第7話『目の当たりにして改めて感じること』

(……朝、か)


 カーテン越しでも分かる明るい日差しを感じ、優人はベッドの上で薄く目を開けた。身体を起こしてベッドから降りると、肩や首を軽くを回して頭を目覚めさせる。

 ここに引っ越してきてからもうじき一週間になる。細かい部分まで含めて片付けも無事に終わり、いまいち違和感が拭えなかった自室の風景にもだいぶ慣れてきたものだ。


 カーテンを開けると、威力の増した強い日差しが肌を刺してくる。外に出ればこれに加えて蒸し暑い空気がまとわりついてくるのだから、真夏という季節は厄介なことこの上ない。今日からバイトも再開することだし夏バテには気を付けないとだ。


「雛は……まだ寝てるか」


 リビングへと移動するが恋人の姿はなく、優人は独り言を呟きながらさらに洗面所へと場所を移す。洗顔を始めとする朝の日課をこなす中、ふと洗面台脇の収納スペースの中身が目についた。

 ずらりと並んでいるのは雛の私物であるスキンケア用品の数々だ。


「色々あるなぁ」


 化粧水や保湿クリーム、乳液、クレンジングオイルなどなど盛り沢山のラインナップ。雛が日頃のスキンケアで色々と使っているのは分かっていたが、今までこうして一覧で見ることはなかっただけに、改めて眺めてみると少し圧倒されるぐらいの物量だ。


 優人も今は雛の自分磨きを見習い、メンズ用の洗顔料やUVクリームぐらいは使うようになっている。それでも雛と比べたらまだまだ序の口だ。

 また数もさることながら、多様なこれらをしっかりと適切に使い分けているというのだから恐れ入る。そうして培われた雛の美貌がどれほど素晴らしいものであるかは、引っ越し初日の夜に、付け加えるならつい昨夜も味わったばかりなので、本当に頭が下がる思いである。


 一番手前に並んでいた化粧水をなんとなく手に取って眺めていると、洗面所のドアが音を立てて開いた。


「あふ……っと、優人さん? お、おはようございます……」

「おはよう」


 可愛らしい欠伸を噛み殺しながら現れ、それからすぐ優人がいることに気付いてうっすらと顔を赤くして口元を隠す雛。

 色々と恥ずかしいところを晒し合った仲ではあるが、こんな風に気が抜けたところを見られるのはまた違ったものがあるらしく、優人は朝から恋人の姿に癒される。


「まだ使ってます?」

「いや、ちょうど終わったとこだ」

「なら失礼しますね」


 洗面台前のスペースを譲ると、雛は額の部分にリボンが付いているヘアバンドで前髪を上げ、蛇口から流れる水で顔を洗い始める。それを終えてタオルでぽんぽんと叩くように残った水分を拭うと、次に優人が手に持つボトルを見て片方の眉を持ち上げた。


「私の化粧水なんか持ってどうしたんですか?」

「なんとなく目に留まったんだよ。分かってはいたつもりだけど、こうしてみると女の人のスキンケアって色々あるよなって思ってな。毎日ご苦労様だよ、ホント」

「ふふ、そうなんですよ? でもまあ大変と言えば大変ではありますけど、結局は慣れですから、習慣になってしまえばそれほど苦ではありませんね。それに私の場合、一番に見てほしい人が一番身近にいますからやる気も出るというものです」


 雛がにっこりと笑う。ヘアバンドで前髪を上げているから、眩しい笑顔をまざまざと見せつけられた。

 朝の手入れ前だというのに乳白色の美肌。まさしく日々の積み重ねによって維持されているものであり、今朝もまたその美しさが更新されていくことだろう。


「なあ、せっかくだしどんな風にしてるのかちょっと見学させてもらってもいいか?」

「ま、まじまじと見られるのはさすがに恥ずかしいのですが……それならいっそ、優人さんにやってもらいましょうか」

「俺が? え、やり方とか知らないけど……」

「もちろんレクチャーしながらですよ。ささ、ちょうど優人さんが持ってる化粧水から始めますから、是非お願いします」

「お、おう」


 雛は両目をつぶり、無防備な顔面を優人の方へ向けた。

 半ばなし崩し的に始まった雛による女性のスキンケア講座・いきなりの実践編。

 おっかなびっくりといった手付きで優人が化粧水を手に馴染ませる中、うっすら片目を開けた雛がその様子に柔く笑った。


 微笑ましいものを見るようなくすっぐたい視線に、けれど今の優人は意識を割く余裕など持てない。

 なにせ自分は、見目麗しい恋人の肌を整えるという大役を直々に仰せつかったのだから。








 その後、優人の向かいに座る雛はまさにご満悦といった快活な表情を隠すこともなく、朝食のメインであるホットケーキに舌鼓を打っていた。

 優人が焼いたそれに加え、余った野菜で拵えた温野菜サラダと即席のコーンスープが今朝の朝食だ。


「んー、優人さんにやってもらったおかげで、今日は一段と肌の調子が良いですね」

「また大げさな」

「そんなことありませんよ。だって、普段私が自分でするよりも手付きが丁寧なぐらいでしたもん」

「そりゃそうもなるって。雛がいつもどれだけ入念にケアしてるかは分かってるから、間違っても手荒にはできないし」

「優人さんらしいですね。定期的にお願いしてもいいぐらいなんですから、自信持ってください」

「はいはい」


 雛の賞賛に優人は苦笑混じりの相槌を打った。

 まあ、今後も今朝みたいに時間に余裕がある日はやってみてもいいのだろう。これも雛からのスキンシップの一つのようなものだし、恋人が自らの手で綺麗になり、その手腕を褒めてもらえるのは優人だって気分がいい。


「優人さんって今日のバイトはお昼からでしたっけ?」

「ああ。そっから閉店後も残ることになりそうだから、帰りはちょっと遅くなるかな。雛の方は?」


 朝食の手を進めながら、本日のお互いの予定を確認していく。

 高校生の時から勤めるようになった優人のバイト先は、母親の安奈あんなから紹介してもらった洋菓子店だ。


「私はお昼過ぎから夕方までですね。優人さんの帰りに合わせて夕飯が出来上がるようにしますから、大体の時間が分かったら教えてください」

「了解。……ありがとな」

「どういたしまして」


 出来立ての食事を用意して待っていてくれようとする。そんな言葉を何の気もなしにさらりと言うのだから、雛にとっては本当に当然のことなのだろう。

 彼女の心遣いに優人の口元には自然と面映ゆさが滲み、それを知ってか知らずか、雛もまた柔和な笑みで言葉を返した。


 ちなみに雛のバイトはと言うと、大学経由で紹介してもらった高校生相手の家庭教師とのことだ。

 以前から勉強を教えることに長けていた雛にとってぴったりの仕事だろうし、実際聞いた話だと評判はすこぶる良いらしい。


「そういえばさ……」

「はい?」

「ちゃんと訊いたことなかったけど、家庭教師の相手って男子? 女子?」

「心配しなくても女の子ですよ。というか、親御さんの方も同性の方で希望されることが多いみたいです。家を空けて二人だけにさせてしまうタイミングもあるから、そっちの方が安心できるって」

「そっか」

「もし男の子だって言ったら辞めさせてました?」

「……正直ちょっと心配にはなるけど、雛が頑張ってることの邪魔はしたくない」

「ふふ、これまた優人さんらしい答えですね。安心してください、私があなた以外眼中にないのはご存じでしょう?」


 雛は頬杖をついて身を乗り出すと、金糸雀色の瞳でじぃっと優人を見つめてくる。

 優人しか見ていないということを行動で表現してくる雛に嬉しさと照れがこみ上げてきて視線を逸らせば、「照れましたね」という指摘と小さな笑い声が耳をくすぐった。おまけにテーブルの下で物理的にも足をくすぐられるのだから、すっかり雛に転がされている。


 話題と雰囲気を変えるために、咳払いを一つ。


「家庭教師の授業って一回二時間ぐらいだっけ。マンツーマンってことを考えると結構集中力いるよな」

「途中で小休憩は挟みますけどね。それと親御さんには大きな声で言えませんけど、たまにちょっと長く雑談しちゃう時もありますよ」


 メリハリというものなのだろう。雛ならその辺りの割合のコントロールは上手そうだし、評判の高さがそれを裏付けている。


「雑談って例えばなに話すんだ?」

「私の場合ですと、意外とお悩み相談みたいな感じが多いですね。進路関係はもちろんですし……あとやっぱり女の子が相手ですから恋バナになりますね」

「恋バナか。勉強もそうだけど、恋愛的な意味でも雛は大先輩になるわけだ」

「まあ一応。それにしても色々と話してると懐かしくなってきますよ。ああ、私も当時は誰かさんを振り向かせたくて色々とアピールしてたなあって」


 ――などということを、ウインクしながら茶目っ気たっぷりの表情で言われて、その誰かさんはどういう反応をすればいいのだろうか。というか振り向くも何も、優人は優人で割と早い段階で雛のことを見るようになっていたわけなのだが。


「まあ、なんだ、その甲斐あってその誰かさんはすっかり心を奪われてると思うぞ」

「ふふ、それは朗報ですね。かく言う私も夢中になってますけど」


 雛はそう言って、再びの見つめる攻撃。

 今度は優人も目を逸らさない。

 視線の交わりが深まるにつれて距離が縮まり、やがて唇が直接交わるのに、そう時間はかからなかった。

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【本編完結済み】頑張り屋で甘え下手な後輩が、もっと頑張り屋な甘え上手になるまで 木ノ上ヒロマサ @k_hiromasa

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