第四章
ヴェスコッチのアジトは取り壊しが行われている公営団地の地下である。
地下は湿った臭いがした。
およそ、死体が転がっていても全く不思議ではない雰囲気が漂っていた。
逃がし屋ことヴェスコッチ。
交渉が上手くいけば、すべての悩みを解決できる。
ステイシーも、ラヴも、マネジメント業務も、すべて忘れて残りの人生を歩むことができる。
しかし、ヴェスコッチの姿が見えない。
大体、出入り口近くで何か考え事をしていることが多いのだが、どうしたのだろうか。不安になる。
「ひさしぶり、マヨナカ」
私は唾を飲み込んだ。
目の前には闇。
その中から声が聞こえてくる。
「お久しぶりです。ステイシー」
「あたしだよ。ステイシーだよ」
「分かっています」
「ねぇ、よくここに来れたね」
「何がですか」
「だって、あたしと殺し合いをすることになるんだよ。愛し合っていたのに」
「しょうがないでしょう」
「しょうがない、だけでいいのかな。あたしはマヨナカのこと好きだし、マヨナカもあたしのこと好きでしょう」
「好きですよ」
「それなのに、そういう怯えた目でこっちを見るんだね」
「しょうがないじゃないですか」
「本当は、なんとも思ってないんでしょ」
「そんなわけないじゃないですか」
「嘘だ。分かるよ、あたし、分かるよ」
「そんなことはありません」
「嘘だよ。もうマヨナカはあたしのことを愛してないんだね」
「愛してます」
「嘘だよ。またマヨナカは嘘をついてる。こっちは子供も産んで、稼いだお金も渡して、全部なくなっちゃったのに、今度は気持ちまで、心まで、これからの未来まで絞り取ろうとするんだね」
金をせびっても、いいように扱っても、孕ませても、恋愛をしている気にはなれなかった。それなのに、関係がなくなったことで恋愛だったと定義される。
少しばかりの情があった。
僅かではあるが、確かにある。
「愛と憎しみは裏返しなんだね。すべての感情は後ろで繋がっているんだね」
「えぇ、私もそれを痛感しています」
「満足感よりも、喪失感が人を成長させるなんて。人間の成長って残酷な構造をしているんだね」
なんとなく、その喋り方や言葉の選び方がステイシーではなく、私に近いような気がした。私の影響を見ることができステイシー。そしておそらく、ステイシーも、私の中にステイシーの影響を受けた私を見ているのだろう。
「闇の中から出てきてはくれませんか」
「出たら殺し合いが始まるんでしょ」
間違いなく始まる。
「始まりませんよ、まだ話合いの段階です」
「そんなわけないよ。だって、話合いだったらこの状態でもできるはずだよ。私が闇の外に出る必要がないじゃん。矛盾してるよ」
その通り矛盾している。
「いえ、矛盾していませんよ。顔が見えた方が、安心できるじゃないですか」
「マヨナカはそんなことを言う人間じゃないよ。また嘘だ。」
はい、嘘ですよ。
「嘘はついていません。今のは正直な気持ちです。昔愛し合った人の顔をもう一度見たくなったということです。」
「まぁ、一度死んでるからね。」
「えぇ、久しぶりに見たいのです。あなたのことを。」
「殺し合い。」
「え。」
「殺し合いをするんだね。」
当たり前だ。このまま時間が過ぎたとして何も終わらないし、始まらない。もう、中途半端に終了ということなど許されない。審判はいないが、いたとしたら私たちをせかし始めている。
鍔迫り合いではいけない。どちらかの血が噴き出さなければ、物語は着地しない。
「マヨナカは、あたしとさっさと殺し合いがしたいんだね。」
えぇ、正直さっさと殺し合いをして、終わらせたいですよ。
「えぇ、正直さっさと殺し合いをして、終わらせたいですよ。」
私は前に大きく踏み出すが、少しだけ体を捻る。声が聞こえた場所にあたりを付けて腕を伸ばす。
掴んだ。
闇の中ではあるが、ステイシーで間違いない。そのまま後ろへと回り、首に腕を絡ませる。
「いやいや、本当に呆気ない。」
私は笑ってしまった。
訣別の意味を込めた。
そして。
首の骨を砕く瞬間。
「マヨナカ、ぼ、僕だよ。ヴェスコッチだよ。」
しかし、体はもう動いてしまっていた。
ヴェスコッチの呻き声とともに、濡れた砂を磨り潰すような音が闇の中で響いた。
私は二分間、動けなくなった。
明るい方へと引きずり出す。顔を、体格を、服装を、すべてを確認する。
白いプラスチック片のような骨が首の皮膚を突き破っている。僅かに流れ出る血は、絵の具のように見えた。
ヴェスコッチだった。
間違いなく、ステイシーと喋っていたのだ。間違いない、間違いなかった。そのはずなのだ。しかし、あるのはヴェスコッチの死体である。
「ステイシーは。」
私は闇の中を見つめる。
誰かがいるような気もするし、誰かがいないような気もする。
ステイシーがいるような気もするし、いないような気もする。
もしもし。
どこにいますか。
声で分かりますよね、あなたの上司ですよ。
面倒な仕事が増えましたよ、あなたのせいでね。分かっていますか、あなたのせいですよ。
だから、大人しく出て来なさい。
で、さっさと殺されなさい。
これは命令です。上司の指示です。強制です。
早くなさい。
いいですか、あなたが何を言おうとこれは絶対です。
もしも逃げ回るのであれば、あなたを手助けしそうな関係者を殺して回っていきます。
あなたが誰にも迷惑をかけない最善の方法は死ぬことです。死んで償ってください。罪など犯していないと思うのであれば、別に償う意味もなく死んでください。
本当に、こちらは大変なんですよ。
分かりますか。
君と違うんですよ。
私は、ただ肉欲に負けていたずらに関係を増やして首が回らなくなった君と違って、数は多くても良好な関係を築いているんです。君のように股間からぶら下がってるそいつでコミュニケーションと損得勘定を繰り返すことはしないのです。君の生き方にはない、人生というものがあるんですよ。分かりますね、君くらいのバカでも。なんの計画性もなく、とりあえずその場しのぎの結果だけ出しておけばいいと生きてきた君とは違うんだよ。
死ねよバカが。
全く。
死ねよマジで。
よく聞いてください。
協会に来てください。
そうしたら、なるべく苦しまない形であなたを殺してあげます。
逃げたら。分かりますね。
いいですか、どうあがいてもあなたは死にます。
もう、私の言いたいことは分かりますよね。
私に迷惑をかけないように死ねって言ってるんですよ。
あなたの今までの業務自体の信頼性が低くなったせいで、本当に完了しているのかの検証業務が増えているんです。おかげで色々な人が駆り出されてますよ。
しわ寄せを受けた部署があるということですよ。
あなたのことを何人が恨んでいると思いますか。
ねぇ。
分かってますか。
自分の立場。
殺すとか、死ぬとか、この世から消えるとか。
お前、そのレベルで許されると思うなよ。
何百回も何千回も何万回もぶっ殺してやるよ。
協会が拷問までしなくていいいって言っても関係ねぇよ、止めねぇからな。あぁ、もういいや。もう言っちゃったから、いいよ。お前、もう協会に戻って来なくていいから、とにかく逃げろよ。
逆に申し訳ないと思ってこっちに来られたら、手加減しなきゃいけなくなるからさ。もう、逃げてくれねぇかな、マジで。
とにかく協会に嫌われるようなことをもっとしろよ。
逆にしよう。逃げなかったら殺す。マジでぶっ殺す。
てめぇ、逃げまくれよ。
マジでぶっ殺してやるよクソゴミ。
覚悟して逃げろよてめぇ。
今までの人生で死を一番身近に感じたのは。
ドーナッツをのどに詰まらせたことだ。
あれは確か、小学生の頃。土曜日だったか金曜日だったか。
習い事のプールの帰りに頑張ったからということで何か食べたいものを買ってくれることになった。私はとにかくオレンジジュースが飲みたかったのだけれど、母は何故か言う事を聞かずにドーナッツを買おうと言い出した。おそらく、私がドーナッツを常日頃から食べていたから好きだと思っていたのだろう。残念ながら、あったから食べていたというだけで大した理由はなかった。ただ、母が自分にドーナッツを与えたいことは分かったので、素直に買ってもらうことにした。子供ながらに空気を読んだということである。
私はそのドーナッツを喉に詰まらせて、口の中に自分の手を突っ込みドーナッツの欠片を取ろうとした。横にいた母親は、自分の息子がはしたない行為をしているためにパニック状態になり、思い切り頬を叩いた。その拍子にドーナッツは食道を落ち、胃袋へと到着した訳であるが、問題なのはその後だった。母親は折角褒めてあげようと思ったのに、なんでそんな汚いおふざけをするのかと怒ってしまったし、状況を説明しようにもドーナッツはもう詰まっていないのだ。
私は泣くほかなかった。
そして、それからドーナッツを口に入れていない。
私は、ドーナッツがそれほど好きではない。
しかし、嫌いでもない。
けれど、普通という訳でもない。
好きも嫌いも、結局は興味があるという点で同じである。
私は車を運転していた。アクセルを踏み、ハンドルをただ握っているだけだった。
まるでおかしくなってしまっていた。
歩道を歩く人、隣を走る車の運転手、反対側車線で車を運転する運転手、店先で怒っている人、それに謝っている人。
皆がラヴの顔をしていた。
私は呪われてしまったのか。
それとも、私以外の人間が結託して私のことを騙そうとしているのだろうか。
自分だけがこの世界に置いてけぼりになり、皆はどこかに行ってしまったのか。
仲間外れは私だけなのか。
バックミラーを見る。
後部座席には誰もいない。
また、見る。
いない。
もう一度、見る。
いない。
ハンドルを思い切り叩いた。
私はどこに向かっているのだ。
ただ、進んでいるだけ。
目的地もなく、追いつかれるのが怖いと思っているだけ。
「マヨナカ、君はどこに向かっているのさ。」
私は急いで助手席に顔を向ける。
ラヴが座っていた。
「何を驚いているのかな。」
「いや、その。」
「前を向いた方がいいよ。信号が青になったから。」
アクセルを踏み、前を見る。
信号は赤であった。
急いで急ブレーキを踏む。
体が前に揺れる。
目の前をバイクが通過していく。
クラクションがどこからか聞こえた。
「あぁ、残念だなあ。」
私は正面を見つめたまま肩で呼吸をした。
殺される。絶対に殺される。
「こうやってドライブしたかったなあ。」
「そうですか。」
「で、遊園地とか行って、映画とか行って、水族館とか行って。」
「普通のデートですね。」
「そうだよ、普通のことがしなかったのさ、僕はね。君は何一つしてくれなかったけれどね。」
「だって。」
「だって、何。」
「いや、その。何でもありません。」
「いいね。そっち側は謝ればいいんだからさ。」
「そんなつもりではなくてですね。」
「でも、こっちはそう思うよ。」
「その気にさせたのは、謝りますが、でも。」
「やっぱり、その気にさせてる自覚はあったんだね。そうやって君は利用したんだね。」
「いや、利用というか。」
「じゃあ、何をしたのさ。」
「利用、だったかもしれません。」
「ステイシーは言ってたよ、本当に愛されているのは私の方だって、あんたじゃないって。」
「どうですかね。」
「君次第だろう。そこは。」
「私なりに丁寧に扱っていたつもりで。」
「そういうのはもういらないんだよっ。」
その瞬間。
車のスピーカーから雑音が流れ始めた。
そして、一瞬止まった後。
音楽が流れだした。
「マヨナカ、これは良い曲だね。」
後ろからクラクションが鳴り、私は信号機が青になったことを確認するとゆっくりと車を走らせる。
車の外が温かく見える。
「なんていう曲か知ってる。」
「いや、私は、分からないですね。」
「Feral FaunaのTinctureという曲なんだ。」
「洋楽は疎くて。」
「僕は、君に向かって僕の一番好きな曲なんだって言って紹介したんだけどな。何度も、何度もね。」
「すみません。」
「何も覚えていないんだね。」
「聞いたような、気がします。」
「ステイシーとラヴのどっちが好き。」
「え。」
「あいつと僕のどっちが好き。ねぇ、どっち。」
「それはもちろん、あなたの方ですよ。」
「その言い方は嘘だ。」
「言い方を指摘されても、その。」
「命をかけて言って。僕は嘘をつくなって言っているんだよ。分かるよね、日本語。もう一回、チャンスをあげる。ちゃんと心をこめて。できないならここで絶対に殺す。」
「嘘はつきませんよ。本当ですよ。絶対に。」
「次、嘘をついたらここで殺す。」
「殺すって。」
「どっちが好きなの、簡単でしょ。嘘つかないで、正直に答えるだけだよ。」
「いや。」
「どっちなんだよっ、お前はっ、逃げて逃げてっ、ずっと振り回されるこっちの身にもなれよっ、お前っ、どっちなんだよっ。」
頭が弾ける。
体が震える。
修羅場じゃない。修羅そのものだ。
車を路肩にとめて、ハンドルに顔をうずめた。鼻水と涙が止まらない。涎が垂れてハンドルを濡らしている。
顔を少し動かすたびに、粘着質な音が車内に響く。
「ツバキノ。」
私の口から言葉が漏れた。
「誰、それ。」
恐怖で自分の歯が鳴り出したのが分かった。
「誰、ツバキノって。」
顔をあげられない。
「女、そいつ。」
まずい。
「男なの。」
自然と呼吸音が小さくなる。
「何、三人目。」
車外の音が聞こえなくなる。
「へぇ。」
一時間とも、十分とも、二時間とも、五秒とも、五分とも分からない。
顔を上げて、隣を確認する。
協会の人間たちは優秀だった。
私の車は大破し、私は山の中を逃げ回っている。
もう間もなく夜になる。
右目がなくなり、頬を抉られて口を閉じても奥歯が見える状態になったが、まだ生きている。
「生きてみせる。死なない。私はまだ死なない」
自分に言い聞かせているわけではない。起業セミナーに行った人たちがやりがちな口に出すことで運を味方につけるという、およそ恥ずかしいあの方法ではない。
自分に語っているのである。
あぁ、結局は同じか。
喉が渇いたが、飲めるような水は見当たらない。
森は私を隠してくれるほどに鬱蒼としているが、この明るさでは、まだ見つかる確率は高い。
時間に助けてもらうのが最適解だろう。
私は自分の人生設計をしっかりと行っていた。まず、マネジメントでしっかりと結果を残した後に起業をする。内容は殺し屋や連続殺人鬼などの裏社会で生きている人間たちが、表の社会で活動したいと考えた時の隠れ蓑になる戸籍や学歴、社歴等を作るというものである。裏と表の橋渡し的な役割ではあるので、おそらく業務は多岐にわたるし、顔を使い分ける必要がある。やりがいはありそうだ。
だから、死にたくないのだ。
金持ちにもなるし。
権力も手に入れるし。
幸せになるし。
人を顎で使うし。
私が頭を下げた回数以上に、社会が私に頭を下げるまでの人間になるし。
世界が注目する人間になるし。
一番になる。
誰も歯向かえない一番になってみせる。
「そこにいましたか」
上司が十メートルほど先から息を切らしながらこちらを見ていた。ネクタイを緩めてシャツのボタンを開けている。
私は足に力を入れて逃げようとする。
「待ってください。違います。いや、違くはないのですがね。まぁ、結局あなたを殺すわけですが。その、話したかったのですよ。あなたと。よく考えてください。もう、部下とか上司とかそういうもは忘れて、ね」
上司が煙草に火をつけて咥えると、煙草の箱とライターをこちらに向かって投げた。
「あなたが煙草を吸っている姿を見たことはありませんがね。昔の殺し屋仲間に聞いたら、喫煙者だったと教えてもらいまして、どうぞ。あぁ、毒はぬっていませんし、ライターも爆発するとかそんなちゃちな仕掛けはしていませんから、どうぞ安心してください」
私は上司が投げた煙草の箱とライターに近づくと足で踏みつぶして、そのまま蹴り飛ばした。
上司が鼻で笑う。
私もつられて鼻で笑った。
「部下である君に、いや元部下である君に話すことではないかもしれませんが。まぁ、聞いてくださいよ。妻が出ていったんです。なんで、出ていったのかさっぱりわからないものですから、こちらから反省点を探すしかなくてですね。もう、てんやわんやですよ。出ていく前に家中にゴミをぶちまける人がいますかね、普通。私はまず部屋の掃除から始めたんですよ。正直、妻より綺麗にできましたよ。料理もできますから、妻より美味しいものを作って、三食満足しています。そうなんですよ。私、完璧すぎるんですよね。やろうと思ったものは大体できちゃうんです。よくこういうのを器用貧乏とか言うんでしょうけど、私は器用ではありますけど別に貧乏ではありません。器用富豪というのが適切だと思うんですよ。笑っちゃうでしょう」
風が吹いた。
紫煙はかき消されたが、また直ぐに上司の周りを漂い始める。
「また、離婚になるんですかねぇ。お金が出て行ってしまいますよ」
上司は私の顔を見つめると目を細めた。
「今までこういう話をしなかったじゃありませんか。まぁ、だからこそ、相性が良いだろうということで組まされたのかもしれませんがね」
遠くで誰かの声が聞こえる。
「大丈夫ですよ。完璧に区画分担をしてこのあたりを探っていますから、大きな声を出さなければ見つかりませんよ」
「私は死にますか」
上司が腕を組み、首をかしげる。勤めていた時はそんな仕草など見たこともなかった。
「死にますね。というか、死なせますし、殺します」
「協会はなんと」
「あなたには、あなたとは無関係な罪も背負わされることが決定しています。まぁ、死人に口無しというやつですよ。汚職もそうだし、裏金の話も出ましたねぇ、そうそう何人か殺し屋同士が潰し合いをしてしまったそうですが、それを裏で糸を引いていたのはあなただということになりました。どうせ、消えてなくなるのだからすべての黒幕になってもらいたいということでしょう。非常に効率的かつ当たり前の考えであると思いますね」
「随分と、冷たいですね」
「でも、あなたがこちらの立場だったらそうしたでしょう」
もちろんだとも。
もっと多くを押し付けて、面倒ごとを処理したはずだ。身内まで洗って利益を最大化しただろう。
「少し、この事件について話しをさせていただきますがね。ステイシーとラヴが監視カメラに映っていたことについて、あなたはどう思うのですか」
「今、冷静に考えてみて、ただの合成だった。つまり、私ははめられたのだと思っています」
「ほう、誰にはめられたと」
「例えば、あなたとか」
上司は微笑んでいた。
煙草がよく似合う。
「何故、私だと」
「あなたは、ステイシーかラヴか、それとも両方のことを愛していたとか」
上司の表情が変わった。
煙は白いままである。
「何故、そう思うのでしょうか」
「人事から聞いたことがあります。昔、あなたがステイシーとラヴをマネジメント部門に推薦したけれど、却下されたこと。そして、その後に、私を推薦したこと」
「ただの気紛れなんですがね」
「あなたは、二人を性のはけ口として使っていた私を許せなかったのではありませんか」
「今現在、私は結婚して子どももおりますが」
「むしろ、二人のことを忘れるために結婚をしたし、子どもを作ったのでは」
煙草が地面へと落ちる。上司の革靴が踏みつぶす。
立ち上る煙もない。
「羨ましかったのですよ」
上司は微笑んでいた。それは少しばかり話が通じたことと、その中で自分の優位性を示すことができたためだろう。
子どもじみている。しかし、皆そうなのだろう。
私だってそうだ。
「上司であるあなたに、部下として、これからも逃げ回る者として、聞きたいことがあります」
「なんでしょうか。聞きましょう」
「死人に話しかけられる体験をしました」
「ほうほう、それで」
「いえ、質問は以上です。すみません」
「いや、まだ話しましょう。中々気になる発言です」
「私が話したくないのです」
結局、分かり切っていたことだ。
上司の策略によって呪われていた訳だが、気が付けばステイシーとラヴにも呪われていた。場合によっては、ツバキノにも。
これから私は呪い殺されるのだ。
「では、今度は私から。あなたの上司ではありますが、上司としてではなく、男としてでもなく、単純に一人の人間として質問があります」
「どうぞ」
「結局、あなたは幸せになれたのですか」
私が一番知りたいことだ。
答えられないまま時間が過ぎると、上司は軽く頷いて紫煙を吐き出してみせた。
「明日、一気に人数を増やして捜索を行います。その時に見つかったら殺します。いや、惨たらしく殺します。まぁ、今日はこのへんで」
「私を逃がすということですか」
「まぁ、今日殺しても、明日殺してもたいして変わりませんしねぇ」
「そうですか」
「人間の寿命を八十年とするなら、いつ死のうと差は常に八十年以内。最大値よりも大きい差は生まれないわけですから、大したことはないでしょう」
上司が後ろを向いて遠ざかっていく。
「八十年は大きな差だと思いますが」
上司が振り向く。
「そう思っているのなら、もっと賢く生きるべきだったのでは」
私は地面に座りこんであくびを一つした。体から血が抜けていくのが分かる。服が濡れて体が冷えてしまうと体力が奪われるため、少し心配になる。
生きたい。
死にたくないのだ。
体の感覚が徐々になくなっていくのに、意識ははっきりとしている。息苦しくなる。
そうして、夜が来た。
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