EX5『安心できる場所』②

 結論から言うと、入浴だけなら対処法はすぐに見つかった。

 ガスや水道が使えるのはまさに不幸中の幸いで、おかげでお湯を沸かすことならできる。さすがに浴槽に張るほどの量を用意するとなるとあまりにも時間がかかるものの、何か適当な容器に溜めてタオルを浸しそれで身体を拭く程度なら、準備に大して手間はかからない。


 むしろネックは入浴後、ドライヤーが使えない状況で髪の手入れはどうするのかと思ったが、雛は「それなそれでやりようはあります」と言ったので、何かしら妥協案はあるようだ。


 なので、入浴それ自体・・・・は深刻な問題にはなりえなかった。

 ……では現状、何が問題なのかと言えばだ。


「優人さん……そ、そこにちゃんといますか?」

「……いるよ」


 ああ、いる。いるよいるさいますとも。

 ダメ押しの三重の言葉を心中で唱えた優人は、額に手を当てて声にならない呻きを上げた。


 胡座をかいた優人がいる場所は自宅の洗面所兼脱衣所。そして、そこから中折れ式のドアを挟んだ浴室内に雛はいる。

 入浴のために。つまり、裸だ。


(キッツい……)


 状況が状況だけに、嫌でも頭の中に肌色多めの雛の艶姿が思い浮かんでしまう。そして実際に横に目を向ければ、ドア越しにぼんやりと彼女のシルエットが動いているのが見て取れてしまった。


 おぼろげだけに想像力を揺さぶられる光景から決死の覚悟で視線を逸らし、優人はひどく疲れた面持ちで頭を垂れた。


 こうなった経緯については、まあ分かるのだ。

 停電というほとんど明かりのない状況下、一人でいるのは心細い。しかも浴室なんてホラー物でびっくりシーンがある定番の場所だし、実際に幽霊とかそういった類は水場に引かれやすいという話も聞いたことがある。暗闇の中で風呂だなんて、優人にしたって正直気味が悪い。


 だから、そばにいてほしい――雛が恥じらいつつもそのお願いに踏み切った流れは分かる。分かるけれども。


(……バクバクしてる)


 好きな女の子が、自分のすぐそばで、あられもない姿を晒している。

 思春期真っ直中の男子として胸を熱くせざるをえないシチュエーションに、さっきから優人の心臓は早鐘を打ちっぱなしだ。

 無意識に股を隠すように腕を垂らしていた自分に気付いてため息をつくと、雛がおずおずと声をかけてくる。


「あの、できたらもうちょっとだけ明かりをこっちに向けてもらえますか……?」

「……こうでいいか?」

「は、はい、これならなんとか」


 懐中電灯は防水機能まではなかったので優人側に置いてある。なるべく雛の姿が見えないようにとあえて角度をズラしていたのだが、なけなしの対策も不発に終わった。

 おまけに停電発生から時間が経って暗闇に目が慣れてきたともくれば、まるで様々な要素が、雛を凝視することへの免罪符のように与えられる気分になってきた。


 ちゃぷん、とタオルをお湯に浸す音が聴こえてくる。本格的に身体を洗い始めたらしい。


「あー、その、お湯はそれで足りるか? 足りなさそうならまた沸かしてくるけど」

「大丈夫だと思います。ですから、このままそばにいてくれると……ひ、一人だとまだ心細いので……」

「……分かった」


 どうやらこの理性の耐久試練、一度始まってしまったら途中休憩はないらしい。

 気がどうにかなりそうだ。今だけは感情を無くした機械にでもなりたいと優人が嘆く一方で、浴室の雛は濡らしたタオルで全身を撫でていく。


 ドア越しの不鮮明なシルエットであろうと分かった。

 きっと白くて、なめらかで、とても綺麗な柔肌なのだろう。

 その美しさを少しでも感じようと凝視していたおのれに気付いた優人は座ったままついに浴室に背中を向けるが、その場からは動けない以上、音だけはどうしたって拾い上げてしまう。


「ん……しょ……」


 お湯がしたたり落ちる音の合間、時折抜けてくる雛の吐息がやけに艶めかしい。そう聞こえるのはこの状況に惑わされているだけだと分かっていても、優人の想像は何度律したところで危うい方へと傾いていく。


 胡座がいつしか座禅に変わっていたのはせめてもの神頼みだ。

 南無阿弥陀物でも般若心経でも、この際円周率でも羊の数でも何だっていい。とにかくよからぬ想像の代わりに頭を埋め尽くす何かを求めて、優人は手当たり次第に文字や数字の羅列を脳内で転がした。


 それから何分経ったか、優人ならもう洗い終える頃かというタイミングで声をかけてみる。


「……雛、まだかかるよな?」

「そうですね、まだもう少し……ごめんなさい、色々とお願いしてるのにお待たせしてしまって」

「ああ、いや、急かしてるとかそういうのじゃないんだ」


 落ち着かなくてつい声を出してしまっただけなので、ほんのり声色を沈ませてしまった雛に向けて慌てて言葉を付け足す。


「ごめんごめん、時間がかかるだろうなってのは分かってたつもりだから心配しなくていいって。女の子なんだし、雛なら尚更そうだろうから」

「ありがとうございます。でも、私なら尚更っていうのはどういう意味ですか?」

「えっ……あー、ほら、なんと言うか……雛の肌っていつも白くて綺麗だから、身体を洗う時とかスキンケアとか色々手間かけてるんだろうなーって……」


 自然と口にしてしまった発言の意味を雛に問われ、優人は少し迂闊だったかと省みつつ、正直に発言の意図を説明していく。

 変に誤魔化すと嫌みに聞こえるかもしれないと思った故ではあった。しかし、これはこれで、日頃から雛のプライベートな部分を想像してますと白状しているようでマズい気がしてきた。


「すまん、ちょっと俺キモかったな……」

「いえいえ、そんなことは全然……! むしろそれだけ私を見てくれて、こんな時でも尊重してくれるってことですから、嬉し、かったり……」

「そ、そういってもらえると助かる」


 一歩間違えればセクハラ発言だったが、幸い雛に悪感情を抱かれることはなくて胸を撫で下ろす。

 仮に雛から「気持ち悪い」などとなじられようものなら……嗚呼、新しいとびらが開くとかそんなこと言ってる場合じゃない。割とガチで凹む。


 親しき仲にも礼儀あり、という言葉の意味を優人が改めて胸に刻んだところで、浴室の雛はくすりと笑って変わらず恥ずかしそうに、けれどどこか弾んだような声を響かせる。


「それでは優人さん、あともうちょっと付き合ってくださいね? この非常時ですから手早くと思いましたけど……優人さんの言葉を聞いたら手が抜けなくなっちゃいましたから」

「……え、あ、ハイ」


 本当に迂闊だったかもしれない。

 理性耐久試験まさかの延長戦の宣告を受け、優人はいよいよ両手で顔を覆って声にならない唸りを上げるしかなかった。

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