決戦
第1話 ~ 決意新たに
夜明け前にユリシーズは目覚めた。窓にカーテンはなく、寝たままでも外の薄暗さがわかった。
ベッドの脇に置いた懐中時計の蓋を開ける。針は五時四十分を指していた。
レースを控えたためか、ここ数日はずっと浅い眠りだった。再び毛布をかぶって眠ろうとしたが、今さら熟睡できるはずもなく、結局起きることにした。
窓の前に立つと、外は灰色の朝もやに覆われていた。まだ朝日は山の向こうから顔を出していない。風がほとんどないためか、ただよう朝もやに動きはなく、まるで村全体が冷たい水底に沈んでいるようだ。
上着を羽織って部屋を出た。出た先は教会の二階廊下で、吹き抜けとなっている一階の礼拝堂を見下ろせる。
石造りの教会はどこか寒々しい。すきま風はほとんどないはずだが、しんと静まった礼拝堂の空気は冷たく感じる。村に来ている他の馬主は贅沢な宿に泊まっているらしいが、ロザリアを始めとしたテューダー陣営は、この教会の厚意で寝泊まりしている。
ロザリアは宿代を渋るような性格ではないが、かといって散財が好きというわけではない。あくまでも競馬は趣味の延長であり、本来の仕事ではないと考えているため、不必要な出費は抑えるようにしているという。彼女に仕える使用人や厩舎員たちも、その理念に納得しているらしく、特に不満なくここで過ごしている。
階段を下りて、礼拝堂の正面に立つ。二列に並んだ会衆席の中央を進み、右の最前列の席に座った。
なんとなしに座ったが、よくよく思い返せば、教会の席に座ったのはルークが亡くなって以来だ。あの頃は日曜の礼拝に出る習慣があり、家族とともに神聖な場におもむいていた。まだユリシーズの中に、信心という気持ちがあった頃だ。
目の前には聖書台があり、さらに目線を上げると、聖母マリアを模したステンドグラスが壁に広がっている。まぶたを閉じた聖母は、両脇にいる幼い子どもたちに手を差し伸べ、母と子の手はしっかりと結び合わされている。
聖母子像を見上げ、母ユリアと弟ルークへの想いがめぐる。
今、二人が目の前にいたら、自分のことをどう思うのだろうか。一人になったことで歯止めが利かない人格になり、人殺しまで計画するようになった。それだけでは飽き足らず、ロザリアがもたらしたわずかな希望にすがりつき、ここへ来た。
もちろん退けない戦いに臨んだのは自分だ。それは自覚しているものの、一人になって聖母子像をながめていると、本当にこれで良かったのかという小さな迷いが生まれる。ロザリアの依頼を受けると決めた時も、その迷いは心の片隅に残っていた。
「応援してほしいとは、言わない……でも、どこかで、見守ってほしい」
顔をうつむかせ、組んだ両手を額に押し当てる。
事の善悪は関係なく、ただひたすらに勝ちたい。思えばこれまでの人生、何に挑んでも成し遂げられなかった。母のために、弟のためにと行動しても、大事なものはすべて手からこぼれ落ちていった。
その時、木のきしむ音が後ろから聞こえた。振り返ると、左側の最後列の席にロザリアが座っていた。
「おはよう、良い朝だな」
先にロザリアが声をかけてきた。「そうだな」とユリシーズは返したが、それ以上は言葉を交わすことなく、前に向き直った。朝日が出てきたのか、ほんの少しだけステンドグラスが明るくなっている。
二人はしばらくそのままだった。会話をするわけでもなく、それぞれが黙って席に着き、荘厳な聖母子像を見上げていた。明け方の静けさも相まって、奇妙な時間だった。
「ロザリア」
「なんだ」
「ひとつ聞いても良いか」
「いいぞ」
ずっと後ろの席にいる彼女の方を見なかったが、彼女が身じろぎして座りなおす音が聞こえた。このまま、話を聞いてくれるようだ。
「あんたは当主だが、他の家族は?」
「おや、私に興味を持ってくれたか。どういう風の吹き回しかな」
「……ただの雑談だ。どうしても今聞きたいわけじゃない」
少し茶化すような彼女に、ユリシーズはため息をついた。
いきなり個人的な話を振ったのが間違いだったと思い、ユリシーズは席を立とうとしたが、その前にロザリアが席を立ってこちらに近づき、すぐ左の席に座った。礼拝堂の中央に伸びた絨毯だけが二人を隔てている。横に並んだ二人は、顔を合わせることなくそれぞれ前を向いたままだ。
「テューダー家の人間は私だけだ。母は病で、父と義兄は事故で亡くなった」
「義兄?」
「私は後妻の子だ。兄とは半分しか血がつながっておらず、歳もずいぶんと離れていた。兄が今頃生きていたら、伯爵の肩書は兄のものだったろう」
彼女の声は淡々としたものだった。次々に家族が亡くなり、孤独な身となったのはユリシーズと同じだ。だが、家を継ぐ立場になった彼女の心情は計り知れない。悲しみに暮れたのか、はたまた地位を得る幸運に歓喜したのかわからない。
「ユリシーズ、私もひとつ聞いても良いか」
今度はロザリアから質問してきた。彼女の方には目を向けず、「なんだ」と答えた。
「君の弟は……ルークはどんな子だった?」
ユリシーズは思わず息を呑んだ。決して他人に触れてほしくない話であり、いつもならそれを軽々しく掘り返す人間には容赦しなかった。
しかし同時に、心のどこかでこの問いが来ると予感していた。聖母子像を見上げ、ロザリアの家族について知ろうという感情が生まれてから、おそらく彼女も、腹違いの弟であるルークについて知りたがっているだろうと察していた。
「俺とは違って、ひたむきで、優しい子だったよ。俺が家にいない時は母さんの世話をして、俺の分の料理まで作ってくれた」
「そうか。……自分の生まれのことで、つらい目に遭っていなかったか?」
この問いにちくりと胸が痛んだ。髪と目の色が違っていても、弟に惜しみない愛情を注いできたつもりだったが、ルークが自分の生まれを他人に悪く言われ続けていたのも事実だ。おそらく家族の見えないところで苦しんでいた日もあっただろう。
当のルークはユリシーズのことをどう思っていたのか、今はわからない。事実のみで述べるとすれば、ルークは貧しい生活を送り、病に苦しみ、ユリシーズの帰りが遅くなったせいで亡くなった。どれほど愛情を注いだと主張しても、つらい日々を送らせてしまったことは変わらない。
「そうだ。だがな、ルークを一番苦しめたのは俺だ」
「え?」
ロザリアがユリシーズに目を向けた。彼の目には力がなく、打ちひしがれた顔で聖母子像を見上げている。
「俺は俺なりにルークを愛し、面倒を見てきた。今思えばそれは過ちだったのだろう。肺が弱いとわかったあの時に、ウェールズへ戻って、テューダー家に頭を下げるべきだった。ルークがテューダー家の子として過ごしていたら、あんたのような立派な姉のもとにいたら……あいつは、今も元気で生きていたかもしれない」
母とルークを切り捨てたテューダー家に対するあてつけではなく、本心から出た言葉だった。
テューダー家が受け入れるかどうかは別として、ルークを育てきることができないとわかった時点で、すべてのプライドを捨てて、テューダー家に弟のことを願うべきだった。テューダー家への怒りを胸に押し込め、ルークを弟として受け入れたのも、自分のエゴだったのかもしれないとユリシーズは思った。
「俺が愚かだったんだ。ルークは、俺と一緒に育ったせいで」
「それは違う!」
初めてロザリアが怒鳴った。ハッとしてユリシーズが彼女の方を向くと、彼女は席を立ってユリシーズの目の前に立ちふさがった。彼女の目は哀しみと怒りを帯びていた。
「富があるからどうだと言うんだ。豊かで長生きするから幸せになれると思うのか。君の弟に会ったことはないが、一度でも君に不平を言い、家から逃げ出したことはあったか」
「それは、なかったが……それとこれとは話が違う。ルークはもっと生きたかったはずだ」
「君がルークの幸せを決めるのか。なんと傲慢か」
ロザリアの言葉にユリシーズの身が震える。怒りではなく、芯を食った意見に衝撃を受けていた。
「ロンドンで生まれ、貧困にあえいで育ったのは事実だろう。しかし、自分に愛情を注いでくれた家族と離れたとして、はたしてそれが幸福と言えるか? ルークは喜んで君から離れるような子か?」
厳しい問いを突きつけられ、ユリシーズはうなだれた。
「ユリシーズ。君の目で見たルークの笑顔は、曇っていたか?」
しばらくして、ゆっくりとユリシーズは顔を上げ、首を振った。弟はいつも自分を慕ってくれた。時に小さな喧嘩をすることはあっても、すぐに他愛もないことで笑い合い、お互いに助け合って生きてきた。本心がわからなくても、兄ちゃんと呼ぶその笑顔はいつも輝かしく、ユリシーズを勇気づけてくれていた。
「それが答えだ。自分のやったこと、やり切ったことから逃げるな。良いことも、悪いことも、すべては自分自身で生み出した結果だと私は考えたい。ルークは長生きできなかったが、君という兄の背中を見て育つことができた。それが幸せな人生だったのか決めるのは、ルークにしかできない」
彼女は膝をつき、ユリシーズの手に自分の手を添えた。
「今日、君はベルに乗って戦う。そこに至るまで多くの動機があったはずだが、最後にそれを拾ったのは君自身だ。良かれと思ったなら、ひたすら前に進めばいい。戦う理由は君だけのものにして良いんだ」
ロザリアと目が合う。彼女の蒼い瞳はどこまでも力強く輝き、ユリシーズの胸を打つ。
「私とベルは先に会場で待っている。君は身支度をして、食事を済ませてから来てくれ」
そして彼女は立ち上がり、礼拝堂を出ていった。
ユリシーズは目元をぬぐう。顔を上げると、夜明けの朝日がステンドグラスを照らしていた。聖母子像は色あざやかに輝き、そこで初めて、目を閉じた聖母がわずかに微笑んでいたことに気づいた。我が子のすべてを受け入れる、慈愛に満ちた笑顔だった。
突きつめていけば、この挑戦は過去を断ち切りたいという願望の現れだろう。母と弟の墓を移し、手厚い供養ができるようになれば、自分の過去を洗い清めることができると思いたい。それこそ、ユリシーズ・ハーディという男の中に残った最後のエゴなのだろう。
ならば最後まで我を通そう。迷いなく、まっしぐらに。
席から立ち、聖母子像に背を向けて進んだ。外へ出ると、朝日に透かされた朝もやが銀色に輝いて見えた。
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