二十九歳
23 永遠へ溶ける双華
私は檻の中で、
春塵と消え去った❰
地上の
鶯色の尼削ぎ髪はふわりと肩へ添い、揃えられた前髪は仄かに下がる左眉を晒す。
薄闇にて伏せられた睫毛が、青白い頬へ光の
「お前達の次の
翔星は緊張した面持ちで、怯える千里の肩に触れた。彼らを一瞥した私は、内心鼻で笑ってしまう。随分下手くそに父親をやっているのね、と告げる代わりに
「千里、です……よろしくね。貴方が私を助けてくれたんでしょ? 」
彼女がぎこちなく微笑むと、膝を抱えた智太郎は顏を上げる。性別を繊細さで凌駕した
「お前なんて覚えてない。だから、借りなんて感じるな」
「それでも、ありがとう」
桜の花弁二片しか乗せられない唇で、千里は去り際に寂寞を告げる。彼らが地上の陽へ戻るのを見届けた私は、智太郎のふわふわとした白銀の髪ごと頭を撫でた。眉を顰めた智太郎が、罪悪感に綱引かれて
「
「檻の外だって、花檻と同じなのよ。呪いが解けたとしても、私はどこへも行かない。
智太郎は、雪華の睫毛を伏せて躊躇う。少女だった私もかつて、秋陽に『期待』していた。彼女が居ないことを理解しているはずなのに、受け入れられてないことを呪いの残滓が証明する。智太郎の頭を撫でるのを止め、己の痙攣する手首を返して見た。華奢と呼ぶには皮膚が異常に白透きで薄く、細い骨が浮き出ている。青竹色に目立つ静脈を睨む度に、全身の血を焦がされるような幻痛に苛まれていた。脆い半妖の身体に、呪いの追い討ちを掛けられたのだ。
忍び寄る死期を悟った私は、渉を
(( 咲雪の我儘だもの……叶えてあげたいから努力はするわ。けどね……青ノ鬼との契約通りに【過去夢】と渉の運命が直結しているのなら、渉を目覚めさせる為に、貴方の【過去夢】を終わらせる方法は一つしかない。
冴が四葉形の黒羽織を広げて檻の中に座れば、一滴が墜ちた時のように幻の水飛沫が跳ね上がる。
「檻の中は少し寒いから……咲雪にあげようと思って」
幼気な声で、遠い微睡みから我に返った。目の前には、真紅の羽織を差し出す千里。受け取った私は、高鳴る想いを知る。微笑む千里は、これが秋陽の遺品だとは知らないみたいだ。寄り添う温もりを振り返れば、遊び疲れた智太郎が眠っていた。私達の地下牢へ通う、眩しい千里に意地は張れなかったのだ。畳に散らばるのは、千里が持ち込んだ絵本。『人魚姫』に、『シンデレラ』。『赤ずきん』に、『白雪姫』……懐かしくも、私にはもう手が届かない絵空事に思えた。
「ありがとう……温かいわね。羽織のお礼に千里の髪を結ってあげるから、来なさい」
「なら、私が咲雪に絵本を読んであげるね」
花
「むかしむかし……とある国に、愛らしい白雪姫がいました。けれど、お母さんはいませんでした。白雪姫を産んだ時に、お母さんは亡くなってしまったからです」
小さな項に触れたいから、櫛は使わない。鶯色の横髪を編み込みにし、彼女と揃いの雪華の髪留めを使うことにしよう。さらさらとした絹質の髪の薫りは、金木犀のように甘やか。陽の眷属の証なのだろう。
「孤独な白雪姫の前に、新しいお母さんが現れました。美しさを誇るお妃様は、亡くなったお母さんのように、白雪姫を愛していました。だけど……白雪姫が七歳になった時、魔法の鏡が映した真実を知ってしまいます」
かつての私が智太郎に渉を重ねていたのなら、千里に重ねるのは……ただ一人。私達は、『秋陽』という鏡越しに互いを見ているのだ。髪を纏める振りをして、息を殺す。唇で項の産毛と柔肌を掠めれば、ゾワリと薫りが強まりゆく。高鳴る本能が酔いしれていた。
「鏡よ、鏡、この世で最も
愛くるしい貴方の首筋を、疼く牙で狼の如く喰い破れたら。白雪の肌に血を伝わせれば……林檎のように甘いのだろう。
――例え、私が吹雪に散っても。私の血花は貴方を手に入れることでしょう。
「私のこと、食べてもいいよ」
絵空事では無い言葉に、血の気が引いていく。千里が真っ直ぐに見つめる鏡台が暴くのは、柘榴色に染まった私の瞳! あれは、己の空白を満たそうとする飢餓の色。なんて、半欠けの
「咲雪は怖くないから。生力で癒す為でも、知らない人の肌に触れるのは怖かったのに。『
「半妖の私はもう長くないの。だから、絵空事には付き合えない。生力が視える貴方には、私の死の奈落が
林檎が薔薇科ならば、
「嘘だよ……咲雪はまだ生きれる! 智太郎を……私を置いて逝かないでよ、
己の唇を切った血が役に立つ。紅差し指で、千里の唇を強く染めてやる。
「私の黯い奈落に、千里は触れられない。犠牲があれば救えるだなんて、思い上がらないで。生きなければ、貴方の欲しい愛は手に入らないわよ。死に往く私は、智太郎の檻なのだから。囚われの不幸を、貴方は望まないでしょう? 」
「咲雪は、初めから私の心を知っていたのね」
涙濡れても、貴方の瞳の輝きは死んでなんかいない。憎悪にも似た『穢れた愛』で私を射抜く、貴方の
「金木犀の葉には、妖をゆっくりと蝕む毒があるらしいわ。幼気な貴方でも私を殺せるか、混ぜて試してみたら? 」
「どうしても、私達を置いて逝きたいんだね。外の世界で、智太郎と生きる道だってあるのに。なら、いいよ……そんなに死にたいなら、殺してあげる。でも、本当は……」
「分かってるわ、千里」
本当は私に死んで欲しくない、という愛しい矛盾くらい。頬を紅潮させて私を睨み、千里は木箱を受け取った。彼女の衣が地上の陽へと翻るのを見送った私は、白銀の長髪を払って横たう。ひらひらと手首を天井へ左右に返し、抜け殻のように透けた白腕を観察した。視線を変え、白腕が霞んだその向こう。桶型の黒い金魚鉢の中で、私の紅色金魚が泳いでいる。
母殺しの私が理性的な半妖で在り続けられたのは、罪悪感を抱いていたからだ。肥大した罪悪感は、指針に成り得る。いつか妖に化す千里にも、後悔という指針が必要だ。本能に突き立てて、私と同じ轍を絶対に踏ませたくないから。罪による『悪の色』を自らの血肉にすれば、『善の色』を見分けられる。大切な人の為に、正しい
妖の血を僅かに継いでいるはずの宮本
――薬を毒と偽り、いつか妖と化す千里が本当に誰かを殺す前に『死に往く私を殺させる』のだ。私の爪で『悪の色標本』は刻まれる。
これが嘘吐きの私が遺す、散華の波紋だ。緩やかに落花し、奈落へ堕ちていこう。未来から差し伸べられた救いの手を、私は跳ね除けたのだから。この想いが
「あの
「なんて言ったんだ? ……母さん」
冬に齢二十九を迎え、私は床から起き上がれなくなっていた。
「残して逝くのは心残りだけど……智太郎は孤独じゃないのよ。あの娘がいるもの」
智太郎の花緑青の瞳が揺らぐ。
「まさか、千里のことか? あいつなんて……」
「あの手紙を読んでご覧」
千里が差し出した木箱の中にあったのは、刻まれた金木犀の葉だけじゃない。『生きて』と懇願する彼女の生力含む甘き血と……とある手紙だった。智太郎が檻を出て、桂花宮
「正治は、前当主。愚直な今の当主と違って変わり者で、性格は悪くないわ。その男の元で暮らして、外の世界を知るのも一つの道だと思う。……智太郎、お前が考えて決めなさい。後悔の無いように」
「駄目だ……母さん!! 俺は母さんが死んだら……」
涙伝う智太郎は、透けゆく私の手を強く握った! 温かいその手は、柔らかく微笑む私を溶かす。身体が解ければ、涙を洗う虹になる。落花の怖気に黯き眼下を見れば、奈落の水流を洗朱の尾鰭が切り裂く。竜宮の使いが、大口を開けた! 頭蓋骨の人魚に呑み込まれる瞬間、私は安堵する。私は恐れていた奈落の底へ、真っ黯に塗り潰されるわけじゃないのだ。花筏の宵に、本当の夜桜の色を知る。薄闇に晒す薄紅の花弁は、青かった。
(( これは『完全な死』に
桜吹雪と洗朱の人魚が、真上から
(( 咲雪は知らなかっただろうけど……秋陽は水葬だったのよ。正確に言えば『
(( まるで……竜宮城のようね。肉体の無い、意識達だけの永遠なんて宗教じみているけれど ))
痺れるような、期待だった。泡を吐いた自らの声に、私自身が『
(( 水底を知らぬ者からすれば、そうかもね。けれど、これは真実。
冴は震える手で、透明な私の瞼を閉じさせる。私の死に耐えられないような、辛く顰められた顏を確かに見た。
(( 咲雪は眠ればいい。信じれば希望になるし、否定すれば絶望になる。けれど、肉体を失う
他人が恐ろしいと語った冴の気持ちが、ようやく分かった気がした。永遠を傷つける他人が怖いのだ。……いつか自分が溶ける意識の巣窟も。彼女の『浸蝕』は、自分を忘れない誰かを求めて
――私は、『永遠』に
掌が消えた。瞼を開ければ……私が立つのは、よく晴れた海辺だった。覚えのある、空色のワンピースを着ていることに気づく。平らな胎は、綺麗な
(( 遺言を守ってくれてありがとう、咲雪。『家族の夢』は楽しかった? ))
ずっと聞きたかった声に、胸が引き絞られた! 振り返れば……お揃いの雪華の髪留めと真紅のリボンも、
(( 悪くなかった。ずっと浸っていたいと、切に願うくらいには ))
(( 良かった。千里を産む事を決意した時から、私が視れないのは分かってたから……咲雪に視て欲しかったんだ。早く会いたいとも、来て欲しくないとも思ってたんだよ。
(( ……ええ ))
私に愛されている確信で
(( なら私は、千里を導けたよね。これで絶対に、千里は誰も殺せない。正しい
母親となった貴方の髪筋に、遺香に皆躍らされてきた。ただの人間である貴方が一番恐ろしいだなんて……今はまだ、私以外誰も知らない。
(( 翔星さんには、私達が
秋陽は僅かな躊躇いに瞳を潤ませながらも、往くべき先を指し示した。瞠目する秋陽を抱き締め、私は彼の元へ走る。『
『咲雪が俺を置いて逝くんじゃなくて、咲雪が俺に追いついたんだ。……そうだろ? 』
木漏れ日の下、
『俺は咲雪と同じ場所に居たいんだ。だから……このまま俺を、有象無象に溶かしてくれないか』
嘘吐きの私は、貴方の手を優しく取って救いたいのだ。 降り注ぐ白花は、私達と緩やかに踊る。
(( 貴方は私と共に死んで、泡になった。今はただ、そんな白昼夢に微睡んでいて欲しいの。透明な『私』に再帰する貴方だけには、私に狂っていて欲しいから。最期に連れていく、その瞬間まで ))
渉はくしゃりと、辛く微笑んだ。
『咲雪は残酷だな。君の居ない世界で夢遊し、生きろと言うのか』
(( 雪解け水の墓守として生きて、私達の『家族の物語』を読み聞かせてよ。渉が語り続ける限り、私は私を忘れない ))
『咲雪は嘘吐きなのに……恨めもしないのは、俺の心の鱗片が瓦解していくようだ』
(( だけど、私の我儘を叶えて欲しい。辛くとも……私が生きれなかった時間を、渉が生きていくのは意味のある事だから))
『……どんなに酷い我儘でも、咲雪に俺が敵うはずがなかったな。
柔いはずの胸が、甘苦しかった。私が花絨毯に押し倒せば、渉は陶酔に蒼黒の鵲眼を細めた。慣れ親しんだ胸板から、若苦い甘さが薫る。白銀の髪を頬に優しく払われ……耐え切れずに口付けを交わせば、王子役の貴方が
『
(( 貴方の『家族』は、やがて
冴の語る声が、水流の意識に新たな波紋を齎した。私は期待に微笑み、静かな世界へと瞼を閉ざす。少しだけ、永い眠りになることだろう。
死に往く、不香の花 【過去夢04】 鳥兎子 @totoko3927
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