EX4『安心できる場所』①

≪前書き≫

 時系列としては第98話と第99話の間ぐらいの話です。






 ゴールデンウィーク初日の夜、突如としてそれは起きた。


「え?」


 自宅のソファでくつろいでいた優人が顔と声を同時に上げたのは、急に室内が暗くなったからだ。

 何の前触れもなく、まさに突然と。もちろん電灯のスイッチには指一本触れていないし、消灯のタイマーを設定した覚えもない。


 何かの誤作動かと考えてソファから立ち上がった矢先、優人はインスタントのコーヒーでも淹れようと動かしていた電気ケトルが沈黙していることに気付く。


 暗闇と言えども勝手知ったる我が家。手探りでケトルまで近付きその表面にそっと触れてみると、伝わってくる温度はまだ沸騰前のそれだ。改めてスマホのライトで電源ボタンを照らしてみても、オンのままなのに作動状態を示すランプは消えている。


 最終確認として試しに手近な家電を操作し、そのどれもこれもが反応しないことを確かめてから優人は結論を下した。


「停電か」


 実を言うと今日は朝から天気がすこぶる悪い。めでたい大型連休初日を狙い打つかのように低気圧だかが発達したらしく、今も外からは強い風雨の音、そして近場ではないものの時折雷の落ちる音までもが聞こえていた。


 停電の直接的な原因が何なのかによって復旧までの時間が変わると思うが、ひとまずすぐには分からないだろうし、慌てても仕方がない。幸いガスや水道には支障がなく、こういった災害用の備えもそれなりに用意してあるので、まずはそれを取り出すことから始めよう。


 そう判断してスマホのライトを頼りに戸棚を探ろうとした、まさにその時だった。


 ガタガタガタッ! とやけに慌ただしく聞こえてきた騒音。

 発生源はお隣、雛の部屋。

 何かを落としたか、もしくは雛が転んだか、とにかく危険を孕む異音と停電という状況に突き動かされたすぐに優人は外へ出ると、足早に彼女の部屋へと向かう。


「おい雛、今すごい音したけど大丈夫か!?」


 このアパートのドアチャイムは乾電池式なので停電時でも動作するはずだが、はやる気持ちは衝動的に玄関の戸を拳で叩かせる。同時に雨風に負けないようにと声を張り上げると、ややあって玄関が開き、濡れた金糸雀かなりあ色の瞳が優人の前に現れた。


「雛、だいじょ――」


 言い切るよりも早く、華奢な体躯がほとんど倒れるような勢いで飛び込んでくる。咄嗟に踏ん張って抱き留めたのはほぼ反射的な行動であり、雛の身体をしっかりと腕の中に収められたところで、ようやくその状態を窺い知ることができた。


 優人よりも小さな肩が、ふるふるとか細く震えている。

 そういえば雛はホラーや怪談の類が大の苦手だったと思い出し、優人は雛の背中を二、三度優しく叩いてやった。


「雛、大丈夫だ」

「ご、ごめん、なさ……急に暗く、なって……っ」

「ただの停電だよ。俺がいるから、な?」


 そばにいるから心配ない。そう口にするのは気恥ずかしくあるが、他でもない想い人がこの状態で躊躇う理由は無い。

 優人は雛を落ち着かせるように優しく語りかけながら、もう片方の手で頭を撫で続けた。







「うぅ……本当にごめんなさい……」

「いいって。それよりも怪我とかしてないか? 結構派手な音したけど」

「そ、それは大丈夫です。ちょうど戸棚の整理をしてる時だったので、慌てて色々落としちゃっただけですから……」


 数十分前にも聞いた謝罪の言葉は、今度はずいぶんと恥じらいに溢れたものだった。

 停電に怯えてしまった雛を優人の部屋に招き入れてからしばらく、幸いにも彼女は普段の調子を取り戻し、むしろ怯えとは別の意味で肩を震わせている。


 防災グッズの一つである懐中電灯をテーブルに置いてひとまずの光源を確保した部屋の中、俯き加減の雛の顔は暗がりでも分かる程度に赤い。

 取り乱した自分を思い出して悶えているのは分かるが、顔を青くしているよりはずっといいので一安心である。本人にとっては不本意かもしれないけど。


「まあ、誰だって急に暗くなったら怖いだろ。俺だってほら、昔なんかの拍子で真っ暗な部屋に閉じ込められて大泣きした覚えあるし」

「つまり私は小さい子供だったみたいってことじゃないですか!? あああ……高校生にもなって恥ずかしい……っ」


 フォローは失敗に終わった。

 恥じる割にいつもより気持ち近い距離感で隣に座っているのはまだ不安が完全に抜け切れない証拠かなあ、と思うだけで口には出さず肩を竦めると、雛からぱしんと膝を叩かれてしまった。


 これ以上は何も言うまい。ぶっちゃけ役得だし、と触れ合う肩から雛の体温を感じる優人は姑息に考えた。


「ほら、そろそろいい感じに煮立ってきたから食べようぜ」


 懐中電灯の横、同じく卓上に鎮座しているカセットガスのコンロを優人は顎でしゃくる。

 夕食がまだだった二人の今夜のメニューは鍋である。停電の影響で冷蔵庫もその機能を停止したので、お互いの家に残っていた中で足の早そうな食材類をまとめて使い切ろうとした結果だ。


 なお、どうしても消費できない分には関しては保冷剤と共に今も冷蔵庫の中で眠ってもらっている。

 夏ならお手上げだが今は春、一夜ぐらいなら何とかなるだろう。


「――ごちそうさまでした。色々と入れた割には結構味がまとまって美味しかったですね」

「確かに。まあ、鍋ならそうそう外れることもないしな」


 早々と鍋を平らげて、優人と雛は感想を口にする。

 残り物を手当たり次第に投入した鍋は良く言えば寄せ鍋、悪く言えば暗い室内も相まって闇鍋だったが、雛が絶妙な配分で各種調味料を混ぜて作った鍋つゆならば意外と様になった。


「それにしても、準備がいいですよね」

「ん?」


 食後の後片付けを済ませて一息ついた頃、雛のぽつりとした呟きに優人は片眉を上げた。


「このライトとかカセットコンロとか、あと保冷剤も。こういう役立つものをきちんと用意してある辺り、さすが一人暮らしの先輩さんですねって」

「だろ? ――って胸を張れたらよかったんだけど、ほとんど親が用意してくれたもんだよ」

「安奈さんたちがですか?」

「ああ、こういうのは何かあった時に便利だからってな。そのありがたみを今ひしひしと感じてる」


 なので実際に頼るのは今回が初めてだったりする。ガス自体は生きているのにわざわざカセットコンロを引っ張り出したのも、実は試しに使ってみたかったからという理由もあった。


「なるほど、そういうことでしたか。――優人さんはご両親に愛されてますよねえ」


 隣で浮かべられた笑みにふっと微かに垣間見えた哀愁と羨望。

 親子関係に問題を抱える雛だからこそこぼれてしまった感情のしずくを優人は見逃すことができずに掬うと、その想いは実際の行動となって優人の手を動かす。


 具体的には、雛の頭を優しく撫でるという形で。

 自分の頭にいきなり置かれた手にきょとんと顔を上げた雛は、やがて優人の意図を察してか、ちょっぴり申し訳なさそうに瞳を細めた。


「……もう、相変わらず優人さんは。今の、別にそういう意味で言ったつもりじゃなかったのに」

「じゃあ俺もそういうつもりで撫でてるわけじゃないから」

「ならこの手はなんですか?」

「気分」

「ほう、優人さんは気分で女の子に手を出すんですね」

「ヒドい言い草だなおい」


 間違ってはいないがだいぶ悪い風に曲解されている。とはいえそれが冗談なのはお互いに理解しているので、優人は手を離さないし、雛は穏やかな笑みで撫でられ続ける。

 やがて雛の身体は傾き、優人の肩口へと彼女の頭を預けられた。


「お、おい雛」

「気分です。甘えたい気分。もっと俺に甘えてくれと言ったのは優人さんでしたよね?」

「……はいよ」


 言質を取られている上、好きな人から頼られて断るわけもない。

 ふわりと鼻先を掠める甘い匂いと伝わる体温に心臓をかき乱されつつも、優人はよりゆったりとしたリズムで、群青色の髪を梳いて整えるように頭を撫でた。


 枝毛も無ければ、梳く途中で引っかかりを感じることもないさらさらの髪。こうして触れられることが光栄に思えてしまう手触りを優人が享受する一方で、雛もまた小さく喉を鳴らして身を委ねる。


「……優人さんの手、大きくて、優しくて、気持ちいいです」

「雛の髪もな。さらさらしてて、いつも丁寧に扱ってるんだなって思うよ」

「ふふふ、毎日お手入れ頑張って――……」


 不意に、雛の言葉が中途半端に途切れる。そして雛はぱっと身体を起こして優人から離れたかと思えば、ぎくしゃくとした首の動きで優人に振り向いた。

 白い手が髪を巻き込むようにして首筋に当てられている。


「あの、つかぬことをお窺いしますけど……優人さんはもうお風呂に入りましたか?」

「夕方には入ったけど……」


 この天気だからもう外に出ることはないと思って、今日の入浴は早い段階で済ませていたのが幸いした。


「……もう一つ質問なんですけど、こういった停電の時ってお風呂は使えるものなんでしょうか?」

「……使えないな。電源が入らないから」


 ガスは生きているにしても、部屋の壁に備え付けられた給湯設備のリモコン自体はそもそもが電気で動作するものだ。それがダウンしている以上、温かいシャワーはもちろん、浴槽にお湯を張ることなどもちろんできない。


 さてさて、改まってそんなこと訊いてくるということは、雛がまだ入浴を済ませていないことは明白なわけで、


『…………』


 新たに直面した問題に二人は頭を悩ませるのであった。

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