後篇

 あれほど思い焦がれていた剣崎けんざき みやびとの世界タイトルマッチ。

 

 しかし、試合が決まったころからタローの身に起こりはじめたある種の変化が、私を不安のどん底へと陥れた。時々おとずれる頭痛、吐き気、健忘、ボクシングをしているとき以外の、謎の倦怠感と無気力感。何かがタローの体に起こっているのは間違いなかった。しかし病院に行こうとするとかたくなに断り、ときに感情の抑制が効かなくなって暴れまわるのであった。それまでのタローに全くなかった情動の変化に私は戸惑い、試合の日が近づくにつれて私は恐怖に耐えられなくなっていった。


 剣崎 雅の試合を動画で見たことも、私の不安を増大させた。


 雅はすでにバンダム級において3つのボクシング団体のベルトを保持する王者であり、どんな相手と対戦しても、まるで猛獣が獲物をもてあそぶかのように圧勝した。その試合の様子は公開リンチに例えられることもあり、あるスポーツ誌の記者は、同じ檻にいれたライオンとウサギ―というにはまだ生ぬるい、鮫の泳ぐ水槽にまるはだかの人間を放り込むぐらいだといって丁度いいと報じた。それ程、雅のボクシングは常人離れをしており、リング上でグローブを握りガードを固めて不自由に動き回る人間に対して、自由自在に泳ぎ回るように相手を翻弄し、威嚇し、そして十分な余裕を残して喰らいつく。その打撃のパワーはガードの上からでも相手を余裕で吹っ飛ばすほどで、ウエイトを考えると運動力学的に説明がつかないレベルだと言われた。


 こんな相手と戦ったらタローは間違いなく殺されてしまう。いや、死に直結はしなくとも、結果として脳に取り返しのつかないダメージを負ってしまうことは容易に想像できた。



 私は可能な限りの言葉を尽くしてタローを説得したが、タローは一切聞く耳をもたなかった。タローにとってのボクシングの動機は全て雅だった。雅との試合が実現しさえすれば、それは世界タイトルマッチでなくてもよかった。タローはこれを最後に、ボクシングをやめてもいいと言った。4年前の棄権した日のことを何度も口に出した。勝ち負けじゃない、戦いたい相手と戦わせてもらえず、勝手に負けを認められることがどれだけ辛かったことか、今度こそ、自分のボクシング人生の全てをぶつけて燃焼しつくしてやる、そこで自分自身がぶっ壊れてしまっても、むしろ本望だ…。


 言っていることは分からないでもない。初めて出会った4年前からずっと、私はタローの味わった屈辱に寄り添い、そして支え続けてきたのだ。

 とはいえこの期に及んでは話が別だ。なにが燃焼だ。何が本望だ。聞こえはいいけれど、結局は自分勝手なわがままだ。関わる人たちみんなを悲しませ、苦しませることをどうして想像できないのだろうか。



 いくら話しても拉致があかないので、私はジムに乗り込み、会長に直談判をした。タローの状態を説明し、一刻もはやく医者に見せるべきであり、結果によってはこのタイトルマッチを直ちに中止するべきだ、と。私は自分で調べた限りの医療知識や過去の事例をもとに、頭の中で何度も反復してきたとおりの熱弁を奮った。論理は整然としていてひとつも間違いがないはずだった。ところが一体どういうわけだか、会長にもトレーナーにも一切伝わらなかった。「気持ちはわかる」「タローがどういう状態か私たちが一番よく知っている」「しかしタローの気持ちを考えてやってくれ」「4年前は私らの独断であいつを棄権させてしまった」「今度こそ、あいつの思うとおりにさせてやりたい」「結果としてあいつに万が一のことがあっても、その後の人生は私たちが永久に面倒をみるから…」


 私は泣きながらジムを飛び出した。頭がおかしくなりそうだった。日本語で話しているはずなのにお互いの意図が全く伝わらず、対話がまったく成立しない。何か得体のしれない異世界に迷い込んでしまったかのような恐怖すら感じた。こうなったらできる限りのことはとことんやってやる。幸いタローと私は同じアパートで同棲していたので、夜中の寝ている隙に救急車を呼んだ。錯乱しているから屈強な救急隊員数名で取り押さえて欲しい、と伝えることも忘れなかった。数分後、到着した救急隊員達とタローとの間で大乱闘が始まった。タローは一人を蹴り飛ばし一人を投げ飛ばすと、夜の闇の中を一目散にかけていき、以降、ジムに住み込みの状態となった。私は可能な限りジムのそばに張り込み、タローがロードワークで出ていくと死に物狂いでつかまえ、狂ったようにしがみついた。タローは私をそぎ落とすように突き放した。私はすぐに警察をよんで被害をうったえた。結果的に私がストーカーとして要注意人物になり、警察からマークされる存在になった。私はめげなかった。まだまだできることがある。マスコミの各方面に連絡をした。どこも取り合ってもらえなかった。むしろマスコミはタローがこの試合で廃人になるドラマを望んでいるかのようだった。私は絶望し、そうこうしているうちに試合の日がどんどん迫り、とうとう前日になった。私はテロを装い試合会場に爆破予告の連絡をした。そのまま悶々として一夜を過ごした。



 しかし翌日になっても試合中止のニュースはどこにも報じられなかった。私はもう一度会場に電話をかけた。絶対に爆破してやるから!と大声で叫んだ。ところが電話の向こう側の相手が冷静に私の名前を告げた。そして迷惑だからこうした行為はやめてくださいと言った。私はすぐに電話を切った。既に私の一連の行動は各方面に知れ渡っているようだった。


 私は絶望して座り込み、そして意を決して立ち上がった。こうなったら最後の手段だ。私はサングラスをかけ、帽子を目深にかぶり、ほほに綿をつめた状態で鏡に自分の姿を映した。完璧だ。誰も私だと気が付かないだろう。それからカバンの中に包丁を忍ばせた。


 試合が中止にならないのなら、試合ができないようにするまでだ。私はターゲットを剣崎 雅に定めた。いくらボクサーでも刃物にはかなわないはずだ。部屋の真ん中に立ち、カバンの中の包丁に手を触れた。そのまま一気に引きぬき、横に薙ぎ払った。チャンスは一瞬だ、雅が会場に入場した瞬間、通路に躍り出てひと刺し。おそらく大混乱になるだろう、私はすぐにその場に取り押さえられるだろう、でもそれで試合はなくなり、タローはその後の人生を健やかに過ごすことができるはずだ。私はそのまま収監され、前代未聞のテロリストとして犯罪史に刻み込まれるだろう。私は大きな過ちを犯そうとしている。だが私は私の正義で愛する人を守るのだ。信念をもって愛する人を守るのだ。これを優しさと呼ばないのであれば過ちでもかまわない!

 私は大きく深呼吸をすると、決死の覚悟でアパートを出た。

 瞬間、私は何者かに腕をつかまれた。

「威力業務妨害」の罪で逮捕すると、私の腕をつかんだ主は言った。

 言いながら、私の両手に手錠をかけた。

 私はあっけにとられた。『罪』という言葉が心の中でぐるぐると旋回し、自然と涙がほほを伝って流れた。



 取調室で私は泣きながら語った。爆破予告を連絡したのは間違なく私だと言った。その理由も克明に伝えた。担当している初老の刑事は「あんたの言ってることは良っく分かる。」「でも試合するしないは本人が決めることだからなぁ。」と言った。それから私の変装と、カバンの中の包丁について聞かれた。私は誰にも知られないように山の中に入って自殺するつもりだったと言った。刑事はそれ以上何も聞かなかった。そろそろ試合が始まる時間だった。私はテレビを見せてほしいとお願いした。刑事はダメだと言った。それから私は一人で取調室にとりのこされた。しばらくして部屋を出ていった刑事がタブレットを片手に戻ってきた。「面白いことになっているぞ」と言って見せてくれたその画面には、タローの試合中継が放映されていた。


 そこには驚くべき光景が展開されていた。



 試合は既に第8ラウンドに突入していた。あの剣崎雅が後半ラウンドまでもつれ込むことはありえないことだった。タローは善戦していた。猛烈果敢に、前に前につきすすむスタイルのまま、雅にむかってゆく。しかしそのパンチは全て空を切る。そのすきをついて、雅は小さなパンチ―それこそ、軽くほほをこするだけのようなパンチを当ててゆくのである。タローにできるだけダメージを与えず、判定で決着をつけようとしているのだと、私は瞬時に悟った。雅がどこで情報を得たのか分からないが、タローを気遣っているのは明らかだった。


 私は試合の行方を観ながら、再び目に涙が浮かんだ。やはり剣崎雅は天才だった。それまでもタローはこうした、徹底したアウトボクシングスタイルの強豪と何度も渡り合ってきた。しかし彼らがどれほど距離をとろうとディフェンシブに試合を展開させようと、結局はタローの猛攻を阻むことができずに崩れ去っていった。ところが雅のボクシングは同じアウトボクシングでも全く次元が異なっていた。まるで一歩、二歩、三歩先の先まで見通しているかのように、タローは全てのパンチをかわされ、雅はすべてのパンチがタローの顔面やボディにあたってゆく。まるでボタンを次々押してゆくゲームであるかのように、リズミカルに、的確に、そして優しく、軽やかに。


 そのなんとも不自然な試合展開に会場はどよめいた。局のアナウンサーは、全ては雅の精神的な動揺のせいだと報じ、おそらく子供のころから培われた兄弟愛のために、いつものように強烈なパンチを打ち込めなくなってしまっているのだろうと伝え、折々二人の生い立ちに触れながら、熱狂的に感動をあおった。たしかにそういう目でみれば、そう見えなくもない。雅がそこまで考え、周囲を欺いているのだとすれば、やはりとんでもない化け物である。どう考えてもタローが太刀打ちできる相手ではなかった。残りあと数ラウンド、実況解説ではポイント的に雅が圧倒的に優勢だと伝えている。タローに勝ち目はないだろう。でもそれでいい。それでいいのだ。タローが無事でありさえすればいい。それに形としてはもっとも理想的だ。タローは宿願だった剣崎 雅との一戦を、そのボクシング人生の最高峰であり、最も華々しい世界タイトルマッチという舞台で実現することができ、その幕を下ろすことができるのだ。こんなに素晴らしいことはない。


 私はおそらく二度とタローに会うことはないだろう。私はすでに罪人だ。威力なんたらという犯罪がどれ程の重さなのか分からないが、カバンの中の包丁を警察がこのまま見過ごすことはないだろうし、とすれば殺人未遂まで乗っかってくる。たぶん私はこのまま収監され、刑務所にゆくことになるのだろう。再びシャバの空気を吸う日がいつになるのか、まるで見当がつかない。でも、いい。それでいいんだ…。


 試合は最終12ラウンドに突入していた。会場は必至の形相で雅を追いかけるタローへの声援が圧倒的に多かった。アナウンスは雅が苦戦をしていると報じ、ここまで剣崎雅を苦しめたボクサーはいまだかつて一人もいなかったと、タローの健闘をひたすら讃えていた。実際には雅が圧倒的に優勢であり、その戦略どおりに試合が進んでいるのだが、そのキャリアの全てが序盤KOという異様な戦績からしてみれば、この内容はタローの大善戦だと誰もが感じ入っているようだった。


 やがて最終ラウンドのゴングが響き、会場の盛り上がりがピークになった。タローはくたくたに打ち疲れ、自分のコーナーにうずくまって立つこともできない。既に勝利を確信しリング上を悠々と歩きまわっている雅とは全く対照的だった。やがて採点結果が発表され、剣崎 雅の名前が告げられる。リングを去るタローの姿、勝ち名乗りを受ける雅の姿。私はただその場で、全身の力がすうっと抜けてゆくのを感じていた。



 翌日、私は奇跡的に釈放された。


 被害にあったプロモーター側とジムからの要請があったということだった。ただし私はもう二度とタローに会わないようにするといった念書を書かされた。仕方がないことだと思った。それから、迎えに来てくれた母親の手に支えられるようにして外に歩き出した。どういうわけだか力が抜けたっきり戻らず、自力で歩くことが困難になっていた。そのまま私はアパートをひきはらい、母と一緒に郷里の実家に帰った。



 実家に帰ってから数日間、私は気力も体力も尽き果てたかのようにこんこんと眠り続けた。立つことも起き上がることもできなかった。寝ている間にタローのことがみるみる遠ざかってゆくような感じがした。やがて気力と体力が戻ると、私は地元で仕事を見つけて働き始めた。ある日、ふとしたことから、タローがまだ引退せずにボクシングを続けているということを知った。私はただ「ふーん」と思った。どこかで、そうであるのが当然のような気がしていた。


 それから数年後、タローが海外の試合で頭部に致命的な一撃をくらい、そのまま病院に直行したというニュースを見た。その後かろうじて一命はとりとめたが、後遺症のせいで日常生活もままならなくなっているということも知った。

 私はただ情報として「知った」というだけの印象をもった。


 それ以上、とくに何の感情もわいてくることもなかった。





「これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい」おわり

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これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい けんこや @kencoya

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