第6話 ~ デッドヒートの結末
暗い森を抜けると平原が伸び、その先は最後の上り坂だ。スタートを切った丘の上には大観衆が集まり、どの馬が抜け出すのかと見守っている。
ロザリアは他の貴族がいる観覧席から離れ、観衆の中からレースの様子を見ている。彼女のかたわらには、ユリシーズと知り合ったリック少年がいた。
「ロザリアさん、ユリシーズさんがまだ……!」
リックは不安をあらわにして、隣にいるロザリアの顔を見上げた。続々と馬が森から抜け出してきたが、その中にユリシーズの乗るベルがいない。出遅れたか、もしくはなんらかのアクシデントに見舞われたか。いずれにしても、先頭から大きく離されているのは事実だ。
ロザリアは黙って腕を組んだまま、こちらへ駆けてくる馬たちを見ている。
強い日が差す丘を、大量の汗をかいた馬たちが荒い呼吸を繰り返して駆け上がる。先頭はジェロームの乗る馬で、後続は五~六馬身離れている。
勝負は決していないが、どの馬も過酷なコースを走り続けてきたため、ここから大きく着順が入れ変わることはないだろう。どの馬も青息吐息で走っており、ついには走ることをやめる馬も現れている。
歓声の中に喜びや諦めの声が混じっていく。賭けていた馬が先頭集団を走っていることに喜ぶ者もいれば、疲れ切っている姿を見て肩を落とす者もいた。
リックはユリシーズのことを、まだかまだかと待っていたが、ロザリアは先頭のジェロームを見ていた。
「あいつ、鞭を持っていない。使ったのか」
「え?」
「いや、なんでもない」
ロザリアはジェロームの手に鞭がないことに気づいてから、何かを口走った。リックはなんのことかわからずロザリアの方を見たが、わぁっという歓声が上がり、視線をレースの方へ戻した。
リックが丘の下の森へ目を向ける。太陽に照らされて緑に輝く森林から、一頭の月毛が飛び出した。
「ユリシーズさんだ!」
声を上げて指を差す。月毛の馬に黒い乗馬服の騎手、間違いなくユリシーズだ。そして不思議なことに歓声は止まらず、むしろ戸惑うようなざわめきが広がっていく。
「すごい勢いだ! あのドンケツの馬、追いつくぞ!」
リックの隣にいた男が叫ぶ。その言葉通りにベルは前方の集団を猛追し、あっという間に差を縮めていく。
それとともに歓声はさらに高まり、他の騎手たちは観衆の反応を見て、ようやく後ろのベルに気づいた。
大勢の人間が見ているため、進路妨害も難しい。騎手たちは必死に鞭を入れるが、どの馬もほとんど脚が上がらず、次々とベルに追い抜かされる。
「来た! 来たぁ!!」
拳を握り、目を輝かせてリックは叫んだ。
ロザリアも組んでいた腕を解き、思わず一歩踏み出して立ちつくす。
「行け……っ!」
周りの観衆には聞こえなかったが、隣のリックだけはロザリアのつぶやきを聞いていた。彼女も逆転を期待し、手に汗握りながら見守っている。
主催者陣営もベルの登場に気づき、実況の主役を先頭集団から後方のベルに移した。
「後方からベルベット・ローズ! ベルベット・ローズ号が物凄い脚で突っ込んでくる! 一頭、また一頭と抜かして駆け上がってくる! 先頭まで食らいつくす勢いだ!」
実況者の声の通りに、ベルは速度を落とさず丘を上る。苦しまぎれに馬体を振って、わずかでも進路を塞ごうとする騎手もいたが、ユリシーズはそれを軽々とかわしていく。
神がかったかのような追い上げを見せるが、これは魔法ではない。涼しい森の中で落馬したことで、ベルだけはその間に脚を休め、呼吸を整えることができた。今も体温はそれほど上がっておらず、汗もほとんど引いている。
まさに災い転じて福となす。ユリシーズは重傷を負ったが、その代わりにベルは驚異的な末脚を発揮する。
「馬上のユリシーズがここで鞭を入れた! 中間の集団を一気にかわして先団はすぐそこだ! けた違いの馬力を見せ、勝負は終わっていないぞとばかりに追い込んでくる!」
叫ぶ実況者に合わせて、観客の熱気が今日一番の盛り上がりを見せる。
地鳴りのような歓声を浴びながらも、ユリシーズは冷静を保ったまま前を狙っている。呼吸は乱れず、痛みも感じない。周囲を把握しながらも、視線は先頭にいるジェロームの背中を捉えている。
ある意味、振り切った怒りに達した時、頭に血は上らない。あるべき痛みを忘れ去るほどの怒りによって、自分ですらぞっとするほど、ユリシーズは血の気が引いている状態にまで達していた。
だからこそユリシーズは、すぐさまジェロームの異変に気づいた。
「なんだ、あいつ……胸を……」
後ろ姿しか見えないが、馬上のジェロームは片手で胸を押さえていた。またしても何らかの道具を出すつもりかと思ったが、その可能性はないと考えた。観衆の目がある場所で、ポケットから物を取り出して使うことは不可能だ。
だとすれば、あの仕草は何を意味するのか。その理由を考えながらも、ユリシーズは前を走る馬たちを視界に収め、進路をふさがれにくい最短ルートを選択して進む。
ちょうどその時、ロザリアは隣のリックの肩をつかんだ。
「え? ロザリアさん?」
リックはロザリアの顔を見上げたが、日差しがまぶしいせいで、彼女の表情がよく見えなかった。
「やはり使わせたか」
そのつぶやきの後に薄い雲が太陽にかぶさった。もうロザリアはユリシーズの方に目を向けていた。
はたして見間違いなのか。日光がかかっていた時、彼女はまたしてもジェロームの方に視線を向け、心なしか笑みを浮かべているようにも見えた。何かに喜び、無意識に人の肩をつかむほど興奮しているようだった。
「前の騎手も懸命に鞭を振るう! しかし並ばない、並べない! 先頭を進むノーブル号の背中を、ベルベット・ローズ号が差しにきた!」
リックは再びレースの方へ目を向ける。前に固まっていた六、七頭の外からベルが現れ、それをかわして前から二頭目におどり出た。ジェロームの乗るノーブル号まで三馬身の差だ。
ジェロームの左後方につき、ユリシーズは先頭を狙う。進路を邪魔されないよう横の距離を保ったまま追い越そうとした時、ジェロームの様子がやはりおかしいと気づいた。
「どういうことだ、体調不良……いや、発作か何かか?」
ななめ後ろからジェロームを見ているため、先ほどよりもその様子が確認できる。ジェロームは胸を押さえ、口は大きく開いている。さらに頭もうつむき気味だ。あれでは前をしっかり見て騎乗することはできない。
何が原因なのかわからないが、好機であることは確かだ。見定めた進路を変えず、ベルの脚に任せて差を詰める。前にいるノーブル号の疲労具合ならば、ベルに食らいつくことはできない。
「詰め寄れ、詰め寄れ! ユリシーズ!」
喧噪の中、ロザリアの声が鋭く響いた。普通なら聞き逃すところだったが、ユリシーズにだけは声が届いていた。
声の聞こえたゴール地点の方向に目を凝らすと、観衆の中に立つロザリアを発見した。そばにはなぜかリックが立っていたが、それよりもロザリアの手振りに注目した。
『ジェロームの方に寄れ』
彼女の意図はわからないが、その指示に従って、ジェロームの乗るノーブル号へ寄っていく。差を縮め、二頭の馬体が重なった途端に観衆がどっと沸き立った。
「ついに二頭が並んだ! 追い上げてきたベルベット・ローズ号、それにノーブル号が食らいつく! ノーブル号も簡単には譲らない!」
ベルが追い越そうとした時、なんとノーブル号が負けじと差し返す。互いの馬が闘争本能を爆発させ、鼻先を競る一騎打ちとなった。
「上り坂の先に栄光を見るのは果たしてどちらか!? わずかにノーブル号が持ちこたえている! このままこらえるか、それとも差し切るか!」
馬体を併せて追い詰めたことでノーブル号がベルを意識し、ここ一番の負けん気を見せる。ベルも必死に振り切ろうとするが、それでもノーブル号はベルに食らいつく。
はじめから距離を置いたまま抜かせば良かったのではないか。そんな不満を一瞬だけロザリアに抱いたが、隣にいたジェロームの体がいきなりこちらに傾いた。
ジェロームの重心が傾いたことで、ノーブル号もおのずとベルに向かって幅寄せしてくる。この観衆の中でも懲りずに妨害するつもりかと思ったが、すぐに故意ではないと気づいた。
「お前、その顔……!」
間近でジェロームの顔を見て、ユリシーズは戦慄する。
彼の皮膚は発赤して桃色に染まり、顔のあらゆるところが風船のように腫れあがっている。ジェロームの面影はほとんどなく、うつむきながら口をパクパクと動かしている様は、波打ち際で死にかけている魚のようだった。
これは病気や毒によるものではない。詳しい知識はないが、ユリシーズの母親も体に合わない牛乳を飲んだことで命を落とした。ジェロームの症状はそれとまったく同じだ。
「激しい競り合いだ! みるみるうちに後続を突き離し、最後の決着はこの二頭、この二頭だ!」
その異変はつゆ知らず、周囲は白熱するレースに声援を送っている。馬たちもそれに応えて余力を振り絞り、心臓破りの上り坂を駆けていく。
ベルがノーブル号に追いついたところで、ロザリアは懐から葉巻を取り出して火を点けた。最も緊張する局面で一服することにリックは驚いたが、当の彼女は何かを楽しむような笑顔を浮かべていた。
「良い馬を育てたな、アークライト卿……強靭な体力はもちろん、素晴らしい勝負根性を持っている……間違いなく、名馬だ」
そこで葉巻をくわえ、ゆっくりと煙を吐く。リックは煙を嗅いだ時、どこかで嗅いだことのある匂いだと思った。
「だが、悲しいかな。丹念に育てたノーブル号の強さが、今まさに息子の首を絞めている」
喉を鳴らし、ロザリアが笑う。煙が広がるとともに、花の香りがふわりとただよった。
歓声が大きくなった。レースに目を戻すと、ベルが頭一つ抜け出していた。ついに均衡が崩れたのだ。
「抜けた抜けた抜けた! 鞭に応え、ベルベット・ローズ号がさらなる豪脚を見せつける! 半馬身、いや、すでに一馬身差まで広がった!」
観客も勝負が決すると察して、最後まで声援を送り続ける。ある者はベルベット・ローズ号に突き離せと、またある者はノーブル号にまだまだ踏ん張れと叫んだ。
差がついた時、ユリシーズは一度だけジェロームの方に振り返った。
『もう、いやだ』
開閉するジェロームの口の動きを読み、そこですべてを理解できた。
体に異変が起こった時点で、ジェロームはレースを棄権したかったのだ。あの症状の恐ろしいところは呼吸困難だ。人によって差があるが、重い症状ならば喉の奥が腫れて、完全に呼吸ができなくなる。安静にすれば症状の進行は遅くなるものの、馬に乗っている緊張状態が続けば、症状は早まるばかりだ。
自分の異変に気づいたジェロームは、何度も坂の途中で馬を止めようとした。しかし勝負に興奮したサラブレッドは手綱を引いても止まりにくい。それどころか引っ張られる刺激に抵抗して、さらに速度を上げるケースもある。
先に自分から落馬するという選択肢もあった。そうすれば落馬したジェロームに係員がかけつけ、処置を受けることができたかもしれない。
しかし彼は一位の位置を独占していた。落馬すれば後続の馬たちに踏みつぶされていた可能性が高い。後ろから押し寄せる馬蹄の音を聞きながら、自分から落馬できる人間はどれほどいるだろう。
「そうか……そうだったのか……」
おのずとロザリアの意図も解けた。ユリシーズが彼女の指示通りに馬体を寄せたことで、限界を迎えていたノーブル号は隣に来たベルを強く意識し、最後に息を吹き返して追いすがった。
ゴールで待つロザリアに目を向ける。あのような指示を出したなら間違いない。彼女はこの症状が起こることを知っていた。知った上でノーブル号の競争精神を刺激させ、ジェロームをさらなる無呼吸の地獄へ引きずり込んだ。
観衆の熱気がユリシーズを現実に引き戻す。ベルの呼吸も荒くなっていたが、ここまで来れば最後まで走り切れる。
「ユ……シー、ズ……」
無意識にジェロームはユリシーズへ手を伸ばした。勝利へ向かう背中が許せなかったのか、助けを求めたかったのか、それは彼にしかわからない。
ぐらりとジェロームの体がのけ反る。独走してゴールへ向かうユリシーズに目を奪われていた者たちも、ここでようやくジェロームの様子がおかしいことに気づいた。
「こ、ひっ……ひっ、ひく……っ!」
最期まで吸えない空気を吸い込もうとした。視界がぼやけ、音すらも聞こえなくなっていく中、ジェロームの頭は後悔や反省を思い浮かべることはなかった。脳の酸素が尽きていく苦痛だけが、彼を死の間際まで苦しめていた。
次の瞬間、歓声が悲鳴に変わる。絶命と同時に上体が完全にのけ反ったことで、ついにジェロームの足があぶみから離れた。彼の体は後ろへ倒れ、落馬した。
「たっ、大変なことが起きました! 二着は確実かと思われたアークライト騎手が落馬! ここでまさかの落馬です!」
実況もジェロームに起こったアクシデントに声を上げた。
混乱する最中、ロザリアだけが穏やかな目でユリシーズを見ていた。もはや他の出場者に目を向ける意味はない。
「おめでとう、ユリシーズ。君に託して、本当に良かった。やはり君は強かった」
安堵の息を吐いてから、ロザリアはつぶやいた。
ベルがゴールを駆け抜けた瞬間、思い出したかのような歓声が広がった。
「ベルベット・ローズ号が一着! ベルベット・ローズ号が一着だ! 灼熱の丘の頂点に、強く、美しいバラの大輪が花咲いた!」
一時は騒然となったが、実況の宣言により観客も勝者を祝福する。
丘の上の広場にベルが立つ。まだ呼吸は荒く、首には汗がびっしりと張りついている。
勝利の余韻にひたる間もなく、ユリシーズはベルから下りようとした。安堵したことで落馬の痛みがぶり返してきたが、走り切ってくれたベルの負担を先に和らげてやりたかった。
「く……うおっ」
無理してあぶみから足を外したせいで体勢が崩れ、ユリシーズの視界が大きく傾く。
あわや落馬するというところで、頭と体が受け止められた。まばたきすると、こちらを見つめるロザリアの顔が鮮明になっていく。
「もう少しじっとしていれば良かったものを。こんな時まで気遣いか?」
ふふっと笑い、ロザリアはユリシーズをゆっくりと地面に下ろした。ユリシーズはよろよろと立ち上がってから、かたわらにいるベルの首に手を当てた。
「俺のことはともかく、頑張ったのはベルだ。水をたらふく飲ませて、すぐに休ませてやってくれ」
「わかっているよ。もうすぐ担当の厩舎員がこっちに来る……よくやったな、ベル。お前は私の誇りだ」
ロザリアもベルの首をなでた。まだ呼吸は整っていなかったが、ベルはロザリアとユリシーズの方に顔を寄せ、ぶるるっと鼻を鳴らした。
それからロザリアはユリシーズの肩をつかみ、彼の体を観衆のほうへ向けた。
一斉に観衆が湧く。大自然の中に集まった人々が、勝利したベルベット・ローズ号と騎手ユリシーズに向かって拍手喝采を送った。手を叩き、拳を突き上げ、人々は熱狂している。しばらくしてゴールに着いた騎手たちも、脇に馬を寄せてから拍手した。彼らの大半は悔しさをにじませていた。
「まだ、慣れないな」
「どうして?」
「祝福されるほど、俺はまっとうな人間じゃないからな」
ユリシーズの言葉に、ロザリアは首を振った。
「いいや、君は胸を張って良いんだ。君にやましいことは何もない」
ハッとロザリアの方を向く。彼女は薄く笑い、懐の中から黒革のシガレットケースを見せた。
「やはり、あんたの仕業か」
「まあね。だが、不正を働いたのはあの親子の意思だ」
話しながらロザリアは観衆に向けて手を振った。顔の知れたロザリアが手を振ったことで、観衆の興奮はなかなか冷めない。彼女は貴族として堂々と振る舞いつつ、ユリシーズに小声で種明かしする。
「……過去の競馬で行われた不正や妨害の方法を調べた末に、あの親子は煙草や葉巻を使うだろうと私は踏んだ。煙自体は証拠にならず、吸い殻が発見されても、どこにでも落ちていると言われたらそれまでだからな。競争馬を混乱させ、事故を起こすには、簡便かつ最適な方法だ」
「あり得ない。あんたが渡した煙草を、やつらは使ったのか」
「いや、彼らは渡されたことすら気づいていない。愛用のシガレットケースが、偽物とすり替わっていたことに気づいていない」
「一体、そのケースに何を仕込んだんだ」
ユリシーズの問いにロザリアは明らかな答えを出さなかった。その代わりに、観衆の中に立つリックの方へ目を向けた。リックもユリシーズの勝利を祝いたがっているようだが、多くの人間が見ているため、一人でユリシーズとロザリアのもとに近づけずにいる。
「リック……」
「あの少年、君に感謝していたよ。私もすぐに仲良くなれた」
ロザリアとリックの顔を交互に見てから、おぼろげに浮かんでいた点と点が線になった。
数日前、リックはジェロームに突然暴力を振るわれた。大した理由もなく、ただハチミツの瓶を渡そうとしただけだったとユリシーズに話してくれた。そこにジェロームの体質を知る糸口があり、その後にロザリアはリックと接触し、同じ話を聞いたということだ。
「ハチミツ、花粉、ミツバチの巣……ジェロームの身辺を調べれば、彼が普段からそれらの物質を忌避していたことがわかった。皮膚に触れることすら恐れ、反射的に子どもに手を上げるほどだ。偽のケースの内側にはそういった物質をまぶしてやった。そこから葉巻を取り出して吸引すれば、彼はまず助からない」
それからロザリアはあごをしゃくった。彼女の示した方へ目を向けると、アークライト卿とその関係者が必死に走っていく姿が見えた。老体のアークライト卿の顔はひどく青ざめ、今にも心臓が止まりそうな様子だ。
彼らに対する恨みはあった。しかしユリシーズはアークライト卿の顔を見ると、胸の奥がわずかに重くなった。自業自得とはいえ、息子が窒息死する姿を目の当たりにした。その光景は壮絶の一言に尽きるだろう。
「胸が痛むのかい?」
彼女の問いに、ユリシーズは小さくうなずいた。
「……ああ。あの親子には苦しめられたが、家族を失う悲しみは少しだけわかる」
「君は優しいな」
その時、ちょうどベルを担当していた厩舎員やその他のスタッフが到着した。彼らはベルの首を優しく叩き、顔をなでて、涙ぐみながら笑っている。手塩にかけて育てたベルが優勝したことで、彼らもまた感動と喜びを分かち合っている。
ロザリアは厩舎員たちに労いの言葉をかけてから、その後のベルの休憩場所や写真撮影の段取りなどを細かく指示した。優勝馬はレースの疲労を回復させつつ、主催者との記念撮影や、新聞社からの取材などに対応しなければならない。
彼女の指示を受け、スタッフ一同がベルを連れていく。ベルは一度だけユリシーズの方に振り向いたが、すぐに顔を戻して遠ざかっていった。
ユリシーズはロザリアの顔を見た。彼女の顔に不安や罪悪感はなかったが、勝利に浮ついた様子もない。
勝つために手を尽くすところはアークライト親子と同じだが、彼女はその結果がなんであれ平然と受け止めるのだろう。たとえ負けたとしても感情が揺らぐことはなく、人を苦しめることに労力を割いたりしない。
ロザリアと知り合い、言葉を交わし、こうして肩を並べてわかったことがある。彼女はしたたかで油断ならないが、卑劣な人間ではない。彼女ならば後のことをすべて託せる。彼女もまた、命を狙った自分に背中を預けてくれたのだから。
「ロザリア」
「なんだ?」
二人が向かい合う。ユリシーズの視界は揺らぎ始めていたが、それでもロザリアとしっかり目を合わせた。
「あんたには感謝している。おかげで母と弟に良い報告ができる。本当に、ありがとう」
「そうだね……おい、ユリシーズ?」
普段通りにロザリアは相槌を返したが、次第にその顔が曇る。
「お願いだ。母と弟を、どうか、手厚く」
そこでユリシーズは全身の力が抜け、倒れた。あおむけになっても、視界に映るものは何もない。ただ、降り注ぐ太陽の暖かさをかすかに感じていた。
「ユリシーズ! しっかりしろ、ユリシーズッ!」
彼女の声が遠くから響いて聞こえる。まぶたは開いているが、誰の姿も見えない。やわらかな光が近づいてきて、その光が自分の体を覆っていく。
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