ナポリタンの恋

@jinjin-chachacha

ナポリタンの恋

昨日の雨で街のメイン通りの桜はだいぶ散ってしまったが、この窓から見える桜の木はまだ元気に花びらを舞い散らせている。

春休みも終わったようで制服姿が目立つ。夢の途中、もしくは夢そのもののように若者たちは笑顔を撒き散らしながら風の中を気持ち良さそうに歩いている。

雨上がりの午後。淡い陽射し。風が舞う。

「つかの間の幸せ」と私は誰にも聞こえないように口に出してみた。

店内では私の知らない古い曲が舞い散る花びらに合わせるかのように静かに流れている。

コーヒーの香りがする。 

春の香りがする。

カレーの香りもする。

入口近くの席に座る太った男の人がカレーライスを注文したようだ。

ここは喫茶店。店の看板にそう書いてあるから間違いない。

友人のおすすめの店はある日から私のお気に入りの店になった。そしていつも一人で来て窓際の席に座る。

淹れたてのブレンドコーヒーが私のテーブルに運ばれてきた。

カレーライスは誰をも納得させるフォルムの専用の白い皿に入れられ太った男のテーブルに運ばれていった。

大盛りのカレーライスだ。

カレーのルゥとライスの均等性を示すように赤い福神漬が存在感を放っている。スプーンは儀式に必要な古代の神器のように紙のナプキンで美しく包まれている。

太った男は一度スプーンから紙ナプキンを強引に力任せにもぎ取ろうとするが、すぐに諦め包んだときの逆の手順でくるくると外した。 

太った男はなぜか食べる前から汗をかいている。ひとくち食べるとさらに汗の量が増えたようだ。

この店のカレーライスは辛くないはずだ。いやむしろ甘いほうだ。

太った男が咳き込んだ、苦しそうだ。どこかしらに詰まらせたようだ。汗がすごい。水を飲む、ハンカチで汗を拭く、水を飲む、汗を拭く。

若いウエーターがコップに水を注ぐ、水を飲む、汗を拭く。

一息つき、宙を見ている。落ち着いたようだ。

そして再びカレーライスへ。水を飲む、汗を拭く。

私のテーブルにはナポリタンがやってきた。正統的なナポリタン。今日の私の気分はナポリタンなのだ。カレーライスを食べるときもある(もちろん普通のサイズ)。とにかく今日はハッキリとナポリタンなのだ。でも、迷うときもある。

今日は彼がいない。この店で働いている私の気になる彼だ。

あの日も私は迷っていた。ナポリタンにするかカレーライスにするか。

彼はいつも笑顔だ。でも、ふっと寂しげな表情をする。彼は笑顔の奥に孤独を抱えている。私の妄想だと思うが、妄想は私の自由だ。

あの日彼は迷う私の前に立っていた。笑顔の奥に孤独を抱えて私の言葉を待っていた。

妄想は自由だ。

ナポリタンかカレーライスか。メニューは他にもあるが、私は常にどちらかを選択する。

2択。とにかくその日はなかなか決められずにいた。意外と2択は難しいのだ。プレッシャーのかかる中で見上げた彼の表情から私はナポリタンを感じた。まるで二人だけの秘密の言葉のように。宝探しのキーワードのように“ナポリタン”が私に飛び込んできたのだ。

彼の導きによってナポリタンを注文したその日から、私は彼に興味を持ち始めた。

喫茶店のバイト。歳は私とそう変わらないくらい。                              

大学生? フリーター? 彼はおそらくフリーターだろう。

「どっちでもいいけど」

週に5日はここで働いているようだ。

マスターと奥さんともう一人が働く店。そのもう一人が今日は彼ではない。がっかりはするが、そんな日もある。

彼がいなくても、この店は私のお気に入りの店。もちろん彼がいるとさらにいいけど。彼にだって休日が必要なんだ。

彼の休日。何をしてるんだろう。

カランという音がして店のドアが開く。何枚かの桜の花びらが風に乗って店の中へ入ってきた。外を舞う花びらが迷い込んできたのだ。

彼が入ってきた。彼は女性を連れていた。

春の風が彼と私の知らない若い女性と桜の花びらを連れてピュウッと入ってきた。

休日のデート。

彼は私に気づくと会釈して小さな声で「どうも」と言った。孤独を感じさせない笑顔。

私も笑顔で「こんにちは」と答えた。私は孤独を感じた。孤独を感じさせる笑顔。

二人はとてもリラックスしている。親密な感じだ。若くてキレイな彼女。私から見ても(女性目線でも)魅力的だ。

私の魅力は、女としての武器は、思いつかない。思いつかないということは“ない”のかな。とにかく今は思いつかない。

彼はナポリタンを、彼女はミックスサンドを注文した。ブレンドコーヒーとセットで。

私は何をすればいいのだろうか。目の前の半分ほど残っているナポリタンを食べるべきじゃないのか。そう、今日の私はナポリタンだったのだ。気分よくコーヒーとナポリタンだったのだ。 

春の訪れが私の気分を上げていたのだ。桜の花びらが私の目の前を優雅に舞い踊っていて、つかの間の幸せを感じていたのだ。

太った男が咳き込んだ。桜の花びらでも詰まらせたのだろうか。水を飲む、汗を拭く。

私も咳き込んだ。ナポリタンが詰まった、水を飲む、汗を拭く。普段は詰まったりしない。動揺しているのかもしれない。

彼とチラッと目が合ってしまった。水を飲む、汗を拭く。私は何をしているんだ。

彼女がトイレに立った。彼としっかり目が合った。

私と彼の二人だけの空間ができあがった。

「妹なんだ」と彼が言う。照れくさそうに。

「そうなんだ」と私は言う。苦手なアトラクションから解放された気分。

「今日はナポリタン?」と彼が訊く。

「そう、ナポリタン」と私は答えた。

タイミングよく彼のテーブルにもナポリタンが運ばれてきた。

「僕もナポリタンなんだ」と彼。「一緒だね」

「うん、一緒だね」と私。

「僕はここのナポリタンが大好きなんだ」

「うん、私も」

カランと音がして太った男が出て行くと、桜の花びらが風に乗って店の中へ入ってきた。

「つかの間の幸せ」と私は彼に聞こえないように言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナポリタンの恋 @jinjin-chachacha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ