EX3『あの日の頑張り屋さん(運命のデート後)』

『勇気の一歩目、ですよ』


 そう言って優人に初めての口付けを捧げたのが、約十分前の出来事。

 優人から『デート』と明言されたお出かけに誘われ、そこでお互いの想いを伝え合い、晴れて恋人として結ばれた日の夜、雛は自宅の玄関に座り込んでいた。


 靴すらも脱がず、まさしく糸が切れたようにぺたりと腰を下ろし、すぐ横の壁にもたれて半身を預けている。

 優人と別れて――つまり家に入ってから時間は経過しているというのに、自分はリビングにも上がらずこうしているわけだ。


 他人が見たら奇異に思われることは頭の片隅で分かっているけど、こればっかりは無理。どうしようもない。

 だって今日は色々と緊張して、でもとても楽しくて、幸せで、最後には念願も叶って……雛にとっては夢のような一日だったのだから。


 感極まって逆に力が抜けてしまうのは仕方のないことだ。

 とはいえ、こんな姿を優人に見せたらきっとあらぬ心配をかけてしまうから、雛は一人になれたタイミングでようやくこの多幸感に身を委ねたわけでもあるのだが。


 ふと思い立って自分の頬に手を当てると、普段の二、三割増しで表情筋が緩んでいるように思える。

 きっとだらしない顔をしてるんだろうなぁと思いつつ、指先を滑らせて次に触れたのは唇だった。


 ついさっき、優人の頬に押し当てたその部分。思い返すとまた心臓がドッ、ドッ、ドッと早いペースで鼓動を刻み始め、喉の奥から自然に熱い吐息がこぼれてしまう。

 吐いた息でわずかに湿った指先で唇の輪郭をなぞり、雛は伏し目がちに頭を前に傾けた。


(……キス、しちゃった)


 相手の唇にではなく頬にではあるが、雛の人生において、男の人へ捧げた正真正銘のファーストキスである。

 された優人は面を食らった様子で顔を赤くしていたが、たぶん雛も人のことは言えない。今と同じか、それ以上に耳の先まで真っ赤だった自覚はおおいにあった。


「~~~~っ!」


 振り返れば振り返るほど恥ずかしさがこみ上げてきて、駄々っ子みたいに両足をバタバタさせる。

 付き合ったその日にキスなんて早すぎただろうか。でも観覧車では唇と唇でする寸前まで進んだし、勇気を出して告白してくれた優人に少しでも何かを返したかった気持ちもあるし、というか雛がしたかったし……。


(次は私が、って言っちゃったし)


 ただの口約束と言えばそれまでだけど、反故ほごにするつもりは毛頭ない。今回は優人が自分たちの関係を一歩進めてくれたのだから、次は雛の番だ。……具体的にいつになるのかは、まあ、要検討だけど。


 よしっ、とひとまずの区切りを付けて雛は立ち上がり、ようやく靴を脱いで室内へ歩を進めた。

 入浴を終えて、日課のお手入れをして、寝支度を整えて、優人から貰ったぬいぐるみを携えてベッドに入る。ただし『ゆーすけ』とまで名付けたいつもの犬のぬいぐるみではなく、今日のデートで新たに頂いたライオンの方だ。


『ゆーすけ』にはベッドのサイドテーブルに避難してもらい、百獣の王がモチーフの割にはずいぶんと可愛らしくデフォルメされた一匹を優しく抱き締めて、雛はベッドに身体を横たえた。


 トクン、トクンと心臓が温かなリズムで脈打っている。もう早鐘を打つほどにはならないけど、幸福感は依然として衰えを見せない。

 今夜はいい夢が見れそう。というより、眠る前から夢みたいな時間が続いていると言った方が正しいかもしれない。


 本当に幸せで、それこそ本当に夢だったとしても、思わず納得してしまいそうなほどの――。


「……んぅ」


 そんなことを考えてしまったせいか、雛の胸中でほんの些細な不安が頭をもたげてきた。

 実は今日一日の出来事は、とてもリアリティのある夢でしかなかったという不安。いくらなんでも夢と現実の区別ぐらいはつくので、普通に考えればありえない話なのに、今日があまりにも理想通りだったがためについ疑ってしまう。


 だって、ずっと好きな人からデートに誘われて、かっこよく着飾った姿を見ることができて、おまけに愛の告白までされて、恋人になれて、何もかもが上手く進んでいた。


『幸せ過ぎて怖いって、きっとこういう気分なんでしょうね』


 雛が帰り道で優人へ告げたその言葉はただなんとなく口にしただけだったけど、少なからず現実味を帯びてきたようにさえ思う。

 つい充電ケーブルに繋いだばかりのスマホに手を伸ばして優人の連絡先を表示させ、通話ボタンに指が触れそうになったところで雛はちょっと重めのため息をついた。


 不安だから優人の声を聞きたくなったなんて、自分はなんて面倒くさい女なのだろうか。

 優人だってきっともう床にいているはずだ。今電話しようものなら寝ているところを叩き起こしてしまうかもしれないし、今日だけでも雛に数え切れないぐらいの幸せを届けてくれた優人に、勝手なわがままを言うのもはばかられた。


 雛の不安なんて本当に些細なものだ。大人しく寝て、明日また優人に会えば吹き飛ぶ程度。そう頭では分かっていてもいまいち通話ボタンから指を遠ざける気になれない自分にまたため息をこぼし、雛は目を閉じる。


 ――自分のスマホから微かに発信音・・・が響いてきたのは、ほぼ同時のことだった。


 えっ、と慌てて目を見開くと、画面はしっかりと雛から優人への発信を示す表示になっている。誤って通話ボタンに触れてしまったらしく、雛は急いで終了ボタンをタップした。


 最終的な発信時間は五秒程度で収まった。すでに優人が寝ていたとしてもギリギリ起こすまでには至らない、と思う。


(ど、どうしよう……)


 一応『今のは間違いです』とメッセージを送った方がいいのだろうか。しかし、却ってそれが追い打ちになったら本末転倒だから、ここは何事もないことを願って静観するべきか。


 そんなしどろもどろな考えを繰り返している内に、あろうことか優人の方から折り返しの着信が来るではないか。

 ああっ、と嘆いたところでもう遅い。自分から電話しておいて応じないわけにもいかず、雛は通話ボタンをタップして恐る恐るスマホを耳に当てた。


「……も、もしもし?」

『もしもし? 俺だけど、たった今電話くれたよな。どうかしたか?』

「え、えっと」


 ひとまず優人の声音からは、寝ているところを起こされたという不快感のようなものは感じなかった。

 ただ色々と気遣ってくれる彼の場合だと、それを悟られないようにしているだけの可能性も考えられるので、雛はどう返事したものかと必死に言葉を探る。


「あ、改めて今日のデートのお礼、と言いますかっ、誘ってくれて本当にありがとうございましたって……」

『……雛は本当に律義と言うか、なんと言うか。お礼ならさっきも聞いたんだぞ?』


 ほんのりと呆れを含んだ優人の笑い声。


「だって、本当に嬉しかったんですもん。優人さんとお出かけしたことは何度かありましたけど、初めてデートって決めたものでしたし……おかげで恋人同士になれました。お礼の一つや二つじゃとても足りませんよ」

『それを言い出したら、俺としてはデートの誘いを受けてくれてありがとうだし、告白を受け入れてくれてまたありがとうなんだけどなあ』

「それはそれ、これはこれです。とにかく私は優人さんへの感謝で胸いっぱいなんです」

『ははっ、分かったよ。ありがたく頂戴する』


 ――やっぱり、優人は本当に優しい人だ。

 夜遅い突然の電話に文句の一つも言わず応じてくれて、雛とゆっくり語らってくれる。

 素敵な人を好きになったことが誇らしくて、また好きになってもらえたことがたまらなく嬉しい。真摯に応じてくれる優人に正直な気持ちを隠すことが申し訳なく思えてきてしまった。


「ごめんなさい、優人さん」

『うん?』

「さっき言った電話した理由、実は嘘ついちゃってました。あ、いえ、嘘というわけでもないんですけど……本当はちょっと不安になって、優人さんの声が聞きたくなったんです」

『不安?』

「はい。今日はずっと幸せなことばかりでしたから、逆に少し現実味がないところがあって、みたいな」

『……ああ、なるほどな。言いたいことはなんとなく分かる』

「でも、優人さんの声を聞けたおかげでなんだか安心できました。夜遅くに付き合わせてしまってごめんなさい」

『そっか。――……あー、その、雛』

「はい?」


 電話越しに居住まいを正す優人の気配が伝わる。

 何か伝えたいことがあるのだろうかと耳を澄ませていると、優人が喉を整えるような小さな咳払いをした、その後。


『好きだ』


 雛の頭を瞬時に沸騰させるような囁きが聞こえてきた。

 たぶん優人は、意識的に声音を柔らかく穏やかなものにしたのだろう。それだけに雛とっては甘い愛の囁きへと昇華され、鼓膜を震わせた衝撃は瞬く間に爪先までもを駆け巡る。


 あやうくスマホを取り落とさなかっただけでも褒めてほしい。まだ片手で数え切れる回数ぐらいの優人から伝えられる愛情は、それほどまでに雛の全身を揺さぶった。


「な、な、なななな、なんでそんな、いきなり……っ!」


 燃え上がるように顔が熱くなるのを自覚しながら、雛はぱくぱくと口を動かす。


『ほ、ほら、現実味がなくて不安だって雛は言っただろ? だったら雛の不安がなくなるように、俺の想いを伝えるのが一番かなって思ってだな! ……その、俺の言葉で良ければ、雛が安心できるまで、何度でも言うからさ』

「優人、さん……」

『あ、いや、何度でもはまだ恥ずかしいから、できるだけで……』

「……もう、そこは最後までカッコつけてくださいよ。ふふっ」


 ちょっと不器用なのが優人らしくて、抑え切れない笑みが雛から溢れていく。

 優人の『好き』はすごい。たった一言で雛の不安をたちどころにかき消してくれた。


 できるだけなんて下方修正したけれど、きっと雛が求めれば、優人はそれこそ何度だって伝えてくれることだろう。決して安売りするわけでなく、一回一回に最大限の想いを込めて。


「ありがとうございます、優人さん」

『大丈夫か? もしまだ不安なら、』

「ふふ、勘弁してください。ただでさえ胸いっぱいなんですから、これ以上言われたら……私、幸せでパンクしちゃいます」


 顔はふにゃふにゃ、身体は腰砕け。むしろ胸が高鳴り過ぎて眠れなくなりそうなのが新しい不安の種なぐらいだ。


 だからお返しがてら、雛は膨れ上がってどうしようもない自身の想いを、優人と同じように言葉に乗せることにした。


「優人さん」

『ん?』

「――私も負けないぐらい、大好きですよ」

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