EX6『安心できる場所』③

 理性を極限まですり減らす羽目にはなったものの、どうにかこうにか無事に終えることのできた雛の入浴からしばらく。

 相も変わらず停電状態は続いたままだが、電力会社のホームページにて明け方には復旧する見込みである旨がすでに発表されていた。もちろん見込みなので延びる可能性もあるにはあるが、この分なら明日起床する頃には電気が使えると思ってもいいだろう。


 そうと決まれば、今夜は早いとこ寝るにかぎる。というか何だかんだ時間も頃合いなので、頭の片隅には眠気特有のやや重たい感覚が訪れていた。


「じゃあ雛がベッドな。俺はソファで眠るから」

「……むぅ」

「ひーなー」

「分かってますってば。じゃんけんで負けたのは私なんですから大人しく使わせてもらいます。……なんか優人さんって異常にじゃんけん強いんですよね……」


 ぶつぶつと呟かれる恨み節に肩を竦めながら、優人は掛け布団に入る雛の背中を眺めた。

 彼女は今夜、優人の部屋に泊まりだ。理由は言わずもがなで、優人的にも今さら雛を真っ暗な部屋に送り返すのは気が引けた。


 雛のことを異性として好きだと自覚した今、そんな相手と一晩を共にするのはかなり落ち着かないシチュエーションではあるが、先ほどの理性耐久試練に比べたらまだ楽なものだ。


 蘇りそうな肌色の記憶を封じ込めつつ、優人はソファに枕と掛け布団を足した簡易ベッドに身体を横たえた。


「じゃあ電気消すぞー……ってもう消えてるのか」

「あはは、慣れって怖いですよね」


 常夜灯すら点けられない夜の闇の中、雛と静かに笑い合う。

 雛が心細さを感じないようにとソファはベッドの隣に移動させており、雛との距離は大きく手を伸ばせば彼女に触れられるぐらいには近い。


 もぞりと寝返りを打って顔を横にすれば、口元を掛け布団で隠した雛がこちらを見つめていた。

 暗闇に慣れた視界と、カーテン越しにほんのうっすらと注がれる月明かり。そのおかげで、雛の柔和に緩められた目元が見て取れる。

 ベッドに横たわったままの雛が首を縦に傾けた。


「今日は重ね重ねありがとうございました。優人さんがお隣なのは救いでしたよ」

「どういたしまして。正直俺もこういう時に、その、話し相手がいるのはありがたいよ」


 話し相手ではなく、正確には雛が。思わず本音をこぼしそうになったところで誤魔化すように頬をかき、不自然にならない程度に声の調子を変えて言葉を続ける。


「それにしてもこれがまだ春でよかったよな。夏とか冬だったら暑いわ寒いわの地獄だったぞ」

「ですねえ。年末はまさにそういう理由でここに避難させてもらいましたし」

「あったあった、雛の部屋のエアコンが急に動かなくなった事件」

「あの時も、本当に助かりました。おかげでとても――とてもあたたかな夜が過ごせました」

「あの日は特に冷え込んだもんなあ。身体が冷えて年始から体調崩したりしたら幸先悪いって」

「……それ以上に心が、ですよーだ」

「え、なんて?」

「そうですねって言ったんです」


 くすくすと笑うばかりの雛。なんだかはぐらかされた気がしないでもないのだが、雛はそれで一区切りつけた様子で瞼のカーテンを下ろした。


「おやすみなさい、優人さん」

「おやすみ」


 眠る前の最後の挨拶を交わして優人も目を閉じた。

 停電で色々なものが動かなくなっているせいか、いつもより妙に静かで耳が冴える。それ故に聞こえる雛の緩やかな寝息は、いつかの夜のように優人の意識を、眠りの海の中へと優しく沈めてくれた。









 ぱちりと雛が目を開けると、視界は依然として濃い闇に包まれていた。

 時間の感覚が掴めないので不確かではあるが、恐らくまだ日の出にも早い深夜なのだろう。だから外もずいぶんと静かで、何かの拍子に目が覚めてしまったのだろうと結論づけて雛は深く息を吐いた。


「優人さん」


 なんとなくすぐに寝直す気にはなれなくて、視線の先にいる想い人の名前を小さく口ずさんだ。

 起こすと悪いから、舌の上でそっと転がしたような囁き声。なのに優人の眉はわずかに持ち上がったかと思えば、斜めだった顔の正面が雛の方を向いた。


 雛の口元に笑みが浮かぶ。

 どうせただの偶然だとは思うけれど、こんな時でも自分の声に答えてくれる優人の反応が嬉しかった。


 そして、こんな些細なことでもきゅっと胸の奥が詰まってしまうことこそが、自分が彼に恋い焦がれている証明だ。

 とっくに『惚れる』を通り越して『べた惚れ』。内に秘めた強い恋情に身をくすぶらせる雛は布団から片手を出す。


 真夜中、二人きり、その気になれば簡単に触れることのできる距離に優人がいる。

 心配して色々と世話を焼いてくれた彼を前に不謹慎な考えではあるけど、雛にとっては願ったり叶ったりな状況に他ならなかった。


(……今なら)


 優人は寝ている。今この場で明確に意識があるのは、じぶんだけ。なら、ちょっとぐらい欲張りになっても誰にも気付かれやしない。

 そんなよろしくない考えを抱き始めた雛の視線は、優人の顔のとある一部分に注がれた。


 ゆったりとした間隔で寝息がこぼれている、その場所。熱くなる頬を遠い世界の出来事のように捉えながら、雛はじっと同じところばかりを見つめてしまう。

 雛は優人と恋人になりたいと思っているけど、それは一つの区切りであって、ゴールではない。恋人になってはい終わりではなく、そこから先に連なる恋人らしい触れ合いにも大いに興味がある。


 その最たる例――言葉にすれば二文字の行動を思い描いた雛はいっそう顔を赤くし、優人へ吸い寄せられるようにして身体を起こす。

 けれど、その動きもすぐに止まった。


(そんなの、ダメだよね)


 口元に浮かぶ笑みは自嘲的だ。

 まだ優人の恋人という地位に立てていない自分にはする資格がないし、少なくともこういう事柄はきちんと段階を踏むべきだという考えも雛にある。


 そもそも都合のいい状況にかこつけるのは優人に対して不義理だろうし、何より一時の感情に流されず、相手のことをおもんばかることがどれほど大切なことであるかは、雛の身と心によく沁みていた。だって、優人がいつもそうしてくれたから。


 だからここは我慢で――……でも、やっぱりちょっとだけ、これぐらいはいいかな。


 膨れ上がる恋心のはけ口を求めた雛は優人へそっと手を伸ばすと、その唇に人差し指の腹を触れさせて、そのまま自分の同じところに指を押し当てた。ちゅっ、と思ったよりも響く音が自らの行為を自覚させる。


 間接キスと呼ぶにも淡い触れ合いに、それでも雛は熱くなった吐息をこぼすと、真っ赤に染まる顔を隠すように布団を目深まぶかに被った。


 やがて雛はもう一度夢の世界に落ちていった。

 新しく手に入れたばかりの一夜の秘密を、大事に胸に仕舞い込みながら。




≪後書き≫

 近況ノートに新作についての話を投稿しております。

 近況報告がてらの些細な報告になりますが、もし興味があれば覗いてみてください。

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