EX8『一年先の約束』

 優人が雛と過ごす日々はこれといって大きな出来事が起きるわけでもなく、だからこそ穏やかで心温まるものだ。小さな幸せを一つ一つ積み重ねていくような生活は優人の性分に合っているし、雛も同じように感じてくれていると思う。


 しかしながら、今日この日ばかりはいつもと違う、大きな転機を迎える一日であることだろう。

 なぜかと言えば、


「続いて卒業証書授与。三年一組、天見優人」

「はい」


 今日は優人の高校生活最後の一日――卒業式だからだ。

 マイクを通した司会の呼びかけに優人は立ち上がると、普段よりも丁寧に着用した制服と共に壇上へと向かう。

 クラス順と出席番号順が重なっただけの偶然の結果なのだが、まさかの授与者トップバターである。やはり独特で緊張で背筋は伸びるし、足取りも少しだけ落ち着いていないのを自覚した。


 とはいえ高校最後の、いわば晴れ舞台だ。

 今朝、優人以上に真剣な表情で制服のネクタイを巻いてくれた雛が見ているのだから、出来うるかぎり堂々とした姿で応えてあげないと。


 そうして挑んだ卒業証書授与は終わってみれば意外とあっけない。まあ、実際そんなもんかと一人肩の荷を下ろしつつ、後に続いて自分と同じ卒業生たちが証書を受け取っていく様子をぼんやりと眺める。


 そんな優人の背筋が再び伸びたのは、とあるブログラムに進んだ頃だった。


「送辞。在校生代表――空森雛」


 司会の宣言の後、舞台の上手側から壇上に進み出る最愛の彼女。肩まで伸びた群青色の髪を揺らす雛はマイクの前に辿り着くと、会場全体へと向けて綺麗な一礼をし、ブレザーの内ポケットから蛇腹じゃばら状に折りたたんだ紙を取り出した。


「寒さも和らぎ、吹く風に春の訪れを感じられる季節となりました。三年生の皆様、ご卒業おめでとうございます。在校生一同、心よりのお祝いを――」


 送辞の内容が書かれたその紙を手元に置いて話し始めた雛は、ほとんど一瞥しただけですぐに視線を前に向ける。

 当然だ。最近家でもずっと練習していたのだから、内容なんてほとんど覚えてしまったのだろう。


 雛の不断の努力に優人が口元を緩める中、彼女の送辞は聞き取りやすい流暢な口調で続く。

 正直なことを言えば、送辞然り、この後に続く答辞然り、真面目に耳を傾けている人など極少数だと思う。聞き入るように目を向けている生徒たちも雛の容姿に惹かれている部分は否めないだろうし、送辞の内容自体はほとんどが右から左へ流れていることだろう。


 雛の送辞にしても決して風変わりなものではない。けれど、彼女の言葉の一つ一つは優人の胸に沁み入り、その視線を吸い寄せて釘付けにしていた。

 ほんの一瞬、優人と目が合った雛はにこりと微笑む。


「――先輩方から頂いたこの学びの誇りを胸に、これからも邁進すること誓い、私の送辞とさせて頂きます。最後に改めて、ご卒業おめでとうございます」








「卒業おめでとうございます、優人さん」


 雛からの本日都合三度目となる祝いの言葉は、一番親しみが込められた響きを帯びていた。

 料理同好会の活動で長らく利用した家庭科室。ここに来るのもまた今日が最後になるので、残った私物がないかの最終チェックも兼ねて優人は立ち寄っていた。

 一緒についてきた雛の言葉に頷きを返す。


「ん。雛も送辞お疲れ。堂々としていて立派だったぞ」

「ありがとうございます。……これで優人さんは卒業、なんですね」

「寂しいか?」


 軽く冗談混じりに尋ねると、少しだけ眉尻を下げて笑った雛が「はい」と答えて優人に近付いた。

 調理台を背もたれ代わりにし、二人並んで丸椅子に座る。窓の外で風に揺れる桜の花は綺麗で、それでいて散りゆく姿に物寂しさも感じた。


「我ながら重く考えすぎだとは思ってるんですよ? 優人さんとは学年が違ったわけで、学校生活で一緒になれたタイミングなんて基本的には登下校とお昼ぐらい。そもそも家では毎日顔を合わせているんですから、単純に時間だけで考えれば、大して減るわけでもないのに」


 視界の外で動いた柔らかな感触が優人の手の甲に触れる。優人が手の平を裏返して上に向けると、雛は指と指とを絡めてきゅっと握った。


「……なのに、やっぱり寂しいなって思っちゃいます」


 だから、今は少し甘えたくなって。

 言外にそう吐露したであろう雛が優人の肩に頭を傾けてくる。寄りかかりやすいように上半身を開いてやると、なおさら体重を預けてきた甘えたがりの恋人は優人の胸にぴとりと顔を寄せた。

 ふふっ、と微笑む気配が絶妙なくすぐったさと共に伝わってくる。


「ありがとうございます、優人さん」

「まあ、寂しいのは一緒だからな」

「えへへ、似た者カップルで嬉しいかぎりですね」


 そう言って、すりすりと愛くるしい子猫のように甘えてくる雛。

 雛の好きにさせなせがら優人もそっと肩へと手を回して抱き寄せ、香る匂いと温もりで心を満たす。雛のつむじがちょうど目の前にあるものだからつい鼻先を押し当ててしまったら、柔らかな身体は気恥ずかしそうに微かに揺れた。


「こういう風に、学校でこっそりっていうのも今日で最後ですね」


 卒業式はすでに終わっているが、最後の記念を作ろうとまだ校内に残っている生徒は多く、それぞれがそれぞれの思い出の場所に散っていることだろう。わざわざこんな場所にまで足を運ぶ人は優人たちぐらいだとしても、絶対に誰も来ないとまでは言い切れないわけで、雛の言葉で自覚した密かな背徳感が優人の身を内側からくすぶらせる。


 優人さん、と囁く声。

 見下ろすとほんのり潤んだ瞳と視線が交わり、薄桜色の小さな唇が次の言葉を紡ぐ。


「目を閉じてくれますか……?」


 意外にも積極的な申し出だった。今の雛は完全な甘えモードに入っているからむしろねだられるぐらいかと思ったのに、自分の方からしてくれるつもりらしい。

 優人は甘く湿ったお願いに両目を閉じ、雛がやりやすいようにと顎を少し下に傾けてやる。


(……あれ?)


 不思議なことに、柔らかな圧力を与えられたのは唇でなく胸元の方だった。

 内心で首を捻りながら薄く目を開けると、眼下の雛は優人の胸の真ん中辺りに顔をうずめてもぞもぞと動いている。

 キスじゃなくて、ただぎゅっとしたかっただけなのか。でもそれだとわざわざ目を閉じた意味がない。


 その答えは、プツっと何かがちぎれる音の後にすぐ分かった。


貰っちゃいましたふぉらっひゃいまひふぁ


 雛の可愛らしい小さな口がくわえているのは、優人の制服のワイシャツの上から二つ目のボタンだった。

 卒業式に第二ボタン。そこから連想される雛の意図を察した瞬間、優人の口元には微笑ましいものを見るような笑みが浮かぶ。


「雛、もしかしなくてもずっと狙ってたか?」

「あ、バレました? さすが優人さん、私のことはなんでもお見通しですね」


 口から手へと第二ボタンを明け渡した雛は、まさしく宝物を手にしたように握り込んだ後、それをそっと胸に抱く。

 淡く頬を染めて、大切そうに、愛おしそうに。


 そんな姿を直視させられてしまえば優人に言えることなど何も無かった。そもそも第二ボタンって学ランでの話じゃなかったか? なんて疑問も些末なことだ。


「優人さんの第二ボタンは私が無事に確保できましたから、来年は優人さんが私の第二ボタンを貰ってくださいね?」

「男女逆のパターンってあるのか? ……というか、雛の場合だとちょっとなあ」

「む、貰ってくれないんですか? いらないんですか?」

「いるいらないの問題じゃなくて。危ないというか、無防備になるというか……」

「?」


 優人が言い淀むと、雛はこてんと可愛らしく首を傾げる。そのまま二人で雛の制服の第二ボタンがある胸元に目を向ければ、ややあって雛の頬がふわっと赤く色付いた。優人が言わんとすることを理解してくれたらしい。


「……優人さんのえっち」

「だから止めようとしたんだろ」


 金糸雀かなりあ色の瞳からの上目遣いなジト目に優人は肩を竦めた。

 割と着痩せする方ではあるが、同年代に比べると立派なものをお持ちなのが雛である。そんな彼女の胸元のボタンを奪うと、下手すればできた隙間からよろしくないものが見えてしまう可能性があるので、恋人的には眼福だったとしてもストップをかけざるをえなかった。間違っても他の男なんかには見せたくない。


「んー、なら、家に帰ってからとか……」


 雛としては憧れみたいなものがあるのか、彼女はぶつぶつと妥協案らしきものを呟いていた。

 そういった姿を見せられるとただ断るのも忍びないので、優人はそっと雛の耳に口を寄せる。


「第二ボタンだけじゃなくてさ……雛を丸ごと貰うっていうのじゃ、ダメか?」


 ――ぶわっ。

 先ほどよりも濃く、かつ色鮮やかに雛の顔が耳まで赤く染まる。

 軽く考え込んでいたぶん、余計に不意打ちとなったらしい。優人の腕に抱かれたままの雛はこちらを見上げ、しばし何か言おうと口をぱくぱくとさせていたが、結局何も言えず赤くなった顔を隠すように抱きついてきた。


「……約束ですよ? 忘れたら承知しません」

「了解。逆に雛は忘れてもいいんだぞ? サプライズになった方が良い反応をしてくれそうだから」

「そんなの無理ですよ。来年の話なのに、今から楽しみなんですから」


 抱きつく力を緩め、心から幸せそうな表情で雛が笑う。顔の赤みはまだ抜けていないようだけれど、恥じらいを隠す以上にしたいことがあるのは、わずかに尖って上を向く唇が訴えていた。


 だから今日は第二ボタンでも、雛を丸ごとでもなく、その甘く柔らかな唇を優人は奪うことにした。


 ――ところで、雛は優人が言葉に込めた真の意図には気付いたのだろうか?

 気付いてない方がサプライズになっていいけれど、気付いてたらいたで心が通じ合っているみたいで嬉しい。その答えは一年後のお楽しみだ。


 他人が聞いたら、大人ぶってるとか、浮かれているとか言われるかもしれない。

 それでも、雛が無事に卒業を迎えた時には送ろうと密かに心に決めた。


 彼女と一生添い遂げるための、その言葉を。






≪後書き≫

 お久しぶりです。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 実は折に触れ、暑くなったここ最近にうってつけのホラー……の皮を被った笑える系の短編を投稿しました。短編と言いつつ一万字を優に越える作品となっていますので、よろしければ時間のある時にお読みくださいさませ。

 こちらがリンク先となっております。


『私メリーさん、今あなたの前にいるの~後ろから襲うのが卑怯だと言われた彼女は強くなりたい~』

https://kakuyomu.jp/works/16818093080099343371

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頑張り屋で甘え下手な後輩が、もっと頑張り屋な甘え上手になるまで 木ノ上ヒロマサ @k_hiromasa

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