第4話 ~ 妨害の応酬

 馬たちを押さえていたロープが地面に落ち、一挙に走り出した。三十頭の馬蹄が轟き、地響きをともなって坂を下っていく。


 ついに始まったキングストン・カップは、すべての馬が安定したスタートを切った。


 まだ思い切って飛ばす馬はいない。下り坂で無理に速度を上げる必要はなく、どれだけ消耗せずに坂を乗り切るかが重要だ。ほとんど横一列のまま坂を下っているが、わずかに右側に寄った集団が前に出ている。


 慎重に坂を下りながら、ユリシーズはベルと呼吸を合わせることに集中した。


 この二日間でベルはユリシーズに従うようになったが、それでも完璧な信頼を得たとは思っていない。今は落ち着きを保ったまま走っているが、障害を上手く飛び越えられるかわからない。


「ジェロームは最右翼……マーカスはその左……」


 知っている騎手の位置を確認しつつ、引き離されないように追い続ける。


 突然、左側から衝撃が走った。目を向けると、ユリシーズよりも左側にいた騎手が体当たりしてきたのだ。騎手の目に焦った様子はなく、それどころか薄く笑みを浮かべている。


「早速か。まだ人目につきやすいというのに」


 スタートしてから二十秒も経っておらず、丘の周囲にも民衆がいる。それにもかかわらず、この騎手は隣にいるユリシーズとベルをつっかけ、あわよくば脱落させてしまおうと考えているらしい。


 この行為には、さすがのユリシーズも苦笑いするしかない。いくら手段を選ばないとはいえ、ここまであからさまだとお粗末としか言えない。アマチュア騎手ならば通用すると舐めてかかっているのだろうか。


 当然、ユリシーズも黙ってやられるつもりはない。下り坂が終わり、右へカーブを切る直前で左へ馬体を振った。遠心力が働いたためか、左側にいた馬はベルの体当たりに踏ん張れず、曲がる前に大きくよれてしまった。逆にベルは左の馬とぶつかった反動を利用して、ほとんど減速せずにカーブへ入った。


 コースは白塗りの木柵で区画され、そこから出ればコース逸脱となり失格になってしまうルールだ。騎手が慌てて手綱を引いたことで、ベルに押し負けた馬はコースから外れるのを免れたが、この時点で取り返しがつかないほど遅れてしまった。


 目立たないよう自衛をしただけだったが、結果的に一頭を脱落させたようなものだ。伸び始めた右側の先頭集団からほとんど離されず、ベルは難なくカーブを曲がり切って、直線へ入った。


 丘を下り終わり、ここから起伏のない平原を右へ進む。それから緩やかに左へコースが伸びていくのだが、その道中には障害が多く設置されている。


「次は、ハードルだな」


 前方を見据えると、人間の胸の高さほどの柵が行く手をさえぎっている。決して高くはないが、油断はできない。すぐ右側に馬たちが並んで走っているが、接触を避けるため、一定の距離を保ってベルを走らせる。


 平地競争でしか騎乗しなかったユリシーズにとって、初の飛び越えである。他の馬との距離を保っているのも、どんなアクシデントも起こしたくないという慎重さの表れだ。


 柵が迫り、ベルの体が飛ぶ。その瞬間、浮き上がるベルの背中に余計な体重をかけないよう、足でバランスを保った。ベルは見事に着地し、そのまま速度を落とさず走り続けた。


「……よしっ」


 飛び越えた瞬間、重力が消えた感覚にひやりとしたが、なんとかうまくいった。


 喜びを嚙みしめる間もなく、次々と柵が迫ってくる。重心を前後に揺らさず保ち、それと同時に足が必要以上に力まないよう注意を払い続ける。


 三度、四度と障害を飛び越えてから、ゆるやかな勾配が続く。そこを上り切れば再び複数の障害となるが、この時点で馬たちの息づかいが荒くなりつつある。


 わかってはいたものの、この大会のコースは凶悪と言っていいほど騎手泣かせだ。


 以前、ロザリアが話してくれたことを思い出した。


『おそらく、どの騎手もペース配分に苦しむだろう。九マイルのレースは今の我が国に存在しない未知の領域だ。障害を突破するのもはじめのうちは難しくないが、ペースが狂い、馬が疲弊すれば至難の業になる。妨害や反則以前に、おのおの騎手たちが馬を完走させることができるかどうか……』


 ちらりと横目に見ると、騎手たちのほとんどが口を開けている。レースが始まったばかりだが、すでに呼吸が乱れているのだろう。


 馬の動きは平地競争より激しく、それと並行して、馬の息づかいを読んでペースを考えなければならない。肉体も、思考も、めまぐるしく働かせなければ一瞬で飲みこまれる。


 坂を上り切って、またもや障害が並んでいる。余計なことを考える暇などなく、騎手たちは馬と呼吸を合わせて障害を飛んだ。


 飛び越えた直後にどよめきが起こった。ユリシーズ次の障害を飛び越えてから素早く後ろを見て、またすぐに前を見た。


「二頭、いや、三頭いったか」


 じっくり見たわけではないが、三頭の馬が障害で倒れたようだ。膝をついただけの馬もいれば、派手に転んで騎手を放り出していた馬もいた。おそらく上手く飛び越えられなかったのだろう。


 これで残るは二十六頭。レースの過酷さを鑑みると、これからさらに脱落するはずだ。


 障害が続いた直線の後は、左にカーブしながら平坦に近い下り坂をずっと進む。Uの字の前半までは見晴らしがよく、係員や観客の目につきやすいが、中盤から後半にかけて森林の中に伸びた道を通ることになる。


「おあつらえ向きだ。仕掛けるなら、あの場所しかない」


 妨害などを行うとすれば、森林の中に入ってからだろうとユリシーズは思った。もちろん森林にも係員がいるが、平原と比べて薄暗く、おかしなことをしても圧倒的に気づかれにくい。たとえ凶器をしのばせていたとしても、それを視認できる人間はいない。


 少しだけベルが速度を上げた。ユリシーズが意図したものではない。おそらく体が温まり、気分も勢いづいてきたのだろう。


 下り坂での加速は疲労が大きく、事故のリスクを伴う。普通ならばブレーキをかけさせるところだが、ユリシーズはそのまま好きにさせた。


 ベルの足腰ならば下り坂の負荷にも負けない。そして、ここで自分が前に行けば周りの騎手たちを牽制できる。妨害を起こすかどうか見極めるためには、注目される位置に行くべきだろう。


 徐々にベルが前に行く。最後方から列の中団へ入り込み、馬たちのすき間を縫うようにして順位を押し上げていく。


 騎手たちは加速するベルに気づいたが、まだ慌てることなくペースを保とうとする。しかし彼らが乗っている馬たちは、ベルにつられるように加速し始めた。


 誰かが舌打ちする音が聞こえた。調教されているとはいえ闘争本能はどうしようもない。さらには牝馬であるベルの背中を追いたいという欲求も刺激されたのだろう。


 ゆるく固まっていた集団が崩れる。後方の馬が加速すれば、追い抜かされたうちの何頭かは反応を見せる。集団全体のペースが速くなれば、次第に出足が乱れる馬が現れる。


 騎手の中には、無理にでもペースを落とそうとする者もいた。しかしそれはかえって逆効果で、一度火が点いたサラブレッドは手綱の引きに抵抗しようとする。余計な手を加えることで加速をうながし、目の前にいた馬につっかかる馬も出てきた。


 静かな流れだったレースが動き出す。平均時速六十キロの馬たちが、さえぎるものがない平原を下って一気に加速する。


 レースが急展開を迎えたことで、騎手たちも腹の奥に喝を入れた。息ができないほど向かい風が強くなるが、全力で騎乗姿勢を保って目を開く。少しでも気を緩めれば空気の波に溺れ死んでしまうのではないか。そう感じてしまうほどの風圧にさらされながらも、下り坂を突き進む。


 現在、ベルは中団より少し前に位置している。固まっていた集団が崩れてきたため近くに馬はおらず、今のところつっかけられる心配はないが、ユリシーズは左前にいる四、五頭の集団が気になった。 


 集団の前から二頭目に、白い乗馬服のジェロームが乗っている。ジェロームは現在二位につけているが、彼の後方の騎手たちが時おり首を後ろに向けていた。


「やつら、俺を見ているのか」


 彼らの素振りはそうとしか思えない。こちらが目を向ければ騎手たちは顔を一旦前に戻すが、その後も彼らはこちらの様子を確認していた。


「まさか……」


 ためしにユリシーズはベルを少しだけ左に寄せた。じっと見ていなければわからない小さな動きだが、先頭集団の騎手たちは敏感に反応し、彼らもほんの少しだけ馬体を左に寄せた。


 その動きで確信した。どんな手を使ったか不明だが、すでにジェロームは何人かの騎手を抱き込んでいるのだ。彼らはユリシーズを監視し、いざとなれば束になってこちらをつぶしにかかるのだろう。


「なるほど……今度は自分の手すら汚さないつもりらしい」


 あの二千ギニーの後、激昂したジェロームは杖でユリシーズの膝を砕いた。ロザリアから聞いた話では、貴族であるジェロームは暴行罪にならなかったものの、あの現場を多くの人間に目撃されたことで、しばらく肩身の狭い思いをしていたらしい。

社交界では悪い噂は広まりやすい。相手が反則した騎手とはいえ、無抵抗の平民を殴るというのはいかがなものかと、ジェロームを非難する声もあったという。


 ユリシーズはジェロームがどんな環境で育ったのか知らない。だが、リック少年に暴行したことも合わせて考えると、その残酷で身勝手な本性がかいま見えてくる。


 それらの件から学んだせいなのか、もしくは父親の入れ知恵なのか、今日は他の騎手を手駒として扱うことで、ユリシーズを封殺するつもりのようだ。ユリシーズと関わらず、安全圏にいたまま、自分の名誉を汚さず勝利を手にする。恵まれた人間が真っ先に考えつきそうな戦法だ。


 表情は変えなかったが、ユリシーズの腹の底は静かに煮えていた。


 アークライト親子と関わるのはこれで二度目になるが、彼らの考えはどこまでも上流階級の思想だ。自分たちが栄光や名誉を手にして当たり前であり、自分たち以外の平民が肩を並べ、食い下がることなどもってのほかという考えのもとで行動している。


 二千ギニーでユリシーズを蹴落としたことも、彼らにとっては当然の正義だったのだ。


「今に見ていろ。無視できなくしてやる」


 呼吸を整え、前方をしっかりと見る。ジェロームがそう来るならば、こちらから仕掛けるだけだ。彼をかばうようにして走る騎手たちも、排除すべき障害に過ぎない。


 平原を下り切り、後半の森林コースに入った。


 ジェロームたちは先頭から二馬身離れているが、まだ余裕を保っているように見える。その気になればいつでも先頭を抜かせる隊列ということだ。


 体重を移動し、ベルに脚を速める合図を送る。うねりながら伸びる林道でもベルは果敢に速度を上げ、一気に先団へ飛びついた。


 ベルが迫れば、ジェロームたちもそれに対応するしかない。まずジェロームの後方に待機していた二人が左右に分かれ、ジェロームの後方を幅広く固めた。列の幅を広げられたら、狭い林道で追い抜くことは難しくなる。


「やるな。だが……」


 この状況下での駆け引きはこちらが上だ。非公式なレースをしてきたアマチュア騎手だからこそ、整備されていないコースで、相手を揺さぶる方法はいくらでも知っている。


 前にいる二人の騎手はユリシーズの進路をふさぐように動いているが、後ろだけを見て騎乗しているわけではない。特に曲がりくねった道が多い森では、よく前を見て馬を操らなければ非常に危険なため、先ほどよりもユリシーズを確認する時間が短くなった。


 彼らは余裕が生まれた瞬間に、すかさず後ろを見てくる。そのタイミングに合わせてユリシーズは体を右に傾け、ベルが右へ進路を取るよう促した。


 ベルが右へ向かったのを見て、ジェロームの右後方の騎手は前に向き直ってから手綱を操る。さらに右へ馬をずらし、右の外から抜かそうとしたユリシーズを妨害する。


「おい、あまり広げるな!」


 右側の騎手と中央のジェロームにすき間ができた途端、左側の騎手が怒鳴りながら、そのすき間をふさごうとした。数秒前に右を狙うユリシーズの動きを見たため、とっさに判断したのだろう。


 その直後にユリシーズは大きく左に進路を取った。わずかな体重移動で右へずれたのは陽動で、はじめからジェロームの左側を狙っていた。


「なっ!?」


 瞬く間に左側を抜かれ、妨害役の騎手たちは目を丸くした。


 前の二人はユリシーズの様子を見てから対応するため、どうしても後手に回った騎乗になってしまう。一方、はじめから二人を視界に捉えているユリシーズにとって、彼らの行動は手のひらの上だった。


 後はあっけないものだ。無理な進路変更を続けたせいで、彼らの馬の脚が急におぼつかなくなった。馬自身もレースを嫌がり始め、みるみる減速していった。


 速度を上げてジェロームに詰め寄る。ジェロームは妨害役の騎手たちが突破されたことに気づき、横目でユリシーズを睨みつけてきた。


「貴様……!」


「よお、ジェローム」


 歯を見せたユリシーズだったが、目はまったく笑っていない。因縁深い男が手の届くところにいる。もしもロザリアに勝利を約束していなかったら、間違いなくここから飛びかかって鞭でくびり殺していただろう。


 だが、目的を捨てるつもりはない。私怨を晴らすよりも大事なものがある。


 ついにベルがジェロームの馬より頭一つ抜けた時、ジェロームが不審な動きをしていることに気づいた。


「……物か?」


 じっくり見る余裕はなかったが、乗馬服の内ポケットに右手を入れたところは見えた。何か小さな物を取り出そうとしていたようだ。


 この切迫した場面で無意味にポケットを探るはずがない。武器などの類か、なんにせよレースを有利にするための物を忍ばせているに違いない。


 もうジェロームは両手で手綱を握っていたが、ユリシーズは警戒を緩めなかった。


「ユリシィィイズッ!」


 後方のジェロームを警戒していた時、先頭にいた騎手が叫びながら馬を寄せてきた。

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