第3話 ~ キングストン・カップ、開幕
頂上の若駒亭から下り、丘の中腹にある会場よりさらに少し下っていくと、直線の木立を通る。そうして木漏れ日が降り注ぐ道を抜けた先が、キングストン・カップのスタート兼ゴール地点だ。
この場所も周囲より標高が高く、丘陵地帯を見下ろせるようになっている。牧草地はもちろん、コースの途上には森林や渓流などもあるため、この自然を楽しむには一日では足りないだろう。
騎手たちは見渡す限りの大自然に向かって馬を走らせ、やがて上り坂を経てここへ帰還する。大会側が用意した障害物はもちろんのこと、自然が作り出した障害も乗り越えていかねばならない。
さて、競走馬に乗った騎手たちは木漏れ日に照らされた道を通り、現在はスタート地点に向かっている。道の両端には等間隔に係員が立っていて、押し寄せた民衆をとどめている。
農夫や鉱夫、使用人などの労働者はもちろん、牧師や非番の警官にいたるまで、あらゆる人間が騎手と競走馬の雄姿を一目見たいと集まっている。その熱狂ぶりは、由緒正しきダービーに勝るとも劣らない。
ベルベット・ローズ号に乗ったユリシーズも、新緑の木立の中を進んでいる。周りに多くの人間と馬がいるが、ベルは落ち着きを保ったまま歩いてくれている。ユリシーズのことを知らない人間はいても、ベルは珍しい月毛のため注目が集まる。親のそでを引っ張り、ベルのことを興奮しながら指差している子どももいた。
馬上のユリシーズは前方を向いたまま、他の馬と騎手を観察している。ベルの後ろにも何頭か出場馬が歩いているが、ほとんどの馬がベルより先を歩いている。
どの馬も立派な体躯をしているのがわかる。合計三十頭が出場するレースだが、三歳馬は一頭もいない。平地競走は瞬発力の高さを求められるが、障害競走は持久力と飛び越え技術が不可欠だ。そのため年齢が成熟した、性格と体力ともに安定した競走馬が力を発揮しやすい。ベルも外見こそ美しいが、脚部の筋肉はしっかりと発達しており、並のサラブレッドより頑健だ。
騎手の中には知っている顔がいる。先日ひと悶着を起こしたマーカス、そしてあのジェロームがいる。後ろ姿しか見えないが、それでもこの二人だけはすぐに見分けがついた。
向こうもユリシーズに気づいている。放牧場やパドックで、彼らはユリシーズのことを見ていた。マーカスは敵意を隠さずこちらを睨み、ジェロームは嫌なものを見たかのように眉をしかめていた。
特にジェロームはユリシーズと目が合うと、お前と関わるつもりはないと言わんばかりにそっぽを向いた。あれほど態度に出るなら、むしろわかりやすい男だとユリシーズは思っていた。
そして先ほどの放牧場ではアークライト親子がそろっていた。ジェロームは父親となにか話し込んでおり、その時、アークライト卿もユリシーズに気づいたようだ。なにか気分がすぐれないのか、アークライト卿はユリシーズを見ると、とても不機嫌そうな表情に変わっていた。
「みな、手段を選ばない……か」
騎手たちは堂々とした立ち振る舞いで民衆に応えている。しかしながら誰もが腹の奥に一物をかかえ、計略を巡らせていると聞く。事前にロザリアから警戒すべき場所や人物を教えてもらっているが、実際にどこまで対処できるかわからない。
ユリシーズもなにか策を用意しておくべきかと思ったが、結局は何も用意しなかった。下手に道具を用意し、細工を行おうとすれば、それが露見した時にどうしようもできなくなる。アマチュア騎手のユリシーズならば、なおさら周りの視線は厳しくなる。
やるべきことはすべてやった。自身とベルの体調は万全で、あとは本番を迎えるだけだ。
ようやく木立を抜け、スタート地点に出た途端、わぁっと歓声が押し寄せた。
木立を抜けた先は丘の中腹で、コッツウォルズの大平原を見渡せる。その拓けた場所には大勢の民衆が集まり、すさまじい大歓声が騎手と馬の体を震わせる。
丘の下を見下ろすと、コースの全景が見える。コースの形は逆さにしたUの字だ。まず丘を下り、右に進路を取り、大きく反時計回りして進む。途中で広大な森を抜け、最後はこの丘に戻ってくる。距離は脅威の九マイルで、ここまで大規模なコースに挑んだ騎手はいない。
スタート地点の両脇には、二階建ての白木の家屋が建っており、その窓の中へ目を向ければ、椅子でくつろぐ紳士淑女がいる。どうやらあの家も貴族専用の観覧席らしい。
「ロザリア……」
右側の家屋の二階バルコニーに、ロザリアが立っていた。彼女はいつもの男装のまま、紙巻き煙草をくわえてこちらを見下ろしている。
さすがのロザリアも緊張しているのか、あの余裕たっぷりな微笑みは見られない。しかし不安な様子ではなく、静かにユリシーズを見守っている。
ユリシーズは拳を握り、自分の胸に当てた。ロザリアがベルとの接し方を教えてくれた時と同じように。
それを見たロザリアは口から煙草を離し、一度うなずいた。お互い伝えるべきことはすべて伝え終わっている。あとはユリシーズとベルベット・ローズ号に託された。
家屋のそばに大会の本部テントがある。その前には様々な楽器を持ったスーツの男たちが並び、中央に立った年配の紳士が指揮棒を取り出した。
高まっていた声援が落ち着く。やがて最後の拍手が途絶えると、指揮者が腕を振り上げた。
金管が高らかに響き、それに続いてパーカッションが打ち鳴らされる。幾重にも重なった音がハーモニーを創り出し、盛大なファンファーレが風に乗ってコッツウォルズの平原に響き渡った。
ファンファーレが終わると、歓声がさらに大きくなって戻ってきた。大舞台に慣れている騎手たちですら、脈が早まってしまうほどの声援だ。この熱気は太陽によるものではない。この場にいる競馬を愛する者たちの熱意が大波となって押し寄せている。
この時、今日はダービーを凌駕するレースになると誰もが確信した。勝った馬主は天下を取り、勝利をもたらした騎手は英雄となる。たった十数分の戦いで最速になれば、己の名が歴史に刻まれる。
英雄という表現は誇張ではない。長距離の障害競走は、良くも悪くも騎手の腕が問われる競技である。どんな名馬でも不得手な人間が騎乗すれば、途中でつぶれて完走もままならない。まさに英雄のような、人馬一体となった者のみが勝利する過酷な競技だ。
スタート地点の脇に台があり、白いスーツを来た紳士がそこへ上った。
係員がスタート地点にロープを張り、馬の手綱を取ってロープの手前に連れていく。横一列に並んだ馬たちを見て、無秩序な歓声が、なにかを期待するような整然とした拍手に変わった。
ユリシーズは列の左側に並ぶことになった。まずは下り坂をまっすぐ下り、その後で右側へカーブを切って平原を進む。そのため有利なのは右側で、周りの騎手たちもその場所を取ろうと睨み合っている。逆にユリシーズは無理して右側を取らず、他の騎手の動向を探りやすい位置を選んだ。
台に立った紳士が赤い旗を振り上げ、大きく振り下ろした。
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