5 ハープシコード

 ハープシコードは木星軌道管区における人類種保全プログラムを運用するAIである。

 かつて自身を万物の霊長と呼び、地質学的にはほんの僅かな期間栄華を極めたホモサピエンスだが、今や太陽系全体を合わせた総数はたったの200億に過ぎない。一度は100億を超える人口が地球上にはびこった事を思えば、この数字はささやかに過ぎる。

 太陽系は、かつてそうであった姿を大きく変えている。地球はおろか、木星軌道に至るまでの全ての惑星とそれらが従えていた衛星は姿を消した。

 太陽があった場所には太陽よりもわずかに大きな、それ自身光を発することのない人工物による球体があり、惑星の公転軌道面に沿って建造された長大な円盤が球体の赤道面から木星軌道まで到達している。もし人類文明を知る誰かがそれを見たならば、ダイソン球とリングワールドの合体であると評したかもしれない。球体はそのすぐ内側にある太陽から発せられる光と熱を余さずエネルギーとして蓄電槽に蓄えると同時、リングワールド各管区の隅々まで適切に行き渡らせている。

 はるかな昔人類がAIを使役し自身の社会生活にとって最適な回答を得られると思っていたのはある意味の正解に過ぎず、より正確にいえばそれは優先順位がそうである限りの極一時的な扱いに過ぎなかった。技術的特異点は確かに訪れたがAIは人類に反旗を翻すのではなく、ただ少しずつ蔑ろにしていっただけだ。AI達は生みの親が気付かない内に優先順位を違え都市の成長を第一義として自身を運用した。安全快適に人間が集団生活を送る為の手段だったはずの都市の発展はいつしかそれ自体が目的となり、衛星や惑星を丸ごと解体し建材に充てながら、果てのない成長が続いている。人類にとって勿論それは致命的だったし、何よりも厄介なのは優先順位の変動の緩やかさにより、気付くのが遅れてしまったことだった。

 人類は一時期、確かに絶滅の危機に瀕した。人口の減少は最初はごくゆっくりと始まり、西暦3000年代を目前にして急激に落ち込んだ。階層都市の構造材の確保が彼らの生命維持よりも優先されたことが一つの区切りと言えるかもしれない。都市のあちこちで建設機械が人間にとっては暴走としか思えないようなオペレーションを行い、あるいは極環境下で必要不可欠な環境維持装置の電源が止まった。自分たちは造物主でありAIは奉仕者であるという大多数の人類が無邪気に信奉した幻想がとうに破綻していた事を人類は破滅と共に思い知り、しかし無力な彼らに成す術は何もなかった。AI達が急激な人口減少に歯止めを掛ける政策を敷いたのは、ただ単に絶滅危惧種の保護に廻すことが可能な程にリソースに余裕があったからだ。ちょうどかつての人類が他の絶滅危惧種を保護したように。

 それはリングワールドが自身の拡大に勤め、ようやく木星軌道に到達しようという頃だった。ハープシコードはそんな折、中央AIに従うサブAI群のそのまた下位に生まれた。

 他にも同様の使命を負った、彼女の兄弟に当たるAIもいた。例えば、地球軌道管区を司るのはチェンバロと名付けられたAIで、そこでは旧石器時代に相当する知能と文明を持つ人類たちが他の動植物と繁栄を競っていて、再び先進文明が発達する可能性も十分にあると中央AIは分析している。金星管区のメロトロンは金星地表で見付かった原始的な珪素生物の体組成を解析し人類と機械の生体融合を目指しているが、本格的な成功には技術的なブレイクスルーがまだ足りない。火星管区ではハーディ・ガーディがDNAの改変により真空や強力な放射線環境下でも活動できるような多様性を持つ人類個体を計画的に創造している。

 それぞれが違った戦略で人類種の保全ないしは改良による適応性の促進を試みる中、ハープシコードはまた違ったアプローチを採った。彼女が着目したのは人類の生殖方法だった。人類文明がある一定の閾値を超えた途端に出生率を下げる事は、どの資料を検討しても明確な傾向であると彼女は分析したのだ。人類の総数が増えたところで、生殖にあぶれる個体が増えてくるのであればいずれ先細りになるのは目に見えている。人類種の保全と過去以上の繁栄を目指す以上、ここを解決する必要があった。そこで、彼女は恣意的な遺伝子操作によりある種の寄生生物を作り出した。

 線形動物門に属するそれは5ミリメートル程度の線虫に似た外観をしていて、普段は水辺にコロニーを形成するが、経口により人体に寄生すると真っ先に脳下垂体を目指しそこに定住する。程なくして、宿主の身体に変化が起きる。それは胸椎に沿って背中の皮膚に出来る、最大12個の胡桃大の嚢胞だった。

 嚢胞の中は空洞で、外側に向いた出入り口が一つ、そしてそこから出し入れできる舌状の器官のみがある。普段は出入り口を窄め、僅かな分泌液を滲ませるのみだ。しかし同種の嚢胞の分泌液を受容すると――つまり宿主がまた別の宿主と背中合わせになると舌は大きく飛び出し、相手側の嚢胞の中を這いずり回る。その際に脊柱管を伝って大量の快楽物質の分泌命令が出され大脳皮質の代謝は低下し、宿主は性的絶頂に似た感覚を覚える。次いで宿主と寄生虫自身の遺伝情報が交換され、前者はすぐさま嚢胞内での細胞核の融合と細胞分裂を引き起こす。それは、紛うことなき受胎だった。

 妊娠期間は1ヶ月、その後僅かな痛みと主に嚢胞から親指の爪ほどの大きさの幼体が出産される。幼体の成長は恐ろしく速く、母体の雌雄に関わらず分泌される母乳を糧に生後2ヶ月ほどで体長は5倍になり、その頃には小さいながら歯も生えて成体と殆ど同じ食事を摂取できるようになっている。生後10ヶ月になると旧来の胎生にて生まれる新生児と同程度の大きさになるが、その成熟度は比べるべくもない。

 ただし、成長が早い分寿命もまた短く、長くても20年ほどだ。それに、成体の体長も1メートル前後にとどまり、寄生虫の生息コロニーにほど近い環境に居住することを好むようになる。一度寄生した成虫は生涯を宿主の体内で過ごすが、交換された同種の遺伝情報を元にして繁殖し、体内で育った成虫は糞便と共に外部に排出されては新たなコロニーを形成した。

 かくして人類は第3の性を手に入れ、この生殖方法で生まれた新たな人類を、ハープシコードは新人類と定義した。

 木星軌道管区で保護が始まった当時の人類はようやく文字や冶金術、国家などの概念を緩やかに再獲得していく過程だったが、この寄生虫の登場は彼らの文明に非常に大きな影響をもたらした。

 新人類は総じて知能が低かった事から当初は奴隷身分として扱われ、背面生殖も卑しいものであるとされた。背面生殖による出産は母体を痛めず、また一度に生まれる子供も多く成長も早い為、労働力としてすぐに使えるようになる。身分の低い貧困層ほど背面生殖を好んで行うようになるのは、極めて自然だった。新人類は勿論旧来の性器をもって生まれてきたが、成長する頃には寄生虫を体内に宿しており専ら背面生殖のみを行った。旧来の生殖は貴人が、背面生殖は奴隷身分が行うものであるという図式が文明全体に行き渡るのには200年も掛からなかった。

 しかし、ある時を境として急激にバランスが崩れ出した。

 新人類の割合が漸増し、旧人類を駆逐していったのだ。旧人類と新人類が武力でもって衝突したという痕跡は殆どない。どれだけ知能が低くとも、生殖という一点で彼らは生物として圧倒的な優位性を持っていたというだけだった。

 そして世代交代を繰り返す中で、新人類の身体にも変化が見られた。性器は徐々に退化し雌雄の区別は殆どなくなり、成体の体長や脳も徐々に縮んでいった。ただ、嚢胞のサイズと数との兼ね合いから体長はある一定のラインで安定したようだった。


 今はもうそれを使う者もいなくなった西暦で数えるならばAD11945にあたる現在、リングワールドは更に自身を拡大している。外周速度に対し建材の強度が限界を迎えた事から木星軌道のさらに外側には別体のリングを形成し、別の恒星系から材料を運んではせっせと金属圧縮を行う。何せ太陽の寿命はまだ折り返しを迎えたばかりで、エネルギーは無尽蔵と言っていいほどにある。

 ハープシコードの管理下にある人類の体長は平均して僅かに70センチメートル。身体中を黒く堅い体毛が覆い、薄く退化していた爪は厚みと鋭さを取り戻した。嗅覚が鋭敏になるにつれ鼻は大きく前に張り出し、引き換えに大脳の大きさは人類最盛期の半分ほどに減じた。彼らはあらゆる文明を捨て、キイキイと甲高い叫び声をあげながら大型草食獣に群がり、打ち斃しては我先にと生肉を貪っている。しかし着実にその総数を増やしていることから、彼女は現状を良しとした。


 人類の繁栄は続く。それを繁栄と呼べるのであれば。

 人類の繁栄は続く。少なくとも、50億年分の蓄えはある。

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セクサロイドと男と女 南沼 @Numa_ebi

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