第6話 ~ ベルとロザリア
これで解決したので、あとは予定通りベルに乗って走るだけだ。厩舎を出て、もう一度平原の方へ行こうとすると、リックが後を追いかけてきた。
「あの、ユリシーズさん!」
「なんだ?」
「僕の家に来てください! どうしてもお礼がしたいんです」
「別に良いんだ。それより、早く家に帰った方が良い。大会が迫っているせいで、この厩舎にいる人間が少し神経質になっている。ここでうろついていると、また面倒なことになるぞ」
「でも……」
二人が話している途中で、見知った騎手が厩舎の影から出てきた。額に火傷の痕がある男で、二千ギニーの時に絡んできた騎手だ。
ユリシーズは少し遅れてマーカスという名だと思い出した。対してマーカスは顔が引きつっていた。先に向こうがユリシーズの顔を思い出したらしい。
「っ……お前」
マーカスはポケットに手を突っ込み、苦い顔をしたまま近づいてきた。
「おい、どうしてここにいる?」
「何がだ」
「とぼけんじゃねえよ。お縄になった身分のくせして、よくもまあ馬に乗れるもんだ」
「それとこれは話が別だ。そもそも、俺はすぐに釈放された」
「けっ……噂通り、野良犬みてえなやつだな。お前も賞金に目がくらんだ一人か」
反論しても嫌味を言い続けるマーカスに、さすがにため息をつくしかなかった。
いざとなれば拳一つで黙らせることもできたが、ロザリアの依頼により騎手をしている身のため、下手に手を出すこともできない。それにリックもそばで見ている。これ以上、大人の醜い姿を見せるのは避けたかった。
「ん? なんだ、そいつは」
近づいてきたマーカスが、ユリシーズの影に隠れていたリックに気づいた。慌ててリックは顔を引っ込めたが、マーカスは幼いリックを見て、ははあと笑みを浮かべた。
「お前の養っている弟が、こいつか? 病気ばかりで、ずいぶん金がかかって大変だって聞いたぜ」
「……なんだと?」
「勝つためなら、金のためならなんでもやる騎手ってな。なあ、猟犬のユリシーズ。金の匂いがするものに集まり、稼げるなら周りなど知ったことじゃない。二千ギニーはその噂通りに問題を起こしていたじゃねえか」
おそらくマーカスはユリシーズの弟が亡くなったことを知らないのだろう。二千ギニーの一件の後で、ユリシーズについての噂話を聞いたような口ぶりだ。
リックはなんの話なのか理解できていなかったが、少なくともマーカスの性根の悪さを感じ取ったらしく、警戒心をあらわにしてマーカスを見上げている。
「なんだ、こぞう? 俺に文句でもあるのか」
マーカスが睨み返すと、リックがさっと顔を背ける。
「へっ、やはり似るもんだな。兄貴がこうなら、その弟も礼儀がなっていないらしい。体が弱いなら、病院で寝てる方がお似合いってもんだ」
笑うマーカスの顔を見て、殺意がふくれあがった。
足で目の前のマーカスの両足を払う。足を刈られたマーカスは地面に後頭部を打ちつけ、そこにユリシーズは馬乗りになる。
上に乗られたマーカスは目を白黒させながら怒鳴ろうとしたが、喉をわしづかみ、眼球の前に指を突きつけると、ひくっと息を吸って黙った。
「ルークはもういない。俺の前であいつのことを話すなら、次は目をくりぬく」
「かは、あがっ……」
「わかったか? わかったなら消えろ」
そこで喉を締めていた手をゆるめて立ち上がった。マーカスは激しく咳き込みながら、よろよろとした足どりで逃げていった。
走り去る姿を見届けてから、後ろにいたリックの方に振り向いた。
「もう帰るんだ」
リックの目を見据えてそう告げる。リックはひどく戸惑っている様子だったが、厳しい視線に耐え切れなくなったのか、小走りで平原の奥へ走っていった。
何人かの厩舎員がこちらを遠巻きに見ている。今の一部始終を見て驚いているようだったが、ユリシーズが目線を向けると、顔を背けてそそくさと去っていく。騎手どうしのいさこざ程度なら無視しておこうという考えらしい。
厩舎の前に立ちつくしていると、そばにいたベルが肩に顔を当ててきた。
「なんだ?」
ベルの顔に手を伸ばし、そっと触れた。顔に触れても嫌がる様子はなく、猫のように鼻をすりつけてくる。
意図はわからないが、感情はなんとなく読み取れる。ベル自身がユリシーズという人間に慣れ始め、どういう人間なのか本能で理解してきたのだろう。その仕草は、思い悩むユリシーズに同情しているようだった。
動物の感情は複雑で、なにかがきっかけとなって関係性が変わることは多い。完全に心を許したわけではないが、ベルは今日のユリシーズを見て、ただの他人ではないと思ってくれたようだ。
今ならベルに乗り、試しに早駆けしてもいいかもしれない。
だが、ユリシーズの心に重い鎖がからみつき始めていた。マーカスを黙らせたのは、怒り心頭になったからだけではない。触れたくない過去を、これ以上耳にしたくなかったからだ。
事情を知らない人間から、あれこれと過去を謗られる。周りの子どもたちにいじめられていたルークも、同じような苦しみを味わっていたのだろう。
どうせ過去のことだと笑い飛ばすことも、開き直ることもできない。
懸命に馬に乗っても、勝利をつかんでも、自分が守りたかったものはすべて手からこぼれ、それでも結局は騎手としてこの地にやってきた。マーカスの言っていたことは、ある意味、的を射ていた。その証拠に今も同じようなことを繰り返している。
「くそっ……」
ベルから手を離し、うなだれた。
「どうした、乗らないのか?」
声の方向へ振り向けば、いつの間にかロザリアが立っていた。
「来ていたのか」
「どんな様子か気になってね。おや、少し仲良くなっているようだが」
ユリシーズとベルの距離感を見て、ふふっと彼女は笑う。
「今の、見ていたか」
「うん? ああ、さっきのか。見ていたよ。言い争っている内容は聞こえなかったが」
「怒らないのか? トラブルを起こしかけて、おとがめなしはあり得ない」
「あれくらいの喧嘩なら、私が根回しすればどうとでもなる。大怪我を負わせたらさすがにまずいが、何も言い返せないよりマシだ」
そう言いながらロザリアはベルに手を伸ばした。ベルも彼女の手に触れ、顔をすり寄せる。
付き合いの長いロザリアや、子どものリックは難なくベルと打ち解けていた。むしろベルの方が警戒心を抱かず、距離を詰めているように見える。
対してユリシーズは大きな進展はなく、あと二日でレースに出れるかどうかも怪しい。
「難しいものだな」
焦りと不安から、そんな弱音がこぼれ出た。
「何がだい?」
「わかっているくせに」
息を吐いてロザリアから視線を逸らそうとしたが、彼女はすっと体をずらして目線を合わせてきた。またも、こちらを見透かすような蒼い瞳と目が合った。
「それは違うよ、ユリシーズ」
「違う?」
「君はベルのことをどう思っている? もしもベルが人間の女だとしたら、どう接するべき女だ?」
この不思議な問いかけに困惑したものの、ロザリアの言う通りに、人間の女だと当てはめて考えてみた。
「……気位の高い、とっつきにくい女という印象だ。自分が認めた人間、いや、認めた男にしか心を許さない女といったところか。ある意味、敬意を持って接するべきだと思っている」
ロザリアは途中までうなずいて聞いていたものの、あははっと弾けるように笑い出した。
「ああ、いや、すまないすまない。君は意外と純情な男だったんだな」
「馬鹿にしているのか」
「ううん、そんなことはない。ただ、君はベルの本当の姿を知らない」
「本当の、姿?」
ユリシーズは怪訝な顔をした。
「ベルの母馬は産後すぐに亡くなってね。幼い時からベルは人の手で育てられ、私や、慣れ親しんだ厩舎員にしか懐かなくなってしまったんだ。気難しいというより、内弁慶なまま育ったんだ。まあ、飼い主に似た性格になったと言えばわかりやすい」
彼女は軽く拳を握り、ユリシーズの胸をとんっと叩いた。
「遠慮はするな。ベルは私に似ている。貴婦人のように扱わず、私が相手だと思って乗ってみろ」
そしてロザリアは背を向けて歩き始め、最後に「君も自分をさらけ出すことだ」と締めくくって去った。
去りゆく彼女の背を見送る。心の中では、なにをわけのわからないことを言っていると思ったものの、ふとユリシーズはベルの目を見つめた。
丸い瞳の色は褐色で、人とは違い、瞳孔は横に長い楕円形だ。
肉食獣の瞳孔ならばナイフの切り口のように鋭く、射貫くような視線に感じるだろう。しかし馬の瞳は一体どこを見ているのかあやふやで、見つめれば見つめるほど吸い込まれるような感覚を覚える。
色も形も異なるが、ロザリアに見つめられているような気がした。思考が読みにくく、逆にこちらの感情を見透かしてくる瞳だ。
「私だと思って、か……」
ロザリアの言葉を繰り返すと、列車の中で彼女に覆いかぶさった時のことを思い出した。今も底の知れない女だが、その瞳には不思議な魅力もあった。
ユリシーズはあぶみに足をかけ、再び鞍にまたがった。ベルは嫌がらなかったが、耳の動きから、先ほどよりも緊張感が増しているようだ。
「行くぞ、ベル」
しかし遠慮はしない。ベルが自分のことを人間だと思っているのなら、こっちも馬だと思わず、思いきりやらせてもらう。それこそロザリアが相手だと思えば、なおさら遠慮はいらないのだ。一度は恨んで殺そうとした相手なのだから。
「今日、明日……そして明後日も、とことん付き合ってもらうぞ。お前を御して、俺が勝つ」
本番まで時間は限られている。最高の状態に仕上げるためには、生半可なことをしている暇はない。この時期に競争馬をいたずらに走らせる騎手はいないが、それでもユリシーズは自分なりの方法をやり切り、ベルという馬のすべてを引き出すことにした。
常識にとらわれていては、突き抜けることはできない。現に二千ギニーでは、意表を突いた作戦で番狂わせを起こせた。その勝利は苦い思い出であったが、得たのはそれだけではない。はるか格上の馬、そして騎手たちをねじ伏せたという自信も得ているのだ。
初の障害競走、初めて実戦で騎乗する馬であろうと、あがけば活路は見いだせる。
四十八時間後の決戦に向けて、ユリシーズは動き始めた。
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