第三章

 私は車を走らせて、ある海岸に来ていた。

 人はいない。静かなものである。

 磯の香りが鼻にまとわりついてきて非常に不快である。粘っこく、肺の中を満たそうとしてくる。できるかぎり遠ざけてしまいたい。

 砂浜で、海ではなく白波を眺めた。

「自殺」

 言葉が漏れる。

 死のうと思った。

 殺されるのは怖いのである。

 誰かの悪意を目の当たりにしなければならないし、自分の命を自分の手で扱うことができないというのは不幸であると思う。

 老衰ともなれば別だが、他殺は避けたい。

 まぁ、ここまで来ればなんであっても同じということだろう。

 死にたくはない。

「もしかして、自殺をなさろうとしているとか」

 私は驚き、痙攣するかのように体を動かして横を見た。

 ラヴではない。

 ラヴではなかった。

 それだけで安心できた。

 良かった。

 いつの間にか荒くなっていた呼吸が徐々に落ち着いていく。

 立っていたのは。

 顔面に酷い火傷をした女だった。

 やっと人間の形をしているというような具合である。

 距離は一メートルもない。

「ちなみに、男で御座います」

 男だそうだ。

「女だと思いましたか」

「あ、そ、そんなことは」

「そんなことありますでしょう」

「あ、ありますたね」

「あ、ちょっと噛んだ」

「すみません」

「ふふ。いえいえ」

 波の音がする。

 船の音がする。

 風の音がする。

 砂の音がする。

「Websという曲をご存知ですか」

「いえ。洋楽ですか」

「Soda island & Spire Feat.Rakitaとか。如何でしょうか」

 滑らかな発音であった。そのせいで聞き逃してしまう。

 私はごまかす。

「洋楽に関しては余り知識がなくて」

「気になさらないで。私、その曲を聞きながら海を眺めるのが好きなのです」

「良い曲なんですか」

「素晴らしい曲で御座いますよ」

 世の中には名曲が多すぎると思う。耳が幾つあっても足りない。

「自殺される方が多いのですよ、この海では」

「そうなんですか」

「もしや、あなたもその一人かと思った次第でして」

「それを止めたりとかは」

「止めはいたしませんが、話しかけたことは何度も御座いますねえ」

 私も、この隣にいる者もどこか狂っていると思えた。

 しかし。

 それがまた心地よかった。

「何故、自殺をなさろうと」

「もう、生きているのがきつくてですね」

「何故、きつくなってしまったのですか」

「自分で選んだ結果です」

「選ばされたのではありませんか」

「でも、自分で選んだわけですし」

「ここに来る方は皆、そうおっしゃいます。でも、環境や状況によってはそうせざるを得ないこともあるでしょう」

「確かに、そうかもしれません。でも、それは言い訳です」

「自分をそこまで責める必要は御座いません。だって、あなたは反省なさっております」

「反省してはいます。ですが、償えていません」

「だから、その償いのためにここにきて自殺をなさろうと考えている」

「はい」

「つまり、間もなく償いは行われるということで御座いますか」

「まぁ、その、そうですね。疲れましたから」

「それは少しばかり残念な話で御座いますね」

「そうですか」

「えぇ。人生をどこかで切り捨てるなど、もったいないではありませんか」

「でも、しょうがないじゃないですか」

「何がでしょうか」

「状況は最悪です」

 火傷跡のある男はこちらに顔が見えないようにしながら海に向かって少しばかり歩く。

 僅かに霧が出てきたように思う。

 景色がぼやけてくる。

 紙吹雪が降って来る。

 そんなわけがないと思い空を見上げる。

 雪ではない、雨でもない、ましてや綿でもない。

 紙吹雪のように見える何かである。

「少しお話をしたいのです。よろしいですか」

 私は頷く。




 人が亡くなる時というのはいつもどこかで必ず霧がかかるのだそうです。

 というのも、その霧の中に人の魂が乗せられ、天に向かうと。

 苦しいことではありませんが、決して気が楽になるという事ではありません。

 死によって救われるものなど何一つないので御座います。

 よく天国や地獄なんて言われますが、あれは余りにも突飛でしょう。

 おそらくそんなものはなくて、死んだら皆、死んだものになるのです。何にもなれないまま消えていく運命なので御座います。

 ありふれた感情を横流しにしていれば、生きていても死んでいることと同じ。

 どれも同じなのです。

 死んでも生きても、駄目なものは駄目ですし、良いものは良いもの。

 それ以外のことは御座いません。

 見る限り、あなたも何か訳ありなのでしょう。

 でも、いいのですよ。

 仮に訳などなくても。

 そして。

 死んでも。

 自殺も認めてくれない息苦しい社会では、死にたくなります。

 そういうものですよ、人間なんて。

 そうそう。私。

 昔、ある男が好きだったのです。

 その男がこちらを好きだったかなんて、それはもう分からないのですが。

 私、その男に尽くしておりました。

 自分の寿命が尽きてしまってもいいと思っていました。心を燃やしていたのです。

 私は。

 男でしたから。

 相手も、男ですから。

 大っぴらにはできませんでした。

 でも、それがまた良かったんでしょう。情緒でした。

 私は殺し屋みたいな仕事をしていました。それこそどんなことでも一生懸命にしたのです。裏の社会で御座いますから、何かしくじると次がない。そうなってはいけませんでしょう。毎日毎日、神経をすり減らして生きていく日々でした。

 自分が何者かなんてわかりませんよ。

 私は裏社会に身を置きました。そして、そこから離れられなくなりました。失ったものはたくさんあります。でもね、そこで多くのことも学んだのですよ。

 人間ですから、学ばずに生きていくなんて不可能です。

 みんな、少しずつ賢くなります。

 私はね。

 そうやって、愛、を知りました。

 愛すべき人を。

 愛すべき男を。

 知りました。

 自分の中に愛を産み出せるようにもなったのです。

 だって。

 私の人生に愛なんてものはありませんでしたから。

 えぇ、家庭の問題というやつです。

 父親が少し顔が良かったので、家には余り帰ってこないで女遊びばかりしていましてね。

 母親はいつも泣いていましたよ。ただ、父親がまたどこか遊び歩いていることを私に悟らせないようにするために、色々な嘘を口にしました。

 そう。

 そうなのです。

 母親は立派な母親をしている自分に酔っていました。

 現状を打破するための行動は一切しない。

 ただの、でくの坊だったのです。

 私は父親よりも母親の方を嫌悪していました。我慢しているから側なのだから間違っているはずがない。絶対に正しい。そういう考えが気に入らなかったのです。

 母親の方が父親よりも無力で、怠惰で、そのくせプライドが高かったのだと思います。

 あぁ、断っておきますが。

 私は父親のことが好きだったという訳ではありません。もしもこの場にいたら母親がどれだけ苦しんだかとうとうと語って首をしめてやりたいくらいです。

 でも、父親は自分の行動の責任を背負って行動していました。

 母親は、自分は母親をちゃんとやっているのだから大丈夫であると自分に言い聞かせているかのようでした。

 まぁ、不倫だのなんだのと手当たり次第にする父親が一番悪いのですけれどもね。

 ただ、私は確かに、母親のような人間になるまいと思ったのです。

 それ故に、でしょうか。

 愛が分からなかったのです。

 それから学校にも通いましたが、貧乏だったこともあり、いじめられました。耐えて耐えての繰り返し、異性にも同性にも馬鹿にされました。居場所がなくなって学校から飛びだしたこともあります。

 どこかに座って泣いていたように思います。

 小学校、中学校、高校と進んで。

 高校の卒業と同時に表の社会とも、家族とも縁を切ることにしました。

 私は裏の社会へと行きつき。

 そこから、より深く深く沈みました。

 でも、そこから人間関係というものを学び。

 ある男と出会って愛を学びました。




 お久しぶりです。

 ツバキノです。

 そのままで結構です。

 良いのです。

 少しだけ話をしたいと言ったのに長くなってしまって、申し訳ありません。

 またあなたに会えると思ったら。話せると思ったら。

 こんなにも言葉が溢れてしまったのです。

 もう少し冷静に、言葉を選んだ方が良かったですね。

 あの、マヨナカは。

 私のことが好きだったのですか。

 私は。

 あなたが好きでしたよ。

 本当ですよ。

 あなた以外の人を好きになったことはありません。

 本当です。

 一緒に釣りに行ったことがありましたね。他にはそうですね、博物館に行ったこともありましたね。

 そうだ。

 こうやって、海を見に行ったこともありましたね。

 あれは確か夜で、有名な殺し屋の誕生日パーティーに呼ばれた帰り道でした。

 静かだった。

 本当に。

 あの日の海も静かでした。

 好きな人と一緒に、この広すぎる空間の限定された場所で同じもの見ているというのが新鮮で。

 この時間が少しでも長く続けばいいと思っていました。

 夜だから、夜が明けるまで。

 夜が明けなかったら、この波が私の足を濡らすまで。

 波が私の足を濡らさないのなら、手が触れ合うまで。

 手が触れ合わないのなら。

 一生、この時間が続けばいいと思っていたのですよ。

 色々あって、私はあなたとの関係を薄めていきました。

 何故そうなってしまったのか。

 そんなことを一々話す気はありません。

 だって、それはあなたもそうだったから。すべてがかみ合わなくなって、そのまま流れて行ってしまって。

 なんて。ね。

 本当は、寂しかったのです。

 あなたはマネジメント側でどんどん出世していくし、私は殺し屋としてのキャリアを積むことができたけど、その立場から上に行けたかというとそんなことはなかったから。

 焦りました。

 正直、自分の思っている人生になっていないことに気が狂いそうでした。

 あなたとの差は開くばかりで。

 会いにくくなった。

 自分は結果が出ていない。

 あなたはあの頃と変わらず努力を積み重ね、しっかりと立ち回って、ちゃんと結果を出して。

 私とあなた。

 ツバキノとマヨナカ。

 私は頑張りました。

 いや。

 自分だけがそう思っていたのかもしれません。

 そうやって時間が経過しました。

 もう。

 久しぶり、と声をかけて話しかける方法すら思い浮かばなくなりました。

 そうして、気が付けば。

 今日になっていたのです。

 あなたは私以外の人を好きになりましたか。

 私よりも好きな人は見つかったのですか。

 愛してくれる人は見つけられましたか。

 自分の手で振り向かせるとか、努力するとかではなくて、自然と関係が深くなるような相手を見つけたのですか。

 今、あなたのことを愛してくれる人はいるのですか。

 この海のように、静かで、音だけの存在で、触れることもできないほどの距離があっても確かにそこにあるような。

 そんなかけがえのない存在を見つけたのですか。

 マヨナカは、明けてしまいました。

 ツバキは落ちたのに、日は昇りました。

 ありがとう。

 本当にありがとう。

 本当にあなたのことが大好きです。

 ずっとずっと。

 愛しいマヨナカでいてください。

 いや。

 そんなことを言わなくてもあなたはずっと、あなたらしくいてくれるのでしょうね。こんな心配なんてする必要なんてないんでしょうね。

 大人になってしまいましたね。

 会った時も、大人だったかもしれませんね。それか、まだ子どものままなのか。

 素敵です。

 素敵な殺し屋兼マネージャーになりましたね。

 私はね。その隣に、ずっといたかったのですよ。

 あなたの今現在の結論だけを見て感動するのではなくて、これまでの経緯を知って涙を流したり、怒ったり、笑ったりしたかったのですよ。

 大好きです。愛してます。心に春が来ました。温かい気持ちです。心をあなたに預けます。熟れた果実のような心持ちです。すべてが愛おしい。月が綺麗ですね。今、死んでもいい。

 そして。

 あなたに慰められたい。




 ツバキノの足跡はどこにもなかった。

 ツバキノの香りはどこにもなかった。

 ツバキノの声もなかった。

 ツバキノの雰囲気もなかった。

「あなたに慰められたい」

 どこにもいない。

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