4 ジェフリー・ハリントン

 ジェフリー・ハリントンは都市開発庁で物流政策グループのセクションチーフを務めている。

 時刻は10時を過ぎたあたり、ひとつお茶でも飲んで、それから書斎に戻って仕事に取り掛かろうという頃合いだった。

 柔らかい午前の光と半導体シャンデリアが照らすダイニングルームでジェフリーはローズウッド調の厳めしい椅子に座り、壁に投影されたニュースを眺めて憂鬱な表情をしている。

「どうなさったの、ハニー?」

 そこにルーシーがコーヒーサーバーを片手にやってきた。何を言わずとも、ジェフリーが毎日この時間にダイニングで一休みすることを心得ていた。

「いやなに、悲しいニュースを観ていただけさ」

 ありがとうスウィーティ―、と画面から目を離し、ルーシーに微笑みかける。吊り上げた口の端が、伸ばした髭に隠れた。

「あら、悲しいニュースって、どんな?」

「色々さ。戦争は世界中で起きているし、貧困だってそうだ」

「優しいのね、ハニー・バニー」

 眉を上げて笑いながら、腰を屈めてコーヒーを注ぐルーシーの頬にキスをする。

「ねえ、散歩にでも出かけないか?」

「お仕事はよろしいの?」

「少しぐらいどうってことはない」

「じゃあ、おめかししなくちゃ」

 ジェフリーは吹き出してしまった。

「ただの散歩だよ」

「でも」

 ジェフリーはうーん、と悩んでルーシーの頭のてっぺんから爪先までを眺めまわす。

「じゃあ今日は、西アジア系にしようか。髪はそのままでいい。胸はもう少し大きく」

「いいアイディアね、ファッションは?」

「21世紀、西海岸風」

「オーケイ。ちょっとお待ちになって」

 スキニーパンツに包まれた丸いお尻を振りながら、ルーシーが部屋を出ていく。自室で身体パラメータとテクスチャを調整するのだ。

 ルーシーはセクサロイドだった。とは言え、その呼び名はいささか古く、また品位に欠ける言い回しとされる。現代の、ジェフリーの属する社会階層ではただと呼ばれることが多い。

 勿論、戸籍上の妻は別にいる。ライラという12歳年下の女性で、直接会ったことは一度もないが、毎日のように近況は報告し合うし3日に一度は必ず通話する。血の繋がった子供だっている。ジェフリーとライラの子どもが3人、ジェフリーと別の女性の子どもが3人、残りはライラと別の男性の子どもだ。全員が人工子宮による、所謂だった。ジェフリーは、善き父親としてまた善き伴侶として、苦痛とリスクを伴う自然出産を避ける義務があると考えていたし、それはジェフリーら中上流階級市民にとってはごく自然な選択だ。性行為と妊娠出産を完全に分けて考える事が一種のエチケットでありステイタスであると、幼少から様々なメディアに触れ教育を受ける過程で意識下に刷り込まれている。伴侶と直接顔を合わせなくとも愛情は確認し合えるし、性的な欲求はパートナーがその解消を請け負う。これは実に合理的なシステムだとジェフリーは思う。男性との性行為の際はパートナーの膣分泌液が精子を理想的な環境で保護するゼリーの役割を果たし、翌日にでも回収してしかるべき手続きを踏みさえすれば母体を痛めることなく行政あるいは民間企業の管理する人工子宮の使用権限を得られるし、やや割高の出費に目を瞑れば複数の子宮を同時並行的に使用することも出来た。女性とそのパートナーの性行為やホモセクシャル同士の場合はもう少し話は複雑になるのだが、基本的には変わらない。

 人生とはつまるところ手続きの連続であるというのがジェフリーの持論だった。そのひとつが生殖で、それは人間の持つ基本的な権利である一方、行政や行政が判断を恃むAIが優先して遺伝子を残すべきであると判断した人間のそれは義務でもある。同時に、パートナーの所有は富裕層にのみ許された特権であらねばならない。事実、パートナーを手に入れるにはいくつもの審査に合格しなければならなかった。

 当然、その恩恵に与かることの出来ない人間も多数存在する。地球上の大半の国家が解体・統合される傍ら、同じ文化圏で暮らすはずの市民間の経済格差は依然として存在し、解消に向かうどころか根はますます深くなる一方だった。彼自身も視察と称して何度か百階層近く下の貧民街を訪れた事があるが、階層の基本設計や市街地の明度はここと同程度だというのに肌で感じる雰囲気は薄暗くニュースで見るよりもずっと殺伐としていて、短時間の滞在ですら現地のガイドに嫌がられた。機械やAIが肩代わりできるはずの単純労働や管理労働をコストが嵩むからという理由だけで投げ出され、今もほぼ全員が自然生殖を余儀なくされている階層市民たち。無論彼らにとっても生殖は重要な権利だろう。昔ながらの産めよ増やせよのスタイルはジェフリーの好みでは全く無かったが、それも彼らの選ぶ手続きなのだ。例え選ばざるを得なかったものだとしても、自由意思の自由性が社会構造に制約される以上は致し方ないことだった。


 調整の終わったルーシーを連れ、ジェフリーは自宅を出た。

 ルーシーはジェフリーの希望通り、蜂蜜色の肌にくっきりとした黒い眉と同色の艶やかな黒髪に、ざっくりとした淡い色のカラーシャツと、白いコットン調のパンツを身に着け爪先の尖った踵の低いサンダルを履いている。ジェフリーの方は部屋にいる時と同じく、チノパンに襟の付いたワインレッドのカーディガン姿だった。

「お散歩って、どこに行かれるの?」

「その辺さ、ハニー、本当にただ歩きたい気分なんだ」

「ええ勿論、喜んで」

 アパートメントを出ると、調整された人工光が心地よい刺激を網膜に与えてくれる。ここは標高10000メートルを超える高所だが、気圧は完璧に調整されていた。

 今や地球上の都市はパイ生地のような無数の階層をなしている。下は海抜マイナス30000メートル、地殻の最も底であるモホロビチッチ不連続面の少し手前から、上は赤道面の軌道エレベータを除くならば成層圏の半ば、およそ海抜20000メートルまで。構造体の材料不足は、各階層の密度を極限まで下げることで解決している。その結果が今ジェフリーとルーシーの眼前に広がる、一見果ての無いような都市空間だった。天井の高さは200メートル程度だが、横方向には殆ど無限に広がる様に錯覚してしまう。天井を支える柱は、構造体と同じ建材を使用した高層ビルディングがつっかえ棒のようにその役割を担っている。

 二人が歩を進める遊歩道は、市民の憩いとなるよう設計された公園の一部だった。緩やかな曲線を描く歩道は時に交差し、時に上下に重なり、贅沢にも本物の植生を惜しみなく散りばめている事もあって、有機的な広がりを感じさせる空間だと市民からも評判が高い。基礎設計に悩む同僚にジェフリーの施したアドバイスが採用された結果であることは、彼の密かな自慢だった。

「さっき部屋でぼくが観ていたニュースなんだけど」

 ゆっくりと肩を並べて歩きながら、ジェフリーは話題を戻した。

「ええ」

「本当に悲しいニュースだったんだ」

「というと?」

「選挙速報さ、北米連邦の事務局長が替わる」

「まあ、そうでしたの」言葉の割に、ルーシーは驚いたような口ぶりではない。

 まだ連邦共和国だった頃のアメリカで敷かれた猟官制は、未だ健在だった。

長官以下の幹部の首が挿げ替えるられるのであれば、ジェフリーもまたその影響を受けざるを得ない。良くて降格だろうというのが手堅い予想ラインだった。

 ルーシーは、ジェフリーが今の地位を得た時に福利厚生の一環として省庁より貸与されたパートナーである。降格となれば、もう5年以上もベッドだけでなく私生活のほぼすべてを共有した彼女を速やかに、謹んでお返ししなければならない。ジェフリーは彼女の身体パラメータで変化する表層的特性のさらに奥にある何か――微笑む時の首の傾げ方のような、ちょっとした癖なども含めて――にも愛着を覚えるようになっていたが、仕方のない事だった。そう思うと、口に出さずにはいられなかった。

「もうじきお別れだ」

 ルーシーは彼の心境を知ってか知らずか、曖昧な微笑みを返すばかり。

 ジェフリーは溜息をついた。各省庁の縦割りはもうずっと前に姿を消した大洋の海溝さながらに深く、各セクションの最終的な意思決定が誰によってなされているのか、それは本当にAIでなく人間の決定であるのか、セクションチーフという地位にまで上り詰めたジェフリーにも定かではない。もし後者であれば、古くからの伝統であるこの交代劇も単なる茶番に過ぎないということになる。

 だが、今更騒いだところでどうにかなるものでもない。

 これもまた人生の手続きだ。そう思った。

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