第3話 ~ 契約締結

 広大な駅舎の中に入り、切符売り場に行こうとする通行人たちの横を走り抜ける。売り場に駆け込み、コッツウォルズ行きの木版切符を買うと、すぐさま踵を返してホームへ走った。


 走りながら駅の時計をチラッと見上げる。一瞬しか見えなかったが、針は三十分に届く寸前だった。


 間に合わないのではという不安を振り払い、通行人の間を突っ切っていく。ホームへ入って目的の車両を探すと、年季の入った茶色の車両が目につき、自分の手にある切符の番号と照らし合わせた。


「あれか!」


 コッツウォルズ行きの列車を見つけたが、すでに出発の警笛が鳴り響いている。乗降口は固く閉ざされているが、ここまで来て諦めることはできない。


「くそっ! 待ってくれ!」


 最前列の機関部が煙を噴き、列車がガタガタと音を立てて走り出す。


 どうにか止まってくれないものかと追いかけるが、列車はユリシーズを待つことなく、徐々に速度を上げて進んでいく。


「後ろだ、ユリシーズ!」


 もう駄目かと思った時、後方から声が聞こえた。


 振り向くと、窓から身を乗り出したロザリアが見えた。彼女はこちらに大きく手を振っている。


「ここから来い!」


 その一声とともに、ロザリアが窓の中へ体を引っ込める。彼女の意図を理解したユリシーズは、開いたままの窓に狙いを定め、そこへ飛び込んだ。


 上半身は窓枠をくぐりぬけたが、腰ベルトが窓の下枠につっかかってしまった。


 入れず落ちてしまうと思った直後、中にいたロザリアが襟首をつかんでユリシーズを引き込んだ。


「ぐっ!」


 そのままの勢いでロザリアとユリシーズの体が客室の床で重なり合う。


 倒れた衝撃で視界が明滅する。床に手をついて体を起こそうとすると、仰向けになったロザリアと目が合った。水晶のような青い瞳がこちらを見つめている。


 一瞬、その目が弟と重なって見えた。


「……どいてくれないか?」


 男口調でロザリアが呼びかける。慌ててユリシーズは体を起こし、席に腰かけた。


 続いてロザリアも起き上がって席に座った。客室の席は向かい合うように作られており、ユリシーズの左側に窓があり、右側に車内廊下へ続く扉がある。


 目の前に座るロザリアは焦げ茶色のレジャー用ドレスを着ている。上半身はボタンで留める男性的なデザインだが、足を覆うドレス部分は、白い刺繍のイバラが右から左へ流れるように施され、女性らしさを醸し出している。倒れた拍子で赤髪がわずかにほつれていたが、彼女は手できれいに整えた。


「決心してくれたようだね」


 そう言ってロザリアが目を細めた。


「いいや、まだだ」


 ユリシーズは首を振り、さらに続けた。


「あんたの言っていたキングストン・カップ、なにか裏があるように思える。大会の本意と、あんたの目的を知ってからじゃないと判断できない」


 主導権を握らせないよう、厳しい態度でロザリアに問う。かつてアークライト卿と約束を取り決めたが、最後になって権力ですべてを台無しにされた。その時と同じように、どうあがいてもロザリアとユリシーズの立場には差がある。彼女の提案を鵜呑みにして従うのは不安が残る。


 ロザリアは興味深げにユリシーズを見つめてから、口を開いた。


「ほう……ならば私の話の後で、君の目的もつつがなく教えてほしい。これは私の推測だが、今日になって考えを変えたのは、あの親子に対する焼けつくような復讐心か?」


 親子と聞いたユリシーズの目の色が変わる。ロザリアは余裕の笑みを浮かべているが、この程度でうろたえることはない。あの二千ギニーの一件は、調べる気になればたやすく調べられることだ。


「話が早いな。しかし目的はそこではない。俺の目的は、あんたの要求通りに結果を出して、家族の墓を移すことだけだ」


「そうか。それでも良いんだよ、ユリシーズ」


 ロザリアは足を組み、その上に指を結び合わせた両手を置いた。淑女がやる仕草ではないが、彼女がやっても違和感を感じない。


「利害が一致しているから協力する。そういう対等な関係で良いんだ。むしろこちらは危険をともなう仕事を依頼する側だ。こうして来てくれただけでありがたい」


「うん……? 利害が一致しているというのはなんとなくわかるが、危険をともなうというのはどういうことだ? まるで、そのレースに出ること自体が危険みたいな……」


 ユリシーズが疑問符を浮かべると、ロザリアは扉にある錠をひねって鍵をかけた。


 他人には聞かれたくない話をする、ということなのだろう。


「ご名答、キングストン・カップはただの障害競走ではない。優駿の『血』を得るために、数多の権力者が策をめぐらせている危険なレースだ」


「優駿の、血?」


「そうだ。ここで質問だが、君はサラブレッドの交配にとって重要なのは牡馬、牝馬のどちらだと思う?」


「……牡馬だろう。優秀な牡馬がいれば大勢の牝馬と種付けし、そこから足回りの良い仔馬が生まれる可能性が高くなる。それくらい俺でも知っている」


 この答えにロザリアはふっと小さく笑う。


「その常識は間違ってはいないし、正解だ。しかし、体躯が良く、なおかつ若々しい牝馬や仔馬が、何十頭も手に入るとしたらどうだろう? 牡馬の取引だけが盛んで、年々その金額も上がっている。そういうご時勢の中で、他の農場や馬主と面倒な取引をすることなく、自らの領地のみで交配と調教を完結できるとしたら?」


 ようやく話が見えてきたユリシーズは、ロザリアと同じように声をひそめた。


「つまり、馬の大集団が優勝の賞品ということか」


「そうだ」


「どこからそんな賞品が? それに新聞のどこにも載ってないはずだ」


「表向きの賞品ではないからな。事の始まりは三年前、エリック・キングストンの大戦功の話にさかのぼる」


 そしてロザリアはキングストン・カップの裏事情を話し始めた。


「キングストン侯爵の息子エリックは、父の名馬に乗ってアフガン軍の支配下から脱出し、アフガン軍の作戦を自軍に伝えて勝利に導いた……この話には続きがある。アフガン軍が敗走したことで、我が国の軍は未知の地まで足を踏み入れたが、その時、エリック大尉率いる隊が山あいにある牧場を見つけた。その牧場は広大で、健康な馬が百頭以上も放牧されていた」


「百頭だと?」


「ああ。さらに驚くことに、そこにいた馬の七割は農耕馬ではなかった。脚は長く、臀部と胸の筋肉が発達した優駿たちであり、元気いっぱいな仔馬も多かったという。競馬に携わる人間にしてみれば、まさに楽園のような光景だ」


「ちょっと待て。農耕馬ではないと言うが、所詮はすべてアラブ馬だろう? この国でとっくに生産されているサラブレッドに、今さらアラブ馬の血を入れても……」


「サラブレッドも元はアラブ馬だ。それにアフガンの牧場で飼育されていた馬は、ヨーロッパの国々から奪った馬を掛け合わせていた。当然、サラブレッドの血もしっかり入っていて、エリック殿は競馬の交配に役立つと判断したのだ」


 そこで廊下に人が通った。足音と共にカートを押す音が聞こえてきたので、ロザリアは話を中断して扉を開け、コーヒーを二つ注文した。駅員は揺れる車内でも手慣れた様子でコーヒーを淹れ、二人はカップを受け取った。


 くゆる湯気とともにコーヒーの香りがただよう。二人とも一口含んでから、話を続けた。


「エリック殿の隊はこの牧場を包囲し、牧場で働いていたアラブ人を従わせ、そこにいた馬たちを戦利品として手に入れた。父親に劣らずエリック殿も競馬を好んでいるため、その牧場にいた馬たちをすべて連れて帰国した」


「今大会の賞品はそれか。しかし、なぜ三年も経ってからこの話が浮上するんだ?」


「この戦利品を、エリック殿はヴィクトリア女王陛下に『報告』しなかったのさ」


「なに?」


「ほどなくしてバレたがね。戦争の英雄となって帰国し、有頂天になっていたせいもあるのだろう。彼は手に入れた優駿たちの存在を隠し、父の待つ自領で馬たちを繁殖させようとした。繁殖は時の運によるが、これだけ元気のいい馬が大勢手に入ったからには、キングストン家は競馬界の頂点に立てるからな。当時の彼の頭には、この戦利品を独り占めすることしかなかったのだろう」


「つまり、それらが賞品となったのは……」


「そう、陛下の雷が落ちたということだ。国の英雄になったため表立って糾弾されなかったが、陛下は戦利品を隠していたキングストン家を大いに叱りつけ、戦利品だった優駿たちの多くを手放すよう命じた。キングストン侯爵はその命令にしぶしぶ従うことにしたが、ただ手放すだけでは損だと考えた」


 もう一口コーヒーを飲み、ロザリアは続けた。


「三年後に戦利品を我が国に還元すると陛下に約束し、キングストン親子は自領で馬たちの繁殖と世話を続けた。そして今年、ほとんど自費で大会を主催した。優勝した馬主に牝馬四十頭、仔馬二十頭を譲り渡すこととなっている」


 賞品の内容を聞いて、ユリシーズは思わずむせそうになった。馬一頭だけでも多くの金が動く競馬界で、これほど多くの馬が一度に手に入るとなれば、馬主たちは喉から手が出るほど優勝したいはずだ。


 勝った際の実際の報酬という点だけで見れば、クラシックレースよりもはるかに価値がある。


「侯爵が大会を開くことで国は盛り上がり、とりあえず彼の名声は大きく高まる。戦利品を手放すことは痛いが、せめて名誉を得ようという涙ぐましい努力の結果、この大会が生まれたということさ」


「な、なるほど。しかしこの大会が危険というのは?」


「優勝するために手段を選ばない人間が多い。誇張でもなんでもなく、勝った馬主はこの国の競馬界を牛耳ることができるのだからな」


「なにかしらの妨害行為をしてくるということか」


「そんな甘いものじゃないよ。視界の拓けたトラックレースと違い、野山や森を駆け抜ける長距離コースだ。スタートとゴール以外に観客の目はなく、騎手たちも馬主の命令のままにどんな手でも使ってくるだろう。無事にゴールできるかどうかも怪しいところだ」


 どうにもきな臭いレースだと思っていたが、想像以上に大きな事情が隠されていた。それと同時に、ロザリアが騎手を頼んできた理由も見えてきた。


 馬主として彼女は馬を育て、腕のある騎手を用意してダービーを獲った。順当にいけば九月のセントレジャー・ステークスに挑戦するだろう。そのためには、危険なレースにお抱え騎手を出すわけにはいかない。


 たとえ怪我をしても彼女にとって痛手のない騎手、それが自分なのだろう。


「理解したよ。今のあんたは主戦騎手を怪我させるわけにはいかないからな」


 背もたれに体を預け、ため息をつきながらつぶやいた。


「不服かな?」


「いいや、見返りさえ得られれば俺は構わない。しかし、つくづく貴族ってのは強欲だ。金を惜しみ、女を喰らい、名誉を欲する時に本性を現す。この大会はまさにその縮図に思えるよ」


「誰しもがそうじゃないか」


 射貫くような目で見据え、ロザリアはユリシーズに言い放った。


「幸せになるためなら、なんでもするのが人間だ。そこに貧富の差はない。君も、私もな」


 ロザリアの正論にユリシーズは閉口した。貴族に対する恨みは骨の髄まで染みていたが、自分の手もきれいなままとは言いがたい。手段を選ばないのは自分も同じだ。


「とにかく私の目的はキングストン・カップの優勝だ。ここで若い優駿たちを得ることができれば、二、三年後にはこの国の競馬界の頂点に立てる。たしかに君が怪我をしても痛手は少ないが、決して君は捨て駒ではない」


 そこで彼女が手を差し出す。瞳に揺らぎはなく、切実な願いが伝わる。


「勝ってくれ。そのための協力は惜しまない」

 シルクの手袋に包まれた右手を、自然とユリシーズは右手で握り交わした。

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