これを優しさと呼ばないのなら過ちでもいい

けんこや

前篇

 恋人のタローがパンチドランカーなのに世界タイトルマッチに挑もうとしている。


 だから私は全力で試合をやめさせることにした。



 タローは将来を嘱望されたプロボクサーだった。そのボクシングスタイルは、ダメージを顧みずにひたすら前に前に突進してゆくブルファイターで、その試合内容のほとんどは壮絶な打ち合いをぎりぎりで制するといったものだった。決して器用でスマートな戦い方ではない。しかしそれでも彼は強かった。どれだけ打たれても傷つけられても、まるで恐怖という感情を置き忘れてしまったかのように平然と向かってゆく、その雄姿は『最強生物ラーテル』と異名され、中軽量階級にもかかわらず圧倒的なKO率と、その試合内容の派手さにより、彼の試合はなにかと注目を集めることが多かった。


 ただ、彼は強いボクサーではあったが、タイトルにはどうしても縁がなかった。新人王、日本タイトル、東洋タイトル、それらの勲章は常に、彼が手を伸ばす一歩先をすりぬけてゆくのだった。


 なぜならば、彼と同じ階級に、“天才”『剣崎けんざき みやび』がいたからだった。



 剣崎けんざき みやびとタローは幼馴染だった。それも家が隣近所とか、幼小中が同じとかいうレベルではない。二人とも両親がおらず、同じ孤児院で育った仲間という、ほとんど家族同然といってもいいほどの密接度だった。


 二人は物心のつくころから共に遊び、共に笑い、共に成長していった。その関係は常にタローの方が上位であり、雅は常に服従する側だった。タローが雅の物を欲しがっていれば、大切にしているおもちゃもお菓子も平然と譲り、にこにこ笑っている。結果として二人の間に喧嘩は一度もなかった。時々、雅の無垢な笑顔につけこんでいたずらや嫌がらせをする連中がいると、タローは容赦せずに叩きのめしていった。タローは雅にとっての保護者であるかのようだった


 先にボクシングを始めたのはタローだった。その荒々しい気質は中学時代に手が付けられなくなり、見かねた周囲の大人たちが、半ば強引にボクシングジムに放り込んだのだった。それは実にうまく作用し、以来タローは人が変わったかのように練習に打ち込むようになった。そして規定年齢に達するとすぐにライセンスを取得し、プロボクサーとしての第一歩をあゆみ出したのだった。


 雅はその間もずっとタローの傍にいたが、ボクシングとは程遠い生活をしていた。見た目も性格もひょろひょろと弱弱しく引っ込み思案で、常にタローを盾にして隠れているような存在。タローもそんな雅の性質を分かっていたつもりだったので、ボクシングに誘うことは一度もなかった。タローにとって、雅は自分を応援してくれる最大の、そして唯一のファンであり、その関係性はタローがチャンピオンになるまでずっと続いてゆくのだと思われた。


 ところがある日、事件が起こった。


 タローがロードワークから戻るとジムの中が騒然としている。見ると、雅が学生服のまま、リング上でミット打ちをしていた。タローをたずねてやってきたところを、トレーナーの一人が勧誘のつもりでグラブをつけさせ、リングにあげたのだった。


 ただその光景に、その場の誰もが息をのんでいた。


 グラブを構えてステップを踏んでいるだけで、それとはっきりわかる異次元感。周囲の空気全体を支配領域に埋め尽くしてゆく圧倒的な威圧感、そしてミット打ちの一発一発はそれまで誰も聞いたこともない破裂音が響くのである。受け手のトレーナーも混乱し、思わず手が出てしまう、するといつどこで誰に教わったのか、ウェービング、ダッキングといったディフェンステクニックを駆使しながら、さらに追い詰めるようにミットを炸裂させるのである。


 誰もが疑いようのない、途方もない天分。タローはその光景に呆然とし、それから訳の分からない感情に突き動かされてリングに上がると、ミット打ちをしているトレーナーを突き飛ばして雅に襲いかかった。フック、アッパー、ストレート、フェイントからコンビネーションブロー、だが雅にはかすりもしない、雅はくるくると踊るようにしてタローの動きの先へ、先へと回り込み、支配領域を展開させてゆく。その華麗なる戦術動作に誰もが見とれてしまい、しばらく止めに入るものもいなかったという。ジムの会長が罵声とともに割って入らなければ、もしかするとタローのボクシング人生はそこで終わっていたかもしれなかった。


 タローはその場にへたり込みながら、平然とグラブをはずしてもらっている雅に向って放り投げるように言った。


「馬鹿野郎、ボクシングやってたんなら早く言えよっ。」


 自嘲気味に、かるく冗談めかして、おどけずにはいられないほど、心の中では傷ついていた。


 雅は困ったように首をふった。そして申し訳なさそうにつぶやいた。


「いや…ごめん、初めてだけど。」


 そしてこのやりとりが、二人が交わした最後の会話となった。



 その後、雅は突然、行方をくらました。孤児院に簡単な置手紙を残していなくなり、学校にも来なくなった。未成年の行方不明者として捜索願が出されると、すぐに東京都内の新聞屋に住み込みで働いているということが分かった。周囲は、繊細な雅のことだから、ジムでの一件から、兄貴分のように慕っていたタローと居づらくなったのだろうと解釈した。孤児院としてはその出奔を「自立」として奨励し、それ以上介入することはなかった。



 タローはその後も黙々と練習に励み、プロのリングに2度立ち、2度ともKOで勝利をおさめ、順調にキャリアをスタートさせた。そして雅が孤児院を出てちょうど1年が過ぎた頃、タローが3戦目を見事KOで勝利を遂げた同じ日の、同じリング上で、鮮烈なワンパンチKOとともに華々しくデビューを飾った、都内の大手ボクシングジムに所属する剣崎 雅の姿があった。


 姿を消していた間、雅が何を考えていたのか分からない。ただ、紛れもなく、ジムでの一件が剣崎雅というとてつもない逸材に何らかの化学変化を起こしたのは間違いなかった。


 数か月後、二人はその年の「東日本新人王トーナメント」の同じ階級にエントリーをする。


 二人は順調に勝ち進んだ。1回戦、2回戦、勝ち方は双方全く異なっていたが、二人とも見事に決勝戦へと駒をすすめた。運命に導かれたような宿命の対決が、早くも雌雄を決するはずだった。『はずだった』というのは、タロー陣営が『辞退』を申し出たため、試合が実現しなかったのである。表向きは感染症による体調不良。しかし実際にはタローのキャリアを考慮したジム側の判断による棄権だった。


 もちろんタローの本意ではない。タローはこの対戦を心より待ち望み、この一戦に全身全霊を賭ける勢いで必死のトレーニングをかさね、トーナメントを勝ち上がってきたのだった。しかし、とはいえ誰がどう控えめに見ても、雅とタローとの間には歴然とした実力差が横たわっており、試合をすればタローが敗北を喫することは目に見えていた。それほど、雅の実力は突出していた。


 剣崎 雅のボクシングは特別だった。圧倒的なフットワークのスピードで相手を翻弄し、前後左右上下、あらゆる方向のありえない距離から、考えられない角度とパワーで自在に打撃を降り注いでくる。そしてどのどれもが正確に相手のウィークポイントを捉え、まるで初めから計算された積み将棋であるかのように、あっという間にノックダウンを奪ってしまうのである。相手としては何もできず、何をされているのかもわからないまま、気が付くとマットの上をはいつくばっているという有様。それまでの常識的感覚を一層も二層も超えた超人の出現に対戦相手はみな逃げまどった。事実、新人トーナメントにおいてはそのほとんどが相手の棄権による不戦勝だったのである。タローの陣営が棄権と判断したのも無理はなかった。 



 私がタローに出会ったのはちょうどその、棄権試合の直後だった。


 私はジムからほど近い繁華街のガールズバーで働いており、ジムの方針に納得がいかず、泥酔しながら泣き喚いているタローをなだめ、介抱しているうちに愛情が高まり、私の方から誘い込むようにして付き合い始めたのだった。


 私はタローに夢中になった。タローは私よりも5つも年下だったが、やんちゃで一途でどこか危うさを持った印象が弟をみているようで可愛らしく、しかし根っこの部分にはギラギラとした野心が燃え盛っている。何よりもその引き締まった、まるで男性の生存本能そのものであるかのような、闘って勝つ為だけに造形された筋肉…、若く、内側から生命力がどこまでもあふれ出してきそうな肉体の魅力に惹かれていった。この体を癒し、その栄光を支え、その人生に末永く寄り添い続けることが、私の存在価値であるかのようにも感じた。


 しかしタローはそんな私の気持ちを知ってか知らずか、ひたすら危うい試合を繰り広げ続けた。その根底には、大人の事情で捻じ曲げられた雪辱に対する執念のようなものが常にたぎっていた。もう誰にも何も言わせない、雅と対戦するに相応しい実力と実績をつけ、同じリングに立ち、そして打ち負かしてやる…、と。


 だが雅はその後も一足飛びに躍進を続け、日本チャンピオンから東洋チャンピオン、さらにその後2年もかからぬうちに、瞬く間に世界タイトルを奪取していった。タローも負けじとばかり、その射程距離を可能な限り縮めるべく、無謀ともいえる挑戦を続けてゆく。雅が日本タイトルをものにすれば、タローもまた日本ランキングの上位に挑戦し、雅が東洋タイトルの座に輝けば、タローもまた照準を東洋にむけ、東洋ランキングの猛者と激闘を繰り広げる。そして雅が見事世界チャンピオンなると、タローもまた世界へと目をむけ、ランキングに名を連ねる桁違いの強打者とガチンコでぶつかり合い、既にその頃には定着しつつあった、“恐れを知らぬ最強生物ラーテル”という異名を振りかざしながら、ひたすら前に前に前に特攻し、無理やり勝利をもぎ取ってくる。


 そして無念の棄権試合から4年の際月が過ぎたある日、ついにタローと剣崎 雅との世界タイトルマッチが決定した。


 がしかし、そのころから顕著に見られるようになってきた、タローの“ある兆候”に、私は奈落に滑り落ちてゆくような恐怖を覚えずにはいられなかった。


(後篇に続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る