはいけないんだよね。いつまでも義堂が、無駄に時間を過ごしてるの見てられないし」

「いや無駄じゃないし」

「あんたはそう言うだろうけどね。でも傍から見れば意味ないんだよね。実際あいつ見つかってないし、とくに〈大仏の鼻の奥〉の線はかなり無意味でしょ」

 私はサンコの方を見て、同意を求める。彼女は困ったような笑顔を引きつらせて、「うーん。どうだろー」なんて言う。この場でサンコに意見できるはずがない。それでいい。彼女が義堂の味方になりえないことを示すだけで、私にはもう十分なのだから。

 義堂の表情は少しずつ、困惑や苦悩のものから、怒りの色を示したものになっていく。眉の傾きが攻撃的な鋭さを増して、瞳の奥の光が暗い硬質さを帯びてゆく。

 もう実のところ、私も彼女も冷静ではいられないのだ。

「てかさ。ほんとあんたいつまで真由子探してんの? もう見つかんないでしょ明らかに」

 私は言った。言ってからまずかったかもしれないとは思ったけど、止まらなかった。本当の衝突というのはこういう風にして起こるんだろう。分かってても、どうしようもない。いくとこまでいっちゃえ。というわけである。

「は? 何言ってんの? いなくなった友だち探すのは当たり前でしょ」

「いやいや、義堂のそれはやばいからね。普通そこまでしないから。普通大学からの友だちにそこまで時間使ったりしないし、あんた普通じゃないとは思ってたけどやっぱやばいよね」

「あの、普通普通っていうけどなんなのそれ」

「あー。わかんないだろうね。義堂には。それが分かんないから普通じゃないんだもんね。みんな分かってるけどね普通」

「そういうのやめてくれる?」義堂が声を震わせる。

「あっ。そうだよね。ごめんね。義堂は普通、分かんないんだもんね。普通がわかんなくて今までずっとあちこちでぶつかってきたんだもんね。ああそうか。真由子はあんたのそういう普通じゃないとこを割と平気に扱ってくれてたんだ。だから大切なんだね。親友だったんだ。そりゃ私たちと全然やる気が違うわけだ。普通じゃない自分を理解してくれる唯一の友だちが自分をおいてどこかに行っちゃったんだもんね。むしろ、『何で私を置いていくの?』的なやつだよね。ああ。状況を再現するって、そうか。わかった。あんた真由子を連れ戻すんじゃなくて、自分が真由子の方に行こうとしたんじゃない? おんなじ環境を整えて、『何かが起こる』って、それ、真由子がいなくなった状況が再現されて、自分自身が、真由子と同じ場所に行けるかもしれない、とか思ったの? あちゃー。だとしたら、私ちょっと、ひどいこと言っちゃったのかな。義堂がやけに現場に行くのにこだわるから、何かもっとそれらしい理由があるんだと思ったら、それだったのか。必死になるわけだよね。やっと自分のそばに立ってくれるひとが見つかったと思ったら、それがいなくなって、また独りぼっちになっちゃったわけだ。なぜだか周りのひとたちとうまくやれなくて、その理由が他の人たちには当たり前みたいに分かるんだけど、自分だけは自分のことなのに全然理解できなくて、そのせいで何もかも怖くてたまらなくて、傷つきやすくて、ほんとは誰よりも他人の目を気にしていて、これまでずっと孤独だった女の子だもんね。大切なお友だちがいなくなったら、もう、どんな手掛かりにだって飛びつくんよね」

 義堂は固く瞑っていたその目を少しだけ開いた。熱く濡れた瞳が、瞬きに私を捉えた。鼻を中心に顔が赤く染まっている。彼女は自分のバッグを掴むと、黙ってその場から立ち去った。サンコが彼女を、とても悲しそうな目で追った。それから私を見た。

 私は、とても目を合わせられるような気分ではなかった。――はぁっ。と口から漏れた息が、震えていた。


 今度こそ義堂との関係が決定的に崩壊してしまったということで、私はさっさと家に帰って、ふてくされて酒を飲んで寝た。すると夢を見た。

 我々は奈良東大寺・大仏殿の中にいる。雨が降っていた。解放的な入り口からは、しとしとと冷たく濡らす雨音がする。雨のせいで空気は湿っていた。また全体として、全てが灰色だった。

 本堂中央にはあの巨大な仏像があって、じっと正面を見つめている。半目の東洋的微笑の中心には鼻があって、その穴は銅像ゆえにそこまで深くない。当然「ひと」もいない。そう、なにもいないんだよ。と私は思う。

 驚くべきことに、本堂には私しかいない。連日観光客がやってくる場所なのに、その時そこには、私しか人間がいないのである。がらんとした巨大な木造りのお堂の中に、私と、細部の意匠を欠いた観念の仏像が鎮座している。夢だからそのように雑なイメージが場を作り上げているのだが、夢を見ている私はその場が夢だとは気付かない。ただ夢であろうと、そこで起きることは本当に起きることなのだ。

 私はぐるりと仏像の周りを回って、探す。私はおそらく真由子を探している。それを義堂に渡して、仲直りをするつもりだった。夢の中でも、我々の関係は決裂していた。夢の中でも、思い出すだけで涙が出る。土を固めた、灰色の、埃っぽい床を踏みしめて巨大な仏像の周囲を歩く。お堂の中は薄暗い。外は雨が降っている。ぐるぐると、なんども仏像の周りを回るけれど、真由子は見つからない。

 もう何度目かの仏像の正面に差し掛かったところで、背の高い白色人種の男が現れて私に話しかけた。彼は軍隊風の短い刈り上げの金髪をしていた。鼻が大きくて目は小さい。彼はどこか昆虫のような、冷血の印象を与える顔をしていた。服装は蛍光色のウィンドブレーカーと、それに合わせたズボン、ブーツ、ザック。これから、あるいはさっきまで登山をしていたとでもいうような姿で、観光客という感じでぷんぷんだった。実際、前回訪れた東大寺には、こういう格好をした外国人がたくさんいた。

 彼は私の顔を見下ろして、わちゃわちゃと異国語を話し出した。私にはそれが理解できない。あまり切迫した雰囲気はないけど、一方で、のんびりと友だちに話しかけるという感じでもない。なにか必要を満たすための説明を私にしているらしい。でも通じない。私は申し訳なく思うけど、なにもできない。日本語で応答することさえ、頭には微塵も浮かばなかった。

「Look」と、男が私の頭上はるか先を指で差し示して言う。私は手の動きに合わせて後ろを振り向き示される先を見やると、座る仏像の鼻の、片穴から白いものが覗いている。私は首を伸ばして、それをじっと見つめた。鼻の穴から飛び出した白いそれは、ふらふらと揺れている。よく見ると、それは人間の頭のようだった。真っ白で、髪の毛のない人間の頭。眼孔は黒い陰に満たされていて、眼球がない。生命の匂いを持たない、人形の頭が鼻の穴から頭を見せている。顔はちょこちょこと向きを変えて、お堂の中を伺っているらしい。何か探しているようでもある。

「邪悪なものだと思いますか?」男が私に尋ねた。

 私には分からなかった。そう思っていることが伝わったのか、その外国人はうんうんと頷いた。

「真由子はどこにいるんですか?」と私は彼に尋ねた。

 彼は肩をすくめた。誰にも彼女の居場所なんて分からないのだ。

 白いものはするすると、大仏の鼻先から、顎、首、胸、腹、と順にいもりみたいに四つ足で下ってきて、あっという間に我々のところまでやって来る。すっぽんぽんの人間の身体をしているけど、やはり肌は白くて、毛は一本もない。男とも女ともつかない身体だった。きっとどちらでもないのだろう。

 それは私の目の前に来て立ち上がると、だいたい私と同じくらいの背丈になる。眼のない顔が私をじっと捉えた。私は怖くなって、顔を逸らす。すると、「選ばれないな」という予感が私の中にひらめく。ちら、と視線を戻して、白いものの眼のない空洞の黒を見つめてみた。

 闇の広がりの中に、何かが見つかるような気がした。いや、見つけられるかどうかだろうと思った。少しの間見ていたけど、多分私には無理なのだろうと悟った。義堂ならなにか見つけたのだろう。そして真由子も。

 目覚めると、なにか有意な夢を見た気がするのだが、その内容はてんで思い出せないという、あのよくある状況に私は陥った。よくあることなので、すぐに気にならなくなった。


 それかまた一週間が経った。私はほかの友だちと積極的に付き合うことで彼女を忘れようとした。サンコにも連絡をとらなくなった。

 案外、平気だった。もしかしたら自分は義堂から離れることで、人間の心理としてかなり致命的なところに追いやられてしまうのではないか、とも思っていたけど、そういうことはなかった。少なくともこの数日間は、時折義堂のことを考えるとは言っても、他のこと全てが没落してしまうというようなことなく、わたしは比較的安定した精神を保つことができたのである。私は少し安心するとともに、自分の掴みどころのなさをやや苦く思っていた。

 このまま彼女とのつながりが消滅するのだろうか。多くの人間関係がそうであるように、人生の終りまで自分についてきてくれるものはまったく皆無で、短い時期ごとに接触と別離を繰り返して、いつか一人で死ぬのだろうか。なんてことを考えていたところ、サンコからわたしに電話が入った。彼女は語った。

 義堂雷鳥は行方不明者になった。坂本真由子同様、それは奈良東大寺でのことだった。私を欠かした当時のメンバー(義堂・朝倉・高島)に加え、サンコと、あと私が知らないどこかの女。この五人が、東大寺に行った。義堂が言う、例の再現がその集まりの目的だった。サンコはともかく、知らない女や、さらに朝倉や高島がよく義堂の言葉に従ったものだな、と私は驚いた。五人は義堂の調整に合わせて、同じ曜日の同時刻に東大寺に訪問した。位置関係や会話の内容まで合わせたらしい。義堂は覚えている限り可能な限りの再現を試みたわけである。

 義堂が消えたその場で起きたこと。そのすべてを、私はおろかその場にいたひとたちでさえ正確に認識することはできない。誰もが、何が起きたのかを理解していないのだ。私はサンコからことの流れを聞いたけども、サンコだって、なにも分かっていないようだった。真由子が消えたときと同じだった。ただ消えたのだ。

 五人は本堂の中に入っていった。高島・朝倉・義堂はそれぞれ本人の「役」を。サンコは真由子で、もう一人の誰かは私のポジションについた。

 サンコが義堂に指示された通りの台本(このあたりに義堂の迷走っぷりがよく現れている)を呼んで、真由子を演じた。あのとき真由子は一人、「つかれた」とか「(鹿が)臭かった」とか、そういうことをぶつぶつと言っていた。きっとそういう感じのことをサンコもやらされたのだろう。わたしは自分が経験した東大寺での様子とサンコの話を重ねながら想像した。高島や朝倉といった連中が、薄ら笑いを浮かべている。義堂は大仏の座する台の装飾を睨んでいる。私は彼女をずっと見ていた。

 そこで真由子が言った。「大仏の鼻のおくにひとがいる」と。

 ただ今回はそうはならなかった。真由子役のサンコがそれを言う直前、口を開いたのは義堂だった。

「ああ、いた。ほんとにいたんだ」義堂は言った。

 その場いた全員が、真由子のあの言葉を直接聞いたか、あるいは人からその話を聞かされていたかした。つまり全員が義堂の言葉の示すところ――すなわち「鼻のおくにいるひと」のことを知っていたので、すぐさまほとんど同時に、顎をそろえて上げて、大仏の鼻の穴を仰ぎ見た。そしてやはり、そこに何もいないことを認めた。何かを思い出したかのように義堂の立っていた場所に視線を戻したときには、彼女は消えていた。義堂の名を呼ぶものはいなかった。ただ皆が、きょろきょろとあたりに視線を巡らせて、どうやら義堂も、真由子同様に消えてしまったということを見合わせて確認したとのことだった。

 そのあとは真由子のときの変わらない。探して、見つからなくて、手続きが始まる。奈良県警は、前回と関係者が同じこともあってこれら一連の出来事は暇な大学生のいたずらではないかとも考えたようで、今回の四人にかなり詰め寄った態度をとったらしいが、当然、彼ら彼女らに何か明確な説明や、あるいはたわけた計画の暴露などができたわけがない。

 そこに残ったのは、どこまでも残されたものたちだった。なんの事情も、理由も告げられはしない。そこには必要も偶然もない。選ばれたのは真由子と義堂のみであって、全ては他の人間にはなんにも分からないようにできあがっている事象だった。私も分からない側に含まれる。我々には資格がない。私にはそのことが痛切に思われる。私は遠い。彼女から遠い。

 義堂失踪の知らせを聞いた初めの晩、もう寝るというところ、布団に入ってうとうとしているときに、なにか堪えきれないものが起き上がって、私に何かを訴えた。私は枕元の携帯電話を取り出して、義堂にメッセージを送った。

 〈どこにいるの?〉

 返信は当然ない。彼女がメッセージを開いたことを示す「既読」の文字も表示されない。だよね、と息を吐きだすと、眩しいほどの光を伏せてもとの場所に置く。布団を引き上げて、眠るために眠ろうとする。


 私の精神はいたって通常のかたちを崩すことなく呼吸を続けた。

 夏休みになると、私は高島に告白されて付き合い始める。しかしクリスマスまでには彼と別れて、そのまま私は大学を出るまで恋愛関係をつくることはなくなる。ときおり、義堂のことを思い出すけれど、彼女のこと、その思い出が私の心を危うい場所に追いやることは一度もない。あれだけ義堂義堂と思っていたというのに、いざいなくなると、いなくなっただけの世界が進行するのでしかないらしい。なにか特別なことが起こるような気でいたその四年間は、同じ事の繰り返しで過ぎ去っていった。その長いようで短い時間のあと、結果として、私は大学を卒業したあとの道を定めないまま、実家に帰ることになった。就職のためにあちこち歩き回ったり、なにかしたりする気には全然ならなくて、不思議なことに――ほんとうにまったく不思議なことに――私はここにきて無職になった。大学生でなくなった私はニートになる。思っていたよりも、そうして自分の存在を誰にも説明できないという宙ぶらりんの状況が居心地悪いのだと知った。他の人間が私のことをどう思おうと、そんなことはどうでもいいはずが、わりとそうでもない。食べてるとそういう不安が、一時的にでもましになることに気付いて、私はよく食べるようになった。当然、やや太った。

 私が就職活動に手を触れないままで生きていることに気付いた友人たちは、三年生の終りから徐々に私と距離を置くようになっていって、最後に残ったのはサンコだけだった。彼女は地元の市役所の職員の肩書をあたりまえのように獲得していた。大学の間につき合っていたあの「お似合い」の彼氏とは別れて地元に帰るらしい。とにかく、大学に入ってから私と繋がった連絡先のうちで生きているのはサンコだけだった。たまに連絡をとると、「仕事は楽だと思ってたら、大変だったよ。でも慣れたら平気そう」とか、「まぁてきとうにやっている」とか、曖昧で彼女らしい返事が来る。きっと彼女のことだからうまくやるのだろう。そのうち結婚して仕事を辞めて、お母さんになるのだ。彼女にはそれがふさわしい。息子か娘は、きっとそこそこの大学に入って、お母さんと同じようにうまくやるようになる。たぶん。

 彼女は私の先行きに友人らしく心を割いてくれているようで、「そっちはどうしてるの」とか、「しばらくは遊んで暮らす気なの」とかいう質問を飛ばす。私もどうするのかなんか決めてないので「まぁそんなところ」と返す。近況報告が済んだら、「また近いうちに会いたいね」「そうだね」なんてことを言って、やり取りが終わる。サンコが本当に私とまた会いたいと思っているのか分からない。私は、彼女とまた再会するということを考えると、少し気が引けるような思いがする。

 私はとりあえず半年そのまま生きた。すると、気が変になった。自分の将来には、なんら希望がないのだという観念が日頃から頭をちらつくようになって、それが私の頭の内壁を、ごつごつと打ち続けた。一週間単位で、すぐに太ったり痩せたりするようになった。それらは私の意思ではコントロールできない変動だった。夜更けまで起きて、朝寝る生活が続いた。すると月経のリズムが著しく乱れ、頭痛と吐き気が日常的にわたしの隣に座るようになった。いつも寒すぎるか、あるいはのぼせるくらい暑い場所にいる気がした。いよいよ人の視線が気になって、外出を避けるようになった。卒業しばらくは日常的に行っていた散歩は、打ち切らざるをえなくなった。酒を飲むとよく眠れることに気付いたのだが、早々に母親に取り上げられてしまった。残念だけれども、彼女はとても正しいと思う。

 ある日、久々に大学の頃の同級生の高島から連絡を受けた。彼が今何をしているのか、私は知らない。近況報告。今どういう仕事をしているのか、私生活はどうであるか、そういう質問がやってきて、「ニートです」と文字を送信すると、ぷっつり連絡が途絶えた。それが決め手かどうかは分からないが、そのすぐあと、死ぬということが私の選択肢の中にふわり舞い降りる。このことはそんなに驚くべきことでも、恐るべきことでもないような気がした。自然だった。死んでもいいのよ、と。あるいは、死んだほういいのよ。と誰かが私に囁いていた。まだ大丈夫でしょう。と私が彼女に言うと、彼女は問う。

 ――なら、いつまで? 私は答えない。


 死をなんとかやり過ごして回避するのが、私の生活の目下最大の仕事になった。その声を無視して、耳を塞いで生きるのは、少し難しい。死はいつの間にか私の思考の中に滑り込んでいて、あらゆる論理帰結その終点に自身を挿入する。今の私には生きていることはどこまでも苦痛であって、それなら死ねばいいという考えは、かなり致命的に響くのだ。魅力的でさえある。私のなかにある私の知らない何かは言う。

 死んでいい。死んでいい。死ぬのも悪くない。死んでみたらどうだろう。みんな死ぬのだ。みんなと同じだ。いつか死ぬのだ。早めに済ませるのも悪くない。……

 少しずつ、私はその手段や、そのときの感覚について思いを馳せるようになった。高いところから飛び降りたり、首を吊ったりするのは怖いから、薬を使うことを考えた。オーヴァドーズによる死。妄想に浸る。私は小瓶に詰まった白い粒を、たくさん飲み込んで横になる。死んでからの処理を考えて、胃や腸の中をなるたけ空にしてから、それをする。死んだら筋肉が緩くなって、中身が漏れるというのを聞いたことがある。自分が死んだ先の世界のことを心配するのは馬鹿げているように思えたけど、それは実際のところ、死ぬ前の問題でもあるのだ。私が、汚物にまみれて冷たくなっていくのを、自分の未来のかたちとして認めたくないこと、おそらくボディを発見するであろう両親が、悲嘆に暮れながらそれらの汚いものを処理するという悲劇を回避したいということ、それらのことは、死んだ後の問題ではなく、今の私の問題だった。私が思い当たる、今の私が考慮するべき問題なのだ。

 薬を飲み切った私は、自分の手足が柔らかく痺れはじめるのを覚える。本当にそんな死に方をするのか知らないけど、とにかくそうなる。あんまりうまく動かないようになる身体の部分が増えていき、自分の量が減っていく。動かなくなるところは、もう死んでいて私ではないものになる。物質としては結合していても、そこに私の感覚や意志の介入はない。やがて冷たくなっていくことが、もう決まってしまった部分。それは私ではないのだ。手足のような末端から、私でない部分が迫ってくると同時に、頭の中がじんわりとした鈍さで満たされ始める。頭痛のようでもあるし、快感のようでもある。どこか温かいその感覚が、私の意識を少しずつ小さくしていく。まどろみに似た感覚だけど、やはりそれとは決定的に違う。不可逆の予感がある。取り返しのつかなさ、そのお知らせのようなものが、どこかで小さく聞こえる。――もうここまでですよ。引き返せませんよ。いいですね。問題ないのですね。と問いかけられるような。私は沈黙を以て応える。もういいです。

 そうして死ぬ。感覚も意識も消えて、なくなる。思うとか感じるとかいったものが失われて、生まれる前の、何もないところに引き戻されて、そして永遠。私は想像もつかない無になる。安らぐとか苦しむとか以前の、全部がなくなる。それも悪くないのだろう。

 そして私の死の妄想の最後に現れるのは、大仏だった。その座る仏像は鈍いこがね色をしている。苦しむ衆生を救いに来たのではないらしい。それはただある。私をここで救ってくれないなら、私の妄想にまで侵入してくるその意味は? と思うけど、大仏は私の問いには答えない。半分寝ているような表情のそれは、私を見ている。「わたしには何もかもわかっていますよ」とでも言いたげに。私は特にどうとも思わない。でも大仏が出てくるのには意味があるはずなのだ。私の妄想の最後に、大仏が現れるのだから。死のあとにこれがやってくることには意味がある。おそらく。


 死ぬことについて考えたり(そして最終地点で待っている大仏を見て帰ってくる)、あるいは何も考えないでいたりしながら、とりあえず命だけは繋いで時間をなぞっている日々の、そのとある夜、私は部屋の片隅で、ちかちかと小さな光が明滅するのを見つけた。

 私はそれを見つめていた。小さな星のような、青い光が部屋の闇の中で点滅する。それだけが、死んだ時間の中で動きを持っていた。一つの定められた時間をおいて、瞬きを繰り返している。目を閉じると、それは消えた。でもそこにずっと残っているのは分かっていた。目を開けると、やはりそこに残っていた。私はどこかにもたれていたか、寝ているかしていた身体を起こして、光に近づいていった。それは携帯電話の明かりだった。充電コードに繋いだままのものが、ごみや脱ぎ捨てた衣服に覆われて行方が分からなくなって、どうせ誰からも連絡は来ないので打ちやっていたのだが、それがいま光を放っていた。

 手に取った。コードを抜く。懐かしい感触だった。長い間ずっとこれを握りしめて生きてきたのを思い出した。重さも肌触りも、その機械が私に見せつけるもの全てが、遠い昔のものになっているのに気づいて、私は深く息をついた。義堂が消えて、もう何年も経っていた。

 私はあんなに好きだった友だちをなくして、それからこれまでの時間たっぷり全部を、自分をくたびれさせるのに使ってしまっていた。

 画面をオンにする。機械的な、著しく眩しいあの光が私の目を焼いた。私は目を細めてそれに応じる。画面には電子メールの受信を示す通知が現れていた。メールの受信時刻は、今から一時間も前のことだった。そのメールにはタイトルもない。送信者のアドレスはランダムに構築されたらしい、意味をなさない英数字の羅列だった。どこまでも匿名的なメールの、その本文は、とても短いものが一つ。

 〈いつでもどうぞ。〉

 ぐらりときた。頭の後ろを、がつと殴り飛ばされたような気分になった。それから、その短い文章にとてつもない感情が込められているのがわかった。まるで私の死を誘っているみたいだ。なら死のうか。そうとも思った。どうやらいつでもいいらしい。どこの誰が言ってるのか知らないが、私が死ぬことについてはもう準備はできているらしい。

 いよいよなのか、そう思うと、身体の力がふうっと抜けていって私は部屋の床に崩れ倒れた。暗い部屋の天井を、死を勧告するメールの光が照らしていた。これまで自殺を選んできた人間には、もしかするとこんな風にメールが届いたのかもしれない。死にたくても、なんだか死ねないところに、誰かが、そっと囁いてくれるのだろう。いつでもどうぞ。

 私はどこにも行かなかったな。そう思った。ずっと同じ場所に居続けたような気がする。私はこの部屋から一度も出なかったのではないだろうか。ずっとこの部屋で何かを待っていた。何度かその何かについて歩いていくチャンスがあったけど、私は自分からそれらを捨てたのだ。そしていよいよ、どんづまりなのだろう。いつの間にか袋小路のようなところに入り込んでいる。引き返そうとしても、もう足は動かない。どこにいったって、何にもないのだ。そうとしか思えなくなっている。ここまで来るのに、何かを選んだつもりも、自分の足で歩いてきた意識もない。ただ時間が過ぎていくのに任せていただけで、私はこんな場所に運ばれてしまったのだ。あるいはそれは当然の成り行きなのかもしれない。何も選んでこなかったし、自分の足で歩いてこなかったから、こんな場所に来てしまったのだろうか。そちらの方が説得力のある話だった。自明に私の人生はそういうものであるような気さえした。心残りみたいなものはあまり思い浮かばなかった。人生のなかでいつかはすると思っていた幾つかのことをしないまま死ぬわけだけど、それらのことはまったく私をこの時間と生に引きつけようとはしなかった。私さえもその気なのだと思った。死ぬときはこういう感じなのだろう。

 ぐーん、と身体が重くなる。魂と肉体のつながりが切れてしまう感覚。そんなものは実際にはないのだろうけど、とにかくそうとしか形容できない。私の身体とは別のなにかが、生きていることから離れようとしている。私を構成する血と肉と骨とそして温度で作り上げられたシステマティックな部分の働きを諦める停止が、私の中で生まれている。

 力が抜けていく。だらりと手が床に垂れる。力が入らないのではない。もう力を入れようなんて、思わないのだ。そんな必要さえ感じない。あらゆる維持を試みる力が私の中からだらだらと垂れ流しになっているのが分かる。これが全部流れきったら死ぬんだと思った。待っているだけで死ねるのだから、かなり楽だとも思った。視界がぐぐ、と狭くなって。目を開けていても、ほとんど真暗しか見えない。いつの間にか小さな耳鳴りが聞こえている。ぴいい――。途切れることなく続く。漏れ出しているなにかで私の身体が全体的に濡れている。とくに背中が、床を伝ってじわりと温い。気付くと私は、白くて病的なまでに清潔なベッドの上に寝かされている。身体があんまりうまく動かなくて、目だけを動かしてきょろきょろして、ようやくそこが病院らしいことを知った。身体のあちこちに管が繋がっていて、なにかメディカルな複数の液体が私の体内に注がれていた。照明がやけに眩しくてうざったらしいけど、私はただ目を瞑ることしかできない。薄い瞼を光線が貫通して瞳を焼いた。ぎこちない首の動きで、なんとか光から逃れようと努めるけど、うまくいかない。ずっとうっとおしい。妙に鋭い痛みがある左腕に目をやると、白いバンドでぐるぐる巻きにされている。しくしくと痛む。どうやら手首の血管を自分で傷つけたらしい。いつ自分がそれをしたのか憶えていないけど、かなり致命的な深さで、それをやったようだ。そして失敗した? 多分母親が私を見つけたのだろう。案外死なないものなのか、それとも運が悪かったのか、とにかく死ななかった。それは嫌なことだと思う。

 広い相部屋病室なのだが、そこには私以外の人間はいない。マットレスだけのベッドが並んでいてがらりとしている。病院として機能している空間は、私のベッド周りだけのようだった。両親も看護師も私の枕元にはいない。いなくてよかったと思う。昼か夜かも分からないその部屋の中で私は眠ろうとした。眠っている間だけは、楽に時間が過ぎる。考えないでいい時間がやってくる。悪夢を見ることもあるけど、意識の中で倦怠感ともじもじやるよりずっといい。いつの間にか、時間が過ぎて、死に近づくことができる。絶対的に限られた時間の終りに、楽に早く近づく方法が、眠ることだと私は考えていた。しかし眠れなかった。明かりが眩しすぎる。天井に埋め込まれている電球がぎらぎらと焼きつけるように光を放っていた。その明かりは不思議なことに、目を閉じているあいだの方がより眩しく輝いて、私を苛立たせた。そして目を開けると、照明として一般的な程度までの役割を取り戻す。眠ろうと目を閉じると、また悪意に満ちた光を私に差し向けようとしてくる。私はまた目を開けた。すると、穏やかな明かりが私の身体を照らしているのが目に入る。いくつもぶら下がっている点滴の袋その中身が、明かりをプリズムの代わりになってきらめかしていた。

 相変わらず身体がうまく動かない。おそらくこの点滴のせいだと思って、なんとか右腕に刺さる針を抜いてやろうとするけれど、やはりうまく手を持っていけない。簡単なテープでぴったり貼り付けられたその管の先端をずっと見つめていると、筋肉の具合か、ぴゅっと針が飛び上がってテープごと飛んでいった。針が刺さっていた場所は少し赤くなっていた。外れた針は床の上をぷらんと揺れていて、銀色の細い先からは、透明な液体がぽとぽとと垂れて床に水滴を作った。それを眺めているうちに、私は自分の身体がうまく動き始めるのを感覚した。

 布団を押しのけて、身体を起こした。私は白くて薄い病院着を着ていた。身体の他の穴に差し込まれている管は、引っ張ると全部抜けた。ベッドから降りると、冷たい床の感触が私の裸足の裏を走った。ぺたぺたと歩いて病室の入り口、大きい引き戸をがらり開けると、廊下は真暗で、どうやら夜中らしい。少し考えてから、私はその闇の中に踏み出していった。


 廊下には足元のフットライトが等間隔に機能していて、おおむねの壁の位置くらいは分かるようになっている。でもやはり暗すぎるので誰かが向こうから歩いてきたりしても、目の前に来るまで分からないだろう。私はそういう廊下の真ん中を歩いている。壁の両側から足元に向けて淡い明かりが広がっているけど、廊下の真ん中は闇に閉ざされている。光が届き切っていない。病院らしい、薬品のあの匂いはしなかった。私の乾いた足の裏と床のリノリウムが接触してぱちぱち音が鳴る。

 真っすぐに続いている廊下は、途中で右に折れていた。その曲がり角で身体を回転させて、次のまっすぐに向き合ったそのときに、身体が何かにぶつかった。暗いので、何が私にぶつかったのかは、分からない。「おっと失礼」誰かが言った。

 遠ざかっていく足音が聴こえる。私はしばらくそこに立ち止まっていたけど、それっきり、何かが私にぶつかったり、話しかけたり、ぶつかったことを謝ったりすることはなかった。私はまた歩き始めた。少し経つと、今度は後ろの方から、軽くて回転の速い足音が駆け寄ってきて、そのまま私を過ぎ去っていった。私には振り向くひまさえなかった。そのまま前方に走り抜けていった足音には、からころと跳ね回る子供の笑い声のようなものが混じっていたような気がした。闇のなかに何かいるようだが、私も同じくしてその中にいた。

 しばらく暗闇の中を歩いていると、下に降りるための階段を見つけた。フットライトの橙がこれまでとは違う軌跡で並んでいる。私は手すりを掴みながらそこを降りていった。

 その時間と場所は、どうにも分断の中にあるようだった。私はその中では死に対して直截的な引力をもはや感じていなかったし、それ以上に私をひっぱるものがどこかにあることを思い出しながらも、そしてそれを予感していた。私はそれに向かって歩き続ければいいことだけが、黙示的で全体的な確信としてあった。

 階下には大きく開かれた玄関があって、簡単に病棟の外に出ることができた。星のない夜空の下、がらりと人気のないタイル張りの長い道がある。その両側には、葉を脱ぎ棄てた寒々しい並木が高くそびえていた。その道のなかほどまで来たところで、私はなんとなく空を仰いだ。暗い木肌の枝たちが闇の上を錯綜して私を見降ろしていた。ざわ、とそれらは私を噂するように身体を揺らしてがなりはじめた。風もないのに彼らは自ずから身体を震わせて、共鳴をするかのようにして、ざざざと耳障りな音を発する。

 その誹りに、私はどうにもいたたまれなくなって歩き出した。足早に道を進んで、さっさと病院の敷地から出てしまった。出てしまった瞬間に、それがおそらく私にとって正しい選択であったということに対する奇妙な確信が芽生えた。ふと振り返ると、背後にあった建物はすっかり更地になって消えていた。夜闇がそのままべたりと塗りつぶされた空と、砂利砂だけのくすんだ地面。その荒廃した禿げ土地は私に、激しく凍てつくような印象を与えた。私はさっきまで無のなかをさまよっていたのだろうか。しばらく病院の跡地を見ていたが、そのままにしていると今度こそ完全にこの場所に囚われたきり戻ってこれないような気さえしたので、私はどこともなく歩き出した。そこから離れなければならなかった。

 病院跡地沿いの道というのは、近代的というか、あるいは現代的でさえある石積の歩道になっている。私は病室を出て以来の病院着にあわせて素足という奇妙な格好で、それを奇妙とも思わす温い地面を踏みしめて歩いていた。相変わらず夜空には星も月も見当たらない。街灯が道を照らすけれど、それらはあまりにも頼りない光量しか持たなかった。光の具合からいって、それは確かに先ほどの病院の廊下の方がずっと少なく、闇という意味ではあちらの方が濃厚なものだったのだが、私が感じる不安や恐怖は今のこの夜道においてのものがはるかに凌駕していた。その道のさなか、私は時折、ありうべかざる恐怖に中てられてほとんど悲鳴のような声をあげて振り向くのだが、そこには何もいない。胸の早鐘を感じながら、なんとか息を整えようとする。一瞬前には後ろに何ががいて私になんらかの悪意を差し向けていたことは明らかなのだが、それは決定的な瞬間を私に与えようとは決してしない。私は恐怖の限界の度にその超過分を身体的に表すのだが、それは一切の解決をもたらさない。恐怖は一時的に目減りするだけで、すぐさま器は、耐えがたく冷たい液体で満たされ始めた。そして溢れる。悲鳴。もう一度。

 揺れる恐怖に満たされた器を抱えて、私は歩み続ける。背後から私の足音に合わせて、別の足音が聴こえる。一度だけ、すん。と男の鼻をすするような音がする。目のすぐ横を、白い何かが横切る。私は予感する。そしてそれが起こる。

 肩をむずと掴まれ、それに振り返るとなにやら人のようではあるものの、どこか造形の歪んだ気味の悪い男が笑ってそこに立っている。「なんですか」と私が問うても、それは答えない。ただ笑っている。ぶらりと左右の長さが違う腕を垂らして、肩だけを神経質にぴくぴくさせながら笑う。それは奇妙な声を出す。「あゥ。あゥ。あゥゥ」私にはそれが邪悪なものであることがなんとなく分かっている。だから逃げたいと思う。でも逃げようとすると、それはさっきからの不気味な笑みを取りやめて、今度こそ人間的なバランスを完全に崩してしまうくらいに、顔を激怒の色に染め上げる。ぴくぴく震えていた肩は、天から糸を引いているようにぴんとつり上がっている。それの人間にはあり得ないくらいに歪み剥かれた口からは、狂人の呼吸が「はふ、はぅ」とひっきりなしに吹き出している。私がついに耐えきれなくなって駆け出すと、それは少年のような声で叫び声をあげて、私よりもはるかに速い速度で追いかけてくる。私はすぐに捕まってしまう。それは私を捕まえると、また満足したようにして「あゥ」と笑い出す。私も笑う。少しだけ離れると、それはぴくぴく笑いながらついて来る。私に逃げ出す気が無ければ、どれだけ離れても笑っている。私が待つことを知っているのだ。でも私がひとときでもこのまま逃げ出すことを頭に浮かべたとたん、それはまたあの怒りの顔をむき出しにして、猛烈に咆哮しながら駆け出す。それは許さない。それは、私が逃げ出すこと絶対に許さないのだ。それはわたしのことをそれのものだと思っているし、そうであることにこの上ない価値を見出している。それは私を失うことをひどく恐れている。それは私に黙ってついてくる。ほかにはなんの障害ももたらさない。ただ私の後ろで、ずっとぴくぴく笑っている。私に話しかけたりはしないし、私に応じようともしない。初め私の肩に触れたが、それ以来は私に指一本ふれようともしない。ただ私に笑いかけている。それと私の間になにか共有できるものがあって、そのことがそれには嬉しくてたまらない、とでもいうような感じにそれは笑っている。まるで、捕まえた昆虫を母親に見せつける子どものように。

「お前、気持ち悪いんだよ。人間じゃないんだろ。化け物みたいな顔してるじゃないか。私に付きまといやがって、なんだよその顔。なにへらへら笑ってんだ。私がお前を受け入れるわけがないの、わかんないの? お前みたいな気持ち悪いやつは、ずっとひとりぼっちだよ。醜くくて、頭も悪いのか。死んじまえ。お前なんか死んでどっかに消えちまえばいいんだ」

 私は腹の底から突如として産み出された言葉たちをそれにぶつけた。それは初め、私の言葉を相変わらずぴくぴく笑いながら聞いていたけど、次第に私の持つ感情の色を理解したのか、醜い牙を剥きだしにして唸り始めた。私もその怒りを写し取ったようにして語気を強めていく。言いたいだけ言ったあと、私はそれに背を向けて歩き出した。それは、これまでと同じように、「ウワァオー!」と叫びながら私に駆け寄ってきたが、私はそれを突き飛ばしてまた罵声を浴びせる。私の腹の底にこんなものが詰まっていたのか、と自分でも驚かざるをえないほどの叫びが口からどぼどぼと溢れ出して、それを穢した。やがて、それは怒りの表情を残したままに、私の顔を見つめたままに少しずつその色を失っていって、ついにすっかり見えなくなって消えた。

 それが消えたあとも、私は妙な苛立ちのなかにいた。その感情を抱えたまま私はあてもなく夜の道を歩いていた。どこまでも続く歩道と、必要程度に著しく欠けた街灯。恐怖は過ぎ去ったが、私の中にはその根源でもあったのか不安は強く残っていた。

 私は大きな河にたどり着いた。河というより、街中にある運河というような雰囲気だった。コンクリートによって近代的な護岸が行われている。闇を映した濁水がゆれて、小さな音を断続的に聞かせた。私はその運河沿いに歩き出した。水の流れと同じ方向に向かって歩く。しかしこのまま歩き続けて海に出るとは思えなかった。ちゃぷ、と軽やかな音が聞こえ続けていた。私はそれを聞いて、すぐそばに水が流れていることを改めて知る。街灯は先ほどにも劣るほどに光を損なっていて、ほとんど何も見えない夜道を行く。

 突如、河の水音がざぶ、という大きく太いものに変わる。私はその音に戦いて河の方に目をやるけれど、闇は深く何がそこにあるのかは分からない。ただ大きな影が河から飛び出ているのだけが感じられる。その影は、大きな呼吸の音をぶしゅうと響かせて、また川の中に潜っていった。ほとんど一瞬でそれらの出来事は終わった。その巨大な何かがまた深く暗い水底に潜っていくときの飛沫が、私の頬を少しだけ濡らした。私は河から少し離れて歩くようにした。いつさっきの巨大な何かが水面から頭を出して、私を冷たい水の中に引きずり込むか、分からないからだ。

「ねぇ」ふと呼ぶ声があった。私はその主を探した。

「ここです。河の中ですよ」男の声だった。その声は河水がさらさら流れていく音の中で浮かんでいた。私はおもむろに河に歩み寄って、声を探した。「どこですか。誰ですか」私は聞く。

「あなたの足元近いところの水面から顔を出しています。あなた見えますか」声はそういうけど、私にはその男の顔は見えない。ただ確かに足元、下の辺りから声が響いてくるように聞こえる。その声はどこかで聞いたことがあるような声だとも思えたし、あるいはどこでも聞くことができるような平凡な、よくある声だとも思えた。

「あなたどうして来たんですか? なぜここに」男は続ける。「あなたがここに来るとは、思っていなかった。あなた、ここからうまくやれますか。それは難しいことですが」

 男の言葉はその意味するところを、私に的確に伝えられていない。「ここはどこですか」私は彼に尋ねた。

「あなたは戻りたいのでしょう。なら、この河を泳いでいくんです。私も途中までご一緒できます」

「河に入るのは無理です」

「なら歩くしかない。でも、歩きだと遠い。とても時間がかかります。時間がかかりすぎるから、着くこともできないかもしれない」

「でも、その河の中には何か大きな生き物がいますよ。私さっき見たんです」

「ええ。います。とても大きなものが。あれはあなたを一飲みにしてしまうかもしれません。それでもあなたは、戻りたいのなら河をいくしかないでしょう」

 河の流れの音や、それがコンクリートの壁を打つのとは少し違う動きの音がした。暗い水面で、何かが動いているのが見える。「あれ、見えますか。あそこに河に降りられるようになっている階段があるのですが」どうやら、水中から腕を出して、指さしているらしい。私は少し歩いてみる、すると河沿いにずっと続いていた簡単な柵の向こうに、彼の言うようなコンクリートの壁が階段になっている部分がある。階段の終りはそのまま、河の水面に繋がっていて、水に沈んでいた。水面に近いところは、なにかぬるぬるした苔のようなものが生えている。男は言う。

「どうぞそこから降りてきてください。あとは流れに沿って泳げばいい」

 水面は小さく揺れている。私はそこに足を踏み出していこうと思うけど、水の中に棲んでいる大きな何かや、この河そのものの汚らわしさのせいで気後れしてしまう。暗い水の中には、恐ろしいものと汚いものが一緒になって潜んでいる。

「やめておきますか。あるいはその方が幸せかもしれない。よいことと幸せなことは、似ているようだけども、決して同じ場所にあるわけではありません」闇の中から男が言った。

「その河に入っても、私は幸せにはなれないということですか?」

 男は答えなかった。そして言った。「私はもう行きます。もしあなたが行きたくなったら、この河に入って流れに沿って進んでください。それで着きます。こちらも遠いかもしれませんが、必ず着きます」

「着くってどこにですか」

 やはり男は答えなかった。そして男の気配が、闇の中から消えた。男はもう先に泳いでいってしまった。私はしばらくそこに立ち尽くした後に、そのぬめりのある黒い水の中に足先を浸して、少しずつそこに入っていった。

 冷たい水の中に肩までつかっても、私の素足は水底には触れなかった。水面と同じ高さになった鼻が水の匂いを吸い込んだ。泥臭い匂いがした。私はそれにむせかえった。でも大きく呼吸はできない。水を飲みこまないよう、頭だけは水面上に出るように手足をばたつかせて泳ぐ。冷たいものが私の身体中を覆って、固く凍えさせていった。そのせいで、肺はひどく縮こまってしまって、私の呼吸を邪魔した。細かで不十分な息が水面を何度も撫でる。

 河に入って分かった。そこから見るものほとんどは闇だった。わずかな白い明かりが、さっきまで私が歩いていた道の方か流れ込んできている。だがそれは、ここまでの道中のどこにもまして、心細いものだった。闇の中でわかるのは、私はどうやら水らしい冷たいものの中に全身を浸らせていることのみである。河底はどこまでも深い。私が足が触れないということは、そのまま水深は無限に到達することになる。水はただの水ではなく、何かの澱みや、廃棄されたもののせいでずるずるに汚れてしまった水である。重く臭い水を掻きわけるたびに、それは私の肌をぬるりと触っていく。髪がその汚れた水を吸っていくのが感じられた。

 河には流れがあって、水の中に浮かんでいるだけでも私は少しずつそれに流されていくことになる。河の水に入ったことについて私はそれに慣れるためにひとつひとつの感覚と対面していたのだが、それらの最中にも私の身体はあの河に面した階段から遠く流されていた。もう泳いで戻ろうにも、その流れに逆らっていくのは不可能だった。流れを行くしかなかった。

「よいことと幸せなことは、似ているようだけども、決して同じ場所にあるわけではありません」男の言葉が私の中で反復された。男はもういない。

 

 私はその河を泳いで進んだ。流れに任せていけばいいので、普通に泳ぐよりかは幾分楽だった。ただ水が冷たく重いので、そのことが私をひどくくたびれさせた。泳いでいる、あるいは流されていると、ときおり、私の頭を大きく超える波がざぶと私を覆ったりした。私は頭から水を浴びせられて、水を少し飲み込んでしまう。そんな大きな波は、この河の普通の流れでは起こらない。あれが、あの大きな生き物が、河底から私にごく近いところにまで浮上してきて、この波を起こしているのだ。それがある度に、私はいつかあれに飲み込まれてしないだろうかと身を震わせた。そんなふうに恐怖していると、ふと何か大きなぬるりとしたものが足に触れたり、また手の小指に鋭い痛みが走ったと思うと、そこに硬い甲羅を持った小さい蟲が噛みついていたりした。河の中には私以外のなにかがたくさんいて、それらは私に関心を持っているのが分かった。

 長く水の中を進んだ。河はときおり大きく曲がりくねるけど、ずっと一本道で流れている。分岐も流入もない。だが少しずつ、その幅が狭くなってきていることに私は気づいていた。そして私が河に入ったときからして、半分くらいの幅になったそのとき、流れの先が地下に潜り込んでいるのが、闇の中に見えた。河は暗渠に接続していた。

 あのなかに私も這入っていくのだろうか。私は何かに掴まって少し流れをやり過ごそうとしたけど、私を引き留めてくれるようなものはどこにもなかった。流れを遡って泳いでいく分の体力はなかった。みるみるうちに私は暗渠の闇の中に飲み込まれていく。わずかな街灯の光が、今度こそさっと消え去る。完全な闇のなかで、水の流れる音だけがする世界に私は運ばれていった。

 そこでは天井が低く私の頭上に迫っていることが感じられた。息苦しい。空気は淀んでいて、先ほどよりもずっと湿っている。黴や泥、濁水、そしてなにか生き物の匂いがする。河の流れは速くなっていて、私は、自分がかなりのスピードで暗路を流れ抜けていっているのを感じていた。音が激しくなる。河の大きな流れはいつの間にか、小さな、制限された水路に凝縮されていって、運ばれる水が加速している。あまりにも暗すぎて、わたしはもはや周囲の様子を音からしか判断できない。冷たい水が何か連続して擦れあう音が常に聞こえる。耳が水面に浸かるたびに、がぷ、と小さく大きな音が弾ける。自分が浸かっている水がどんとん冷たくなっていくのを感じていた。手に、ぬめりのあるごみが引っかかった。それは猛烈な悪臭を放っていた。ある程度の連なりがあって、どうやら一つのものらしいのだが、決まった形はもたない。同じように流れていた私の手にたまたま絡まりついたようだった。真暗なので、それが一体何なのかはさっぱりわからない。ただ臭くて、不気味な感触をした何かだった。水面下で手をすすぐと、それはどこかに沈んでいって消えていった。手には臭いは残らなかった。

 光がないのでどれほどかは分からないのだが、天井がどんどん低くなっているような気がしていた。水はますますその冷たさで私の身体を締め付ける。濁った、よくない臭いがしばしば私の鼻腔を突いた。流れはまだ加速を続けている。少し速すぎる。水の音が激しいものに変わっている。遠くで水の塊が落ちて水面を連続で打ち続ける音が聞こえた。それが落ちる水の、滝の音だと気づいたときには私は宙に投げ出されていた。腹の底が逆転した。逆転していたのは私の頭と脚の上下関係だけど、落下する暗闇の中ではとにかく身体の中の感覚の方が強く感じられた。体感一秒の落下のあと、私は滝壺の中に落ちた。落下する水から、ほんの少しだけ外れたところに落ちた私は、ぷかり浮かび上がって、何とかもがいて滝から離れていった。ごく近いところで激しい滝の音が聞こえるのには、恐怖があった。少し泳いていくと、滝の水煙が頬に当たらなくなった。私は先ほどまでの勢いを死なせた水辺をゆるりと流れていた。暗闇の中にある滝の姿を私は想像した。それはかなりの規模を持ったものだけど、地下水道の中に存在するがゆえに誰もそれを視認することはできない。ただその音を聞いて、それに流されることができるだけの滝。どんな高さで、どんな水飛沫を巻き上げているのかは、誰にも分からない滝、ほとんど誰にも存在を知られていない滝を、いま私は落っこちてきたのだ。

 泳いでいると、水中の足が何か硬いものにぶつかった。私はあの河の大きな何かの歯を想像したけど、それは感触から言ってコンクリートでできた床のようだった。少しずつ斜めにせり上がっているその床に流れに歩き泳いでいくと、やがて水面が少しずつ低くなっていった。そして河は、ついに私の足の裏を少し浸らせるくらいの、小さな水たまりほどの浅さにまで到達し、河としての体裁を失った。水路は、わずかな水の流れを伴った人工の洞穴に移り変わっていた。そこには水の流れと同じ方向に向けて流れる小さな空気の動きがあるようだった。水に濡れた私の肌がその空気の流れを感じ取っている。私はそれらの流れに合わせて、また進みだした。河の男が言っていたことを、私はまだ守っている。河の流れを行けば私は着くことができるのだ。どこかに。

 浅い水の流れを踏んで歩くと、濡れた足音が洞穴の中に響いた。相変わらず明かりのない道が続いている。水路はほとんどまっすぐに伸びている。私は一度も壁にぶつかったりすることなくその道を歩き続けることができた。肌に触れる空気は冷たいけれど、その場所を寒いとは感じなかった。

 どこかで、からん、と小さく硬い何かが転がる音がした。私は足を止めた。足元の水が揺れていた。私は闇の中で感覚を尖らせた。音は少し離れたところでしたようだった。反響した音がやがて小さく霧散していって、消える。「だれか」私は声をかけてみる。不安は水路の中をこだまして、私の知らないどこかに運ばれていった。返事は当然ない。それでも気配はある。さっきの音は確かに存在していた。私は聞いた。聞かせるつもりがあったのかなかったのか分からないけども、あの音はあったのだ。何かが私以外の何かがこの水路の中に潜んでいる。息をひそめている。それでも隠し切れない痕跡が先ほどの音として現れた。

 ずっと何かがいた。病院からずっと、私の近くに私が分からない何かがいた。暗闇のなかのひとびと。狂った男。河の男。水に棲むいきものたち。そういったものら。ただ、今度やってくるものは、はっきりと私を損なおうとしているもののような気がした。水路はこれまで歩いてきたどこよりも、危険な場所である。そういう予感が、さっきの小さな音を聞いて以来、私の意識の中で大黄な部分を占めるようになっていた。

 耳のすぐそばでなにかの息の音が聞こえる。私はそれに身を固めるけど、叫んだりうずくまったりはできない。こちらが恐れを見せたとたんに、そのなにかが私を容赦なく襲うだろうことが、予見されたからだった。そのなにかは、たぶん生き物からもっとも遠いところにある規範で動いているなにかだろう。そう思った。残るとか、続くとかそういう保存の志向からはるかに離れたところで、どんどん減っていくだけの営みのなかにあるものだということが、それの様子から感じられた。それは私がこれまでに感じたもののなかで、一番よくないものだった。息という、生き物のしぐさを真似ているところが一番醜悪だった。私が少し歩みを速めると、それも一緒に動いてきた。息の真似の音が、動いていた。いつの間にか濡れた身体はすっかり乾いていて、背中にはじっとりとした汗の感触があった。ふと自分がまったくの暗闇にいることに気付いて叫びたいほどの狂気の発作に見舞われたが、のどの奥がぶるりと震えるたびに、耳元で続いていた息が、完全に止まるのを聞いて、正気に戻された。

「ああ。ちゃんとここまで来れたんですね」

 前方から声がした。久しぶりに聞いた意味を成す言葉に理解を差し向けるのに、少し時間がかかった。私はその声のことをしっかりと覚えていた。それは河の男の声だった。

「そこにいますか。真っ暗で見えないんです。明かりはありますか」

「私は明かりをつけています。あなたの目が見えないのは、河の水にやられたせいです。河の水はその冷たさを以て、何かを奪っていくんです」河の男は申し訳なさそうに言った。

「でも私は、ちゃんと流れに沿って歩いてきました。あなたに追いつくまでこうして来たんです。方向は間違っていないはずです。あなたが言う通りそうしたんですから」

「ええ、あなたは河の流れに沿ってここまで来ました」

 男は目の見えない私の手をとって、引っ張った。

「どうぞ。ゆっくり行きますので、ついてきてください」

「あの、わたしの頭の後ろに何かいますか。いるはずです。息の音が聞こえます」

「それは、私には分からない」

「ああ」

「ここから先は、道が入り組んでいて分かりにくくなっています。水の流れも分岐しているから、道を知っていないと難しい。私があなたをあそこで待っていたのは正しいことだった」男は歩きながら言った。

 男の手に引かれながら、私は男についていった。男の言うように、その誘導はあちこちで左右に振られた。少しのぼって、地上に出るのかと思えば、長い距離を下った。道は入り組んでいるらしい。男は私を導くために待っていた。そしてそのためにここにいる。

 あの息のような何かの音は、男と会ってからはすっかり消えてしまっていた。それでも、まだそれは私の近いところどこかに潜んでいて、いつでも機会をうかがっているのだろうことがわかる。それはしっかりと私を見つめ続けている。

「あとどのくらいで着くんでしょうか」私は尋ねた。

「私にはわかりません」そう男は答えた。

「着く、というのはつまりどこに?」

「それも、わかりません」

「これは意味があることなんですか」

「それも、わかりません」

「でもあなた、よいことだと言いましたね」

「はい。よいことであることと、意味があることであることは、同じというわけではありません。こちらもまた似ていますが」

 私には男の言わんとしていることの芯がうまくつかめない。

「私は、それらのどちらもが、価値にまつわる問題だと考えています。価値を決める基準は、あなたのものとわたしのものでは異なります。同じ価値を理解しあうことは決してできません。ある意味において、わたしは〈よいこと〉という言葉を軽率に使うべきではなかったのかもしれない。ほんとうにそれがよいことなのか、あるいは意味があることなのかは、本当のところ私にはまったく分からないことなのです。ただこの道を行けば、あなたは戻ることができます」

「戻る、とは、どこに」

 男は答えなかった。なぜ答えないのかと私が聞くと、言った。

「あなたがそれを知りたがっていないからです」

 男は続けた。

「あなた東大寺でみたものを覚えていますか。あのときみたものを、やはり邪悪なものであると思いますか。あれらはいつもわたしたちのそばにあるものです。いつもそばにありますが、なかなか近づくことのできない遠さをもってわたしたちから隔たれています」

 男の手が、ほんの少しだけ強く私の手を握る。

「いま、あれらはとても近いところにあります。隔たりが取り除かれようとしています。ここから復帰することがあなたのすべきことだとして、あなたはそれができますか。一度近づいたそれは、これからずっとあなたのそばに居座り続けることになります。最後に、はじめてそれと手を取り合うことになるまで、これからはずっと一緒です。じつのところ、あなたはもとに戻るわけではありません。もととは少し違う場所に行くことになります」

 男が私の手を離した。私はもう一度、暗闇の中で宙ぶらりんになる。

「復帰するつもりなら、ここからはあなたが自分で志向する必要があります。導かれていくのではなく、自分でそこに向かってください。必要とされるものはそれだけです。あなたは運がいい。そのはずです」

 私は闇に放り出される恐怖に震えた。――待ってください。そう声を張り上げようとするけど、喉からはつながりのない音がぽろぽろと零れ落ちていくばかりだった。

 ふと私は、自分が目を閉じていたことに気付いた。暗闇は、私の瞼の裏側が作り出したものだった。掌でこすると、そこに張り付いた乾いた泥のような感触のものがばらばらと砕けて落ちていった。

 ひらかれた目が見たのは、あれらだった。いつもそばにありながら、なかなか近づくことのできない遠さをもってわたしたちから隔たれているものたちが私を取り囲んでいた。息の模造は、それらが発するものだった。それらは私を見ていた。それらはずっとここまで私を取り囲んで、いつでも私との距離をなくそうと、私を内包し取り込もうとしていた。それは邪悪なものではなかった。ただそのようにあるだけのものだった。

 私は戦いた。身をすくめてそれらをただ見つめた。それらは思惟や意図を感じさせない身体でそこにあって、私を見つめている。それらは細く白い手を伸ばして私の身体に触れようとした。でも少し近づいたところで、それらは遠慮するようにして手を引き戻した。それらは、私には触れられないようだった。それらは息をひそめて待つほかないのだろう。

 もう男はいなかった。もう導きは与えられないのだと、そう示されていた。ただ男が進めと言った水の流れは、依然として私の足元を今にも枯れそうなほどに小さな規模で続いていた。それは先へ先へと続いていた。また一方で、この流れがどこかで途切れても、もう大丈夫だろうなという予感があった。

 私はそれらに囲まれながらも、足元の流れに沿って歩き続けた。進む私に合わせてそれらも動くけど、それらが私に及ぶことはなかった。それらが私を諦めてどこか遠くに行こうとする様子もまた、やはりなかった。ついてくるだけだが、ちゃんとついてきていて、私から目をそらすようなことは一度もなかった。


 水路を歩きながら私は考えていた。私はどこにいくのか。戻るとはどこになのか。

 男の残していった明かりを片手に歩きだしていた。道は何度も分岐し、行ったり来たりを繰り返すことになった。途中で、目印にしていた水流も枯れてなくなった。それでも、私は迷うことはなかった。感覚的に道を選んで、行き止まりになる度に引き返して別の道に入った。たとえ同じ道を何度も通っていたとしても、その可能性に絶望することはなかった。おそらく着くだろうな、という確信だけはあったからだった。それは河の男の言ったことでもあった。私は河の流れに沿って歩いて、その試みだけはやりつくしたのだ。河の流れにあらがったりそれたりしたのではなく、河がなくなるまでちゃんとそれと一緒に歩いてきたのだ。だから大丈夫だろう。それはどこまでも感覚的で、さらに言えば楽天的でもある確信だった。

 たぶん、義堂のところに着くのだろう。私は次第にそう思うようになっていた。この長いく奇妙な旅路は、義堂雷鳥に会いに行くための旅なのだ。そのようにしか、これらの出来事の意味を見出すことができなかった。私の時間の中に、義堂以上の意味をもったものはおそらくなかった。どこまでいっても、どこにいっても、彼女が現れないわけがないのだ。私は彼女に会うためにこの遠さを超えて接近したのだろう。そしてまた離れていくことになるのだろう。我々のこれからの絶対的な関係に、儀式を与えるのだとしたら、それは東大寺がふさわしい。そう思った。きっと彼女は東大寺で私を待っているだろう。そしてわたしに挨拶を交わして、そして我々は別れる。今度こそ分かたれる。一方的な別れになるだろう。なにせ、遠いから。もう遠すぎてそれを分かち合うことはできないのだ。そしてだからこそ、儀式が必要なのだろう。


 そして私は東大寺に到着した。いくつかの巨大な木柱に支えられた大仏殿は大きく門が開かれていているものの、当然そこには私しかいなかった。中央に鎮座する大仏は正面を見据えていた。眠っているようにも見えた。その大きな鼻のなかには、やはりひとはいなかった。空気はひやりとしていた。

 義堂はそこで大仏の顔を見つめていた。私に気づくと、にこやかに手を振った。彼女は私を待っていたのだ。彼女はよく講義に出るときに着ていた濃い赤のネルシャツとデニムパンツという恰好をしていた。その姿を見ただけで、私は泣きそうになった。

「私も驚いた。本当にひとがいたからね。見つけられて嬉しかった」義堂は大仏の鼻を指さしてそう言った。彼女は私には現れなかったもののことについて話していた。私のそばにいるものと、義堂が見たものは似ているようで、同じもののようで、やはりそれぞれにとって違う意味を持っていた。

 私は義堂に帰ろうと言った。そして私は言ったそばから義堂はその申し出を断るだろうなと思った。義堂は断った。

「私はもういいや。マツ、帰るんでしょ。真由子を連れてってよ」

 何が足りないのだろう? 私は、彼女をひどく貶めることをかつて言った。そのことについて彼女に謝った。それは後悔のあるべきかたち、模範的なものとしてずっと私のなかに残っていたから。

 彼女は応答する。――え? ああ。そんなのもういいよ。

「まぁあのときは本気で殺してやろうかくらいは思ったけど、後から思い返せばあれを言ってくれるやつはあんたしかいなかったんだよ。不思議なことに私は全然私自身のことについて目を向けてなかったんだ。自分と申し合わせてそのことは内緒にしてたんだよ」

「じゃあ、じゃあ――、」

 義堂は私を見ていた。私が何を言おうとしているのか、彼女は知っている。私も知っている。彼女はもう、なかなか近づくことのできない遠さの中にいる。そこから私を見ている。だからもう同じものは見ていないし、私を見てもいない。私も彼女を見ていない。私は誰にも届かない言葉を、それをようやく口にできる。

「私よりも真由子がいいの」

 義堂はやはり笑う。そして言う。「うん。だからあの子を連れて帰って」

 私は泣き叫んで、義堂に駆け寄った。勢いのまま彼女を殴るか蹴るか迷って、抱きしめた。義堂は私を抱き返すけど何も言わない。もはやなかなか近づくことのできない遠さの中にいる彼女には、私を見たり私に語りかけたりすることはできない。義堂は泣いてうなる私の頭をやさしくなでる。私がそうしてほしいと思うから彼女はそうする。彼女にはそれができないのにそうしている。もう私と彼女の間にはその隔たりがある。私はそれを知っている。

 私が泣くだけ泣いたあと、義堂は私に「じゃあね」と言って、大仏の裏に回ったきり、出てこなくなった。

 しばらくして、義堂と交換されたもののように真由子がやってきた。彼女は私を見つけると、私の名前を呼んで寄ってくる。

 私は何も言わずに歩きだした。彼女も私についてきた。

 

 東大寺から帰ってくると、わたしたちはまもなく復帰することになるだろう。私は病院かカウンセラーか何かに通いながら就職先を探す。真由子は大学に入り直すのかどうか知らないが、とにかくなんとかやるらしい。彼女のことだから、すぐに戻ってくるだろう。前と同じところに戻れるかどうかは知らない。彼女がもともとどこにいたのかなんて、私は知らない。サンコとはついに連絡が取れなくなる。私が復帰してしばらくしてから、思いついたようにメールを送ったら、着信拒否されていた。そのことで真由子に相談すると、彼女は一言、「サンコちゃんキライ」と子供のようなことを言った。

 わたしたちは今とこれからのことをよく話して、そしてたまに義堂の話もした。

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その遠さ、わたしたちのなかなか近づくことのできない。 @isako

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