エピローグ

再び歩きだす

 なだらかな丘の上に小さな修道院が建っている。灰色の石で造られたもので、点々と苔がむしている様子からその古さがうかがえる。


 ここから平原を見渡せば、深緑の草地と、さらに深い緑の葉を茂らせた森が広がっている。今日は朝から小雨が降っていた。空はまだ薄暗く曇っているが、ところどころに雲の切れ間が生まれ、日差しが地平線の先を白く照らし始めていた。


 尖塔の窓から離れ、階段を下って敷地に出た。こぢんまりとした敷地は墓地となっていて、腰の高さほどの石の塀に囲まれている。墓石は二十基ほどで、質素だが、どれも手入れが行き届いている。


 墓地の中の芝生を進み、ある墓石の前でロザリアは片膝をついた。


「待たせたな。今日は庭で、白バラを摘んできたんだ」


 墓石に語りかけながら、手に持っていた白バラの束を半分に分けて、そっと置いた。


「……こうして弔っても、君たちが故郷を追われたことへの贖いには足りない。ここで安らかに眠ってほしいというのも、罪悪感を薄めたい私のエゴだ」


 墓石の中の者たちは、どのような思いで自分の言葉を聞いているのだろうか。ロザリアはここに来るたび、いつも同じことを自問している。


「これからも彼の分も歩き続ける。お願いばかりで申し訳ないが、どうか、それを見守っていてほしい」


 ロザリアはそう告げてから、立ち上がった。


 忙しくない時は、ここに来ることが日課になっている。あの大会以来、領内の乗馬コースを変えて、こうして彼らの死を悼むことにしていた。


 塀の向こうの平原にはベルベット・ローズ号が歩き回り、時おり立ち止まって草を食んでいる。ベルに乗れる人間は、今はもうロザリアしかいない。


 大会以降、ベルも少しだけ感情の起伏が減ったようだ。以前なら主人のロザリアと出かけることを大いに喜んでいたが、最近は乗馬している最中も、心ここにあらずといった様子が見かけられる。


 ベルがキングストン・カップに優勝したことで、ロザリアは莫大な賞金と繁殖馬の集団を手に入れた。賞金を元手に牧場を拡張し、馬たちの繁殖も順調だ。いずれは多くのサラブレッドが生まれ、数々のレースで活躍できるだろう。


 九月に開催されたセントレジャーでも、ロザリアの所有馬が優勝した。ダービーに続いてセントレジャーも勝った二冠馬は、ベルにもひけを取らない人気を博している。


 優勝に次ぐ優勝を果たし、周囲の人間はすべて上手くいっている彼女を褒めそやした。馬主としても、領地を経営する貴族としても、結果を出す彼女は社交界の中心となった。屋敷に帰れば、また新たな貴族から夜会の招待状が来ていることだろう。


 しかし、最も欲しい結果は得られなかった。


 ユリシーズ・ハーディ。今や、この騎手の名を覚えている人間は少ない。彼が表舞台に登ることは二度とない。ベルベット・ローズ号をとともに栄光を手にした男は、いずれは歴史の中に埋もれていってしまうのだろう。


 ロザリアは目を閉じ、空を仰いだ。雨はもう止んだ。自分もまた、感傷に浸ることをやめるべきだ。


 ふうと大きく息を吐くと、草を食んでいたベルが突然首を上げ、ひひんっといなないて走り出す。


 振り向くと、車イスでこちらに向かっていた人間にベルが駆け寄っていた。ロザリアが止める間もなく、ベルはその男に近づき、少々乱暴に顔を擦りつける。


「おっとと、わかったわかった……よしよし、今日はずいぶん機嫌が良いな、ベル」


 車イスの上で困ったように笑っているのはユリシーズだった。彼は右手で車イスの車輪を押さえながら、じゃれつくベルの顔を左手でなでている。


 しばらくベルはユリシーズのもとにいたが、また急に興味を失ったかのように彼から離れた。


「やれやれ。なついているのか、そうでないのか……」


 離れていくベルを見て苦笑いしていたユリシーズは、次にロザリアに声をかけた。


「よう。やっぱりここだったか」


 声をかけてきたユリシーズのひたいには、うっすらと汗が浮かんでいる。小さな丘とはいえ、自力で車イスを押して上るのは辛い運動だったはずだ。


「まさか一人で来たのかい? どうせ来るなら、屋敷の馬車を使えば良かったのに」


 今度はロザリアがやれやれと首を振って、ため息をついた。


 大会が終わった後、ユリシーズは脳出血と脊髄損傷を併発した。一命はとりとめたものの、あの日から両足に充分な力が入らなくなった。落馬の後にレースを続行したことが後遺症の原因かもしれないと医者は語ったが、彼自身はそれを悔いていなかった。


「何もしていないと腕の力がなまるからな。たまには、こうして一人で出歩くのも悪くない」


 そう言ってユリシーズは何度か拳を握り、広げる。二度と足の力が戻ることはないが、三か月経ち、他の怪我は完全に治った。上半身のみを使った生活にも慣れ、今では日常生活のほとんどは自分で解決できる。


 本人の悲観ぶりは薄かったが、ロザリアにはいまだに負い目があった。


 約束通りにユリシーズの母と弟の墓をこの修道院に移したことで、彼は病室で涙を流して礼を言っていた。こうして母と弟への弔いを改めて果たし、彼は求めていた結果を得たのだ。


 しかし、彼のこれからの人生は幸せなのだろうか。過去は清算したが、後遺症を背負ったことで未来はさらに苦しくなった。馬に乗れず、歩くこともできず、ユリシーズは年を重ねていくのだろう。


 はじめは周囲の人間も彼の活躍を讃えていたものの、落馬の後遺症により騎手を引退すると報じられると、波が引いたかのように称賛の声はなくなった。彼が森の中で落馬した本当の原因を知る人間はいない。それゆえに世間は彼の騎手としての腕を疑い、二千ギニーやキングストン・カップでの活躍を、単なる偶然と論じる評論家も現れる始末だった。


 たとえ口が裂けても、命が助かって良かったとは彼に言えない。本来ならユリシーズが手にするべき栄光を、結果的に横から奪う形になってしまった。


「さて、俺も母さんとルークに挨拶しようかな」


 ユリシーズは車輪の持ち手をつかみ、前に進みだす。ロザリアはそれを見て塀を飛び越え、車イスの後ろについた。


「押すよ。いい加減、君は頼ることを覚えるべきだ」


「……へいへい。じゃあ、頼むとするか」


 ユリシーズは後ろのロザリアの顔を見上げていたが、それから素直に前を向いて、手はひざの上に置いた。


 ロザリアが車イスを押し、墓前にユリシーズを連れていった。向かって右の墓石にはユリア、左の墓石にはルークと刻まれている。


「なんだ、もう花を供えてくれたのか」


 それぞれの墓石の前には白バラが供えられている。きれいに分けられた二束の白バラを見て、ユリシーズは微笑んだが、その後に複雑そうな顔をした。


「白バラか。ちょっとまいったな」


「なにか、良くなかったか?」


 ユリシーズの言葉にロザリアはわずかに狼狽したが、彼は吹き出した。


「ふふっ、いや、全然大丈夫なんだ。ただ……」


 そしてユリシーズは車イスの脇にしまっていた花を取り出した。


 細い茎が中ほどで分かれ、その先端にはいくつもの小さな白い花が咲いている。


「これは……」


「野バラだ。ここに向かう途中で見つけて、摘んできたんだ」


 ユリシーズが困った顔をしたのは、自分も似たような花を持ってきてしまったという気まずさのせいだった。


 二人は顔を見合わせてから、こらえきれずに笑い出す。


「まいったまいった、いくら母さんとルークが優しくても、この選び方は芸がないと言われてしまうな」


「良いのではないか? ちょうど白で統一されて、見栄えは悪くない」


 そうして笑い合ってから、ユリシーズは腕をうんと伸ばして野バラを置いた。墓石には白バラの大輪と、つつましく咲く野バラが供えられた。


「ありがとう、ロザリア」


 二人の墓石をながめていたユリシーズが、小さく礼を言った。


「いつもこの時間に通ってくれているんだろう? あんたの使用人は行き先を濁していたが、さすがに分かる」


 ユリシーズがロザリアに顔を向けた。彼女はうなずいたものの、その表情は曇っていた。


「どうした?」


「別に、感謝されることではないよ。ベルに乗って走る途中にここを通るから、そのついでに寄っているだけさ」


「へえ……まあ、それでも俺は嬉しいんだ」


 ユリシーズは再び前を向いた。風は弱まり、雲も少しずつ晴れてきた。さわやかな秋の日差しが平原のかなたから広がってきている。


「久しぶりにあんたの笑顔が見れた。正直、ほっとしたよ」


 くすくすとユリシーズは笑っている。


「どうして、私が笑っていることで君が安心する?」


「さあ、どうしてだろうな」


「ちょっと、ふざけているのか」


 ロザリアは少し不機嫌そうに言ったが、ユリシーズは首を振った。


「ふざけてなんかいない。最近、あんたが笑っていないのは屋敷のみんなが知っている。他の大会も順調に優勝したのに、なにか不満でもあるのか?」


 この問いかけに、ロザリアは困った顔をした。


 少し間があってから、ユリシーズが顔を逸らした。


「えっと、うーん……良いんだ、この話はやめよう。俺に相談しても仕方のないことだってあるだろうしな。今のは忘れてくれ」


 ロザリアの悩みの種は女性独自の込み入った何かだと思い、気まずそうにユリシーズは話を切り上げようとした。


 しかしロザリアは車イスの横につき、そこで片膝をついた。二人の視線が同じ高さになる。


「何度目かわからないが、君に謝りたいことがある」


 彼女の目つきは真剣だった。ユリシーズは何も言わず、うなずく。


「あの大会から、君の栄光を私が奪ってきた。君には重い障害が残ったのに、今も私の名声だけが栄えている」


 大会の後、手術を経てユリシーズは退院したが、その時もロザリアは「すまない」と言っていた。病院の手配や手術費は彼女がまかなったが、彼女はそれを恩に着せることはできなかった。


「あのレースの真実を話せば、君の名誉は回復したかもしれない。それなのに、私はのうのうと……」


 唇を噛み、ロザリアがうつむく。義理を通せない板挟みに、彼女は今も悩んでいた。


 そんなロザリアを見かねて、ユリシーズは首を振った。


「その話なら、俺に不満はないと言ったはずだ。俺の落馬がジェロームの妨害のせいだと判明すれば、今度はジェロームの死因が詳しく調べられる。俺たちが妨害のことを一切言わないから、アークライト卿もあんたが怪しいと言い出せずにいるはずだ。下手にやぶをつっつく必要はない」


 ユリシーズは墓前の花に目を向けた。


「ここに足を運ぶのも、俺や、母さんたちへの贖罪のためか?」


 その問いにロザリアはうなずいた。


「それは違うぞ、ロザリア」


「……え?」


 顔を上げたロザリアの肩に、ユリシーズは手をそっと置いた。


「俺は俺のために戦った。あんたが俺に言ってくれたように、良いことも悪いことも、すべては俺の中で帰結しているんだ。この足も、俺が背負っていくものだ。あんたが背負うべきものは、何ひとつないよ」


 彼の笑顔は穏やかだった。後悔の欠片もないという意志がロザリアに伝わる。


「まあ、あんたをしつこく恨んでいた俺が言うのも、おかしな話だが」


 ばつが悪そうに頭をかいてから、ユリシーズは車輪を握って車イスの向きを変えた。


「もう帰るのか」


「ああ。少し疲れたが、俺一人でもここまで行けるとわかったからな。気が向いたらいつでも母さんとルークに会える」


 墓地から出ようとするユリシーズの後ろをロザリアはついていく。


 先ほどのようにロザリアは車イスを押さなかった。ユリシーズの苦労を背負わなければという義務感を、そっと胸の奥にしまうことにした。


 墓地を出て、草原の中を二人が進む。やわらかな風が草原を波立たせ、灰色の雲を押し流していく。二人の向かう先には、青空が広がりつつあった。


「あんたも屋敷に帰るんだろう?」


「うん、帰るよ」


「じゃあ、俺について行かなくても良いだろう。ベルが寂しがっているぞ」


 二人が後ろを振り向く。ベルは二人の少し後ろをついて来ていたが、どこか遠慮がちに脚を動かしている。


「わかった……一人で大丈夫なんだね?」


「大丈夫だ。帰るまでに雨が降ったら困るが、どうやらその心配もなさそうだ」


 ユリシーズは晴れていく空を見上げた。もう雨が降ることはないだろう。


 ロザリアは後ろにいたベルに近づき、優しく顔をなでてからあぶみに足をかけ、鞍にまたがった。


「そうだ、ロザリア」


 顔を後ろに向けて、ベルに乗ったロザリアに声をかけた。


「お願いがあるんだが、言っていいか?」


「なんだ」


「どうせ屋敷に帰るなら、ベルが思いきり走る姿を見てみたい」


 ニッとユリシーズは歯を見せて笑う。それを見てロザリアも微笑み、しっかりとうなずいた。


「わかったよ。ここからで良いのか?」


「ああ。俺はここでながめているから、丘を下りきるまで走らせてくれ」


「よし……ベルッ!」


 ロザリアの合図と同時にベルが走り出す。少し後ろにいたベルがユリシーズを追い越すと、その勢いで強い風が吹きつけた。


 一瞬、手で顔を守ってから再び前を見ると、大地を蹴って駆けるベルを見ることができた。土が跳ね上がり、行く手に並ぶ草がベルの左右に分かれ、一筋の道が生まれていく。


 その後ろ姿が力強く、美しいと思った。迷いが晴れてまっすぐ進めば、彼女はこんなにも美しい。


「それで良い。あんたが道を示してくれたから、俺は前を向いて進めたんだ。もう、あんたの背中から学ぶものはない」


 ロザリアと出会い、過去を見つめ直し、自分のすべてを賭けた勝負に勝ったことで、母と弟に報いた。失ったものは戻らなくても、亡者のようにその日その日を生きていた時とは違う。


 ベルベット・ローズ号に乗って、丘を上り切ったあの日から、止まっていた時間は動き出した。恐れるものは何もない。どんな苦しみを背負っても、晴れ晴れと歩んでいける。


 ユリシーズは懐から一本の紙巻き煙草を取り出した。入院していた頃、見舞いに来たロザリアが、いつだったか忘れて置いていったものだ。


 煙草をくわえ、マッチを擦って火を点けた。彼女が愛用している煙草の煙をゆるりと楽しみながら、遠ざかる背中をながめ続けた。

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弔いの騎手ユリシーズ 鈴村ルカ @kan-suke

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