第4話 ~ コッツウォルズ
コッツウォルズ。イングランドの中心にある丘陵地帯を指し、羊の丘という意味を持つ。その名の通り古くから羊毛の交易で栄え、おとぎ話の世界を切り取ったかのような、ハチミツ色のレンガの家が村に建ち並ぶ。
この地方の魅力はこれだけではない。人里を出て丘へ登れば、目の前は見晴るかす草千里だ。羊たちが草をはみ、花畑の中を蝶やミツバチが舞っている風景は、どのような人間でも腰を下ろしてながめるほど美しい。
その風景の合間をいくつもの馬車が通っていった。すべてが二頭立ての豪華な馬車であり、それぞれの車体に異なった紋章が施されている。乗っているのは上流階級の人間たちのみで、キングストン・カップに競走馬を出す馬主たちだ。
「見たまえ、ユリシーズ」
村の中心にある教会の尖塔の上で、ロザリアがユリシーズに小さな望遠鏡を渡した。望遠鏡をのぞきこむと丘陵地帯のはるか先まで見え、あぜ道を走る馬車たちをはっきりと捉えることができた。
「先頭の馬車からバトラー卿、サリバン卿、アーウィング卿……古い貴族から成り上がりのブルジョワまで、名だたる馬主たちのお出ましだ」
貴族教育を受けたロザリアは紋章を見ただけで、馬車でやってきた人物を特定できる。一方、ユリシーズは望遠鏡から顔を上げて首を振った。
「俺にはさっぱりだが」
「とにかく強敵ぞろいということだよ。詳しい話は後でするが、どれも資金力のある馬主だ」
そう言ってからロザリアはハシゴを下りていった。ユリシーズも彼女を追い、二人は教会の二階廊下を進み、さらに階段を下りていく。
「そういえば、ベルとはうまくやっているか?」
「ぼちぼち、な」
「そうか。いよいよレースは明後日だ。勝負で呼吸が合うように、あの子とは距離を縮めてくれよ」
「わかっている」
ベルはロザリアが障害競走のために育てた牝馬だ。年齢は五歳、正式な登録名はベルベット・ローズ号という。絹のような月毛に、額にある白斑がバラの花のようになっているため、ロザリアがそう名付けた。
ベルは利口な馬だったが、プライドも高かった。興奮することはほとんどなかったが、ロザリア以外の人間に対する態度はそっけなく、初対面のユリシーズが背に乗っても言うことを聞かなかった。気に入らないことがあればテコでも動かない、そんな印象の馬だ。
ユリシーズは正面扉を開けて、教会の前庭に出た。日差しが注ぐ庭には花壇が並び、やわらかな花の香りがただよっている。
「後でベルに会いに行く。そろそろ手なずけなければ、まともにレースができないからな」
「私もついていくかい?」
「いや、俺だけでいい」
玄関前の階段を下りて、後ろにいるロザリアの方を向く。
「今日中には、あんたがいなくてもベルを制御できるようになってやる」
ならばやってみせろと言わんばかりに彼女は薄く笑った。
教会にロザリアを残して、舗装されていない土の道を歩く。道の両脇には石造りの家々が並んでおり、家の前でボール投げをしている子どもたちや、ミルクを飲んで休憩している農夫たちがいる。
彼らがユリシーズを気にする素振りはない。このコッツウォルズ地方でレースが開催されることは誰もが知っている。都会から来た若者や貴族が村の中を歩いても騒がず、中には気さくに話しかけてくる者もいる。
大多数の住民にとって、レースの関係者は大きな催し物をしてくれるありがたい存在に見えるのだろう。競馬は英国人にとって娯楽の王道であり、特に地方で行われる障害競走は、平地競走よりも庶民人気が高い。決まって障害競走が始まる日には、その地方に住むすべての農民たちが押し寄せる。
平地のクラシックレースで勝つことも名誉なことだが、野山に設けられた障害を果敢に飛び越える姿は、英国人に秘められた子ども心を熱く震わせる。その熱意と感動は、ダービーとはまた違う。
貧富を問わず、老いも若いも関係なく、彼らは優勝者を通して、物語に出るような人馬一体の英雄像を目に焼きつけたいのだ。
この村に来てから、ユリシーズも何度か子どもたちに握手を求められた。都会から来た騎手は憧れの存在に見えるのだろう。木登りや川遊びで汚れた顔のまま、子どもたちはユリシーズの足元にまとわりつき、時にはごっこ遊びや追いかけっこをせがんできた。
戸惑いながらもユリシーズは何度か遊びに付き合ったが、ある時から子どもたちは近寄らなくなった。邪険にされているわけではないが、今もどことなく距離を置かれている様子だ。
その雰囲気を感じ取った時、自分の愛想が良くなかったせいかもしれないと思った。心の機微はある意味子どもの方が敏感だ。子ども慣れしていない、どこか淡白な自分の感情が伝わったのだろう。
「仕方ないか」
それでも特に気落ちすることなく、ユリシーズは村道を歩いていく。こっちも幼い子どもを見ると弟の顔がちらつき、なかなか眠れない夜を過ごすこともあった。子どもの無邪気な顔や笑い声と触れ合うには、今の自分は汚れすぎている。
坂道の多い村道を過ぎ、平原に伸びた一本道を進む。緑豊かな平原をながめていると、ロンドンの喧噪がどこか遠い世界のように感じる。この土地の一日と、大都会の一日の時間はまるで別のものだった。
道の途中で右に進路を取り、しばらく進むと複数の厩舎が見えてきた。
村のはずれにあるこれらの厩舎は、大会のために建てられたものだ。大会が終われば開催地にそのまま寄贈されるため、これも村の人間が大会を歓迎する一因となっている。
ここでは大会側で用意した厩舎員が常駐して競走馬の世話をしており、不正等を防止する観点から、各馬主で雇った厩舎員は二人まで常駐可となっている。
「テューダー卿の騎手、ユリシーズだ。ベルベット・ローズ号の様子を見に来た」
大会の厩舎員に要件を伝え、了承を得てから、ユリシーズは厩舎の中に入った。
開催まであと二日となり、厩舎の中の空気は日に日に張り詰めている。厩舎員は淀みなく働いており、彼らにゆるんだ笑顔や私語はない。彼らの仕事はトラブルを起こすことなく、すべての競走馬の状態を最高のまま維持することである。そのため、ささいな失敗も許されない。
ずらりと並んだ馬房には競走馬たちがおり、厩舎員に体を拭いてもらっている馬や、バケツの中にある餌を食べている馬もいる。ここにいる障害競走の馬は少し年齢が高いため、平地競争の馬よりも気性が落ち着いており、たたずんでいるだけでも円熟した威厳が感じられる。
テューダー家で雇った若い厩舎員に案内してもらい、ベルのいる馬房の前で立ち止まった。
「よう」
馬房の前で止まり、ユリシーズは声をかけた。
ベルは馬房からぬぅっと顔を出してきて、目の前にいるユリシーズの顔をじっと見つめてきた。
間近で見ると、ベルはやはり美しい馬だと思う。クリーム色の月毛が艶めいていて、ぶちや黒ずみはなく、その名の通り一色のベルベット生地のようだ。額の白斑はこぶし大の乱流星で、まさに大輪の白バラそのものだ。
「相変わらず、無愛想だな」
そして美しい外見に伴い、ベル自身もかなり気位が高い。いまだユリシーズに心を通わせておらず、自分が認めた相手の言うことしか聞かない。
それでも今日こそベルを従わせなければならない。障害競走は騎手と馬の呼吸を合わせなければならず、もしもうまくいかなければ、障害を飛び越えられず大事故に発展する危険もある。
「今からベルを出せるか? ロザリアから許可はとってある」
貴族のロザリアを呼び捨てにしていることに厩舎員は眉をひそめたが、特に何も言うことなく了承した。
「わかりました。体を拭き終えてから馬具をつけるので、ちょっと外で待っていてください」
厩舎員の言う通りに外へ出ると、厩舎のそばにあった納屋に目がついた。ただの荷物小屋だが、裏は喫煙所になっているらしく、煙草を吸っている男たちがブリキのバケツに灰を落としながら話し込んでいる。
特にやることもないので。喫煙所に行って煙草を取り出したが、マッチをポケットに入れ忘れたことに気づいた。
「火がねえのか? いいぞ、ほれ」
喫煙所にいた二人の男の片方が、ポケットからマッチを取り出してユリシーズに向けてきた。
「すまない」
礼を言ってマッチを一本もらい、煙草に火を点けた。
「あんたも騎手かい」
マッチをくれた男が話しかけてきた。あまり雑談は好きではなかったが、マッチをもらった手前、邪険にするわけにもいかない。
「そうだ。あんたらは大会の厩舎員か?」
「おう。厩舎が建つ前からここに常駐しているよ」
「ずいぶん長いんだな」
「これでも俺とこいつで厩舎チームの班長と副班長をやってるからな。二年前、侯爵様が雇った建設業者と一緒にここへ来て、厩舎を建てるならこの場所が良いと進言したのも俺たちだ」
汚れた作業服を着て煙草を吸っていた男たちは、意外にもこの厩舎の取りまとめ役らしい。彼らが煙草を口元に持っていく時に手を観察すると、指はごつごつと節くれ立っていて、皮も分厚く、作業に長年たずさわってきた男の手をしていた。
「そうだ、あんたが騎手というならこれを言っておかないとな。あんた自身が悪いわけじゃないんだが、ここにいる住民との付き合いはうまくやってくれよ」
「付き合い……?」
なんのことかわからず首をかしげると、奥にいた副班長の男が口を開いた。
「このあいだ、ある騎手が村の子どもの顔をひっぱたいたんだよ。大事にはならなかったが、その日から村の人間と俺らはギクシャクしたままだ」
「ひっぱたいた?」
「なんだ、知らなかったのか。ここらの住民の様子が前よりよそよそしいのに気づいてないのかよ」
副班長の方は、騎手が子どもに手を上げたということに、かなり腹を立てているようだ。
「よせよ。この兄ちゃんが問題を起こしたわけじゃないだろう」
班長が顔をしかめて副班長をたしなめた。
ユリシーズは気を悪くすることなく、さらに質問した。
「その話、詳しく聞かせてくれないか?」
「うん? ああ、別に良いが、俺たちから聞いたってことは他人に言うなよ」
「わかっている」
「それなら……三日くらい前、この厩舎に三人の子どもが入り込んだんだ。といっても物を盗んだとかじゃなく、単に騎手や競走馬をそばで見たかっただけの腕白こぞうたちだった。俺たちも仕事だから、仕方なく子どもたちを追い出そうとしたが、その子どもたちはすばしっこく、この敷地の中でしばらく捕まえられずにいた」
「ほう」
「その時、逃げて厩舎のすみっこに隠れていた一人の子どもが、ある騎手とばったり会ったんだ。他の子どもを追いかけていた俺たちは気づかなかったが、いきなり厩舎の裏から子どもの泣き声が聞こえてな。駆けつけると、若い騎手の前で子どもが倒れて泣いていた」
話しているうちに当時の状況を思い出したのか、男たちは苦い顔をした。
「騎手が子どもに手を上げたというのは、それか」
班長はうなずき、話を続けた。
「ああ。その騎手は顔を真っ赤にして、泣いている子どもをずっと睨みつけていたよ。理由を聞くと、ぶつかってきて服を汚したのに謝りもしなかったって言っていたが、だからといって子どもを思いきり張り倒すのはやり過ぎだと思ったぜ」
「周りの者は騎手をとがめなかったのか」
「できるわけねえよ。騎手といっても相手はあのアークライト卿のおぼっちゃんだ。競馬界や社交界でも名が知れている御曹司で、下手に怒鳴りつけたら後が怖いからな……」
その名を聞いたユリシーズの目がひそかに光ったが、男たちはそれに気づくことなかった。班長はけわしい面持ちのまま煙草を口元に持っていき、ため息まじりに煙を吐いてから、話を締めくくった。
「ま、とにかくあんたも舞い上がるのはよしてくれよ。いくら憧れの騎手といえど、調子に乗って横暴なことをしてたら嫌われるぜ」
「わかった。ここの住民とはうまくやるよ」
それから喫煙所を後にすると、ちょうど厩舎員がベルを厩舎から出してきた。
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