EX7『ヒーリング・ミュージック』
「ただいまー」
「おかえりなさい優人さん」
寒さが厳しい冬の夜、帰宅した優人を出迎えたのは暖房の温かな空気と雛の柔らかな声、そして鼻をくすぐる美味しそうな匂いだった。
休日を後に控えた今夜は雛のお泊まり日。なので優人の部屋を訪れていた雛は、こうしてこちらの帰宅に合わせて夕食を作ってくれていた。
優人にとってはすでに慣れ親しんだ光景だが、かと言ってこれが当たり前のものと思ってもいけないだろう。普段より遅くなっても待っていてくれた雛に「いつもありがとな」と感謝を伝えつつ、それはそれとして身体に溜まった疲労感に優人は緩くため息をついた。
「いつもよりお疲れですね」
「まあなー……。そろそろバレンタインのシーズンだからその準備も見越して、余計に忙しくなってきた感がある」
実は少し前からバイトを始めていた。
安奈の
例えるなら気の早いインターンみたいなものか。バイトの身分の割には結構深いところまで教えてもらえるのは安奈の口添えによる部分が大きいのだろう。
それがありがたい反面、まだ下働きとはいえ生のプロの現場に入ると、色々と気付かされることもある。これを言うと雛が「そんなことありません」と眉尻を持ち上げるから黙っておくが、所詮自分の持つ技術は素人の延長線上でしかなかったのだと思い知らされるばかりだ。
「優人さんがバイトを始めてもう一月ぐらいですか。ふふ、もう少しして落ち着いたらお邪魔させてもらいますね?」
「いや俺裏方だからな? 来てもらえるのは嬉しいけど雛を接客できるわけじゃないぞ」
「ならアレです、食べ終わった後に『シェフを呼んで』って言います」
「まだ下拵えレベルなんでどっちにしろ無理ですー」
「むう」
わずかに頬を膨らませる雛の頭をぽんぽんと叩いて洗面所へ。『私が作りました』なんて胸を張れるようになるのはまだまだ当分先の話だ。
というか今の職場、世間話の中で優人が彼女持ちであることを漏らしたら、やれ彼女をときめかせる魔法のレシピだやれ情熱的に愛を伝えるとっておきの隠し味だを嬉々として教えてくる人たちの集まりなので、雛が来店したら絶対に冷やかされるに決まっている。
(……でも、まあ恵まれてるよな)
職場も、私生活も。
自分を支えてくれる人たちのためにも頑張らないとと意気込みを新たにすると、だったらまずは腹拵えだとお腹の音が大きな訴えを起こした。
「はい優人さん、こちらへどうぞ」
もう寝るので床に就こうとした頃、先に布団の中へ入り込んだ雛は慈愛の笑みを浮かべて自身のすぐ横をぽんぽんと叩いた。どちらかと言えば立場が逆なことが多いので違和感を覚えつつ、雛の誘いに従ってベッドに身体を横たえれば、伸びてきた両腕が優人の頭を優しく絡め取る。
引き寄せられた先は雛の胸元。冬用の厚手の寝間着の奥にあっても伝わる、ふくよかな二つの山の谷間に鼻先をうずめる体勢となり、優人はたまらず目の動きだけで雛を見上げた。
愛らしい顔を彩るのは、変わらずどこまでも穏やかな微笑みだ。
「雛、これは――」
「お疲れな優人さんに癒しをプレゼントです。今夜はゆっくり私に甘えてください」
どうやらそういうことらしく、優人の頭を抱く雛の手がおもむろに髪を梳くように撫でてくる。
突然のご褒美に驚くやら嬉しいやらの優人をよそに、「あとはこれを……」と何か続きがあるらしい雛が優人の背中側――恐らくベッド脇のサイドテーブルに片手を伸ばした。
人の頭を胸に抱いたまま動くのはいかがなものか。おかげで雛の持ちうる至高の柔らかさをより味わうこととなり、濃くなる甘い匂いも相まって浸ってしまいそうになる。というか実際浸っていると、優人の背後からゆったりとしたリズムの音楽が聴こえてきた。
ピアノの旋律、それにこれは……川のせせらぎ?
「なに、音楽でも流してんのか?」
「いわゆるヒーリング・ミュージックってものですね。リラックスしてよく眠れるって評判みたいですよ」
「……もしかして、俺のためにわざわざ探してくれてたのか?」
「あ、いえ、最近クラスで話題になってたのを思い出しただけで。でも、ちょうどよかったです」
ちらりと背後に目をやれば、充電ケーブルに繋いだ雛のスマホから流れている音のようだった。無料の動画サイトあたりから引っ張ってきているのだろう。
あの手この手で優人の疲れを癒してくれようとしている。本当に雛には頭が上がらない。
照れくさくなって、せめて一言「ありがとう」と伝えてから、表情を隠すように雛の起伏に顔をうずめる。少しだけくすぐったそうに身を
「…………」
雛が用意してくれたヒーリング・ミュージックとやらに、しばし耳を傾ける。体感十分ぐらいだろう。その間も雛は優人に寄り添い、時折頭を撫でてくれた。すっ、すっと、雛の細い指が髪を梳く音が妙に気持ちいい。
「どうですか? 音楽、効果出てます?」
「……あんま実感は湧いてないかも」
「あれ」
いや、そもそも分かりやすく即効性があるものではないと思うが、しっくりきてるかきてないかで言えばそれは後者だ。
何だろう。割と効き目の個人差はあると思うから、優人がたまたま実感しづらい方なのか。
――……いや、というよりも、これはたぶん。
「んー、別の曲を試してみた方がいいんでしょうか」
「選曲の問題っていうよりはさ――」
「? はい」
「雛の声を聞いてる方が、よっぽど落ち着くからかな」
そう言い切った瞬間と、雛が音楽を停止させたタイミングが重なる。だから少しの間、まるで時が止まったかのような静寂が訪れて、優人が顔を上げるとぱちくりと見開かれた金糸雀色の瞳がそこにはあった。
白い頬をじわじわと差す、暗闇でも分かるほどの鮮やかな薔薇色。
「……雛?」
「……優人さんの不意打ちは大概経験してますけど、未だに慣れませんよ……もう」
「なんかごめん」
唇を尖らせる雛に一応謝る。とはいえ世辞でも何でもなく、紛うことなき本心なのだけど。
「えっと……そんなに癒されます? 私の声」
「ああ。具体的に何がどうって言われると説明しづらいけど」
「そ、即答ですね。まあ私も優人さんの声は好きですから、言いたいことは分かりますけど」
雛はそう言って目を伏せると、やがてふっと淑やかな微笑みを浮かべて優人の耳に唇を寄せる。小さく吸い込んだ息の音や、視界の外での唇の動きすらが感じ取れる中、彼女はしっとりと甘く、こう囁いた。
「お疲れ様、ゆ、う、と、さ、ん」
そしてダメ押しと言わんばかりに、ちゅっ、と口付けの音を鳴らす。甘美な痺れが優人の背を駆け抜けた。
「えへへ……こういうのが、好きなんです?」
「……ん、最高」
「ふふ、ご要望とあらばいつでもどうぞ。あまり根を詰めないように……っていうのは優人さんの性格的に難しいかもですけど、疲れた時はちゃんと甘えてくださいね」
「分かってるよ。っていうかそれ、雛にも同じことが言えるからな?」
「それこそ分かってますとも。そもそも私、優人さんに甘えることを我慢するなんてできませんもん。でも、今夜は優人さんの番です」
そうして今夜の定位置だと言いたげに迎え入れられたのは、やっぱり雛の胸元だった。
すべてが心地良い。
優人を労ってくれる囁きが。
今度は額で鳴った口付けが。
柔らかな胸の奥から伝わる心音が。
愛する少女の奏でるすべての音が、優人にとって何ものにも代え難い――
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