第2話 ~ テューダー卿とアークライト卿

 村から出て西へ進むと、高い丘がある。丘の上には若駒亭という宿があり、その規模はこの地方で三本指に入る。現在、そこには多数の上流階級の人間が宿泊している。言うまでもなく、本日のキングストン・カップに参加した馬主や、競馬好きの貴族たちがほとんどだ。


 宿の正面には広大な庭園があり、そこから丘を下る道を進めば、厩舎や放牧場が設けられている。普段は乗馬用の馬が調教、管理されている場所で、旅行に来た者たちに人気の娯楽施設だった。


 キングストン・カップが開催するにあたり、現在はそれらの施設に乗馬用の馬はおらず、放牧場には競走馬や大会関係者がいる。また観客席やパドックなども新たに設営され、レースのスタート地点も近いため、関係者はこれらの施設全体を「会場」と呼んでいる。


 太陽が中天から傾き始めた頃、馬主たちを乗せた馬車が宿から出発した。レースは午後三時より行われる。周辺に住む人々も仕事を早めに切り上げ、続々と集まってきていた。


 一方、宿に残っている貴族も多い。宿の屋上に上がれば、眼下に広がる丘陵地帯を見渡せる。ここならスタートからゴールまでの流れを見通すことが可能で、双眼鏡を用意している者ならば、わざわざ丘から下りなくてもレース全体を把握できる。


「ごきげんよう! テューダー卿」


 屋上の観覧席に座っていたロザリアは、後ろから声をかけられた。


 振り向くと、あの競馬好きの中年貴族が立っていた。彼はロザリアの横を通り過ぎて、同じテーブルの席に座った。


「まだ会場には行かないのですか」


「はい。急ぐ必要もありませんし、私はただの馬主ですからね。調教師、厩舎員、騎手に任せておけば問題ないでしょう」


 そう言ってロザリアはカップに口をつけ、ダージリンティーをすすった。


 彼女の落ち着いた様子を見て、中年の貴族は肩透かしを食らったような顔をした。


「そうですか……大一番だというのに、ずいぶんと冷静ですな」


「ふふ、私が檄を飛ばしてもレースに影響はありませんから」


 ロザリアはカップを下ろし、貴族に笑みを向けた。


「あなたこそ、主催者がこんなところでのんびりしてて良いのですか? キングストン卿」


 同じような質問を投げかけられ、キングストン卿と呼ばれた中年貴族は肩をすくませた。彼こそ今大会の主催者であるエイブラハム・キングストン侯爵であった。


「主催者といっても、首を突っ込み過ぎれば嫌われますからね。やるべきことはやりました。あとはアクシデントがないようにレースが終われば、私の役目は終わります」


「レースが何事もなく終わると、本心で思っていますか」


「……どういう意味ですかな」


 キングストン卿の表情が険しくなったが、ロザリアはさらに掘り下げた。


「この大会の真の賞品は馬主なら誰もが知っています。表向きの優勝賞金と馬の大集団を手に入れれば、どんな馬主でも飛躍を遂げることになり、その結果、この国の競馬界の勢力図はひっくり返る」


「それは、そうですが」


「あとはお分かりでしょう。すべての馬主はどんな手を使ってでも勝ちたいと考えている。勝つためなら金を湯水のごとく使い、人命さえ気に留めない富裕層が競うのですから、何事もなくというのは夢のまた夢ですよ」


 ロザリアは話し終わった後、紅茶を飲み干して席を立った。


「テューダー卿」


 背を向けたロザリアをキングストン卿が呼び止めた。


「あなたもまた、手段を選ばない馬主の一人ですか?」


 ロザリアは首だけを後ろに向けて、キングストン卿の顔を見た。彼の目には力が入っており、ロザリアの真意を見抜こうとしている。


「さて、どうでしょう」


 しかしロザリアは明確な答えを言わず、屋上から去っていった。


 ロザリアと親交の深いキングストン卿ですら、この時ばかりは彼女の口ぶりに得も言われぬ不安を感じた。卑劣な手段を用いる女性ではないと思っているが、人間は思わぬところで本性をあらわにする。


 キングストン卿は開催に向けた準備を進めていくうちに、唯一無二の規模となった我が大会を成功させたいと願うようになった。戦利品の占有を女王陛下に𠮟責され、はじめは苦しまぎれに計画した大会だったが、今ではこうして開催に漕ぎつけたことに、達成感すら感じている。


「息子が持ち帰った馬たちが、やはり欲望の火種となってしまったか」


 優勝のために馬主たちが策謀を巡らせているという噂を耳にしても、その話をあえて遠ざけて、大会開催に向けて注力してきた。しかし、こうしてロザリアから面と向かって言い渡されると、見ないようにしてきたレースの暗部を思い知らされるのだった。


 馬主たちの思惑にキングストン卿が戦慄している一方、ロザリアは宿の正面玄関から出た。


 目の前には彩り豊かなバラの庭園が広がっている。あざやかな赤と白のバラが多く咲き誇り、桃色のバラがその合間から顔出すことで、様々な角度からグラデーションに見えるように設計されている。


 庭園を抜けた先は馬車が停車する広場になっており、そこにはまだ多くの馬車が停まっている。どの馬車にも貴族たちの紋章が刻まれている。


 馬車のそばで談笑している二人の貴族がロザリアに気づいた。年若いロザリアが先に会釈すると貴族たちも渋々頭を下げたが、すぐに顔を背けて会話を再開した。


 レース開催に際してこの地方に来てから、どの馬主もロザリアから距離を取っている。もともと社交界で浮いた存在であったが、今のロザリアはダービーを獲ったことで、馬主たちの間で一目置かれる馬主になりつつある。向けられる感情は様々だが、以前のように女と侮る視線はずいぶん減った。


 馬車だまりの中を進んで、とある馬車に目をつけた。車体には金色の跳ね馬の紋章があり、開いている窓から煙が出ている。


「ごきげんよう、アークライト卿」


 ロザリアはその馬車に近づいて、車内の人物に挨拶した。案の定、車内で葉巻を楽しんでいたのはアークライト卿だった。


「ああ、これはどうも、テューダー卿」


 老紳士アークライトはロザリアに挨拶を返したが、わずかに顔をしかめていた。


 お互いに面識ある二人だが、仲が良いわけではない。これといったトラブルがあったわけではないが、アークライト卿はクラシック三冠馬を輩出しようと目指し、二千ギニーでユリシーズに、ダービーでロザリアの所有馬に勝利を阻まれている。


 もちろんロザリアが騎手ユリシーズを起用したことは周知の事実だ。ダービーを制覇したのにアマチュア騎手を雇うのはいかがなものかと、遠回しにロザリアに苦言を呈する人間もいたが、それでもロザリアは宿の会食にも平然と顔を出し、馬主たちの視線を意に介さず過ごした。


 その中でも、内心おだやかでないのはアークライト卿である。大本命だったダービーを奪われただけではなく、よりによって今大会でロザリアの所有馬に乗るのは、あの猟犬ユリシーズなのだ。表向きの二千ギニーの覇者はサンダース卿だが、シアトルブラウン号を差し切ったユリシーズの存在は、いまだ根強く残っている。


 また多くの馬主も二千ギニーのひと悶着を知っている。アークライト卿本人にその話題を振る者はいなかったが、彼自身はその空気感に気づいている。野良犬のようなアマチュア騎手に負けたという目で見られ、その歯がゆさは彼にとって耐えがたいものだった。


「なにか、私に用ですかな」


 アークライト卿は笑顔を貼り付けているが、警戒心がにじみ出ている。


 対してロザリアは緊張することなく挨拶を続けた。


「先日の会食ではご挨拶する機会がなかったので、こうして声をかけさせていただきました。本日のレース、どうかよろしくお願いします」


「む……うむ、こちらこそよろしく」


 やわらかに微笑むロザリアに、アークライト卿は拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに気を取り直して大仰にうなずいた。年長者として譲れない部分もあるのか、ロザリアに思うところがあっても、余裕を崩さないように努めている。


「おや、その葉巻はキューバ産の最高品質ですね」


 ロザリアは車内にいるアークライト卿の右手を見た。彼の手には太い葉巻きがあり、その先端から紫煙がくゆっている。


「よく、わかりましたな」


「はい。これほど素晴らしい品なら、一目見ただけでわかります。しかもラベル付きの特注品ですね。さすが、生粋の愛煙家は良い物をたしなんでおられる」


「……ほほう、テューダー卿も良い目をお持ちのようだ。私も競馬と葉巻には目がなくて、こればかりはやめられない」


 愛用している物を褒められたことで、アークライト卿の警戒が若干ゆるんだようだ。ロザリアも煙草をたしなむため、しばらく二人は愛煙家どうしの会話を楽しんだ。


 会話を楽しんでいる二人だったが、アークライト卿が周りの目を気にし始めた。自分は馬車の中で座っていて、対するロザリアは立ったまま窓の外から自分を見上げている。


「そうだ、立ち話もなんでしょう。テューダー卿がよろしければ、馬車の中でくつろぎませんか?」


 アークライト卿は紳士として気遣いができない男なのだろうか。そんな声が今にも聞こえてくるように思えたため、先にアークライト卿からロザリアを馬車の中に招いた。


「いいのですか?」


 ロザリアが確認を取ると、アークライト卿は鷹揚にうなずいた。


「ええ、どうぞ」


「ありがとうございます。では……」


 ロザリアは馬車の裏手に回り、扉を開けて乗車した。


 アークライト家の馬車は広く、大人が複数人いてもくつろげる規模だ。座席は向かい合う形になっていて、アークライト卿とはす向かいになるようにロザリアは座った。


 窓から外の明るさが入ってくるが、それでも車内は薄暗い。アークライト卿の葉巻からこぼれる煙が、日陰と日なたで揺れおどっている。


 座席に腰かけたロザリアは、前にいるアークライト卿の左手側の座席に、黒革のシガレットケースと銀の灰皿が置かれている。


 ケースに一瞥してから、ロザリアは自分の紙巻き煙草を取り出して、火を点けた。


「それはそうと、息子さんの調子はどうですか? ダービーからあまり日が空いていないのに、今回の障害レースにも騎乗するのは過酷な挑戦でしょう。いやはや、私もその活力を見習いたい」


「いえいえ、私の息子など、あなたのような才媛と比べれば、まだまだ未熟ですよ。ですが、可愛い子には旅をさせよというように、こうした大舞台に出ることで成果が生まれるかもしれませんな」


「ご謙遜を。すでに息子さんは、クラシックレースで立派にしのぎを削っているじゃないですか」


 この発言にアークライト卿の眉が上がった。持っていた葉巻を深く吸って、ゆっくりと煙を吐いてから、灰皿の底で火を押しつぶした。


 一見すれば褒めたような言葉だが、彼の息子ジェローム・アークライトはクラシックレースで勝っていない。腕は確かだが、自他ともに認める名騎手かと言われれば、評価は分かれるだろう。


 ロザリアの発言を言い換えれば、ジェロームの腕はクラシックに届いていないという意味になる。他の馬主ならばまだしも、クラシック一冠を獲ったロザリアが言ってしまえば、それは明確な挑発と受け取れる。


「ふっ……ふふ、そうですな。ダービー馬を輩出したあなたに褒められるならば、息子も喜ぶでしょう」


 動揺か、怒りか、ぎこちない笑みを浮かべているアークライト卿だったが、まだ御者に出発を命じることはなかった。半ば無理やり雑談を終わらせて去ることもできたが、馬車の外には多くの貴族がおり、ほとんどが遠巻きに二人の様子をうかがっていた。


 車内の様子がわからなくても、すぐにロザリアが馬車から下りてしまえば、アークライト卿がロザリアを強引に追い出したと見られるかもしれない。


 ここで先に逃げてはならないとアークライト卿が改めて意を決したところで、今度は彼から口を開いた。


「ひとつお尋ねするが、テューダー卿にはお抱え騎手がいらっしゃるのかな」


 騎手についての話を振られ、ロザリアは意外そうな顔をした。


 アークライト卿にとって、ユリシーズ・ハーディという男は禁句のようなもので、それこそ話題の中に出すことすら嫌がっていると聞いていたからだ。


「いるにはいますよ。ダービーでも尽力してくれました」


「ほう、では今回のレースでどうしてその騎手を呼ばなかったのですか? たしか、元アマチュアの騎手を抜擢したとか」


 問い詰めてくるアークライト卿を見て、ロザリアは笑みがこぼれそうになるのを我慢した。気にしていないふりをしていても、無視しているふりをしていても、それでもアークライト卿はユリシーズが騎手として現れたことを面白く思っていないのだ。


 ロザリアは煙草の煙を吐いてから、首をかしげた。


「はて、彼は元アマチュアだったのですか」


「……は?」


 それを聞いたアークライト卿の目が丸くなる。


 アークライト卿がなにかを口にする前に、ロザリアはさらに続ける。


「いやいや、私は若輩者なので、出自や経歴をあまり重視しないのです。技術があれば、勝負強さがあれば、何も問題はないと思っています」


「ですが、アマチュア騎手であったことも事実です。大きなレースの経験が豊富で、たしかな実績がなければ、信頼して馬を任せるなど……」


 アークライト卿が持論を展開しようとした時、ロザリアが押し殺すように笑った。


「実績ですか。それなら問題ありません」


 ロザリアが足を組みなおし、アークライト卿に告げた。


「私が雇ったユリシーズ・ハーディは、今年の二千ギニーで見事に勝利しています。あの判断力と勝負強さに、私は惚れ込んでしまったのです」


 それを聞いたアークライト卿が、ぐっと息がつまったような顔をしてから、探るように尋ねてきた。


「あなたも、二千ギニーを観覧していたのですか?」


 アークライト卿の問いに、ロザリアはうなずいた。実際は現地でレースを見ておらず、ロザリアがやっていることは嘘もいいところなのだが、今のアークライト卿にそれを見抜くことはできない。


 そしてそれはもう一つの意味に至る。二千ギニーのいきさつを知り、ユリシーズの腕を高く評価しているのと同時に、二千ギニーで落馬したジェロームのことも印象に残っているということになる。


 アークライト卿にとって、ユリシーズは息子のために用意した捨て駒だった。その捨て駒に勝利を奪われ、恥辱にさらされたことは忘れられない。


「灰が落ちますよ」


 ロザリアにそう言われ、アークライト卿があっと小さく声を上げる。


 アークライト卿が右手の指で持っていた葉巻から、今にも灰が落ちそうだ。


 すかさずロザリアが灰皿の方に手を伸ばし、それを手に取って、アークライト卿の目の前に差し出した。


「どうぞ」


「あ、ああ。どうも」


 差し出された灰皿の端で葉巻を叩き、灰を皿の中に落としてから、アークライト卿はあっけにとられながらも礼を言った。


「良い葉巻ですが、灰の量が多いのは大変ですね」


 そう言いながら、彼女はシガレットケースを一度だけ振り、煙草の頭をきれいに一本だけ外に出した。


「どうですか、アークライト卿も紙巻き煙草は」


 細い紙巻き煙草を差し出され、アークライト卿は困惑した。


「スペインの老舗から取り寄せたものです。万人受けする銘柄ですが、あなたのような紳士がたしなんでも絵になりますよ」


 差し出したまま笑顔を向けるロザリアだったが、目の奥は笑っていない。相対するアークライト卿は彼女の挑戦的な視線を受けて、ふつふつと腹の奥が煮えていた。


「どうも……ただ、残念ながらレースも近いので、これは後で楽しませてもらいます」


 アークライト卿は煙草を受け取ったが、それに火を点けることなく、左手側に置いていたシガレットケースに収納した。


「それもそうですね。私にも迎えの馬車が来る頃合いです」


 ロザリアは軽く頭を下げてから、馬車のドアを開けて降車した。


「それではアークライト卿、ご健闘を」


 彼が馬車のドアを閉めている途中で、最後にロザリアが挑発を言い放った。


 車内のアークライト卿のひたいには筋が浮かび上がったが、彼は笑みを作ったまま、御者に合図を送った。御者が鞭を振るい、馬車がゆっくりと走り出す。


 広場にはロザリアだけが残った。静まりかえった広場からバラ庭園へ、そしてその奥にある宿の外観を見上げると、屋上の柵に腕を乗せている人影が見える。あれは先ほど話した主催者のキングストン卿で、どうやら屋上から、ロザリアの様子をながめていたのだろう。


 視線を再びバラ庭園へ向けると、花々の合間を飛び交うミツバチを見つけた。いよいよ夏の盛りを迎える。ハチも咲いた花から蜜を吸い、せっせと巣へ蜜を溜めていく時期だ。


 ロザリアは空を仰ぎ、懐から黒革のシガレットケースを取り出した。ケースの中には、アークライト卿が愛用しているキューバ産の葉巻が入っている。

ロザリアは満足そうに微笑んでから、その葉巻に火を点け、紫煙を空に吐いた。

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