第5話 ~ 少年リック
「お待たせしました。馬具は一通りつけたので、軽く走る分には問題ありません。ただ、ご存じの通り本番は二日後です。疲弊させるような走りは控えてください」
「わかっている。少しベルと呼吸を合わせるだけだから、心配するな」
「そうですか。では、手綱を……」
厩舎員はベルの手綱をユリシーズに渡した。手綱がユリシーズの手に渡ったとたん、ベルは改めてユリシーズの顔を凝視してきた。お前が私に乗るつもりなのかと問いただすような目つきだ。
「そんな顔をするなよ」
負けじとベルの目を見て、つぶやいた。あぶみに足をかけてまたがると、視界がぐんと高くなるとともに、ベルの背中からたくましい力を感じる。どんな馬に乗っても息づかいや筋肉の動きが感じられるが、ベルの背中はこれまで乗ってきたどの馬よりも雄々しく、大木のような安定感がある。
優しく馬の横っ腹に足を当てて合図を送る。わずかな間があってから、ベルは指示に従って前に進み始めた。
一抹の不安があったものの、今日のベルは機嫌が良いようだ。気を許してくれたわけではないが、最初に乗った時よりも素直に動いてくれている。
「よしよし」
順調に脚を進めるベルに安心し、ユリシーズ自身の緊張もほぐれてきた。手綱にはほとんど力を入れず、体の重心だけを移動させて、ベルの進む方向を変えていく。
まず、行く先は厩舎の裏に広がる平原だ。余計な遮蔽物や起伏がなく、馬を走らせることに最適な場所だ。
「……うん?」
平原に出てみると、遠くに小さな人影が見えた。はじめは小動物かと思ったが、よくよく目を凝らせば、かがんで歩いている少年だとわかった。その動きを見てみると、どうやら何かを探して歩き回っているようだ。
無視してベルを適当に歩かせることもできたが、また競馬関係者とトラブルが起きても困るため、下馬してベルを引きながら少年に歩み寄った。
近づく途中で少年がこちらに振り返った。歳は十歳に届くかどうかといったところで、馬を引いているユリシーズを見て顔がこわばっていたが、いきなり逃げ出すことはなかった。間近で馬を見れたことで、警戒心よりも興味が勝ったのだろう。
「どうした、なにか探しているのか?」
少年はおどおどしながら首を縦に振った。
「そうか。どんな物だ?」
「……え?」
落とした物を聞くと、少年は驚いて口をポカンと開けた。
「だから落とし物だよ。探すのを手伝うから、どんな物なのか教えてくれ」
「あの……家の納屋の鍵を落としちゃったんです……小さい木札がついていて、クローバー農場って書いてます……」
「札がついている鍵だな。じゃあ一緒に探してみよう」
ユリシーズはベルを伴いながら地面を見つめて歩くことにした。本来なら物探しをしている猶予はないのだが、放っておくことができなかった。
歩き回りながら草地とにらめっこするが、鍵らしきものは見当たらない。この広い平原をしらみつぶしに探していては日が暮れてしまうと思い、ユリシーズは少し遠くで探していた少年を呼びよせた。
「坊主、名前は?」
「り、リックです」
「リックか。俺はユリシーズっていう」
お互いの名を知ってから、ユリシーズはしゃがんでリックと視線を合わせた。
「いいか、リック。こんなだだっ広い平原で鍵を見つけるのは大変だ。まず、どうしてこんなところで鍵を落としたのか教えてくれ。落とした時、リックがこの場所でどう動いていたか知りたい」
「はい……三日前に、僕は友達と一緒にあそこの厩舎に行ったんです」
リックはそう言って、厩舎の方を指差した。
「本当はダメだとわかってました。でも、どうしてもレースに出る馬を近くで見たくなって、友達が朝方にこっそり入ればバレないから行こうって……」
薄々感づいていたが、リックは厩舎員たちから聞いた子どもたちの一人だった。
「けど、厩舎の外を歩いていたおじさんたちに見つかって、僕たちは追いかけられて……」
そこでリックは口ごもった。よほど怖い目に遭ったらしく、顔色がすぐれなくなってきた。
「追いかけられて、どうしたんだ?」
「……騎手のお兄さんに怒られて、叩かれたんです。怖くなって、走って逃げて、家に帰ったら……鍵が、なくなっていたんです」
絞り出すように答えてから、リックは泣きべそをかきはじめた。
厩舎に忍び込んだどころか、リックはジェローム・アークライトに殴られた、あの子どもだった。その時のジェロームがどういう機嫌だったのか知らないが、彼が厩舎を逃げ回っていたリックに激怒し、暴力を振るったというのは事実だったようだ。
「なるほど、そういうことだったのか」
あとはこの平原のどこを通って逃げてきたのか聞くだけだったが、ユリシーズは三日前のその状況をさらに聞きたくなった。
「リック、どうしてそのお兄さんが怒ったのか、俺に教えてくれないか」
「え、でも……」
「大丈夫、誰にも言わないよ」
少し迷っている様子だったが、リックは話してくれた。
「実は、僕もどうして怒られたのかわからないんです。厩舎の裏に隠れてから、馬を引いたお兄さんが通りがかりました。本物の騎手を近くで見れて、それで、家から持ってきたハチミツの瓶を渡そうとしました」
「ハチミツの瓶?」
「はい。僕のお父さんは養蜂をしてて、家の納屋には美味しい採れたてのハチミツがあったから、こっそり鍵を開けて瓶を持っていったんです。ハチミツは甘くて元気が出るから、レースに出る騎手に渡したくて……」
経緯を聞いたユリシーズは、先ほどの厩舎員の話と、今のリックの話が食い違っていることに気づいた。最初に厩舎員から聞いた話によれば、ジェロームはぶつかってきたリックに服を汚されたから怒ったはずだ。
「そうだったのか。リックは、騎手のお兄さんを応援したかったんだな」
「はい……でも、騎手のお兄さんは瓶を受け取ってくれませんでした。すごく怒って、こんなものをよこすつもりか、って……」
「渡そうとしただけで、怒ったのか?」
「はい」
「……聞いてばかりで悪いが、リックはそのお兄さんにぶつかったりしたか?」
「え? ううん、ぶつかってません。話しかけて、ハチミツの瓶をポケットから取り出して近づいたら、気づいたら叩かれていました」
この時点でリックは嘘を言っていないと確信した。子どもはささいなことで嘘をつくこともあるが、ここで嘘を言っても意味はない。ハチミツをプレゼントされただけでジェロームが激怒したというのは、本当のことだろう。
ならばジェロームがどうして激怒したのかわからない。渡された物が気に食わなかったのか、たまたま虫の居所が悪かったのか。どちらにせよ、有無も言わさず子どもに手を上げるのは異常だ。さらには駆けつけた厩舎員に殴った経緯をごまかしてい
る。なにからなにまで不自然な話だ。
「つまり叩かれた後、この平原に逃げたのか」
「はい。僕の家はこの平原を抜けて、あっちの方にある家なので……」
リックが指差した先に目を向けると、遠くの方にぼんやりと農場が見えた。平原を抜けた先にあり、林が広がる小高い丘を背にして建っている。
「じゃあ、農場と厩舎の間に落ちているかもしれないな。暗くなる前に鍵を見つけるぞ」
「は、はい!」
それから二人は平原を歩き続けた。リックの家の農場と大会厩舎の直線距離は半マイル(八百メートル)ほどで、往復して探すだけでも骨が折れる。リックには言わなかったが、正直なところ一日で見つけるのは不可能だろうとユリシーズは思っていた。
「今日から探し始めたのか?」
「いいえ、昨日は家に近いところを探しました」
「そうか。なら、このまま厩舎に近づきながら探すとしよう」
「え? でも、僕は」
厩舎に近づくと聞いて、リックの顔が再びこわばった。
「大丈夫だ。もし厩舎員や他の騎手と出くわしても、俺がついてる。叱られることはない」
「わかりました……」
リックはうなずいたが、その顔にはぬぐいきれない不安があった。
大人に叱られ、追い回されるのはまだ耐えられるだろう。しかしリックは良かれと思って持ってきた贈り物をはねつけられ、抵抗する間もなく憧れの騎手に張り倒された。なぜ叩かれたのかという疑問と失望、そして理不尽な痛みを受けた恐怖が、いまだ根強く心に残っているはずだ。
それゆえにリックのことを放っておけなかった。一人で鍵を探していたリックの横顔は、悲しみをこらえるルークの顔によく似ていた。
「さあ、行くぞ」
右手でベルの手綱を握っているので、左手をリックに差しのべた。リックの小さな手がユリシーズの手を握った。農作業で皮はわずかに固くなっていたが、指は細く、小ぶりな手だった。ロンドンで働く貧しい子どもと同じだ。
厩舎の近くに来て、引き続き辺りを見渡していると、いきなりベルがリックに近づき、鼻をリックの体にすり寄せた。
馬の大きな顔が近づいてきたのでリックは驚いていたが、おそるおそる手を伸ばしてベルの頭をなでた。
「ほう」
プライドの高いベルにこのような一面があるとは思わず、ユリシーズも興味深げに声を上げた。ベルは人になびきにくい馬だと思っていたが、子どもの場合は例外らしく、頭をなでられても大人しくしている。
さらに驚くのはこれだけではなかった。ベルはひとしきりリックに鼻をすりつけた後、厩舎の方へ歩き出したのだ。
歩き出したベルに驚いたが、それを強引に制止せず、そのままベルの後をついていくことにした。明確な足取りで歩くベルを見て、もしかしたらという思いが生まれた。
「あの、えっと」
リックも追いかけてくるが、だんだんと厩舎の敷地内に入っていくことをためらっているようだ。
「大丈夫だ。このままついてこい」
不安がるリックに声をかけながら、ベルの様子を観察する。
ベルは歩きながら辺りを見回し、しきりに地面に鼻を近づけている。他人が見れば犬のようだと思うかもしれないが、馬の嗅覚も人間よりはるかに優れている。ただの思い違いのまま終わるかもしれないが、なぜかベルならば、なにかやってくれるとユリシーズは考えていた。
そのままベルは自分の馬房の方に入り、そこに敷き詰められた干し草に顔を近づけ、くるりとユリシーズの方に首を向けた。
「……そこにあるのか?」
奥の壁の下には、わずかなすき間がある。そこから漏れ出る陽の光にすかされた干し草を見つめると、にぶく光る鉄が見えた。
ベルの脇を通って壁の手前でしゃがみ、干し草にまぎれた物を拾った。
「ああっ! それです!」
後ろで見ていたリックが声を上げた。ユリシーズが拾ったのは木札がついた鍵で、札にもクローバー農場と記されている。
鍵をリックに渡すと、リックは心底安心した顔になった。
「見つかって良かったな」
「ありがとうございます! もし見つからなかったら、大変なことになってました」
「納屋の鍵だったか。収穫物も保管しているというわけか」
「はい。小さいほうの納屋ですけど、とれたてのハチミツや羊毛もあるので、もし戸締りできないということになれば、お父さんにすごく怒られるところでした……」
「そうか。まあ、とにかく見つかったなら問題ないだろう」
それからユリシーズはベルに向き直り、ベルの首に手を当てた。普段なら嫌がるのでむやみに触れないようにしていたが、自然とベルをなでてやりたくなった。
「助かった。ありがとう、ベル」
感謝の言葉を述べながら、首を優しく叩いた。ベルはすんすんと鼻を鳴らしていたが、嫌がる素振りは見せなかった。
「リックも、ありがとうな」
「え?」
リックは意味が分からずあっけにとられていたが、彼のおかげで、思いがけずベルとの距離が縮まった。ささいなことだったが、こういう触れあいが大事なきっかけになるのかもしれない。
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