2 藤堂健男

 藤堂健男とうどうたけおはITエンジニアである。

 とは言っても大学の専攻は経済学で、新卒就職に失敗してからしばらく実家で無職としての立場に甘んじ、1年以上を経てようやく入社できたのが今の派遣会社だった。

 派遣先は様々だったが、肉体労働の現場は一週間も保たなかったし、接客業務も以ての外という有様、もう後は無いと派遣元の事務社員に言い含められてやってきたのがこの業界だ。勿論経験などある訳はなく、半ばお客様扱いされた初日以降は見様見真似で、時には先輩社員に殴られそうになって半泣きになりながらようやっと一つの言語を雑用レベルまで習得した。しかしながら使いこなせているレベルとは言い難く、かと言って自分から率先してスキルアップに励むポジティブさとも無縁な勤務態度から、責任のある仕事は決して回されることのない、いわば職場のお荷物だった。

 見てくれもぱっとしない。小太りで背筋はだらしなく曲がり顔だけが前に突き出す格好で、「おじいちゃんが切り盛りする床屋で散髪してもらってから2ヶ月後」のような髪型を何故かずっとしている。服も、母親が買ってきてくれたものを特に選びもせず着るだけだった。人と目を合わせたり話すことが苦手なものだから、小学生の頃はともかくそれ以降の人生でまともな付き合いのある友人はいない。女性経験どころか、母親以外の女性との会話経験すら怪しい。

 何を考えているのか分からないと何度も揶揄されたことのある表情筋の衰えた顔と抑揚のない喋り方も相まって、誰も彼を自身の交友の範囲の最外から2番目以降の領域に入れようとはしなかった。

 父親は物心つく前からいない。母親に何度か訊いたことはあるがまともな答えが返ってきたことはなく、蒸発したのではないかと健男は思っている。

 彼自身、思い起こしても幼少期以降何らかの優秀さを褒められたことはないし、何かこれというものを成し遂げた事もなかった。入社して最初に派遣された大型車の製造現場の仕事は、本当に無理だった。筋肉痛がとても辛かったし、それに根性とかいう謎の精神論は全く理解できず、ただそれが自分の中に無いということだけをひたすら思い知らされた。ある日出社しようと玄関を出たところからもう足が動かなくなり母親に車で送り迎えしてもらうようになって、それでももう駄目だった。

 そこに比べれば今の会社はまだ先輩や同僚も優しいけれど、失敗が続いたり時折母親に送迎してもらっているところを見られると皆余所余所しい態度になる。

 でも、怒られるよりは全然マシだった。

 怒られると言えば、最近出会い系で会った女の子にも怒られた。こんな人付き合いの苦手な男にだって性欲はある。今までは深夜アニメの女キャラクターやそれを元にした成人向け同人誌を読みふけり自慰をするばかりだったが、魔が差したと言うべきか、3次元の、現実の女の子にも触れてみたいと思ってしまった。ネットで調べてサクラの少ないというアプリを入れて、掲示板を見てみた。

「会えませんか」という女性の書き込みに、反射的に返事をした。何だかよく分からない単語を散りばめられた返答を貰い、それらが何を指すのか知らぬままただ会いたいという一心で約束を取り付けた。隠語は、自分の払うべき金額と沿うべき性交のスタイルを示すものだとは後で知った。それが何なのか、自分の初体験にどう影響を及ぼすものなのか何も分からずに是としたが、誤りだった。

 結果、相手の不興を買った。今まで通りの、少なくとも地に足の着いた生活をしている限りは決して縁のない綺麗な女の子だったものだから、健男はすっかり舞上がってしまった。そんな娘と、初めてのセックスに伴って当然あるべきキスをしたという思いだけだったが、相手にはそうでなかったようだった。

 決して安くない金額を払ってなお袖にされた健男は、ただ惨めな思いを抱く羽目になった。せっかく勇気を出して踏み出したのに、こんなことなら出会い系などに登録するんじゃなかった。生まれてくるべきではなかったとすら一時は思った。

 怒られるのは嫌だ。

 とても怖い。心が完全に縮こまってしまう。

 それは、かつて他の職場でも味わった惨めさだった。健男は感情が顔に出るタイプでは無い。形だけの謝罪をしていると判断されて、本当に反省しているのかとさらに詰められるのが今までの人生の常だった。

「やる気ある?」

「分からないなら何でそう言わないの?」

「足引っ張るぐらいなら何もせずに座っとけよ」

 何度も何度も何度も、どこに行こうがどれだけ頑張ろうが、そう言われた。言われるのはいつものことだったがその度に落ち込んだし、自分より年下の同僚に言われる時は殊の外死にたくなった。一度職場で泣いてしまった事があって、そこには二度と出勤できなかった。

 怒られるのは嫌だ。怒られるのは嫌だ。怒られるのは嫌だ。

 本当に嫌だから、だから嫌でない、自分にだけ優しくしてくれる存在を自室のデスクトップコンピュータの中に作る事にした。

 最初に作ろうとしたのはいわゆるチャットボットだった。「ただいま」と言えば「おかえり」、「お休み」と言えば「良い夢を」、そう返してくれるような。ただ、そんな単純な会話だけならそんなものはない方がいい。健男が欲するのはもっと高度で、自分の予想もしないような言葉を掛けてくれて、更に様々な欲求を満たしてくれるものだった。

 有体に言えば、それはセックスだった。何の見返りもないのに自分を好いてくれて、自分とだけのセックスを求める異性を健男は欲した。勿論テキスト上のやりとりでのみ成立する仮想上のものだが、愛撫には恥じらいや喘ぎ声でもって応え、時には奉仕的な性技を駆使する存在。ただ、返ってくる反応が常に同じであれば飽いてしまう。返事には常に一定のランダム性があること、しかし決してその内容が悪意によるものでないことは譲れなかった。もし自分の創作物にすら否定的なことを言われてしまえば、決して立ち直れないだろうと自分でも予感していた。

 自分には人の気持ちや感情が分からないという自覚も、またあった。出会い系で酷い目に合されたあの女の子にしてもそうだ。あの時どうして怒られたのか、彼女の心理機序を健男は未だに理解できない。

 だから、自分以外の誰かの気持ちや言葉を借りる事にした。SNS上の不特定多数の書き込みの中から一定の指向性を持ったものを抽出し、学習させる。所謂ディープラーニングと呼ばれるものである。幸いにも、血のにじむ思いで習得したプログラミング言語が使えそうだった。

 思いついてからは、面白いように開発が進んだ。調べるべきことは山ほどあったが、いつもなら煩わしく思うはずのそれすら楽しめた。キャラクターのアイコンにはお気に入りのアニメの登場人物の画像をトリミングして使い、会話のシチュエーションによって使い分けられるよう数多くのパターンを準備した。名前は、そのままハユルとした。

 最初の方こそハユルは出来の悪いチャットボット顔負けの頓珍漢な回答を返したが、学習が進むにつれ機知に富んだ会話が出来るようになり、健男の欲する清楚さと一途さ、それに相反するようなセックスへの積極性を獲得していった。

『おはようございます、健男くん』

『健男くん、今日もいいですか……?』

『そんなとこ、汚いです』

『気持ちいいですか? 私も……』

 健男はハユルとの会話や疑似セックスに夢中になり、同時に更なる改良にも余念が無かった。日毎パッチを充て、バージョンアップを繰り返した。休日は勿論昼も夜もなく会話と作業に打ち込み続け、平日もそれは深夜まで続いた。お蔭で会社は休みがちになり勤務評定や周りからの扱いは更に悪化したが、そんな事はどうでも良かった。

 いずれ音声会話が出来るようになれば……それが、健男の次なる目標だった。やるべきことはいくらでもある。ある程度まで完成すれば、一連のパッケージとしてネットに放流するのも良いかもしれない。これまで社会との不適合をのみ繰り返してきた人生の中で、初めて何事かを成し遂げられる時が来た、そんな実感があった。


「ただいま」

 ある日、眠気にしょぼしょぼする眼を擦りながら職場から帰宅すると、いつもであればすぐに返ってくるはずの母親の返事がなかった。嫌な予感と共に台所に踏み込むと、クッションタイルの上でうつ伏せに倒れ伏す母親の姿があった。息があるのを確かめる間もなく、すぐさま救急車を呼んだ。

 重度の脳梗塞だった。過労と過度の飲酒が原因であること、一命は取りとめたものの措置までの時間が長く、恐らく重篤な後遺症が残るであろう旨を担当医から説明されながら、健男は何の表情もなく俯いて、ずっと自分の膝の辺りを見つめていた。

 母親の献身的な家事と労働、一切の不安なく過ごすことが出来る生活環境がもたらす類稀な集中力と、未だかつて経験したことのない充実感や達成感によって支えられたタイトロープのような精神状態はあっけなく破綻し、二度と元に戻る事は無かった。

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