第5話 ~ 紫煙と激情
「くっ!」
間一髪で馬どうしが接触せずに済んだが、体当たりを避けたせいでベルが減速し、再びジェロームとの差が開いてしまう。
わざわざ後ろにいたユリシーズに近づき、このような真似をする男は一人しかいない。
「マーカス、お前……!」
「ここでお前はおしまいだ! 喰らえっ!」
ベルに体当たりを仕掛けたマーカスは、その後もベルに追いすがりながら近づいてくる。ジェロームに追い抜かされても気にせず、血走った目でユリシーズをつけ狙う。
マーカスの形相に気圧されそうになったが、すぐに気を取り直して先行した。強引に幅寄せしてきたマーカスの馬は速度を保ちにくく、普通にしていれば差が広げることができる。
「待ちやがれ!」
しかしマーカスの行動はユリシーズの予想を超えてきた。馬の頭を押して一気に脚を速め、ユリシーズとの差を再び詰めていく。平原と同じような速度で、森の中を走らせるつもりだ。
マーカスがどんどん近づく。また体当たりを仕掛けてくるかと思いきや、右手で鞭を取り出した。
「……ふんっ!」
「うおおっ!?」
今度はユリシーズが体当たりを仕掛け、マーカスの体勢を崩した。おそらく鞭でユリシーズかベルを叩こうとしたのだろう。自分が叩かれる分にはまだ良いが、走行中の馬は非常にデリケートだ。もしもあのままベルが鞭で叩かれていたら大惨事になっていた。
「お前、勝ちを捨てたか!」
なりふり構わず妨害しようとするマーカスに、ついにユリシーズが怒鳴った。
「分け前はジェロームからもらう! お前が消えれば役目は終わるんだよ!」
開き直ったマーカスには驚いたが、ユリシーズは怒りよりも戸惑いが大きかった。
今のマーカスを通して、かつての自分が見えた。競争相手を妨害して報酬を受け取ろうとする、三か月前の自分だ。マーカスはあの時の自分と同じように、アークライト親子の誘惑に乗り、愚かな決断をしてしまったのだ。
だからこそ遠ざかるジェロームの背中が歯がゆかった。ジェロームもアークライト卿も、手駒を使い、決してこちらの土俵に来ることはない。マーカスや他の騎手が争っても、所詮は下々の足の引っ張り合いであり、彼らにとって痛くもかゆくもない。
「おらっ!」
マーカスが右手の鞭を振るう。鞭の先端がユリシーズの左足に当たり、激痛が走った。ベルの背に腰を落とすことだけは耐えたが、姿勢が崩れて右へよれた。
「ぐっ……」
「とどめだ!」
上体が倒れたユリシーズにさらに近づき、マーカスは鞭を振り上げた。
その直後、マーカスの側頭部に何かが激突した。わけもわからず体が吹っ飛び、地面に全身を打ちつけた。馬だけはしばらく前へ走っていくが、乗り手がいなくなったことでコース外へ逃げていった。
「がっ……か、は……」
地面に倒れたマーカスが気を失う直前に見たのは、ガサガサと揺れ続けている太い枝だった。その枝は少し低い位置に生え、コースの右端を通れば、ちょうど騎手の頭部が接触する位置まで伸びていた。
体勢を低くしていたユリシーズは、枝の下をくぐって先へ進んでいった。
マーカスとは違い、ユリシーズは前にいるジェロームを追っていたため、飛び出ている枝に気づいていた。鞭で叩かれた時は体勢を崩したが、そのまま体を立て直さず右へ逃げて、マーカスを枝にぶつけることに成功した。
落馬したマーカスの方には振り向かなかった。前にいるのはジェロームだけだ。あの男さえ追い抜けばすべてが終わる。
マーカスがいなくなり、ユリシーズをさえぎる者はいない。ベルも合図に応えて速度を上げ、うねる道に苦戦するジェロームとの差を一気に詰めた。
迫ってきたユリシーズを目にして、ジェロームは顔をしかめた。どれだけ人を使っても、いくら突き離しても、ユリシーズは猟犬のごとく追いついてくる。二千ギニーの時も、今も、この世で最も忌まわしい平民が自分の栄光を奪おうとしている。
「役立たずどもが……っ!」
悪態をついたジェロームを見て、ユリシーズの目の色が変わる。
「そうやって、お前は誰でも捨て駒あつかいか」
二人の視線がぶつかり合う。一旦、ジェロームは前に向き直ったが、ユリシーズはその背中をじっと見続ける。
「お前は一人では何もできない男だ。そのくせ誰かを踏み台にして、上へ上へ昇ろうとしている」
少しずつ、ユリシーズとジェロームの距離が縮まる。ジェロームは自分の馬に鞭を入れたが、思うほど馬の脚は速まらない。アークライト陣営が手塩にかけて育てた名馬でも、度重なる障害、勾配を越えてきた疲労により、体力の限界が見えてきた。
「その馬も、じきにつぶれる」
「……黙れ」
怒りに震えた声でジェロームがつぶやく。馬上で鞭を振るうことはやめたが、鞭はまだ握りしめている。
「黙るものか。一番の役立たずは、お前だ」
背後から投げかけられたその言葉により、ジェロームの怒りは頂点に達した。
ジェロームが後ろを向く。彼の頬はひきつり、目は吊り上がっている。端正な顔は見る影もなく、ついに本性があらわになった。
「殺してやる、お前も殺してやる……」
殺意にまみれた声はユリシーズの耳に届いていた。しかしユリシーズは唇の端を上げ、にらみ返しながら問い詰めた。
「聞こえないぞ、温室育ち! ほざく度胸もないくせに!」
その直後にジェロームは前を向き、懐に右手を入れて、何かを取り出した。
思わずユリシーズは息を呑む。精神的に優位に立っているのはこちらだが、追い詰められた人間は何をするかわからない。
ふと物が焦げたような臭いを感じた。その直後にジェロームの脇から鞭が落ち、その次にバラバラとマッチ棒がこぼれていった。
「……まさかっ」
なにかを察したユリシーズがジェロームの指先に目を凝らすと、その指の間には火の点いた葉巻があった。
「どいつもこいつも、俺に楯突きやがって……お前も、あの馬の後を追わせてやる! 消えろ、下民!」
怒声を上げたジェロームは即座に葉巻をくわえ、吸い込んだ煙をベルの顔に向けて吐き出した。
しみる煙が走っているベルの視界を真っ白に染める。たった一瞬のことでも馬にとっては強烈な恐怖だ。
「っ!?」
ベルはパニックを起こし、頭を上下に振って暴れ出す。落ち着かせるために手綱を引こうとしたが、その前にベルの脚はあらぬ方向へ進んでいく。
その瞬間、コース外に出て失格するという図が脳裏に浮かんだ。
一か八か、ユリシーズは自ら馬から飛び降りる。体は勢いよく地面を転がり、木の幹に叩きつけられる。
「ぐはっ!」
木の幹にぶつかって止まった。うつ伏せに倒れたユリシーズは、顔だけでも見上げようとする。土と草木が視界の中でチカチカと明滅して映っていて、焦点が合わない。
「う……く、ぁ……っ」
体を起こそうとしても全身が悲鳴を上げ、思うように力が入らない。そうしている間にも、後続の馬たちが次々に森を駆け抜けていく。
一瞬早く飛び降りたことで、柵よりも外に出ることはなかったが、道の方を見上げれば列をなした馬たちが走り去っていき、馬蹄の余韻だけが辺りに響いた。
「ちく、しょう」
拳を握り、地面を叩く。つぶったまぶたから涙がこぼれ、悔しさをにじませた声は森の中に消えていった。
もはや巻き返すのは不可能に近い。わずか数秒で大差がつく競技で、この落馬は致命的だ。
しかし、まぶたの裏に浮かんだのは家族やロザリアではなく、ジェロームの顔だった。葉巻の煙をベルの顔に吹きかける直前、ジェロームは妙なことを口走っていた。
『あの馬の後を追わせてやる』
ほんの一瞬のことだったが、たしかにそう聞こえた。マーカスのように死んだ弟のことを罵ったわけではなく、あの馬とジェロームは言っていた。
「馬……自分に楯突く、捨て駒……駒……」
どういうことだと思ったが、やがてその意味に気づいた。
二千ギニーの時、ユリシーズが乗っていた馬のことだ。名前はブレシング号。気難しい一面もあったが、果敢にレースに挑んでくれて、ユリシーズを勝利に導いてくれた。あの小柄な黒鹿毛の馬は、印象に残っている。
ブレシング号は、アークライト卿が所属するクラブで所有していた馬のはずだ。騎手マグナスをつぶすためにユリシーズにあてがわれた馬で、勝利を期待されていない、決して先行きの見えない馬だった。
「あいつ……そこまでやったか……!」
あとの結末はジェロームの言葉と容易に結びつく。二千ギニーでユリシーズを勝利させたブレシング号を、ジェロームは許さなかったのだろう。父親もそれに賛同したのかどうか知らないが、自分の顔に泥を塗り、楯突いた捨て駒を処分したのは間違いない。
かつてない怒りを覚えた。全身の血が逆流したかと思うほどの怒りが、痛みを忘れさせた。
地面に手をつき、立ち上がる。腰には激痛が走り、左足の感覚がなかったが、馬に乗れるならそれで充分だ。
後ろを向くと、少し離れたところにベルがいた。まだおびえているようで、落ち着きなく地面をにらみながら足踏みしていた。
「ベル!」
コース外に逃げたベルを呼ぶ。ベルは首を上げ、こちらに顔を向けた。
ベルは賢く、気丈な馬だ。たとえ取り乱していても、信頼関係を築いた人間が呼べば駆け寄ってくれる。
ベルと視線を合わせてから一度うなずくと、ベルはこちらに歩み寄って、顔を近づけてきた。あれほどおびえていたというのに、今度は倒れていたユリシーズを気づかっているらしい。少し不安はあるが、これならレースを続けてくれそうだ。
「大丈夫だ。ありがとうな」
寄ってきたベルの頭をなでてから、改めてベルに感謝した。
それからユリシーズはベルの横に回り込み、右足で飛んで、木の枝をつかんでぶら下がる。そして両手で枝の根本を握り、体を持ち上げてからベルの背に乗った。
姿勢を維持するだけで全身にしびれと鈍痛が走ったが、ここで再び倒れるわけにはいかない。骨が砕けようと、脈は強く打ち、血は熱く巡っている。
「行くぞっ!」
手綱を引いて進路を示し、ベルの横っ腹に足を当てた。
すぐさまベルは走り出し、蹄跡が続く林道を通る。他の馬とどれほど差がついたのかわからないが、絶望して立ち止まるつもりはない。ジェロームへの怒りと、ロザリアや家族に立てた誓いが、ユリシーズ・ハーディの肉体を突き動かす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます