二十九歳

23 永遠へ溶ける双華


 私は檻の中で、深深しんしんと再会を待ち続けていた。私はまだ希望を棄てていない。七歳になった千里せんり智太郎ちたろうは、同じ過去いまに生きているのだから。現代みらいの彼らは飛び去ったが、鳥瞰ちょうかんするように【過去夢】へ微睡んでいるのだろう。目覚めぬ渉に、私の【過去夢】はまだ終わっていないのだと確信させた。


 春塵と消え去った❰黯猫くろねこ❱が、刻みつけた『桜下の惨劇』の爪痕は深く。幼い二人は、現代みらいの自分が【過去夢】に居た記憶はおろか、『桜下の惨劇』その物を覚えていなかった。羽衣石ういし家の那桜なお省吾しょうご、鴉と過ごした記憶ごと失い……二人は桜下で〝知らない〟互いの手を繋いでいたのだ。それでも、『千里を妖から救った』ように気を失っていた幼い智太郎は資格を得た。いつか智太郎が『千里を守る妖狩人』と成れば、千里が現代みらいで妖に化しても、可能性を奪う禍神には成り果てない。 


 地上のけやき戸が軋んだ音を、私の猫耳は拾う。翔星かいせいに連れられた千里が、地下牢の中の〝知らない半妖の親子〟に会いに来たらしい。常磐色のリボンカチューシャと若葉色の袖を揺らし、小さな草履で石段を降りる姿が、私の鼓動へ根付いていく。

 

 鶯色の尼削ぎ髪はふわりと肩へ添い、揃えられた前髪は仄かに下がる左眉を晒す。鈴蘭水仙スノーフレークのように可憐な鼻筋が通る、いとけない顏。小さなおとがいへ触れられたなら、林檎のように私の掌で容易く包めそうだ。溌剌とわらえば、西洋絵画の花が朝露を弾くように愛らしいだろうに。彼女は臆病な子栗鼠コリスの様に俯いた。

 

 薄闇にて伏せられた睫毛が、青白い頬へ光の分散ファイアを伝わす。虹の扇から分かれた白群びゃくぐんの光筋が、涙のように見えた。精彩な金の杏眼が躊躇うから。

 

「お前達の次のあるじだ」


 翔星は緊張した面持ちで、怯える千里の肩に触れた。彼らを一瞥した私は、内心鼻で笑ってしまう。随分下手くそに父親をやっているのね、と告げる代わりに煙管キセルを咥えて白煙を吹かす。『桜下の惨劇』で己を呪う陽炎に焼かれた幻痛なのか、癒えたはずの喉が焼け付くようだった。


「千里、です……よろしくね。貴方が私を助けてくれたんでしょ? 」 


 彼女がぎこちなく微笑むと、膝を抱えた智太郎は顏を上げる。性別を繊細さで凌駕した人形ビスクドールの顔貌を裏切り、花緑青の猫目を鋭利に研いだ。

 

「お前なんて覚えてない。だから、借りなんて感じるな」

 

「それでも、ありがとう」

 

 桜の花弁二片しか乗せられない唇で、千里は去り際に寂寞を告げる。彼らが地上の陽へ戻るのを見届けた私は、智太郎のふわふわとした白銀の髪ごと頭を撫でた。眉を顰めた智太郎が、罪悪感に綱引かれて二方ふたかたに苦しむのが分かったから。

 

妖狩人あいつらなんて嫌いだ。母さんが檻から出られないのは、桂花宮家の人間のせいなんだろ」


「檻の外だって、花檻と同じなのよ。呪いが解けたとしても、私はどこへも行かない。秋陽あきひが遺してくれた『桂花宮家』という綺麗な花檻の中は、『家族』の温もりがするから。巡り会った縁に『期待』するのは、私は悪くないと思うけど」

 

 智太郎は、雪華の睫毛を伏せて躊躇う。少女だった私もかつて、秋陽に『期待』していた。彼女が居ないことを理解しているはずなのに、受け入れられてないことを呪いの残滓が証明する。智太郎の頭を撫でるのを止め、己の痙攣する手首を返して見た。華奢と呼ぶには皮膚が異常に白透きで薄く、細い骨が浮き出ている。青竹色に目立つ静脈を睨む度に、全身の血を焦がされるような幻痛に苛まれていた。脆い半妖の身体に、呪いの追い討ちを掛けられたのだ。


 忍び寄る死期を悟った私は、渉をさえへ託して望みを繋ぐ道を選んだ。意識に食い入る『シン』の術式なら、目覚めぬ渉に干渉出来るかもしれないから。

  

(( 咲雪の我儘だもの……叶えてあげたいから努力はするわ。けどね……青ノ鬼との契約通りに【過去夢】と渉の運命が直結しているのなら、渉を目覚めさせる為に、貴方の【過去夢】を終わらせる方法は一つしかない。現代みらいの彼らが視る夢なんて、すぐに醒めてしまうのでしょうね ))

  

 冴が四葉形の黒羽織を広げて檻の中に座れば、一滴が墜ちた時のように幻の水飛沫が跳ね上がる。集光模様コースティクスを浴びた渉は、手品のように翻る洗朱の羽織裏に攫われてしまう。小さな別れは、私の胸を祈りで突き刺す。末後に私を食い殺すはずの冴が、檳榔子黒びんろうじぐろの瞳で同情的にかえりみたのが忘れられない。ああ、私は本当に死ぬのね。


「檻の中は少し寒いから……咲雪にあげようと思って」 

 

 幼気な声で、遠い微睡みから我に返った。目の前には、真紅の羽織を差し出す千里。受け取った私は、高鳴る想いを知る。微笑む千里は、これが秋陽の遺品だとは知らないみたいだ。寄り添う温もりを振り返れば、遊び疲れた智太郎が眠っていた。私達の地下牢へ通う、眩しい千里に意地は張れなかったのだ。畳に散らばるのは、千里が持ち込んだ絵本。『人魚姫』に、『シンデレラ』。『赤ずきん』に、『白雪姫』……懐かしくも、私にはもう手が届かない絵空事に思えた。

 

「ありがとう……温かいわね。羽織のお礼に千里の髪を結ってあげるから、来なさい」


「なら、私が咲雪に絵本を読んであげるね」

 

 花わらう千里を膝の上に乗せた瞬間、〝抱き締めてあげられなかった悔い〟が蘇る。現代みらいの千里から垣間視た、【感情視】の悪戯か。私が辿るはずだった、本来の過去の感情なのか……。何も知らない千里は御伽噺を語る。

  

「むかしむかし……とある国に、愛らしい白雪姫がいました。けれど、お母さんはいませんでした。白雪姫を産んだ時に、お母さんは亡くなってしまったからです」

  

 小さな項に触れたいから、櫛は使わない。鶯色の横髪を編み込みにし、彼女と揃いの雪華の髪留めを使うことにしよう。さらさらとした絹質の髪の薫りは、金木犀のように甘やか。陽の眷属の証なのだろう。


「孤独な白雪姫の前に、新しいお母さんが現れました。美しさを誇るお妃様は、亡くなったお母さんのように、白雪姫を愛していました。だけど……白雪姫が七歳になった時、魔法の鏡が映した真実を知ってしまいます」

 

 かつての私が智太郎に渉を重ねていたのなら、千里に重ねるのは……ただ一人。私達は、『秋陽』という鏡越しに互いを見ているのだ。髪を纏める振りをして、息を殺す。唇で項の産毛と柔肌を掠めれば、ゾワリと薫りが強まりゆく。高鳴る本能が酔いしれていた。

 

「鏡よ、鏡、この世で最も愛久うつくしいのは……」


 愛くるしい貴方の首筋を、疼く牙で狼の如く喰い破れたら。白雪の肌に血を伝わせれば……林檎のように甘いのだろう。現代みらいの貴方は自分を穢れていると言ったけれど、穢れているのはがらんどうの私の方だ。手に入らなかった彼女の為に、貴方を愛する穢れた母親だから。


 ――例え、私が吹雪に散っても。私の血花は貴方を手に入れることでしょう。 

 

「私のこと、食べてもいいよ」


 絵空事では無い言葉に、血の気が引いていく。千里が真っ直ぐに見つめる鏡台が暴くのは、柘榴色に染まった私の瞳! あれは、己の空白を満たそうとする飢餓の色。なんて、半欠けのバケモノらしい獣慾じゅうよくか!


「咲雪は怖くないから。生力で癒す為でも、知らない人の肌に触れるのは怖かったのに。『金花姫きんかひめ』として、桂花宮家の……翔星とうさまの役に立てなくなったら、私はお終いなの。秋陽かあさまと引き換えに生まれた私を、翔星とうさまはきっと恨んでるから。……私じゃなくて、母様に生きて欲しかった」 

 

 くらく微笑む千里は、がらんどうの孤独を自覚している。貴方を愛した人達を忘れ、否定しようというの! 愛しさが、無垢への憎悪に変質していく。牙が疼くままに唇を噛み切ったせいで、否定してあげられなかった。芽衣ははを殺した時のように、慾に身を任せる訳にはいかない。爪で、牙で傷付ける代わりに……貴方への真実を犀利に刻みつけてあげる。

 

「半妖の私はもう長くないの。だから、絵空事には付き合えない。生力が視える貴方には、私の死の奈落がくろく視えてるんでしょ? 」

 

 林檎が薔薇科ならば、氷柱ツララは雪華の棘になる。しろ悪役ヴィランなら、魅惑的に嗤わなくては。背後から覆うように見下ろし、白銀の長髪で氷瀑ひょうばくの如き檻を演じよう。私を見上げる千里の両頬に触れ、露草色から青藍せいらんに傾く影で閉じ込めた。


「嘘だよ……咲雪はまだ生きれる! 智太郎を……私を置いて逝かないでよ、! そうだ、私が生力に触れれば……! 」 

 

 己の唇を切った血が役に立つ。紅差し指で、千里の唇を強く染めてやる。


「私の黯い奈落に、千里は触れられない。犠牲があれば救えるだなんて、思い上がらないで。生きなければ、貴方の欲しい愛は手に入らないわよ。死に往く私は、智太郎の檻なのだから。囚われの不幸を、貴方は望まないでしょう? 」


「咲雪は、初めから私の心を知っていたのね」


 涙濡れても、貴方の瞳の輝きは死んでなんかいない。憎悪にも似た『穢れた愛』で私を射抜く、貴方の感情いろは正しい。私は良い母親には成れないのだから。毒林檎を差し出す代わりに、乾燥させた青紫の躑躅ツツジを敷き詰めた木箱を差し出した。わたしの慾を抑える、煙管の中身だった。日々、私が必ず口にする物。

 

「金木犀の葉には、妖をゆっくりと蝕む毒があるらしいわ。幼気な貴方でも私を殺せるか、混ぜて試してみたら? 」

 

「どうしても、私達を置いて逝きたいんだね。外の世界で、智太郎と生きる道だってあるのに。なら、いいよ……そんなに死にたいなら、殺してあげる。でも、本当は……」


「分かってるわ、千里」


 本当は私に死んで欲しくない、という愛しい矛盾くらい。頬を紅潮させて私を睨み、千里は木箱を受け取った。彼女の衣が地上の陽へと翻るのを見送った私は、白銀の長髪を払って横たう。ひらひらと手首を天井へ左右に返し、抜け殻のように透けた白腕を観察した。視線を変え、白腕が霞んだその向こう。桶型の黒い金魚鉢の中で、私の紅色金魚が泳いでいる。わたしもてあそんでいるようで、酷く可笑しい。紅の花束を宵へ投げ捨て、逆さに散らすように爽快だ。私が色褪せれば、秋陽の遺言通りに『悪の色標本』が完成する。


 母殺しの私が理性的な半妖で在り続けられたのは、罪悪感を抱いていたからだ。肥大した罪悪感は、指針に成り得る。いつか妖に化す千里にも、後悔という指針が必要だ。本能に突き立てて、私と同じ轍を絶対に踏ませたくないから。罪による『悪の色』を自らの血肉にすれば、『善の色』を見分けられる。大切な人の為に、正しい感情いろを追いかけ続ければいい。

 

 妖の血を僅かに継いでいるはずの宮本 都峨路つがろは、桂花宮家の金木犀を『守護が強すぎる』と毛嫌いしていた。金木犀の花言葉は『隠世』。原初の妖が隠世にて守りたい誰かを守護するように、妖の邪気を鎮めて抑圧する力があるはずだ。花檻を望んだ私にはささやかな薬となり、解放を望めば散り積もる毒になるのだろう。想いが変われば、効能も変わる。

 

 ――薬を毒と偽り、いつか妖と化す千里が本当に誰かを殺す前に『死に往く私を殺させる』のだ。私の爪で『悪の色標本』は刻まれる。

 

 これが嘘吐きの私が遺す、散華の波紋だ。緩やかに落花し、奈落へ堕ちていこう。未来から差し伸べられた救いの手を、私は跳ね除けたのだから。この想いがうつつに繋がればいい。


「あのに刻めるなら、消えかけの命も悪くない」


「なんて言ったんだ? ……母さん」


 冬に齢二十九を迎え、私は床から起き上がれなくなっていた。ぬるい脈は日々、弱くなるばかりだ。私の痩せた手首を確かめる智太郎の仕草が渉に似ていて、思わず微笑んだ。

 

「残して逝くのは心残りだけど……智太郎は孤独じゃないのよ。あの娘がいるもの」


 智太郎の花緑青の瞳が揺らぐ。


「まさか、千里のことか? あいつなんて……」


「あの手紙を読んでご覧」


 千里が差し出した木箱の中にあったのは、刻まれた金木犀の葉だけじゃない。『生きて』と懇願する彼女の生力含む甘き血と……とある手紙だった。智太郎が檻を出て、桂花宮 正治しょうじと共に暮らす打診が綴られていた。己の孤独を埋め合わせたいと願いながらも、彼女は智太郎の自由を諦められなかったようだ。

 

「正治は、前当主。愚直な今の当主と違って変わり者で、性格は悪くないわ。その男の元で暮らして、外の世界を知るのも一つの道だと思う。……智太郎、お前が考えて決めなさい。後悔の無いように」

 

「駄目だ……母さん!! 俺は母さんが死んだら……」


 涙伝う智太郎は、透けゆく私の手を強く握った! 温かいその手は、柔らかく微笑む私を溶かす。身体が解ければ、涙を洗う虹になる。落花の怖気に黯き眼下を見れば、奈落の水流を洗朱の尾鰭が切り裂く。竜宮の使いが、大口を開けた! 頭蓋骨の人魚に呑み込まれる瞬間、私は安堵する。私は恐れていた奈落の底へ、真っ黯に塗り潰されるわけじゃないのだ。花筏の宵に、本当の夜桜の色を知る。薄闇に晒す薄紅の花弁は、青かった。


(( これは『完全な死』にまつろわぬ、永遠。亡き人との意識の再会であり、互いの意識への終わりの無い浸蝕。『人魚』に血肉を捧げ続ける、竜口家わたしたちの最期でもあるの。互いへの従属を誓う契約により、私が『浸蝕』した翔星もね。肉体のある再会が叶わずとも、いつか渉が望むなら『人魚』が守護する水底の永遠へと連れて行ってあげる )) 


 桜吹雪と洗朱の人魚が、真上からとぐろを見せる。渦巻く奔流を背に、さえは水中に立つ。紫黒色の束ね髪と銀鱗のビラ簪が揺らぐ。四葉形の黒羽織とマーメイドスカートは洗朱の生地裏と、ショート丈の着物の衿から吊りベルトが繋ぐ灰色のウエストを魅せた。黒透けタイツの長い脚を組み、黒ヒールの裏も洗朱。藍を帯びた檳榔子黒びんろうじくろ瑞鳳眼ずいほうがんは鋭さを保てず、透明になる私を望洋と見つめていた。最期を待ち望んでいたはずの彼女からは、欲がくゆらない。

  

(( 咲雪は知らなかっただろうけど……秋陽は水葬だったのよ。正確に言えば『シン』の術式を介し、竜口家わたしたち水槽アクアリウムへと葬った。……の ))


(( まるで……竜宮城のようね。肉体の無い、意識達だけの永遠なんて宗教じみているけれど )) 


 痺れるような、期待だった。泡を吐いた自らの声に、私自身が『シン』の術式に成った事を知る。


(( 水底を知らぬ者からすれば、そうかもね。けれど、これは真実。竜口家わたしたちの意識は、個より群としての方が馴染み深い。『原初の妖』ですら半分しか成し得なかった『永遠』は、網状に生きているの。それも『人魚の肉』が有ればこそ、だけどね。竜口家わたしたちと貴方達の『永遠の浸蝕』の末路は、最後の『人魚の肉』を喰らう者次第でしょうね。……あおかみの【未来視】によれば、私の孫が〚最後の箱〛らしいから )) 


 冴は震える手で、透明な私の瞼を閉じさせる。私の死に耐えられないような、辛く顰められた顏を確かに見た。


(( 咲雪は眠ればいい。信じれば希望になるし、否定すれば絶望になる。けれど、肉体を失う雪解け水あなたに必要なのは……祈りだと思う )) 


 他人が恐ろしいと語った冴の気持ちが、ようやく分かった気がした。永遠を傷つける他人が怖いのだ。……いつか自分が溶ける意識の巣窟も。彼女の『浸蝕』は、自分を忘れない誰かを求めて水槽アクアリウムの中を揺蕩う為だった。


 ――私は、『永遠』に浸蝕さえらばれたのだ。

  

 掌が消えた。瞼を開ければ……私が立つのは、よく晴れた海辺だった。覚えのある、空色のワンピースを着ていることに気づく。平らな胎は、綺麗なから

  

(( 遺言を守ってくれてありがとう、咲雪。『家族の夢』は楽しかった? )) 

 

 ずっと聞きたかった声に、胸が引き絞られた! 振り返れば……お揃いの雪華の髪留めと真紅のリボンも、半上げハーフアップにした鶯色の長髪も潮風に靡く。白いワンピースも、私達が別れた時のままだった。後ろ手を組む秋陽あきひはあまりに自然で……私は死を忘れそうになる。

 

(( 悪くなかった。ずっと浸っていたいと、切に願うくらいには )) 


(( 良かった。千里を産む事を決意した時から、私が視れないのは分かってたから……咲雪に視て欲しかったんだ。早く会いたいとも、来て欲しくないとも思ってたんだよ。。私の面影に縋って、千里をしろく呪える程……咲雪は私のことが大好きなんだね? )) 

 

(( ……ええ )) 


 私に愛されている確信で黒檀こくたん色の杏眼を艶めかせ、秋陽は輝く笑みを咲かせた! 淡い黄色ライムライトの陽光で薄いショールを顕現し、秋陽は両腕を翼のように広げて波打ち際を歩く。


(( なら私は、千里を導けたよね。これで絶対に、千里は誰も殺せない。正しい感情いろに呪われし妖ならば、お人好しのお姫様の皮を被れるもの。穢れていても……愛には、愛が返ってくるのよ )) 


 母親となった貴方の髪筋に、遺香に皆躍らされてきた。ただの人間である貴方が一番恐ろしいだなんて……今はまだ、私以外誰も知らない。

 

(( 翔星さんには、私達が永遠とわへ溶ける水槽アクアリウムは内緒なの。まだ、こっちに来て欲しくないから。生きて、千里の帰る場所であって欲しいの。それと……あっちにね、うつつへ飛び立てずに、咲雪を待っている人が居るのよ。私達はまた会える……だから、行ってあげて )) 


 秋陽は僅かな躊躇いに瞳を潤ませながらも、往くべき先を指し示した。瞠目する秋陽を抱き締め、私は彼の元へ走る。『シン』の術式は、まだ微睡みを齎してくれていたのか!

   

『咲雪が俺を置いて逝くんじゃなくて、咲雪が俺に追いついたんだ。……そうだろ? 』


 木漏れ日の下、わたるが頬に涙を伝わせて振り返った。柳煤竹やなぎすすすたけ色のふわふわとした髪が光風を纏えば、鼓動が酷く高鳴る。カササギの翼のように緩やかな二重の鵲眼しゃくがんが、もう一度私を映す日をどれ程待ち侘びていた事か! 若葉に白花弁織り成す花絨毯の上に立つのは、生者と死者の私達だけだった。

 

『俺は咲雪と同じ場所に居たいんだ。だから……このまま俺を、有象無象に溶かしてくれないか』


 嘘吐きの私は、貴方の手を優しく取って救いたいのだ。 降り注ぐ白花は、私達と緩やかに踊る。

 

(( 貴方は私と共に死んで、泡になった。今はただ、そんな白昼夢に微睡んでいて欲しいの。透明な『私』に再帰する貴方だけには、私に狂っていて欲しいから。最期に連れていく、その瞬間まで )) 

   

 渉はくしゃりと、辛く微笑んだ。 


『咲雪は残酷だな。君の居ない世界で夢遊し、生きろと言うのか』


(( 雪解け水の墓守として生きて、私達の『家族の物語』を読み聞かせてよ。渉が語り続ける限り、私は私を忘れない ))  


『咲雪は嘘吐きなのに……恨めもしないのは、俺の心の鱗片が瓦解していくようだ』

 

(( だけど、私の我儘を叶えて欲しい。辛くとも……私が生きれなかった時間を、渉が生きていくのは意味のある事だから))


『……どんなに酷い我儘でも、咲雪に俺が敵うはずがなかったな。わかたれても、俺達は一つの波紋だから』


 柔いはずの胸が、甘苦しかった。私が花絨毯に押し倒せば、渉は陶酔に蒼黒の鵲眼を細めた。慣れ親しんだ胸板から、若苦い甘さが薫る。白銀の髪を頬に優しく払われ……耐え切れずに口付けを交わせば、王子役の貴方がうつつに目覚める。


 『シン』の術式を介さぬ徒人の視界に映る水槽アクアリウムには、『何も無い』のだろう。硝子越しに口付け、雪解け水を愛し続ける男は、狂気的で、妄信的で、無心で従順だ。いつか溶け合う日を想う私達は透明を境に、額を合わせる。竜宮城の門が閉ざされていくのが、絵本を閉じるようだった。洗朱の門扉に触れる彼女は、振り返る。

  

(( 貴方の『家族』は、やがて水槽アクアリウムへと流れ着く。明星達も、雪解け水あなたに再帰するでしょう ))


 冴の語る声が、水流の意識に新たな波紋を齎した。私は期待に微笑み、静かな世界へと瞼を閉ざす。少しだけ、永い眠りになることだろう。

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死に往く、不香の花 【過去夢04】 鳥兎子 @totoko3927

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