初恋×クロスロード

小石原淳

初恋×クロスロード

 季節は梅雨の只中、今日も朝から雨がしとしとと降る。けれども、六年一組の教室は一つの噂がもたらされたことによって、空模様とは無関係に活気づいていた。

「イケメンだといいねー」

 仲のいいクラスメート、寺沢直美てらさわなおみが前の席の椅子に勝手に腰掛け、頬を両手で包み込む仕種をしながら言った。

「私は別にどっちでも」

 朝、その噂話を最初に耳にしたとき、柏原須美子かしわばらすみこはすぐに思った

 六年生の六月という中途半端な時季に転校生なんて珍しい。修学旅行が終わったばかりだから、ある意味、区切りではあるけれども。

 つまり強いて言えば、転校生の男子の顔にはほとんど興味はないけれども、こんな時季に転校になった理由はちょっと気になる。

「いや、もっと気にしようぉ、須美ちゃん」

「机を揺すらないでね」

 新調した蛍光ペンの書き具合を試そうとしていた須美子は、穏やかに注意した。

 寺沢は素直に聞き入れ、机を揺さぶるのは辞めたけれども、おしゃべりの内容はそのままだ。

「転校生が須美ちゃんのすぐ後ろに来るのは間違いないんだからぁ」

 寺沢の想像で当たりなのだろう。須美子の席のすぐ後ろには、昨日までにはなかった机と椅子が一式、運び込まれていた。

 ポニーテールの髪を揺らして何となく後ろを振り返った須美子は、「確かに、まだよく知らない人に後ろからじっと見られるかと思うと、気味悪いかも」と冗談を口にする。

「もお~。もっと夢を持たなきゃだめだよ」

「夢?」

「さっきから言ってるじゃない。イケメンが来てくれることを思い描くの」

 両手を拳にして力説する寺沢。須美子に比べればぽっちゃりタイプだが、メリハリの利いた仕種が愛らしさに拍車を掛けている。

「あはは。それはそれで緊張しそう」

「運命の相手が来ることを想像して。そうだ、今朝、トーストくわえた人と角でぶつからなかった?」

「あのねえ。集団登下校してるのに、そんな状況、ありえないでしょ。中学校以上じゃないと、ないない」

「それもそっか。だけど、トーストをくわえた男子の集団という可能性は残るんじゃない?」

 寺沢が冗談で返したところで、予鈴が鳴った。廊下で遊んでいたクラスメート、主に男子達が雪崩れ込んでくる。寺沢も腰を上げ、彼女本来の席へと急いだ。

「よう、柏原っ」

 戻って来た男子の一人、ガキ大将格の新倉真吾にいくらしんごが、横の通路を通り様、須美子の頭をぽんと叩く。

「何すんのよ」

 ほぼほぼ毎度のことなのだが、怒らないでいると調子に乗らせてしまうのでしっかり抗議し、釘を刺す。

「おまえ、男がほしいからって、机と椅子を自分の後ろに持って来るとはやり過ぎだぜ」

「何ですって。そんなことしてないわよ」

「怒るところが怪しい」

「朝来たら、こうなってたの。って、待ちなさいよっ、こらぁ」

 話している途中で新倉は逃げてしまった。これまたよくあるやり取りのバリエーションの一つに過ぎないので慣れっこにはなっているけれど、怒らないでいると以下同文。

 須美子が蛍光ペンを強く握り、立ったまま奥歯をかみしめたそのとき、担任の村下馨むらしたかおる先生が教室の前の扉から入って来た。

「――何を立ってる。座りなさい」

 運悪く、一人だけ立っていた状況だった。村下先生の呆れた響きを含んだ言葉に、言い訳するのをあきらめ、「はい」とだけ返事して座った。

 座ってすぐに、今度はクラス委員長の渡会万人わたらいかずとの号令で全員起立――礼「おはようございますっ」――着席を行った。

 村下先生は「おはよう」とぼそりと言ってから、出席簿と教科書を教卓の上に置いた。

「えー、本鈴がまだだが早く来たのにはわけがある。といっても、ほとんど全員が知っているようだが……今日は転校生の紹介から始めよう。入りなさい」

 見ると、教室前方のドアは半開きの状態になっていた。そこを通して転校生の姿が垣間見える。呼ばれた彼は軽く一礼をしてから入って来た。

「お、ほんとにイケメン」

 誰かが言った。女子でなく男子が言ったのが、何だかおかしい。

 転校生はぱっと見、身長はクラス全体の中程、太っているでも痩せているでもなく、平均的な体格の持ち主だった。

「まずは自己紹介してもらおうかな。名前を板書して」

 先生に促され、こくりとうなずく。優しげな目と意志の強そうな口元が印象的だと、須美子は感じた。

 丁寧な文字で“早川和泉”とボードに書くと、改めて向き直り、

「初めまして。G県の※※小学校から転校してきました、早川和泉はやかわいずみです。よろしくお願いします」

 と言った。

 目と同じく優しい響きを含んだ、そしてどことなく懐かしい感じの声だと須美子は思った。

 担任が「それだけ?」と追加を促すようなニュアンスで言うと、転校生の早川は視線を行き来させてから、再び口を開く。

「好きな科目は算数と理科、国語は苦手です。あと、今度で四回目の転校になります」

 この後半の情報には、「ええ?」と「おおっ」が入り交じった大きな反応があった。目を丸くする早川に、「何で?」という質問が飛んだけれどもそこは村下先生が遮った。

「はいストップ~。もう本鈴が鳴るのでそこまで。あとは休み時間にでも改めて本人に聞いてみるように。えー、早川君の席だが、そこ」

 と、村下先生が割と大雑把な動作で、顎を振って示す。

「廊下側から三列目の一番後ろ、空いてるから。あそこに座りなさい」

「――はい」

「あ、視力は大丈夫だって聞いてるんだけれども、実際に座ってみて、もしもだめだったら言いなさい」

「分かりました」

 早川は軽い足取りで通路を進み、須美子の横も通り過ぎた。と、向きを変えた刹那に、「よろしくね」と小さな声で言って来た。

 声を掛けられるなんて予想していなかった。勝手に膝がびくっとなって、机の底を叩く。がた、と大きめの音がしたが、それ以上にボリュームのある声で須美子は反射的に「こ、こちらこそ初めまして、よろしく」と早口で応じていた。

 当然、その声は教室にいるみんなにも聞こえてしまうわけで。

「ちょ、何言ってんの」

「お見合いでも始める気か」

「転校生も大胆だな」

 という風な驚きやら呆れやら冷やかしの声が色々と混じって、あちこちから上がる。

 顔が赤くなるのを自覚した須美子は俯きがちになり、ごめんと呟いた。それから両手で頬を押さえる。先生が「し・ず・か・に! 挨拶するのはマナーに叶っている、何がおかしいものか」とフォローしてくれた。ただしその直後に、「早川君も柏原さんも言うタイミングはよく考えて」としっかり注意されてしまったけれども。


 一時間目が終わるや否や、早川の周りには人垣が作られた。

 が、須美子は先ほどの出来事から来る恥ずかしさもあって、距離を取ることにする。自分の席を離れて、教室の最前列、戸口の近くにある寺沢のところに行こうとした。

(あれ? いない)

 ついさっきまでいたのに……もしやと思って自分の席のある辺りを振り返ると、人垣を構成する一人になっていた。いつも以上の満面の笑みで、早川に話し掛けているのが分かった。

 しょうがない。行きたいわけではないけれどもお手洗いにでも避難しよう。

 廊下に出ようとした須美子の前に、隣のクラスの友達が現れた。

「お。あれが噂の男子転校生?」

 めがねの位置をちょっと直してからつま先立ちをして、須美子の頭越しに教室の後ろを見やる。額に片手で庇を作っている辺り、いかにもポーズめいていた。

「あの位置だと、須美の真後ろだよね?」

「うん」

「須美は気にならないの? 顔、いい感じだと耳にしたんだけれども」

 須美子も振り向いた。転校生の顔かたちは、今は集まったクラスメートのおかげで陰になり、よく見えない。

「まあ……整った顔立ちはしてるわ」

 結局教室内にとどまり、そのまま二人で立ち話になった。

双葉ふたばこそ、男子に関心を持つのってキャラクターに合わないような」

「そんなことはない」

 心外そうに口をとがらせ、即否定した吉井よしい双葉は、ボーイッシュなショートヘアを手櫛ですいた。

「私が男嫌いみたいに思われるのは、ただ一人、近所にいる幼馴染みの腐れ縁の奴が原因。諸悪の根源よ。決して男子が嫌いとか苦手とかじゃなく、あいつと反りが合わないの」

「そんな難しげな表現を使ってまで、岡村おかむら君のことを否定しなくても」

 須美子はその岡村が今この場に現れやしないかと、思わず周囲に目を走らせた。その様をまのあたりにした吉井が察しよく呼応する。

「大丈夫だって、あいつなら職員室に呼び出されているから」

「そうなの? また何かやらかしたとか?」

「さあね。そこまで聞いちゃいないから。男運のなさを言うんだったら、須美、あなただってあれがいるでしょ、新倉真吾」

 吉井が名前を出すのとほぼ同時に、当の新倉が教室の横の廊下を通り掛かった。話し声がしっかり耳に届いていたのか、須美子達のいる方を振り返るも、他に用事があるらしくて行ってしまった。

「うん? どったの?」

 黙り込んだ須美子に気付き、次に視線のあとを追う吉井。廊下に背中を向けていた彼女は気付かなかったようだ。当然、新倉の姿はもうない。


「見えなかった? 新倉本人が通ったんだよ」

「あらま。よく絡んでこなかったわね」

 苦笑いを浮かべる吉井。その笑みがどういったニュアンスを含んでいるのか、須美子にはよく分からない。

「朝一番で頭をぽんぽんされたから、もう充分だわ」

 肩をわずかにすくめたところで、休み時間の終わりを知らせるチャイムが静かに鳴る。

「じゃあまたね。今日はお昼? 放課後?」

「お昼かな。天気悪いし、外に出て遊ぼうとは誘われないだろうから」

「じゃ、直美ちゃんと一緒にこっちから行くね」

 そう約束したあと、吉井は廊下に出、須美子は自分の席に戻った。座りしな、転校生と目が合う。正確を期すと、早川の方から目を合わせてきたような気がしないでもない。

「あ」

 何か言いたげに口を開いた早川だったが、すぐにその目線がずれて、須美子の肩越しに教卓の方へ。先生が早々にやって来ていた。

「だめか」

 早川がぼそっと呟くのが、須美子の耳にも届く。気になったことはなったけど、一時間目のあのいきさつがある。まだ一時間ほどしか経っていないこのタイミングで、先生の見ている前で「何?」と後ろを向くのは避けざるを得なかった。


 次の休み時間になり、早川の方が声を掛けてきた。

「あの、柏原さん」

 普通なら、須美子も応じるところであるのだが、今は間が悪い。というのも。

「ほらほら転校生の早川君は知らないだろうから教えてあげよう」

 新倉がやって来て、早川の腕に腕を絡めた。そのまま引っ張っていこうとする。

「な、何を?」

「次の授業は体育。着替えは男子と女子で別々。そしてこの教室は女子で、俺らは隣の教室に行く。分かったか?」

「ああ、そういう……」

 一瞬で理解した様子の早川は須美子へ軽く目礼し、やや恥ずかしげに「だったら急いで出ないと」と体操服入れの巾着袋を机の脇のフックから取った。

 依然として新倉に腕を引かれながらも、無駄のない素早い動作の早川は、最後には逆に新倉を引っ張って教室を出て行った。

「何を話してたのかな~?」

 途端に背後から声を掛けられ、須美子はどきどきを抑えつつ、振り向く。ポニーテールがいつもより多少激しく揺れた。

「直美ちゃん、いきなり話し掛けないでよー。びっくりするから」

「だって、とーっても楽しそうに話していたから、邪魔しちゃ悪いかなって思って」

「話していたって、早川君と? 私は話してないよ。早川君が新倉の奴と一方的に話してただけ」

「ふうん? じゃあ、見間違えじゃなかったんだ。早川君が話し掛けようとしていた場面だけ見えてた。続きはなかったのね?」

「その通りよ。さ、着替えなくちゃいけないから」

「何の話だと思った?」

「はい?」

「転校生に話し掛けられる心当たり、あるのかなーと」

「……ない」

 強いて言えば一時間目、彼も巻き込む形で注意されるきっかけを作ってしまったことくらいか。

(でも、あのことはどちらかと言ったら、私の方から話し掛けて謝らないと)

 ふと、義務感に駆られた。急いで着替えようと焦る。

 寺沢の方は体操服をわざわざここまで持って来ている。自身の席で着替えないで、須美子の近くの席で着替えることは希にあったけれども。

「……もしかして、直美ちゃん」

「うん?」

 須美子が頭の中に浮かんだ推測を声にする前に、寺沢は後ろの席を陣取った。いそいそと上着を脱ぎ始める。

「やっぱり」

 二枚目に弱いところがたまに出るなあと常々思っていたけれども、今回は相当に重症かな。転校してきた初日の男子の席で、着替えを始めるだなんて。

「何がやっぱり?」

 体操服から頭だけ出して、腕はまだ通さない状態で寺沢が聞いてくる。須美子はちょっとだけ考えて、口を開いた。

「ストレートに聞くけど……直美ちゃん、早川君に一目惚れした?」

 言葉も表情も真っ直ぐに尋ねた須美子。正面に立つ寺沢は一瞬きょとんとしてから、不意に顔を赤らめた。頬に両手の平を宛がって、急にふにゃふにゃになりながら、一段階ボリュームを落とした声で応じる。

「やだぁ。須美ちゃん、どうして分かるの?」

 そりゃ分かるってば。


 体操服に着替えると、身体の線が普段よりは出るため、自分の発育の遅さが気になる。特に、いや、胸だけが小さい。全体の身体つきはだいぶ大人びてきて、くびれ(イコールお尻が大きく見えるらしい)を男子からからかわれることすらあるのだが、その分、上にはホルモンが回っていないのかしらと疑いたくなるほどだ。

「いいなあ」

 対照的に胸の大きい寺沢を見て、つい愚痴っぽくこぼした。当の寺沢は友達の視線で察知したらしく、「私の方は須美ちゃんのスマートさがうらやましいんだよ」と大真面目に返した。実際、寺沢はふくよかな方で、大の甘い物好きということと相まって、少しでも油断すると体重が危ない、とは本人の弁。

「今日は体育館だっけ」

「うん。雨がまだ降ってるみたいだし、ちょうどいい」

「けど、測定だよ。嫌だなあ」

 年に一度の体力テストによる測定が行われる日に当たっていた。遠投だけ後日行われることになるが、それでも七項目もあると、運動が苦手な寺沢にとっては正直、うんざり、げんなりといったところらしい。

 一方、須美子は運動は得意な方だ。長距離走以外はおしなべてこなすし、記録もいい。

「がんばろ。なるべくこつを教えるから」

 寺沢の背に手をやって励ます。

「何か目標があればがんばれるよ、直美ちゃん」

「……じゃあ、須美ちゃんが早川君と親しくなって、私を紹介してもらえないかなあ?」

「え、それ、本気で言ってる?」

「うん、割と本気」

 言葉の通り真顔でうなずく寺沢。

 須美子は髪が邪魔にならないようにまとめて、体操帽をきゅっと被ってから、小首を傾げた。教室を出たあとに理由を尋ねる。

「どうして私を中継して、あの転校生の彼とお近づきになろうと思うのよ?」

「だって、早川君、こっちから話し掛けないと、喋ってくれない」

「……うん? 何のこと?」

「男子はそうでもないけど、女子はこちらから話し掛けないとだめだった。でも、思い返してみると、早川君、須美ちゃんには話し掛けようとしていたなって」

 須美子は感心した。寺沢の観察力に。それと同時に、ちょっと呆れもした。

「あはは。今日会ったばかりで、しかもたったの三時間ぐらいしか一緒にいなくて、それ? いくら何でも判断早すぎじゃない?」

「そう言われたって事実なんだもの」

 ぷくっと頬を膨らませる寺沢。須美子は、ないない、と手を顔の前で振った。

「三時間のほとんどは授業中だったでしょ。たまたまよ。男子と話をして、女子とはそうでもないっていうのも普通でしょ。その内早川君も慣れて、きっと向こうから話し掛けてくるわ」

「そうかなあ」

 納得いかない風に頭を左右に振る寺沢だった。

「そうだよー。私に話し掛けようとしたのだって、ただ単に席が近いだけだからじゃない? 話の中身も多分、つまらないことよ。消しゴム貸してくれみたいな」

「うーん」

 今度はうなる寺沢。

(あらら。これは本格的に一目惚れしちゃったのかな。ま、確かに整った顔だし、優しそうだもんね)

「ほら、遅れちゃうわ」

 須美子は、考え込むあまり歩みの遅くなった寺沢の背中を後ろから押してあげながら、微笑ましく思った。


 体力テストでは、自分の番が来るのを待つ間、なんとはなしに早川が気になった。前の休み時間に話題にしたから、というのではなく、寺沢があまりにも言うものだから、というのが大きかったんだと思う。

(ふうん……やるじゃない)

 須美子は体育座りで“観戦”し、早川が次々といい記録を出しているのを目撃した。

 握力は何か格闘技でもやってるんじゃないかというぐらい強く、前屈では身体を腰のところで半分に折りたためそうなくらいの柔軟さを見せた。

 そして何よりも、五十メートル走において、クラスで一、二を争う俊足の新倉に僅差ながら勝利したのがクラスメートから驚きと歓声を呼び起こした。

「くっそー、もういっぺん勝負だ!」

 新倉が詰め寄るのに対して、早川は両手の平を向けて、まあまあと制しつつ、涼しい調子で答えた。

「いいけど、体力テストで走れるのは確か一回きり」

「テストと関係なしにだっ」

 もちろんその場での再戦は認められるはずもなく、体育館の端っこで勝手に走るわけにもいかないので、後日にお預けとなった。

(確かに格好いいかも)

 感心の吐息をこぼしつつ、思った須美子。ただし、感心した対象は早川ではない。見る目のある寺沢に感心したのだった。

 その寺沢は須美子の隣で立ち上がり、握りしめたこぶし同士を拝むみたいに合わせて、早川の動きを目で追い掛けているようだった。五十メートル走のときには声を上げて応援していたのに、今では静かになっている。他の女子と一緒でないと、一人で声を掛けるなんて恥ずかしい、という気持ちが芽生えているのかもしれない。

(教室では積極的に見えたのに)

 目だけで友達を見上げながら、つい、苦笑いを浮かべてしまう。

(ライバルも多そうだし、道のりは険しいかもよ、直美ちゃん)

 本日の残るテスト項目は二十メートルシャトルランのみ。もう一度軽くストレッチしておこうかと身体を起こしつつ、他の女子の様子を見るために首を巡らせていると。

「柏原さん」

 視界に不意に早川が入って来た。

「今、いい?」

「え、ええ」

 突然だったので頭が回らない。心の中では、一時間目のことを謝ろうというスイッチが入っているのだが、声になるまでに時間が掛かっている、そんな感覚があった。

「聞きたいことがあるんだ。一時間目のことなんだけど」

 そう切り出されて、やっぱり怒ってるんだと、須美子は肩をすぼませた。それから改めて「ごめんなさい」と頭を下げる。

「そう、その『ごめん』のこと。周りから囃し立てられているときに、何で謝っていたのかと不思議でさ」

 早川の台詞に須美子は「え?」となって、面を起こす。

 目が合った。

「……あれは私が変な反応をしたおかげで、早川君まで怒られて。あなたに悪いことしちゃったと思ったから。聞こえているとは思ってなかったけれど。だからあとでちゃんと謝ろうとしてたのよ」

「なあんだ。そういうことか」

 早川はすっきりした様子で、快活な笑みを浮かべていた。疑問が解消したからだけじゃなく、どこか安堵した風でもある。

「僕の方こそごめん。いきなり話し掛けて」

「そ、そうかしら」

「何度も転校していると、最初が肝心だっていう思いが強くてさ。まずは近くの席の人に挨拶をと考えたんだけど、いきなり失敗して、落ち込んでた」

「……落ち込んでいるようには見えなかったわよ」

「それは当然、表に出さないようにしてるので」

 まだ話し続けたそうだった早川だったが、そろそろシャトルランの順番が巡ってくる頃合いになっており、男子から名前を呼ばれた。

「行かなくちゃ。まあ、よかった。気にしなくていいから、柏原さん」

「う、うん」

「――あ。それと」

 行きかけた早川が足を止めて振り返る。

「おっちょこちょいな性格かと思ったけど、運動神経いいんだね、柏原さんて」

「――な」

 急に評価を下されて、また呆気に取られてしまった。

(な、なによ。おっちょこちょいって。否定はしてくれてたけど、今言わなくてもいいじゃない。……私もちょっといいな、と思い始めたところだったのに)

 もやもやした気持ちを抱えて臨んだシャトルランの成績は、いまいちだった。


 体育の授業のあと、教室で再び着替えているときに、須美子は寺沢から大層うらやましがられた。

「いいなあ。須美ちゃんは。やっぱり話し掛けられてたじゃない」

「あのねえ。あれは一時間目のことを」

 と説明をすること、これですでに三度目になるのだが、寺沢は納得が行っていないようだ。

(恋は盲目って言うけれども、これもある意味、ラブイズブラインドになりそうね)

 そんな思いを頭に植え付けた直後、着替えが終わって男子達が戻って来た。後ろの席に座ろうとする早川を、須美子は椅子に横向きに座ることで、ちらちらと見てみる。

(改めて見るまでもなく、格好いい……。それに、優しい顔立ちと言えばいいのかしら。何か、見ていると安心できる)

 直美ちゃんが一目惚れしちゃうのも、やっぱり無理ないか――と納得したところで、椅子に座り直して前を向こうとする。その瞬間、またもや早川と目が合ってしまった。

「――柏原さん、僕の顔に何か」

「ついてない」

 思わず、つっけんどんな口調で返した柏原。目と目が合ったのが本意じゃないからと言って、これはよくないとすぐさま反省。

「ごめんなさい。ほら、転校生ってやっぱり気になる存在っていうか。だからつい、見てしまうのよね、あはは」

「そんなこと言われると、緊張するな」

 どこまで本気なのか、笑み混じり言った早川。なんてことのない短いやり取りは、四時間目の授業の始まりとともに途切れ、記憶の海に飲み込まれていくものだと須美子は思った。いや、思いすらしなかったかも。


 昼休みは言うまでもなく給食の時間。須美子らの通う小学校では、教室の席順、列単位で給食当番が決められている。

 なので、四時間目の終了とほぼ同時に、前に座る全員が動き出したのを見て、きっと早川は焦ったに違いない。

「ちょ、ちょっと。えっと。柏原さん?」

「――あ、そっか。忘れてた」

 呼び止められて振り向いた須美子は、早川から具体的に問われるよりも先に察することができた。

「というか、先生から何も聞いてない?」

「聞いてない。給食当番なんだ?」

 早川もまた勘よく察すると、腰を浮かした。

「しょうがないわ。どこにあるかも分からないでしょ? 着いて来て」

「うん。それはそのつもりだけど、当番用の服というかエプロンがある?」

「あ~、そうね」

 元は三十六人いるクラスで、六列がすなわちそのまま六つの班を構成していたのだから、給食当番の割烹着風エプロンも六着分があって使い回してきた。そこへ一人、転校生が加わったことにより、当然足りなくなる。

「そもそも何の役をすればいいのかも分からないし……」

 通常なら、学級委員長の度会にでも頼んで、職員室の先生のところへ委員長と早川の二人で行ってもらえば済みそうな話だけど、あいにくと今週の給食当番に委員長も副委員長も含まれていて、先に行ってしまったようだ。

「ほんと、しょうがないなあ」

 須美子はとにもかくにもエプロンを身につけると、早川の腕を取って廊下に出た。そのまま、ずんずんと引っ張っていく。

「柏原さん?」

「何?」

「職員室ならどこにあるのか僕でも分かってるよ。給食室に向かってるんじゃないよね?」

「あ」

 気付かされて、急に恥ずかしくなる。思わず、手をぱっと離した。支えを突然外された格好の早川は、前のめりに数歩よろめいた。が、バランスを崩しただけで転ぶまでには至らず、踏みとどまる。

「おっと。ひどいな~、いきなり」

「ご、ごめん。せ、先生に聞きに行こうと急いでて、つい」

「分かってる。じゃ、ここからは僕一人で行けるので」

「――あっ、でも、給食室の位置は?」

 すでに遠ざかり始めた彼の背に向け、少し声を張る須美子。

「先生に聞く!」

 元気のいい返事があった。


 担任の村下先生もすっかり失念していたらしくて、早川が給食当番に加わったのは、結局教室に戻ってからだった。真新しい白のエプロンを着用し、口元をマスクで覆っているが、それでも早川だとすぐに分かる。目に特徴があるんだわと須美子は感じた。

「結局、何の役をしろって言われたの?」

「今日のところは、パンか牛乳の手伝い」

 なるほど、大きなおかず、小さなおかず、デザートはいずれも一人で事足りる上に、二人目が助っ人に入ること自体が難しい。パン(もしくは米飯)か牛乳なら、そのスペースの広さもあって手伝う余地がある。

 そんな経緯で、早川は牛乳を配る役に回った。デザート係の須美子のすぐ隣だ。役割をこなしていると、寺沢が来た。二人いる牛乳係の内、うまい具合に早川から受け取れて嬉しそうにするのが見て取れた。

「よかったね」

 デザートをお盆の隅っこに置いてあげながら囁き声で言うと、寺沢はまた嬉しそうに目を細めて、小さくうなずいた。


 午前中に比べると昼からの授業は滞りなく進み、放課後を迎えた。

 教室及び教室前の廊下の掃除をクラス全員で終えて、さあ帰ろうとなった矢先、ちょっとしたハプニングが起きる。尤も、当事者の片方にとってはハプニングではなく、予定通りの行動なんだろうけれど。

「早川、放課後ならいいだろ」

 教室を出ようとした早川の前に、新倉が立ちはだかっている。

 ぱっと見、喧嘩でも始まりそうな雰囲気に、教室を出ようとしていた須美子と寺沢は足を止めた。

 早川は涼しい顔をして、相手の頭から足先までを見たあと、ゆっくりと応えた。

「もしかして、五十メートル走のこと?」

「ああ。再戦する約束だぜ」

 このやり取りで、張り詰めた教室の空気が一気に和らいだ。

「約束……まあ、したことになるのかな。でも今日はだめだろう」

 今度は窓の外へ目線を飛ばす早川。外は、雨はほぼ上がったようだけれども、足下がぬかるんでいる。かけっこに向いていないグランドコンディションであるのは、誰の目にも明らかだった。

「それとも体育館が使えるのかい?」

「行ってみないと分からねー。とにかく、受けろ」

「それがごめん」

 後頭部に片手を当てて、ちょっと困り顔に笑みを乗せて答える早川。

「なぬ?」

「今日は早く帰らないといけないんだ」

「なんだよ。しょうがねえな」

 割と簡単に引き下がる新倉。何の用事があるんだとか、嘘ついてるんじゃないだろうなとは言わない辺り、悪ガキとは言ってもさっぱりした一面を持ち合わせている。

「いつだったら暇があるんだ?」

「実は、基本的に毎日だめなんだ」

「何だよ~。しゃあないな。じゃ、放課後じゃなく、学校にいる間に勝負する必要があるじゃんか。早く言えよ」

「はは。次からはそうする」

「なんか、面白え奴。気合いが抜けるわ。おっと、呼び止めて悪かった」

 身体をずらして道を空ける新倉。早川は「サンキュ」と短めに言って、出て行った。時間を取ったためか、廊下を行く彼はやや小走りに近い早足になっていた。

 ずっと成り行きを見守っていた須美子が、ふう、と息をつく。そんな彼女の袖を寺沢が引っ張った。

「ん、何?」

「何だろねと思ってさ。早川君、毎日用事があるみたいだけど」

「さあ……。一緒に帰れるかもしれなかったのに、残念だね」

「そ、そんなことは……思ってたけど」

「どの辺りの区画に家があるんだろ。聞かなかったの?」

「今日会ったばかりなんだよ。聞けないよぉ」

「転校生の机で着替えたくせに」

「それとこれとは話が別なの。須美ちゃんの方こそ、席は前後なんだから、住所の一つや二つ、聞き出しておいてほしかった」

「おいおい、住所は普通一つでしょ」

 呆れ混じりの苦笑いでつっこんでおいた。しかし須美子の冷静な指摘にも、寺沢はこの話題を止めない。

「そうだわ。いいこと思い付いた。須美ちゃんが早川君と席が前後ろなのを利用して、先に親しくなるの。それから早川君から、色んな情報をたっぷり聞き出して、私に教えて」

「それ前も聞いたような。自分でやりなよー」

「だめー。サプライズのためなんだから」

「サプライズってどういうこと?」

「たとえば、早川君の誕生日を聞き出してもらっておいて、いきなりプレゼントするとか」

 いいアイディアでしょ、と言わんばかりに笑みを広げる寺沢。友達のそんな顔つきを目の当たりにして、須美子は微笑したものの、ここはきっちり言っておかなくてはと表情を引き締める。

「悪くはないと思う。でもそれって、私がスパイみたいに動いたってことが、ばればれになる気がするよ~」

「そうかな? そうだよね。じゃ、早川君の趣味とか好きな食べ物とかでもいいよ」

 遠慮してくれないのね。再び苦笑を浮かべる須美子だった。


 児童昇降口の内側、履き物入れがミニサイズの団地よろしく立ち並ぶ玄関スペースまで来た。出入り口が西を向いているため、普段、夕日が差し込んでまぶしくなるのが常である。この日は午前中が雨模様、午後からは曇りだったが、放課後を迎える時刻になってようやく太陽が雲の切れ間から覗き始めた。細い光の線が、時折校舎の中まで届く。

「あ、傘」

 上履きから靴に履き替えて、数歩進んだところで、はたと気が付いた。須美子も寺沢も、揃って傘のことを忘れてしまっていた。思い出せて二人して笑いながら引き返す。

 寺沢が先にピンク系統の傘を見付け、傘立てから引っ張り出す。

「あった。須美ちゃんは?」

「……おっかしいなあ。ないような気がする……」

 須美子が愛用する傘は水色が鮮やかな、やや大きめのタイプで、いつもなら頭一つ出ている感じだからじきに見付かるのだが。

「もしかして、持って行かれちゃったとか?」

「かもしれない」

 ため息が出る。

「降っていないからまだましだけれども。間違って持って行ったのかなあ」

「間違われたんだとしたら、似たような物が残ってるはずだよね」

 探すそぶりを見せる寺沢。

「え、何で探すの。まさか、お返しにその傘を持って行っちゃえってことじゃないでしょ?」

「その傘に名前があったら、どこの誰が間違えたのか、分かるかもしれないじゃない。分かったら、電話して持って来させるの」

「強引だなあ」

「明日、また雨が降るかもしれないんだよ。もっと真剣に考えなきゃ、須美ちゃん」

 まあ、それは寺沢の言う通りだ。もちろん、自宅に他に傘がないわけではないが、多分お気に入りの傘からはほど遠い、男物か柄物しかないだろう。

「けど、私の傘に似てるっていうことは、もうすでに探し尽くした気がするんだけど」

「そっか。じゃあ、別の傘立てだわ」

 寺沢が隣の傘立てに顔を向ける。今見た傘立ての隣と、そのもう一つ隣が六年生のための傘立てで、だいたい二クラスごとに分かれて使うのが暗黙の了解である。さらにその先は五年生、四年生……と並んでいる。

 須美子のいる六年一組及び二組の傘立ては壁に最も近い位置にあり、常識的に考えれば、他の傘立てと間違えそうにない。それでも念のため、隣の傘立てから見てみた。

「……ないなあ」

「もしや、新倉君辺りが意地悪して、持って行ったとかじゃない?」

 寺沢が唐突に、新倉に疑いを向ける。確かに何かとちょっかいをかけてくる男子ではあるが、物を隠したり持って行ったりという陰湿ないたずらをするイメージはない。それに加えて。

「何でもかんでも疑ったらだめ。あいつならまだ教室にいるじゃない」

「あ。そうだった。早川君を通せんぼしたあとも、残ってたんだよね」

 失敗失敗とつぶやき、舌先を覗かせてた寺沢。それから手を一つ打って、気を取り直したように言った。

「じゃあ、下級生かも!」

「どうしてよ。ますます間違えようがないわ」

「下級生なら終わるのが私達より早いじゃない。その時点ではまだ雨が降っていたとしたら、傘を持ってきていない子が上級生の傘を黙って借りていく、なんてことも」

「想像力豊かなのは認めるけれど、今日は朝から雨だったから、傘を持ってくるのを忘れるなんて、あり得ないでしょ」

「う……そうでした」

 肩身を狭くする寺沢。須美子は友達に釘を刺す意味で、追い打ちを掛けておくことにする。

「万が一、傘を黙って借りるにしても、私の大きい傘を持っていくことはないと思う。重たいわよ、きっと」

「はい、私が間違ってました」

 寺沢がぴょこっと頭を下げる。

 そのとき、昇降口の向こうから、誰かが走ってくる足音がびしゃびしゃと聞こえて来た。

「――早川君?」

 最初、逆光で分かりにくかったけれども、すぐに気が付いた。そんな須美子の声に、頭を下げていた寺沢も反応して、「え? 早川君?」ときょろきょろする。

「あっ、柏原さん。ごめん! 間違って傘を持って行っちゃってた」

 入って来た早川は、須美子の前まで来ると、手にしていた細長い物を差し出してきた。それは須美子の傘に間違いなかった。

「君のでしょ?」

「え、ええ、そうだけど。何であなたが持っているのよ」

 傘を受け取りながら、率直に尋ねた。疑問の答を確かめずにはいられない。

「だから間違えたって」

「どうして私のだと分かった?」

「それは……ごめん、勝手にあけて名前を見た。手に持っていたら、何となく変な、いつもと違う感じがしてきたものだから、確認のために」

 やや焦りがにじむ声で、でも明快に答えてくれる。

 須美子は、寺沢が自分の斜め後ろに隠れるように立ったのを認識しつつ、早川との会話を続けた。

「早川君の傘はどこよ」

「多分、正面玄関の方にある」

「何で? あそこは先生やお客様の通るところ……ああ、そっか。転校生だから、朝は正面玄関を通って、校舎に入ったのね?」

「凄い。よく分かったなあ」

 感心をあらわにし、驚きの中にも笑みを交えた表情になる早川。

「傘は恐らく、そのとき正面玄関の傘立てに挿して、そのまま。下足箱がこっちだから、そこの傘立てを使ったと思い込んじゃったってわけ。疑うんだったら、このあと付いてくる? そっくりの傘だと分かってくれると思う」

「そ、そこまで疑ってはないわよ」

「よかった。でも、僕がどじをしたおかげで、君まで巻き込んで悪かった」

 頭を下げる早川。先ほどの寺沢と違ってきっちりしていて、お辞儀と表現するのがふさわしい。

「い、いいよ、そんなに足止めを食らったわけじゃないから」

 大げさだわとあわあわしながら両手を振る須美子。

 と、そのとき後ろから、くすくすっと笑い声がした。気恥ずかしさからか猫を被っていた寺沢が、つい吹き出したようだ。

「――あはは。早川君て、案外抜けてるとこあるんだね。ほっとした」

 ころころと楽しそうに笑う寺沢。これには須美子の方が内心、ひやりとした。

(直美ちゃん、地を出すからって、いきなりその言い方は)

「え? ほっとしたって、いったいどういう目で見られてたのやら」

 幸い、早川に特に気にした様子はない。むしろ、より打ち解けた口ぶりになったと感じられた。

「勉強も運動もできて、格好いい。完璧な男子に見えてた」

 ここぞとばかりに、早口で述べる寺沢。一度たがが外れると、一気に走るタイプだったのね直美ちゃん――須美子は密かに嘆息した。

「たった半日で、そんな風に思われていたなんてね。これから悪いことできないな」

 冗談めかして微笑む早川。それからはたと思い出したみたいにきびすを返し、「それじゃ、さよなら」と出て行く。

「あ、わざわざありがと! 車に気を付けてよ!」

 須美子がそう声を掛けて見送ると、寺沢も似たり寄ったりのフレーズを口にした。

「――で、須美ちゃん。何で急に車に注意みたいなこと言ったの?」

「だって早川君、教室を出るときの様子から言って、急いでいたでしょ。なのに傘を戻しに来たってことは、かなり時間を無駄にしたんだろうなって思ったから。このあと正面玄関にも回るはずだし」

「なるほどー、須美ちゃん凄い」

「大したことないわよ。それよりも直美ちゃん、さっきはびっくりした。急に堰を切ったみたいに……」

「あれは成り行きっていうか」

「向き合って、あれだけ言えるんだったら、私が手伝わなくても大丈夫なんじゃないのかなあ」

「そんなことないよ、全然。手伝ってくれた方が絶対に心強いし。ね、お願い」

 じっと見上げるように見つめてきて、手を拝み合わせる寺沢。

(さっき、私がいなくて、直美ちゃん一人だったら告白まで行けたんじゃないかしら。そうだとしたら、私はお邪魔だってことになりそうだけど)

 よほどそう言おうかと思った須美子だったけれども、人の恋路を目の当たりにできる機会なんて初めてだし、関心がある。やっぱり寄り添ってみようと考え直した。

「分かった。私だって経験ないから、たいした力にはなれないけど。それでもいいんだったら」

 須美子が答えると、寺沢は傘を放り出し、両手で須美子の右手――傘を持っていない方の手を取って一度上下させると、「ありがとう、約束だよ」と大きめの声で言った。

 大げさだなあ、とまた思った。


 夕食後、須美子に吉井からの電話があった。

 クラスは違っても、帰りは直美を含めた三人揃って学校を出ることが多いのだが、今日は委員会活動の日に当たっており、隣のクラスで委員を務めている吉井とは一緒に下校できなかった。

「どうしたの? 何かあった?」

 お互い、まだ携帯端末の類を持たせてもらっていない。なので、相手から電話が掛かってくること自体は珍しくない。ただし、時間帯がいつもは土曜や日曜の午後が多くて、平日の夜というのはなかなかないのだ。

「直美から電話もらって、協力してねって言われた。たった一日で、転校生にいかれちゃったの、あの子?」

「あー、そうみたい。私も協力することに」

「へえ。須美子はほんと、男に興味ないんだねえ」

「ないわけじゃないわよ。何て言うか、理想が高いのかな」

「それはともかくとして、だ。直美からの頼み事、私は一応、保留したよ」

「えっ。何で」

 意外な答を耳にして、若干だが動揺を覚えた須美子。電話を握り直す。

「何でって、だから一応よ。私ゃ、その早川君とやらをまだ全然知らないんだから。可能性は高くないと思うけど、私だって一目惚れするかもしれないし、内面ていうか中身を知った上で好きになるかもしれないじゃないの」

「はあ、言われてみればなるほどだね」

 ちょっと早まったかな。須美子は改めて転校生の姿を思い浮かべてみた。

(見た目はマル。運動もできるみたいだし、勉強も得意。その上、優しい性格。だって、間違えて持って行った傘を忙しいのにわざわざ引き返して持って来てくれたくらいなんだから、優しいに決まってる。女子に意地悪をすることがあるかどうかは、まだこれから見てみないと断定はできないけれども、多分ない。気遣いのできる人って感じだった)

 確かに、これから好きになるかもしれない。現時点でも、ちょっといいな、とは思う。

(だけど)

 須美子は電話口で軽く目を瞑り、“彼”の面影を思い起こそうと試みた。

 “彼”こと“十字星の男の子”。それは約五年前、遠出して観に行った天文関連の催し物会場でのこと。家族とはぐれてしまい、心細くて泣きそうになっていた須美子は、同じ年頃の男の子に助けられたのだ。会ったのはその会場が初めてで、名前も知らない。

 実は顔立ちすら、もはや明確には覚えていないのだけれども、意志の強そうな目と口元が印象に残っている。泣きそうだった須美子を元気づけ、笑わせて、心細さを忘れさせてくれた。結局、両親と合流するまで、ずっと一緒にいてくれた“彼”に、幼い須美子は恋心を抱き、それは他の誰にも言わないまま、今も続いている。

(やっぱり、早川君でも“十字星の子”にはかなわない)

 十字星の男の子、もしくは十字星の子と呼ぶのは、須美子を元気づけるために、“彼”が持たせてくれたはくちょう座のバッジに由来する。会場の土産物コーナーで売られていた物で、「これを十字架だと思ってお祈りして。きっとすぐにお父さんお母さんと会えるよ」と渡されたのだ。そうしたら本当に両親とすぐに合流できた。

 驚き、感心することしきりだった須美子に、“彼”はそのバッジをプレゼントしてくれた。ほしいと思っていた反面、悪いからと断ろうとしたのだけれども、“彼”は「いいんだ。お守りのつもりで持っていて」と言い残し、走り去ってしまった。

 以来、須美子はバッジをお守り代わりにして、持ち歩くようになった。ただ、最初に十字架と言われたためか、しばらくの間、南十字星だと思い込んでいたけれども。

(白鳥の子よりは、十字星の子の方がいいよね)

 自分の勘違いを思い出して、何となくにやついてしまう。

 と、そこへ吉井の声が。

「――聞いてる?」

「え、あ、ごめん」

「またなんかぼーっと空想していたな?」

「ま、まあね。理想の男の子について、なんちゃって」

 冗談めかして応じながら、須美子は空いている方の手をポケットに当てた。

 そこには、フェルト生地で作った小さな袋に入れた、バッジの感触が確かにあった。

(話したら笑われるかなあ……)

 先だっての修学旅行の際、泊まったホテルで夜、話題が恋バナになったことがあったけれども、須美子は言わないでいた。六年生にもなってこんな話をしたら笑われるかもというのも理由の一つだが、それよりもずっと大きな理由は、これがとっておきの大事な思い出だから。

「これまでクラスの誰それクンが好きなんて言うことのなかった須美子が、そんな理想の男子について考えるなんて、やっぱ、転校生の存在が影響してるんじゃないんかいな」

「そんなことない、と思うけど」

 吉井のこの手のいじりは定期的にあるのだが、いつもは笑って否定していた。好きな男子はいない、お父さんが一番いい、みたいな返事ではぐらかして。

 でも今回の否定は、笑い声が混じらずに、かといって真剣に否定したのでもなし。むしろ反対に、躊躇する気持ちが生まれていたのかもしれない。

 そんな須美子の気持ちを電話回戦を通して感じ取ったのかどうか、吉井は声のトーンを上げて、再度言った。

「須美子も念のため、直美に言っときなよ。全面協力は無理だって」

「うーん、どうしよう。一度約束したことだしね」

「ほら。そこでそんだけ迷うってことはよ、何分の一かでも好きになるかもっていう気持ち、予感があるってことなんじゃない?」

「分析、どーも。そうね、考えとく」

 この話題は早めに切り上げた。吉井の指摘は図星のような、違うような。ただ確実に言えるのは、このままこの話題で話し続けると、十字星の子の思い出が薄まってしまいそう。そうなるのが嫌だったから、切り上げたのだ。


 それから一週間ほどで、転校生の早川は学校にクラスにと急速に馴染んでいった。その間、小さなエピソードがいくつかあった。

 たとえば、掃除の時間。先生の目を盗んでぞうきん投げを始めた新倉達に、委員長の渡会が注意したのだけれども聞きやしない。それどころか、渡会の足下めがけて、濡れぞうきんを放る始末。これには普段温厚な渡会もむかっときた。元々身体が大きく、力持ちの渡会だから、平均より少し大きい程度の新倉と胸をつき合わせると、見下ろす感じになる。新倉はでも負けん気が強く、実際けんかっ早いところがあるため、引き下がらない。下からにらみつける。

 周りが「やめとけって」とか「やるんなら外に出て」とか「先生呼んできて!」となる中、床のぞうきん掛けをしていた須美子は端まで拭き終わって、さてどうしようかとため息をついた。

(副委員長のさかきさんはゴミ捨てに行ったみたいだし、他に二人を止められそうなのは)

 考えつつ、片膝立ちから姿勢を直そうと腰を浮かした瞬間、後ろからお尻の辺りにゆるい衝撃をもらった。

「きゃ!」

 バランスを崩して倒れると同時に、悲鳴が勝手に出た。

「ごめん。喧嘩に気を取られてよそ見していたらぶつかった」

 何だかとっても説明っぽい台詞で謝ってきたのは、早川だった。彼もぞうきんの当番で、席順のまま、須美子の後ろに着いて、拭いていたのだが、まさかぶつかるとは。

「よ、よく見てなさいよ!」

 たいしたダメージではなかったのに須美子が声を大にしたのは、お尻を触られたと思ったから。多分、手ではなく、頭が軽くぶつかったんだろう。そうと理解していても、スルーするには恥ずかしさが許さない。

「ごめんな。新倉だけならまだしも、あの穏やかな委員長が怒るとこが珍しくて」

 と、二人のいる方へ目線を振る早川。

 すると新倉がいない。いや、こちらに向かって、飛ぶような勢いで駆け付けていた。

「早川、おまえ~、何をした?」

「えっと。そんなに興奮することじゃあないと思うんだけど」

 詰め寄る新倉に、早川は両手の平を広げガードのポーズを取り、機先を制しようとしている。勢いがひとまず止まった新倉は須美子の方を指差して、「悲鳴が聞こえたぞっ」と声を荒げる。

「おまえの判断なんて聞いてねえ。柏原に何かしたんだろ。滅多に悲鳴を上げない柏原が叫ぶんだから、相当なことに決まっている。さあっ、吐け」

 これに早川が返事するよりも先に、渡会までやって来た。新倉に何か一言あるのかと思いきや、「何があった。見てなかったから、一から説明してもらおう」と仁王立ちして、早川を見下ろす。委員長まで、矛先を変えてきた。

(な、なんなのこれ)

 おかしな成り行きに、半分当事者の須美子は困惑しつつも、その場を離れられないでいる。

 と、早川が振り向いてきた。

「柏原さん。僕に悪気はなかったと証言してくれる? 僕は新倉君と渡会君が喧嘩を始めたのにびっくりして、よそ見していたせいで、君にぶつかってしまっただけだって」

「え、ええ。まあ、それはその通りなんだろうけど」

 須美子は肯定しながら、渡会と新倉の顔に、気まずそうな色が浮かぶのが分かった。

(――もしかして、こいつ――)

 早川を改めて見る須美子。その早川はホールドアップの格好をして、「こういうことだから、許してくれよー」と謝っている。

 須美子はこの状況に乗っかることに決めた。

「そうよ。私が悲鳴を上げたのは元はといえば、新倉君と委員長、二人の責任なんだからね」

 強い調子で言うと、新倉と渡会はますますしゅんとなった。

「喧嘩なんてやめて、新倉君達はぞうきん投げもやめて、真面目に掃除する。これで決まり。いいわね?」

「ちぇっ。しょうがねえ」

 新倉がそのままぞうきんを拾いに行こうとするのを、須美子は見とがめた。

「ちょっと、新倉クン。あんたにはもう一つ、忘れちゃならないことがあるでしょ」

「あん?」

 しゃがみ掛けた姿勢のまま一時停止し、振り返る新倉。

「喧嘩になりかけた原因は、あんた達のぞうきん投げにあるわ。渡会君にも投げた」

「い、委員長には投げてねーよ」

 渡会の方にも視線を向けつつ、抗弁する新倉。須美子は首を左右にゆっくりと振った。

「足下に投げた、でしょ? 少なくとも水しぶきが跳ねて掛かったんじゃないかしら。ねえ、委員長?」

「まあ、ちょびっとは」

 渡会も心得たもので、靴下の汚れを払う格好をする。

「~っ」

 新倉は言い返したいが何も言えない、という体で唇をかみしめる。が、ほどなくしてあきらめた風に、鼻で大きく息をついた。

「分かったよ。悪かった、委員長。ごめん、謝る、許してください」

 頭を下げた新倉に、渡会はすぐに声を掛けた。

「もういいよ。謝罪の言葉もあまりにも重ねられると、逆に嘘っぽくなる。それに……こっちも感情的になって反省している。――さあ、さっさと済ませて、早く帰ろうぜ」

 なかなか満足の行く仲裁となった。

 須美子は少し気分をよくしていたが、それ以上に確かめたいこともできていた。

 その機会を得るには、翌日になるまで待つ必要があった。


「直美ちゃんが来る前じゃないと、二人きりで話しづらいから」

 翌日の朝、須美子は教室に入るなり、まず寺沢がまだ来ていないことを目で確認し、それから早川が来ていることを確認。すぐさま、彼を誘って、特別教室の集まる棟まで一緒に行った。

「直美ちゃんて、寺沢さんのこと? 何で」

 しんとして、夏が近いというのにまだひんやりとした空気の残る廊下には今、早川と須美子の二人だけがいる。

「いいから。手短に聞くから手短に、正直に答えてよね」

 これから先は他の人に聞かれたくない気持ちがある、なので、辺りをじろっと見渡して再確認した後に、改めて口を開く。

「昨日の掃除のときのことだけど」

「あー、ごめん。何度でも謝る」

「ちょっと。手短にとは言ったけれど、そういうことじゃないわ」

 須美子がストップを掛けると、早川は目をぱちくりさせた。

「違うんだ? てっきり、君のお尻にぶつかったことかとばかり」

「いいから黙って聞きなさいって」

 恥ずかしさがぶり返さない内にと、早口になった。

「ぶつかったの、わざとでしょ?」

「それは――」

「喧嘩を止めるために、新倉と委員長の気をそらそうとして、私に悲鳴を上げさせた。違う?」

「――違わない」

 ごく短い間こそあったが、早川はすんなり認めた。照れたように鼻の辺りを赤らめ、かと思うと、横を向いてしまった。

「まさか見破られるとは。参りました。鋭いんだね、脱帽するよ」

 本当に帽子を脱ぐ動作をして見せた早川。格好付けちゃってと内心、苦笑しながら須美子は答えた。

「わ、私のことはいいの。そっちこそ、よくもまあとっさに思い付いて、実行できたわねー」

「それはまあ、僕も早いとこ帰りたかったし。でも腕っ節には自信がないから」

 そう答える早川だったけれども、須美子が見るところ、彼の身体は結構鍛えられていて、腕には筋肉も付いている。運動神経のよさと合わせると、決して弱くはないだろうという印象を受けていた。

 そんなところを全く表に出さず、穏やかな手段で喧嘩を止めに入った早川は、精神的にとても強い人間のかもしれない。須美子は何となく感じ取っていた。

「さ、これで話はおしまい! 戻りましょ」

 来たルートを引き返そうと身体の向きを換える須美子。その耳に背後から早川の「えっ」という声が届く。多分、須美子が初めて聞く、早川が心底驚いた調子の声だった。

「な、何?」

「その、説明があるのものと待ってたから。それが、もう行っちゃうんだと思って」

「説明って、いったい何の話よ」

「寺沢さんがいないときじゃないと話しにくいって言っただろ。その理由」

 細かい点に食い付くなあ。須美子は余計な一言を付け加えて誘ったことを少々後悔した。

「何でもないのよ」

「ほんとに? たとえば、寺沢さんが渡会君か新倉君のどちらかに肩入れしていて、それなのに僕が悪知恵を働かせて喧嘩を収めた、みたいなことを知られたら、肩入れしている男子に恥をかかせた、ひどいっ!となるのかと想像してみたんだけど」

「――ぷ」

 いけないと思いつつ、吹き出してしまった。

(早川君てば、昨日はとっさにあんな方法を思い付くのに、こういうことは見当外れというか、鈍いといういうか)

 笑いをこらえられるまでちょっぴり時間を取り、やがて須美子は口を開いた。

「あのね。決してそういうことではないから。安心して。あと、この話はみんなには内緒よ」

「まあしょうがない。密かに丸く収めたんだから、最後まで秘密にしておくよ」

 物分かりのいい人は嫌いじゃない。須美子は歩みを止めて、早川が横に並ぶのを待った。

「ど、どうしたのさ」

「早川君に我慢させるのは申し訳ないなー、なんてね。その穴埋めっていうのかな、私が答えられることなら質問に答えてあげようかと思って。転校してまだまだ日にちが経ってないんだから、何かあるでしょ、学校のことで」

「……そんな貴重な権利を行使してまで知りたい、学校に関することなんてないよ。第一、学校について分からないことなら、先生に聞けば済む」

「あ、それもそうね。じゃあ……」

 須美子はしばらく沈思黙考した。おかげで今度は早川の方が先を行く形になる。

「もうじき、教室に着いちゃうけど」

 その早川の声で、須美子は決めた。

「気になる女子はいる?」

「ふぇ?」

「何て声を出してるの。気になる女子はいるかって。いるのなら、その子が誰に気があるのかをそれとなく探ってきてあげるわ」

「……」

「早川君? おーい?」

 押し黙った彼の目の前で、ちょっと手を振った須美子。約三秒遅れで反応があった。

「今はいないから、また今度だね」

 快活そのものの笑みを顔いっぱいにのせて早川は答えると、須美子からついっ、と離れて教室に入っていく。

「? 変なの」

 小声で独りごちた須美子。早川の態度がころころ変わった意味を考えようとするも、ちょうどそのとき前方から廊下を小走りに、寺沢がやってきた。

「須美ちゃん、探してたんだから~っ」

「お、おはよ」

 朝の挨拶もそこそこに、寺沢は須美子の両手を握りしめてきた。

「宿題、どうしても分からないところがあってさあ」

「また? しょうがないなあ」

 引っ張られるようにして教室に入っていく。

 着席していた早川の様子は、いつもと何ら変わりがないように映った。


 そのちょっとした事件が起きたのは、早川が転校してきてから一ヶ月ほどが経った頃だった。

 日番に当たった須美子は、日番ノートにその日の出来事を簡潔に記し、もう一人の日番――男子の日番である早川に渡した。

 五十音順に回ってくる男女それぞれの日番なので、普通に考えると「か行」の須美子と、「は行」の早川が同じ日に務めることは、なかなかない。けれどもその日は本来の日番である男子が夏風邪で欠席した。こんなときどうするのか通例に従えば、次の、つまり翌日の日番である男子を繰り上げるか、もしくは女子一人でこなすかのどちらかだが、明確な決まりはない。担任の村下先生が指示したのは、早川にさせるというもの。一学期に入って他の児童が皆、およそ二度ずつ日番をこなしているのに対し、転校してきた早川はまだない。ちょうどいい機会だから早めに経験させようという配慮?らしかった。

「前から気になってたんだけど」

 手を止めて、持っていた鉛筆で天井の一方向を差し示す早川。須美子はそちらを見ようとはせずに、「早く書いてよ」と急かした。

「書こうと思ったこと、柏原さんが全部書いてる。それよりも、あの蛍光灯」

 早川は今度は席を立って、問題の照明の下まで来て指差した。

 教室の天井にはいくつか蛍光管が下がっているが、早川が気にしているのはその内の一つ、前から三分の一ほど、校庭に面した窓側の照明のようだ。

 須美子はため息をついて、その蛍光灯の下に移動した。

「それがどうかしたの」

「管に輪ゴムみたいな物が乗っかっている」

「――確かに、あれは輪ゴムね。クリーム色をした大きめの」

 言われて思い出した。五月の中頃、男子が何人かで輪ゴムを使って遊んでいた。途中で輪ゴムが消えたとか言って騒いでいたけれども、上向きに飛ばして、偶然にも蛍光管の上に引っ掛かったんだろう。一般的な輪ゴムよりも色が薄いためか、よほど注意しないと見付けづらそうだ。

「あのままにしておくと、ひょっとしたら熱でゴムが焼き付いたり、焦げて煙を出したりするかもしれない」

「危ないってこと?」

「絶対にそうなるとは言えないけど、取り除いた方がいいんじゃないかな」

「……今から取るつもり?」

「できれば」

 まっすぐに見つめられて主張されると、「面倒だわ」とか「先生に任せようよ」とか言い出しにくい。

「高いんだけど。届かない」

「机の上に椅子を置いて、その椅子に立てば届きそうだよ」

「――やっぱり無理よ」

 ぱっと見た目では、背伸びして手を伸ばしてもぎりぎり届きそうにない。

「それじゃ物差しでも持ってやってみよう」

 早川は言うが早いか、先生の机まで行き、「これを借りて」と三十センチの半透明な定規を取って、戻って来た。

「待って待って。あなたがやると、ノートを書くのがますます遅くなる。私が代わりにやるから、早川君は書いて」

「だから書くことが――あっ、これからやることを書けばいいか。蛍光灯の輪ゴムを取り除きましたって」

 明るい表情と明るい声で言う早川。

「はいはい、そうして」

 物差しを受け取って、彼をノートの置いてある机の方へ追い払う仕種をした須美子。行きかけた早川だったが、ふと、心配げにつぶやく。

「椅子、乗せるの手伝おうか。ぐらぐらするようなら、下で押さえとくし」

「結構よ」

 机の位置を少しずらして蛍光灯の真下になるようにし、その上に持ち上げた椅子を置く。「ほらね。手伝わなくていいから、早く書く」

「了解しました」

 早川は短く敬礼してノートのところに戻った。

(やっと行ってくれた)

 須美子はほっとしつつ、上履きを脱いで揃えて床に並べた。そのまま慎重を期して、机に右足を掛ける。続いて左足も。

(下に早川君がいたら、見えちゃうかもしれないから心配だったのよ)

 この日の須美子はスカート姿。ある程度長い代物だが、もし下で椅子を押さえておくなんてことになっていたら、下着が見える可能性はあった。紺パン未着用だから、なおのこと気を付けないと。

(よし、と)

 椅子の上に両足で立つと、思っていたほど不安定ではない。もちろん、動けばちょっとは揺れて椅子の脚が机の表面を叩き、かたかたと音が鳴るけれども、危ないというほどではない。須美子は安心して、蛍光管の輪ゴムに狙いを付けて、物差しをゆっくりと持って行く。

 ほどなくして、輪ゴムに物差しの端っこが触れる。ゴムは蛍光管にやや張り付いた感じになっていて、触れた程度では落とせなかった。

「――早川君。万が一失敗したら、言い出しっぺとして責任を取ってくれる?」

「え、失敗って?」

 ノートから面を起こした早川。困惑げに口をすぼめている。

「だからたとえば物差しの角が当たって、蛍光管が割れた、とか」

「はは。その体勢なら割ろうと思って強く当てたとしたって、まず割れないよ。力がそんなに入んないでしょ」

「それはそうなんだけど。あ、取れた」

 物差しの先端で、ゴムがくるくるっと丸まったかと思うと、そのまま蛍光管から離れて床に落ちた。呆気ない。

 須美子はその姿勢のまま、輪ゴムがどこに落ちたのかを見定めようと下を向いた。その刹那――。

「――えっ、あっ、きゃあっ!」

 じわりと軽めの揺れが横方向に来たかと思った次の瞬間、縦揺れが襲ってきた。

 地震発生。


「危ないっ」

 揺れの間、須美子はほぼ下を向いていた。だから、早川がどこをどう通って、この超短時間に真下まで駆け付けたのかは全く見ていない。

「しゃがんで!」

 机とその上の椅子を手で押さえながら、早川が叫ぶ。

 大きな声だから当然、耳に届いたけれども、須美子は立ったままバランスを取ろうとしている。急な地震に心が少々パニックを起こして、身体に命令が伝わらない。あとから解釈すれば、そんなところかもしれない。

「あ、だめ」

 上履きと違って、靴下だと滑る感触が強い。そう意識してしまったときには、もう一秒も耐えられなくなっていた。

 早川が椅子や机から手を離し、腕を広げた。須美子は一瞬遅れて、自分が彼の腕の上に前向きに倒れかかっていくのを自覚した。

 どさっ。

 重たい荷物を配達業者が扱うときのような音がして、折り重なって床に倒れる二人。

 そのあとも数秒間、揺れが続くも、徐々に弱くなっていき、ぴたりとやんだ。最後に椅子の脚が床をこするきしみ音が、きぃ、とした。

(あいたた……)

 左膝の辺りに軽い痛みを覚えた須美子は目をつむって顔をしかめつつ、声に出そうとしたが、何だかうまくいかない。口が動かせないというか、息苦しいというか。

(!)

 目を開けて、泡を食った。

 早川の顔がすぐ目の前にある。そこへ加えて、自分の唇が相手の唇に重なっていた。

「いや!」

 頭をのけぞらせて距離を作り、ようやく声を出せた須美子。だけど身体の方は離れられない。

 受け止めてくれたのはいいが、早川の腕がしっかりと須美子の身体を抱きしめている。身体と両腕をまとめて束ねられたみたいな格好だ。

「ちょ、ちょっと。早川君!」

 須美子が顔の近くで大声を張り上げるも、早川から反応は返って来ない。

「離して、よっ。もう地震、揺れてないんだからっ」

 伸びを何度か繰り返したり、腰を振ったりしてみたが、ほとんど動かない。足を床に付けられたら、多少は踏ん張りが利いて違ってくるのかもしれないのだけれど、あいにくと須美子の足は左右とも、早川の足の上に乗っかる形になっていた。

「早川君っ、ねえ。もしかして、意識を失ってる?」

 その質問は、寝ている人に寝ているかと聞くのと同じで、あまり意味がない。本当に意識を失っているのなら返事があるはずがないし、意識を失ったふりをしているだけならば嘘をつかれたらそれまでだ。

 今、文字通り目の前で横になっている早川は、本当に意識をなくしているように見えた。ちょっと視線をずらすと、彼の頭は他の机の下部にある横棒を枕にしている。首の辺りを強く打ち付けたのかもしれない。

(まずいわ。この態勢だけでもまずいけど、早川君、打ち所が悪い、なんてこと……)

 同級生男子の上で、じたばたする須美子。細身でも腕力ありそうだわと想像はしていたけれども、こんなにもがっちりとホールドされてしまうなんて、予想の遙か向こうを行く。

 もがいたおかげで、ほんの少し、身体を足の方向へとずらせた気がする。ただ、そちらの方向に動けても、須美子はたいしてなで肩ではないので、抱きしめ具合がゆるくなった実感はない。

(叫んで助けを求めたら、誰か来てくれるんだろうけど)

 またじたばたしながら考える。

(こんな姿を見られたら、何て噂されるか分からないっ)

 必死の気持ちが、ようやく努力の実を結び始める。お尻を少し持ち上げた、行進する尺取り虫めいた姿勢ではあるが、須美子の顔が早川の胸の辺りまで来た。あと少しで抜けそう。

「早川君。まだ起きない? 大丈夫?」

 目処が立つと心に若干の余裕ができて、改めて相手の名を呼んだ。反応はしかし、相変わらずない。

(もう。私が抜け出すしか)

 うーうー言いながら、できるだけ腰を浮かせようとした。そのとき、須美子の細めのあごが、早川のみぞおちに入った。

「――っぐ」

 早川が短く呻いた。痛みのためか、活を入れられたのと等しい状況なのか、ともかく早川は一気に意識を取り戻した。

 ぱちっという音が聞こえそうなほどはっきりと、目が見開かれる。須美子はその気配に気付いて、中途半端な腰上げ体勢のまま、目を頭の方向へやった。

 目が合った。

「……柏原さん……何をして……」

 その台詞とともに、彼の腕からは力が抜けていく。

 須美子は自らが急速に赤面するのを感じ取り、一言、「いやぁ!」と叫ぶと、早川の腕を振りほどくや、彼の身体の上から飛び退いた。そのまま両足を床に伸ばした姿勢で、机の一つを背もたれ代わりにして、ぐったりと座る。早川から離れることに集中するあまり、スカートを手で押さえるのをすっかり忘れていたが、そのことすら全然気にならない。とにかく恥ずかしさで、顔が熱い。

「あの、柏原さん――う、いて」

 一方、上半身を起こした早川だったが、首の後ろを押さえてしばし俯いた。

「そっか、地震だ」

 状況を思い出した早川は、須美子をまじまじと見てきた。無論それは彼女の身体を心配しての行為なのだけれども、今の須美子にはすぐには飲み込めない。

「な、なに。じろじろ見ないで」

「あ、いや、どこも怪我はしていない?」

「そ、それは、ぶつけた膝がちょっとだけ痛いけど、それだけ」

「よかった」

 ほっとしたつぶやきのあと、早川はまた横になった。目を瞑って首の後ろ、延髄の付近をゆっくりとさすり、もみながら、全身を反り返らせるような伸びをする。

「だ、大丈夫なの、あなたは」

 少し距離を戻し、斜め横から覗き込むようにして様子を窺う須美子。

「痛い」

 返答とともに早川が目を開けた。おかげで、また目と目が合う。須美子はつい先ほどのことを思い起こしてしまった。さらに遡り、自分と彼の唇同士が重なっていたことまで。

「!」

 両手で口元を覆う。

「ど、どうしたの? くしゃみが出そう? それとも僕の格好、吹き出しそうなほど変なのか?」

「――ち、違う違う」

 早川の早とちりに、ほんとに笑いそうになった。そのせいなのか、意図せぬキスをしたという衝撃と恥ずかしさは、幾分和らいだような気がする。あとは大声を出すことでごまかし、吹っ切ろう。

「私の方は何でもないのっ。それよりも早川君の方よ。痛いのなら、保健室に」

「そこまでするほどじゃないと思うんだけど」

 やっと上体を起こした早川。手を入れ替えて、またひとしきり首を揉んでから、ゆるゆると起き上がった。須美子は自分がまだしゃがんだままだったことに思い当たり、スカートの乱れを直しつつ、すっくと立つ。

「見せて」

 須美子は言うが早いか、今度こそ完全に距離を詰めると、早川の後ろ側に立った、

「え?」

「こぶはできてないみたいだけど。あざは髪の毛でよく分からないわ」

「だ、だから大丈夫だと思うよ」

 早川は後ろから話し掛けられるのがくすぐったいとでも言いたげに、身を翻して須美子の方へ向き直る。それから言葉の接ぎ穂を失ったみたいに目線をさまよわせる。

 と、急に床の一点を指差して言った。

「柏原さん、裸足……じゃないや、素足……でもないか。要するに上靴、履いてないよ」

「あ。ほんとだ」

 すっかり忘れていた。地震のために、あれこれ恥ずかしい目に遭う。

 須美子は上履きを片方ずつ順に、つま先をとんとんと床に当てて履いた。

 ちょうどそのとき校内放送が掛かり、今の地震が最大震度4で、学校のある辺りは震度3、津波の心配はない云々と伝える。校内でガラスや物が壊れて飛び散った可能性もあるので、注意をするように、また見付けたら知らせるようにという話もあった。

「震度3かぁ。もっと大きいように感じた。やっぱり実際に起きると慌ててしまうね」

 早川の意見にはうなずけるものがあったが、須美子は直接のコメントはせずにいた。この際だから言っておきたいことがある。

「まったくもう。地震でも驚いたけれども、もっと驚いたのはあなたの腕の力よ」

「そんなに強い? 痛かった?」

 今度は自らの二の腕をさすりながら早川が言った。

「痛いって言うか、ぎゅっと締め付けられる感じよ。結束バンドで縛られたみたいに、全然動けなかったわ。あなたは名前を呼んでも寝たまんまだし、どうしようか途方に暮れてたんだから」

「……」

「な、何よ。急に黙り込んじゃって」

「いや。柏原さんは結束バンドで縛られた経験があるのかなーと」

「――こら! 変な姿を想像しないでよ!」

 思い切り怒鳴った須美子に対し、早川は耳を押さえるポーズを取りながら、「え? え?」と理解できていない様子。

「そ、そんなに変かな。米国ドラマによくあるでしょ、犯罪の容疑者を逮捕するときに、結束バンドみたいな物で後ろ手にくるくるって拘束するシーン。あれを思い描いただけなんだけど」

「……」

 須美子が自分で思い描いたのは、特撮物でヒロインが縛られている構図だった。その落差に、また少々顔が熱くなった。

「そ、そういう姿なら……ううん、やっぱりだめ」

 須美子はきっぱり言って、机と椅子を直しに掛かる。早川はそれを手伝いながら、「何でだよー」と聞き返した。

「私は容疑者じゃありませんから。それよりあなた、手伝ってくれるからには、ノートは書けたのね?」

「あ……まだでした」

「早く書く!」

 どやされた早川は机の列を飛び越えるようにして、元いた席に戻った。

 須美子が机と椅子を直し終わり、早川のいる席に近付いたところで、教室の後方ドアががらりと音を立てた。

「――お、おまえ達、無事だったか」

 担任の村下先生がちょっぴり息を切らしながら聞く。先生の表情は、明らかに安堵していた。

「あ、はい」

「なかなか来ないから、心配になって来てみたんだぞ。まあ、何も起きなかったならいいが」

 村下先生は「早く持って来るんだぞ、ノート」と言い残し、戻って行った。

(何も起きなかったわけじゃないんですけど……このことは他のみんなには内緒にしなくちゃ)

 須美子は早川の手の動きを見ながら、タイミングを計って話し掛けた。

「ねえ。このことはみんなには秘密だからね」

「このこと?」

「だから、地震が起きてからあとのこと。わざわざ言うほどのことじゃないわよね」

「うん、まあ。スリルはあったけどさ。揺れの中、君をうまく受け止められるかどうか、緊張した」

 受け止められた瞬間を思い出そうとして、須美子はぼんやりと、記憶が蘇るのを感じた。確かに、キャッチされたこと自体は痛くもなんともなく、むしろ柔らかく包み込まれるような感じだった。

「あ、ありがとね」

「――どうしたの、改まって」

 またまた手が止まる早川。今日はいつになく筆が遅い。見上げてきた彼に注意を与えることはせず、須美子は応えた。

「改まってお礼を言いたい気分だったの。いいでしょ」

 いい思い出になりそうだ。ただし。

(唇が重なっていなかったらもっとよかったのに。ああ、早川君の方は意識をなくしてたんだから、気付いていないのよね。だったらまだましよ。私も気を失っていたかった。偶然のハプニングと言ったって、ファーストキスを奪われたのと同じじゃない、これって?)

 そう考えると、海の底の深淵に落ちたみたいに、すとんと悲しく暗くなる。

(せめて好きな男子とだったなら、こんなハプニングでも受け入れられるのに。いないけど、好きな男子なんて)

 考えを推し進めつつ、早川のつむじを何となく見つめる。

(……早川君なら、ちょっといいかもって思えるような気がする。気のせい?)

 冷静になろうと、密かに深呼吸した。直美ちゃんごめんねと、先に心の中で断りを入れておいてから、空想にふける。

(優しいし、行動や決断は早いみたいだし、勉強運動ともにできて力もある。うまく受け止めてくれただけだったなら、そのまま好きになれたのかな。本当に、つくづく運が悪かったわ、キス)

 キス。繰り返しこの二文字を心に浮かべていると、またもや恥ずかしさがこみ上げてきそうになる。

 須美子は、いっそ早川にもこのハプニングが起きていたことを教えたら、どうなるかしらと考えた。

(口を拭ったり洗いに行ったりする? 早川君の性格でそれはないわよね。少なくとも私が見ている前では。まさかと思うけど、喜んだりして――? そういう反応はちょっと嫌かも。女の子なら誰とでもいいみたいに見えるからかな。他に、もっとありそうな反応は何かないかしら……。私みたいにパニックになって、恥ずかしがったら? ちょっとかわいくていいかもしれない)

 そこまで想像を膨らませた須美子は、知らず、にんまりしていた。

 ちょうど同じタイミングで、日番のノートを書き終えた早川が、「やっと終わった。さあ、帰ろっか」と言いながら見上げてきた。

「――そんな笑いそうになるほど、僕の書いた文章、おかしかった? だったら言ってくれたらよかったのに」

「え? あ、ち違うのこれは。楽しいことを思い浮かべていただけなのよ」

「本当に?」

 まだ不安そうにする早川。須美子の言葉を疑っているというんじゃなく、自らの文章能力に自信を持てないでいるようだ。

「大丈夫。さっき書いた文、私はのぞき見なんてしてないけど、早川君なら問題ないでしょ」

「そうでもないの」

 自らを下げる発言が続く早川。須美子は彼が転校初日の挨拶で、苦手な科目は国語だと言っていたのをふと思い出した。

「国語、苦手って言ってたけど、テストの点数はいいわよね?」

「見てるんだね」

「そ、それは嫌でも目に入るっていうか」

「ははは、別にいいんだ。暗記でも行ける国語のテストなら、まあまあいい点取る自信はあるよ。けれども、実力テストの国語は、さっぱりだ」

「どうして」

「僕はどうも、国語の文章問題に対しては考え過ぎちゃうとこがあってさ。この言葉はそのまま受け取っていいのか、行間を読むのか、それとも皮肉から敢えて反対の意味の言葉を使っているのか、なんてね。余計な気を回すから、時間がなくなちゃうんだ。自分でも分かってるんだけど、やめられないっていう」

「ふうん」

 そういう性格だったら、偶然キスししてしまったのよって教えたら、どう受け止めるのか想像も付かない。これはやっぱりよしておこうと心に封をする須美子だった。

(ただ、言葉を考えすぎるのって、ひょっとしたら早川君の優しさと関係があるのかもしれないね。考えに考えて、他人の言葉を解釈して、行動を取るんなら)

 須美子は何度も微笑みそうになっていたが、ここは堪えた。早川に見られたら、何と言われるやら、しれたものじゃない。

「何か変だな~」

 堪えたつもりだったけど、ちょっぴり漏れていたみたい。詮索されても長引いて面倒なので、須美子は一人、先に教室の戸口に向かった。

「気にしなくていいの! さっ、早く行きましょ」


 六月も中旬に入り、晴天が徐々に増えてくる。

 学校ではその日、大掃除が行われることになっていた。

 須美子らの六年一組は、雨降りで遅れていたプール掃除がイレギュラー的に割り当てられ、クラス全員が参加するようにと決まったのが昨日のこと。

「えっ」

 昼休み、給食中の女子の会話で、プール掃除はスクール水着着用だという話が出て、小耳に挟んだ早川の顔色が変わる。

「――それって、まじ?」

「そうよ」

 当たり前のことなので、特に何も思わずに肯定する須美子。対照的に、早川は「教えてくれよー」と情けない声を上げた。

「前の学校では体操着か、普通の服でやってたんだよ」

「それはそれは……お気の毒様です」

 何とコメントしていいのやら、迷って、結局そんな言葉しか出てこなかった。

「怒られるのかな?」

「大丈夫でしょ。忘れる子は今までもいたはずよ」

「いや、噂だが」

 割って入ってきたのは、新倉だった。早々に食べ終え、お盆を手に食器などを返しに行く途中である。

「海パンを忘れた者は、罰としてすっぽんぽんで掃除に参加するんだとか」

「――」

 声をなくしたのは早川ではなく、今の話を聞かされた須美子達女子の方。

「そんなわけあるかあっ」

「転校生をからかおうと思って!」

「早川君に何か恨みでもあるの?」

「下品ね~」

 と一斉に攻撃ならぬ口撃をされて、新倉は「ジョークの分かる奴はいねーのかよ」と捨て台詞を残してさっさと逃げ去った。

「びっくりしたでしょ。あいつ、早川君を妬んでるとこあるみたいだから気を付けて」

 と、これは須美子の隣の席の郡司星里奈ぐんじせりな。親が天文好きでこの名前を付けられたらしいが、当人はもっぱら遺跡に興味があるというから、視線の向きが正反対だ。

「ごめんねー、早川君。うちの男子にはああいうのがちらほらいて」

 副委員長の榊があたかも代表するかのように謝り、嘆息した。クラスで美人投票をやったらトップ間違いなしだが、性格はいわゆる男勝りってやつ。そんな彼女が箸を仕舞いながら続けて言った。

「私が男子だったら、自分はいいからってことにして、貸してあげたのに」

「やだ、榊さん。水泳パンツの貸し借りだなんて」

 副委員長の珍しい冗談に、須美子がつっこむ。早川はどう反応していいのか困った風に、表情に苦笑いを広げた。それからやおら席を立って、

「とりあえず、先生に聞いて来るよ」

 と、村下先生の机まで急ぎ足で向かった。


 そして大掃除の時間。着替えてプールの近くまでやって来た須美子や寺沢達は、金属製のネット越しに、早川が林藤光太郎りんどうこうたろうと話しているのを耳にした。

「服が濡れるだろうからって、結局こうなった」

「結局、俺達とあんまり変わらんのね」

(あんまり変わらないということは、まさかパンツ一丁になったとか)

 そんな想像をしたのは須美子だけじゃなかったらしく、寺沢も頬を赤くしながら一緒になって金網の向こうを覗こうと背伸びする。

「なーんだ」

 目で確認して、思わず言った。

 上は脱ぎ、下はどこから調達したのかボクサーがはくようなトランクスを身につけている。色は黒で、なかなか精悍な感じだ。

「それ、誰の?」

 彼らの背中へネット越しに須美子が聞くと、早川と林藤は一瞬、どこから聞かれたんだ?という風に視線をさまよわせ、じきに気が付いた。

「このトランクスのこと? 僕は知らなかったんだけど、北島きたじまっていう先生」

 小柄だが運動神経抜群の先生だ。趣味でマラソンをやっている。

「トレーニングに使うんだってさ。結構サイズ違いだけど、紐を絞れば何とか」

「あはは。似合ってるわよ」

「うんうん、格好いい」

 寺沢もこの機会を逃さず、早川をほめる。

「けれども」

 会話に入って来たのは、すでにプールサイドに立っていた榊だった。下から見ると、スタイルのよさと胸の大きさが一層強調されるような。

「まさか、先生が使っているのを直に穿いたの?」

「ち、違うよ。元々トレパンの上から重ね着するって言ってたし、僕だって下は半ズボン」

「本当に? 見せて」

 そう言って、実際にトランクスに手を掛けようという仕種をする榊。当然、早川は逃げようとしたが、林藤が掴まえた。

「どうぞ、副委員長」

 のりがいい林藤に、榊も合わせて手を近づけていく。

「先に謝っておこうかな。一緒にズボンやその下まで脱がせちゃったらごめんなさいね」

(えっ、榊さん、本気?)

 どぎまぎした須美子の隣では、寺沢がきゃーきゃー言いながらしっかり見ている。

 ところが――というよりも、当然、であるが――榊はトランクスを脱がすことはせず、その代わりのように早川の胸板に触れた。

「前から気になってたのよね。服越しでも何となく分かったけれど、直に見るともっとだわ。何かやって鍛えてるの、これ?」

 さすがに触ったのはごく短い時間だったが、榊の目はしげしげと早川の上半身を見つめている。

「言われてみれば凄いよね、須美ちゃん」

 今気が付いたという体で、寺沢が須美子に向き直った。

 直接見たことはなくても、早川の腕力の強さは肌身を持って実感してる須美子は、当たり前だと思っていたため、反応が一拍遅れた。

「そうだね。ここからだとほぼ逆光で完全には見えないけど」

 その発言に、「じゃ、早く向こうに行って、私も見なきゃ」と、普段見られない素早さで寺沢は走って行った。

「まったく……」

 苦笑を堪えつつ、もう一度、早川の方を見上げる。

 漠然と想像していたよりは筋肉はついていない。バーベルなんかで鍛えたのではなく何かのスポーツ、恐らく格闘技や武道をやって自然とできあがった身体のように思えた。

「トレーニングはしてる。けど、説明が長くなるから」

「あら。私はこう見えても、格技には詳しい方だという自信があるのよ。引く力が強そうだし、柔道か柔術? でも耳の形はきれいなのよね」

 榊が何故だか粘る。

 早川は軽くため息をついたかと思うと、後ろから両腕を回して押さえつけていた林藤に対し、「下手に抵抗しないでくれよ」と囁いた。

「へ? 何?」

 林藤が聞き返すその台詞が終わるよりも早く、早川の身体が消える。

 実際には真下にすっと沈めただけなのだが、あまりの早さに、少なくとも林藤にとっては消えたように見えたろう。早川はそのまま林藤の足下に潜り込んで、背後を取ると相手の左膝裏をつま先でちょこんと蹴る。つっかえ棒を外れたみたいにかくんとなって、バランスを崩す林藤を、早川は後ろから右腕と海パンを掴んで支えてやった。

「こういうことをやってる」

「んー、護身術?」

「まあそんなところ。小さな流派だし、説明が長くなると思って」

 やや気恥ずかしげに説明する早川の下から、「終わったら離してくれ~。俺の方が脱げるわっ」と林藤の声が届いた。


 プール掃除は佳境を迎えていた。

 そしてまた、プール掃除では絶対にやってはいけないことがいくつかある。今現在、その一つが破られてしまっていた。

「ひゃっ?」

 最初の“犠牲”になったのは須美子。突然の冷たさをお尻に感じて振り返ると、五メートルほど離れた先に新倉が立っているのが見える。その右手には水道ホースの先端が握られていた。様々な水流が出せる専用ノズル付きで、手元のスイッチ一つで水を止めることだってできる。

 そう、絶対にやってはいけないこと、許してはいけないことの一つとは、悪ガキどもにホース及び水道の蛇口を確保されること、である。

 新倉は歯を覗かせてきししと笑いつつ、「わりぃ、手が滑った」と謝っているが、どこからどう見てもミスではなく、わざとだ。狙って水を飛ばして、須美子にちょっかいを掛けてきたのは明白であるが、下手に近付こうものならより多くの水を掛けられてしまう。それが分かっているので、須美子も一歩踏み出しただけで足を止めた。

(こういうのは無視よ無視。どうせ最後には先生に怒られる)

 寺沢と一緒に場所を移動する。が、新倉の方は相手にされなかったことが不満で、もうちょっとしつこくやってやろうという気持ちになったようだ。

「逃げんなよー。虫がとまりそうだったから、追い払ってやったのに」

 近付いてきながら、そんなことを言う。

「嘘ばっかり」

 距離を取って、プールの隅っこの汚れを落とそうと、中腰になる須美子と寺沢。ブラシでは取れなかった、壁面の小さなくぼみにある藻のような物をスポンジでこする。

「新倉君て、やっぱ、須美ちゃんのこと気にしてるよね」

「はあ。いい加減やめてほしい」

 二人でひそひそ声で話していたとき、水攻撃の第二弾が来た。

「!」

 先ほどとは勢いが全然違う。指で押されたみたいに、軽く痛い。さらに加えて、水着を持ち上げられる感覚すらある。

(えっ、ちょっと、食い込んできてる?)

 妙な感覚に襲われた須美子は、身体の後ろ、腰から下の辺りに両手をやる。と同時に、素早く身体の向きを百八十度換える。だけどこれで落ち着けることなく、上体を起こしてプールの壁を背にしたところで、今度は胸元に水が当たった。

「あ、わ、わりぃ」

 今度は本当にすまなそうな調子で新倉が言った。彼にとっても身体の前の方にまで水を当てるのは予定外のことだったためか、しばし呆然。おかげで水を止めたり、向きを下げたりといった行動ができていない。

「もう、ばかっ」

 身を丸くしてしゃがみ込んだ須美子だったが、次の瞬間には水流を感じなくなった。

「新倉、ぼーっとすんな。止めろって」

 いつの間にか早川が来て、前に立っていた。両腕を広げた仁王立ちで、須美子や寺沢が濡れるのを防ごうとしている。

「何やってだよ。いい加減にしろ」

 新倉のそばには渡会が立ち、ホースを取り上げることでようやく騒ぎが収束に向かう。

「今のはやり過ぎだぞ」

 委員長としての責任からだろう、渡会がきつく叱ろうとする。が、新倉は片手で鼻から口元にかけてを覆うと、くるっと向きを換え、水しぶきを上げて走り去ってしまった。

「おい!」

 渡会ら数名が呼び止めようとしても止まらない。プールから上がると、目を洗うための蛇口がある一角へ駆け込んだ。

「何だぁ、あいつ。もうちょっとさっぱりしてる奴だと思ってたのに」

 言いながら渡会はまず、須美子達の方を見た。

「柏原さん、大丈夫か? 寺沢さんも」

「私は大丈夫だけど、須美ちゃんが濡れねずみだよ」

 寺沢は委員長に答えながらも、その目は須美子と彼女を気遣う早川の一挙手一投足を追い掛けている風だった。

 早川はプールサイドに視線をやって、副委員長を見付けると、

「榊さん。使えるタオルがあれば取ってくれる? できれば大きいやつを二枚はほしい。――あ、寺沢さんの分も入れたら三枚かな」

「オッケー」

 榊は手早く調達すると、三枚のバスタオルをまとめて渡した。そして彼女自身もプールに降りる。

「何かお手伝いできることは?」

「それじゃ、その……柏原さんが水着を直すのをフォローしてあげて。僕には無理だから」

 鼻の辺りをちょっと赤くして、榊に頼む早川。副委員長は須美子の方を一瞥し、小さくうなずいた。

「了解。では、男どもは散るように!」

 両腕を斜め上に伸ばし、あっちへ行ってという手つきをした榊。それからバスタオルを須美子と寺沢に一枚ずつ渡して、残る一枚を須美子の腰から下を隠す形で広げる。

「これで大丈夫でしょ。直せる?」

「うん……」

 須美子の返事に、片膝をついていた榊は顔を起こした。下から須美子の表情を覗き込む。

「泣いてるの?」

 その問い掛けに、すぐ近くにいた寺沢がびっくりして声を上げた。

「え、須美ちゃん、ほんとに? ごめん、水で分からなかった」

 急におろおろし始め、手にしたばかりのバスタオルで須美の髪や方を拭こうとする。

「ありがと。いいよ。大丈夫」

 面を起こした須美子は微笑んでみせた。弱々しい笑顔になってしまったと、自分でも分かった。

「下、終わったね。次、ほら、肩のとこもずれてる」

 すっくと立ち上がった榊が、そう指摘しながら、下がりそうになっていた右肩紐の位置を直してくれた。

「ほんと、ひどい、新倉君。これじゃあ嫌がらせよりも恥ずかしがらせるのが目的みたい」

 おろおろの去った寺沢が、今度は憤慨を露わにする。副委員長が同調した。

「そうね。今度のはさすがに見過ごせない。柏原さん、これまでもちょっかい出され続けて来たのに、先生に言わずに我慢していたのは何か理由ある?」

「え……別にない。大したことなかったし、私も悪口で言い返したり、手が届けば叩き返したりしてたから」

「新倉君を好ましく思ってるから大目に見てた、なんてことはないわけね」

「も、もちろん!」

 仮の質問でも、考えてもいないことを言葉にされると心外だ。思い切り否定した。

「よし、それじゃあ、この際だからとっちめちゃいましょう」

 目を細めた榊。唇の両端が上を向いて、愉快そうだ。

「とっちめるって……」

「そうねえ、これまでされてきたことと同じ目に遭わせるのが基本かしら。いえ、倍返しぐらいしないと気が済まないわね。例えば今のだったら、彼のお尻にホースで水を当て続ける。脱げるまで」

「榊さん?」

 今日の副委員長はやたらと脱がせたがっているように思えてきた。

「あと、確か低学年の頃だけど、スカートめくりがあったか。あれと同じような目に遭わせるには……」

 考えるための間を取った榊に対し、寺沢が挙手した。

「はいはい! 後ろから近付いてズボンをずらしちゃおう」

「それもいいわね。でも私は倍返しが基本だから、彼にスカートを穿かせたいな。今すぐ教室に行って、新倉君の服を隠して、代わりにスカートを置いておくの。着るしかない状況に追い込んでから、思い切りめくってやる」

「二人とも……」

 身振りや手つきを交えて、リベンジの計画を語る榊と寺沢に、須美子は思わずくすりと笑えた。

「他には何があったかしらね。習字か図画の時間か忘れたけれど、筆でくすぐられたことなかった?」

「あったわ。うなじとか耳とか足とか」

「では、それも倍返しに。新倉君を大の字に貼り付けにして、女子みんなで筆攻撃をしてあげようか」

「――あははは。それいいかも。あいつ、かなりくすぐったがりみたいだし」

「そういえば、林間学校の肝試しで、わざと抱きついてきてたよね!」

 きりがないほど過去の“悪行”が出るわ出るわで、それらに対する“復讐”を頭の中で考えるだけでも、だいぶ気分が回復してきた。

「榊さん、直美ちゃん。二人ともありがとう。もう平気だよ」


             *           *


 須美子から離れ、プールサイドへ上がった早川は、周囲をきょろきょろと何気ない態度で眺め渡し、近くにいた男子に聞いた。

「なあ、塩見しおみ。新倉のやつはどこ行ったか分かる?」

「さっき出て行ったぜ」

 塩見はデッキブラシ片手に、フェンスの外、校舎の建つ方角へあごを振った。

「そうなんだ。洗い場に駆け込んだように見えたけれども?」

「うん、最初はそうだったんだ。何か顔を一生懸命洗っていたみたいだった。けど、途中で『だめだこりゃ』とか言って、出て行っちまって。散々騒いでおいて、さぼりかねえ? また怒られるぞ、あいつ」

「ふうん……。ありがとう。よし、一緒に叱られる準備をしてくるか」

「へ?」

 礼を言ってきびすを返し、プールの出入り口の方へ向かおうとする早川。塩見はどんぐり眼をきょとんとさせ、「どこ行くつもりだよ」と背中に声を掛けた。

「僕も行ってみる。連れ戻せそうなら連れ戻す」

「えー? 校舎のどこにいるのか分かるのかよ?」

「だいたいの想像は付いてるつもり」

「なら、任せるけど、喧嘩にならないように気を付けろよな」

「平気だと思う」

 最後の方は割と大きめの声でやり取りしてから、早川はプールの施設を出た。

 裸足に靴を履いて、運動場の端っこを通って、校舎を目指す。グラウンドでは大勢の児童が大掃除にいそしんでいて、そこを一人だけ、上半身裸で移動するのはさすがに恥ずかしさを覚えた。

(新倉も同じ気分を味わったのかな。それとも)

 建物の中に入ってから、早川は念のために頭の中で校舎の間取りを思い描き、保健室の場所を再確認した。

(多分、保健室だろう。もし違っていたら、教室に戻ってちり紙を使っているところかな)

 小走りになってしまいそうなところを抑制し、可能な限りスピーディな早歩きで廊下を行く。そこかしこで掃除をしているので、どうしても目に付いてしまうだろうが、いちいち言い訳をしていたら進めなくなる。ここは話し掛けにくい雰囲気を出しつつ、とにかく急いだ。

(やっと着いた)

 軽く息を弾ませ、保健室のドアに手を掛ける早川。開ける前にノックした。続いて、中へ聞いてみる。

「すみません。六年一組の早川と言います。こちらに同じクラスの新倉君が来ていると思うのですが」

「うん? ああ、来ているけれど。お迎えかい? 入ってかまわないよ」

 保健室内からは張りがあって元気のいい女性の声が返って来た。それに紛れて、「げ、早川?」というつぶやきが漏れ聞こえたような。

「失礼します」

 一礼したあと、面を上げると、丸椅子に腰掛け、顔を上向きにしている新倉と目が合った。決まりが悪そうな顔の新倉に対し、早川は想像が当たっていたと確認できたこともあり、にこっと微笑んだ。

 新倉は鼻の穴に入れたちり紙を手で隠しながら、「ふん」とそっぽを向く。

「あなた達、肌寒くはないわね? 窓、開け放したままだけど」

 保健の先生が言った。早川は名札で保健の先生が遠藤えんどうという名字だとこのとき初めて知った。

「大丈夫です。それで、新倉君の具合はどうなんでしょうか」

「うん、一応ライト当てて覗いてみたけど、もう止まりかけだし、あと五分、いえ、三分も経てば出て行っていいわよ」

 遠藤先生はペンライトのような物を手に持って示しながら、ざっと説明してくれた。

「それにしてもどこに顔をぶつけたのかしら。その格好からプール掃除だって分かるけれども、プールの壁? それにしてはおでこにも鼻の頭にも傷一つないし。新倉君、さっきから言わないのよねえ」

「へえ。何隠してんのさ」

 立ったまま、新倉の肩を揉む早川。新倉はますます嫌そうな顔をした。

「鼻血の原因ぐらいちゃんと言わないと、手当てしづらいだろうに」

「――おま、見てたのか」

 ごく小さな声でぼそりと聞き返す新倉。早川は静かに首肯した。そこへ遠藤先生が尋ねてくる。

「どうやら君はいきさつを知っていそうだね。何があったのかな? もしも転倒して後頭部を激しく打ったとかだったら、洒落にならないから、念のために聞かせてもらおうかしら」

「もちろん話します」

「おい、やめろっ」

 普段の音量に戻った声で、止めようとする新倉。腰を浮かせ、その腕で早川を引っ張る。だけど早川はかまわずに続けた。

「新倉君、女子がブラシでこすっていることに気付かないで、不用意に近付いちゃって、ちょうど女子の肘が鼻っ柱にごつんてなったんです」

「ええ?」

 瞬時に怪訝さを表情一杯に広げた新倉。

 新倉が見開いた目で凝視してくるのが、早川には感じ取れたが敢えて無視。新倉は仕方なげに首を捻った。

 そんながき大将とは対照的に、遠藤先生の方は合点がいったとばかりに幾度かうなずき、何やら資料めいた用紙に一言二言書き加える。

「なるほどね。年頃の男の子にとっちゃ、女子に肘打ちを食らって鼻血が出たなんて、言いにくいものかしらね」

「そんなもんです。肘打ちって別の意味にもなるし。――なっ、新倉君」

「あ、ああ」

 依然として訝りながらも、新倉もまた首を縦に振った。


「お世話になりましたー」

 三分後、鼻血が止まったということで、新倉と早川は保健室をあとにした。

「さあ、急いで戻らないと、プール掃除さぼったと思われる」

 言葉の通り、足早に行こうとする早川だが、その肩を新倉が黙って掴まえた。

「みんなのところに行く前に、説明しろよ」

「説明も何も……今見た通りでいいんじゃないか」

「……一つだけ、はっきり聞いておきたいことがあるんだよっ」

「分かった、聞くよ。だから手は離してくれるかい」

 求めに応じ、素直に手を下ろす新倉。

「鼻血が出たの、知ってた風だったけど、何で分かった?」

「それはまあ、君の正面に立ったとき、ちらっとだけど赤い物が見えた気がしたから」

「くそ。間に合ってなかったか」

「いやはっきりは見えなかったから確信は持てなかったけど、あのあと新倉君、洗い場に飛んでいったからさ。みんなに見られないように、水で流そうとしたんだなと」

「俺、自分で自分の首を絞めたってか」

「まあ、そうかも」

「……早川。おまえのことだから、何で鼻血が出たのかも分かってるんだよな」

「想像なら」

「……」

 気恥ずかしさに耐えられなくなったのか、急激に赤面した新倉は再び「くそっ」と吐き捨てて、先に歩き出した。

「女子には知られてないみたいだから、そこは安心していいだろ」

「そうなのか?」

 歩みを止め、振り向く新倉。早川は「ああ」と請け負った。

「男子でも知ってるのは多分、僕だけ。委員長も気付かなかったみたいだ」

「そうか……いや、はっきりって、おまえに知られるのが一番恥ずいってーの!」

「何でだよ。僕だって同じことになるかもしれない。柏原さんの、というか女子のお尻や胸に目が行って興奮するくらい、きっと誰にでもある」

「……おまえ、むっつりすけべとかいうやつか?」

「違う」

 即座に否定し、苦笑いを浮かべる。

「男ならごく当たり前の反応だと思う。鼻から血を出すかどうかは人それぞれだろうけどね」

「結局そこかよっ。さっきごまかしてくれたときはいい奴だと思ったけど、やっぱり、親友にはなれそうにはねーな」

 新倉はそう言って、まだむずむずが残っているのか、鼻の下を指でこすった。そしてまた歩き始める。

「知り合ってまだそんなに経ってないんだし、ゆっくりでいいからお互いのことをしれたらいいよ」

「~っ。何か力脱けるだよな、早川の言い分を聞いてると」

「僕なんかのことよりも、このあとどうするつもりでいるのか、そっちの方が他人事ながら気になってるんだけど」

「え?」

 会話しながらではあるが、急いで戻らねばという意識は二人とも強くあって、かなりの早足になっている。

「柏原さんに何て言い訳するのかなと」

「……」

 若干、スピードの落ちる新倉。早川は彼に合わせた。

「正直に言って、素直に謝っとけって」

「分ーってるわ、それがいいことくらい、俺にだって」

「それができたら苦労がしないってやつ?」

「そうそう。あー、考えるだけで頭痛くなりそう。やっぱ、サボろっかな。――って、おい?」

 一段と速度を落とそうとした新倉を、早川は背中に手をあてがって押してやった。

「あ、お押すなよ」

「新倉君は考えたことない? 君が先送りにするせいで、柏原さんも嫌な気分がずっと続くかもしれないって」

 早川がさらっと言ったその台詞に、新倉は押し黙った。やがて歩く速さを戻しながら、

「分かったよ。しゃあねえな」

 と応じた。


 ちなみにこのあと新倉は、最大限に絞ったノズルの水流を三十秒間受けることで、ノーサイドにしてもらえましたとさ。


 え? 身体のどこで受け止めたかって?

 それは言わぬが花というもの。


 ん? お尻、ですか。

 うーん、そこだったら倍返しとは言えないのでは。

 さあ、あとは読者の皆様のご想像にお任せするとしましょう。


             *           *


(またやってる)

 学校が終わり、帰る前に吉井を誘おうと隣のクラスに行ってみたところ、彼女が岡村と何やら口論になっている場面が展開されていた。いや、よくよく見れば、岡村はへらへら笑って受け流しているだけで、しゃべりが攻撃的になっているのは吉井一人のようだ。他に教室にいたのは、男女とも数名ずつで、吉井達のトラブルとは関係ないねとばかり、ばらけて座っている。

「どうする、須美ちゃん?」

 一緒に帰る寺沢が横から肘をちょんちょんと触ってきた。

「いつもみたいに終わるまで待ってる?」

「いつもみたいにと言うのなら、待たずに帰ることの方が多かったと思うけど」

 苦笑いを浮かべた須美子に、寺沢も同じような表情をなした。

「今日は待ちますか」

「そだね」

 敢えて声は掛けずに、廊下側の開いた窓のレールに手をついて、成り行きを見守る。これまでにあった実例では、八割ぐらいで吉井、もしくは岡村が須美子達の視線に気付き、吉井が口げんかを切り上げて三人揃って下校するパターンになる。残り二割は気付かないケースになるが、待てなくなって帰る場合と、須美子らが仲裁に入る場合に分けられる。仲裁に入るのは、もう吉井達の口論が毎度のこと過ぎて、いい加減飽き飽きしているほどだが。

(二人とも懲りないなあ。どうせ帰る方角は同じなんだから、嫌だろうと何だろうと、このあと一緒に帰らざるを得ないのに。もちろん距離は開けるけれども。今ここで口げんかしたって、しょうがないでしょうに)

 口論の原因は、ほぼ間違いなく岡村の方にある。そしてその理由も、だいたいは毎度同じことに決まっている。

 岡村が女子を相手に調子のいいことを言う、格好を付ける、やや下品なことで笑わせる等をして、その結果、元々整った顔立ちの岡村は何だかんだで女子にもてる。そのことを岡村は何故か吉井に自慢する。吉井は面白くないからご近所同士の幼馴染みという強み?を活かして、岡村の昔の恥ずかしいことを暴露する――これの繰り返しだ。

(昔のことをばらしちゃう双葉も双葉だけど、岡村君も自慢しなければいいのに。分かっていて、何でするかなあ)

 あと何分待とうかなと、須美子が教室内にある掛け時計を見ようと首を伸ばしたとき、

「あ、柏原さん。それに寺沢さんも」

 と、岡村が気付いた。吉井が振り向き、ばつの悪そうな顔をした。

 気付いてもらえたのなら、誘って帰ろう。寺沢と二人で手を振って、声を揃える。

「双葉~、そろそろ帰ろう。お邪魔なら先に行くけどね」

「とんでもない。邪魔ではないわ」

 言うが早いか、自らの机に駆け戻り、ランドセルを片方の肩に引っ掛けて出て行こうとする吉井。一方、岡村はしばしほっとした安堵の顔つきをしていたが、ふと思い出したように、やはりランドセルを持って、須美子達の前に来た。

「柏原さん、寺沢さん。元気してた?」

「うん。岡村君も相変わらずみたいで」

「俺は変えるつもりないから。あいつにこそ変化が必要だと」

 岡村があごを振った先には、吉井が仏頂面で立っていた。

「ちょっと。私の友達にまでちょっかいを出さないでね」

「ちょっかいだなんて、とんでもない。双葉ちゃんがお世話になってるから、お礼を述べていたまでさ」

「何ばかなことを言ってるのよ。――さあ、帰りましょ。待たせて悪かったわ」

 先頭を切る吉井。続こうとした須美子と寺沢だったが、岡村が呼び止めた。

「柏原さん達に聞いてみたいことがあったんだけど」

「え、何?」

 足を止めた須美子。続いて寺沢が立ち止まり、吉井は身体の向きを換えてじりじりと後退しながら、「そんなの放っておけばいいって」と友達二人を急かす。

「格好いい奴がクラスに転校してきたって聞いたんだけど」

「あ、早川君のことね」

「そう、そいつ。どんな奴なのさ」

「岡村君が言った通りだよっ」

 会話が早川のことだと分かったからか、寺沢が大股で戻ってきて答える。

「合同体育なんかで見たでしょ。運動ができて、勉強もできて、見た目も中身もクールな感じ」

 はしゃぎ気味の寺沢に、岡村は「そんなすげーの?」とのりのいい応対をする。

「ついに俺にもライバル登場か~。同じクラスじゃなくてよかった、女子の取り合いにならなくて」

「自分と同じクラスの女子が全部自分のものみたいな言い方、やめてくれる?」

 仕方なしに引き返して来た吉井が、呆れ口調で注意した。

「あ、いやそういう意味じゃなくてだな。一緒のクラスだったら、俺も常に気を張ってないといけなくなるからしんどいなと」

「まったく……」

「それで、柏原さんの方の感想は?」

「はい?」

 何の感想を求められているのか、とっさには飲み込めず、須美子は少し首を前に出す仕種をした。対して、岡村は片手を自分の額に当てて、情けない口調で応じているのだが、どこか芝居がかっている。

「あちゃあ、話を聞いてもらえてなかったかあ。早川のことだよ。寺沢さんと同じく、格好いいと思ってるわけ?」

「ん、まあ……優しいよね」

 寺沢を見やってから答える須美子。

「プール掃除のときのこと、耳に入ってる?」

「んにゃ。何だか騒がしかったらしいってことぐらい」

 今度はふざけた口調になって、首を左右に振った岡村。

 知らないのであれば一から説明しようかと考えた須美子だったが、思い起こしてみるに、恥ずかしい箇所があるため、だいぶ端折ることにする。寺沢が時折言葉を挟んだせいもあって、説明は三分ほどかかった。

「――と、こんな感じ。あ、あと、逃げた新倉――新倉君を連れ戻してきてくれたわ」

「なるほどなるほど。新倉の奴が相も変わらずしょーもないいたずらをやってることはさておき、柏原さんと寺沢さんがずぶ濡れになるところを、早川が身体を張って止めたと。それなら女子人気出ても納得だな」

「別に私は、優しいと言っただけだよ」

「そうなんだ? じゃあ、柏原さんはずっとボクの味方でいてくれるんだね」

 自由自在に拡大解釈して、岡村は須美子を翻弄するのを楽しんでいるみたいだ。当然、吉井がいい顔をしない。

「こーら。いい加減にしないと、今日という今日こそは本当に怒るよ」

「そんなー、さっきので充分じゃん。もう許してくれよー」

 手のひら同士を合わせて拝みにかかる岡村。吉井は鼻息を荒くしたものの、今日のところは許そうという風向きになりつつあった。何よりも皆と一緒に早く下校したい。

 だがここで岡村が余計な一言を足した。

「お願いだ、双葉ちゃん」

「――誰が、双葉ちゃんよ」

「え。誰って、そりゃおまえ、じゃなくて吉井さんは双葉だろ、吉井双葉」

「そこじゃない! 何で『ちゃん』付けするの!? 前に言わなかったっけ、やめてって」

 結構な剣幕で迫る吉井に、岡村は今度は両手を組んで握り合わせた。もはや祈りのポーズだ。

「ごめん、忘れてた。昔の口癖だから、なかなか直らなくてさ。許して、吉井双葉様」

「~っ、気色悪い。行こっ、須美子、直美」

 風を起こす勢いで岡村に背を向けると、吉井はつかつか歩き出した。寺沢が待ってよと追い掛ける。

 岡村の相手をしていて完全に出遅れた須美子は、「じゃ、もう行かなきゃ」とだけ言って、小走りで寺沢に続こうとした。

 ところが廊下の端、階段を降りきったところに当たるスペースで、早川と出くわした。ちょっとぶつかりそうになるも、互いによけて無事すれ違う――と思いきや、早川が「あ、探してたんだ、柏原さん」と声を掛けてきた。

「えっ。急いでるんだけど」

「そうなの? うーん、長くなるかもしれないんだよな」

 口元に手の甲をやって、視線をさまよわせて迷う仕種の早川。

「何よ。何の話? どうしてもって言うのなら帰り道、着いて来たら」

「え……と、それもまずいかな。できればその、柏原さんとだけ話したいから」

 その台詞を聞いて、目を丸くする須美子。

(つまり二人きりってこと? ななんで。何を言うつもりよ、こいつは)

 途端に顔が熱くなるのを感じて、口はふにゃふにゃと力が抜ける。しゃべろうとしてもすぐには言葉が出て来なくなった。

「おーい、何してんの」

 そのとき、岡村の声が届いた。字面だけとらえればのんきそのものだが、語気は鋭い。文字のあちこちに短めのとげが付いている感じだ。

「よっ、転校生。噂をすればなんとやらってか」

 ランドセルをかたかた言わせながら駆け寄ってきた岡村は、向き合って立つ須美子と早川のすぐ横に付いた。それぞれ、これから対戦する二人とそれを裁く審判、みたいな立ち位置である。

「岡村君、そろそろ名前で呼んでくれって」

 早川が穏やかに言った。

 一瞬、え、知ってるの?となった須美子だったが、ちょっと考えてみるとさほど変でもない。体育を通じて、すでにある程度は顔見知りになったのだろう。

「うーん、別にかまわんけど。名前で呼んだら、女か男か分からなくなるぜ。和泉クン」

「下の名前という意味じゃないよ。名字で頼む」

 面倒なやり取りにも早川は笑顔のまま応対した。岡村の方は、わずかに顔をしかめたが、それはほんの短い間のこと。肩をすくめ、口を開く。

「分かった。次までには考えとく。で? 柏原さんと何を話そうとしてるんだ? 凄く興味があるんだけど、聞いていていいか」

「だめ」

 話の流れを強引に戻した岡村に、即座のだめ出しをする早川。少しの間、静かになった。

(え、なにこれ。空気が緊迫してきたような。それも岡村君がほぼ一方的に。さっき言っていたライバルとかどうとかって、本気の台詞だったのね?)

 二人の顔色をちらちらと窺う須美子。いつの間にか、須美子の方がレフェリーの立場になったようだ。

「ふうん。柏原さんと内緒話がしたいわけだ」

「したいというよりも、そうせざるを得ないってやつ」

「ふむ。どうしてもっていうのならこの俺を倒していけって――」

 台詞が皆まで終わらぬ内に、岡村はすっと手を伸ばし、相手を掴まえるような仕種を見せた。が、早川は岡村の腕を左手の甲で弾くように払いのけると、一瞬で手首を極めた。

「いっ、てててててててー!」

 サイレンみたいに叫ぶ岡村に、「これで倒したことになるのかな」と早川が問う。

 岡村はギブギブギブと今度は早口言葉のごとく口走り、手首を離してもらえた。そしてお約束の?一言。

「……今日はこのくらいにしといたるわ」

「言っていて恥ずかしくならない、岡村君?」

「冗談を真に受けるなっつーの。だいたい、名前と同じで反応が早いんだよ、『俺を倒して行けって言ったらどうする?』と言うつもりだったのに。俺はおまえが武術やってるのを知ってるんだから、そんなことで勝負を挑むわけないだろ」

「だからといって、君が得意なテニスなんて持ち出されたら、謹んで拒否する」

 二人の当意即妙なやり取りを見ていると、最初に心配したのがばからしくなってきた須美子。

(何よー、二人、仲がいいみたいじゃない。いつの間にこんな仲になったのかな。性格はだいぶ違うように見えるのに)

 須美子はそんなことよりも、先に行った吉井と寺沢が気になり始めた。

「あのね、早川君。お話があるんだったら、メモに書いて渡してちょうだい。明日までに返事、考えておくから」

「うーん……まあ、それでいいか。少し待ってくれる?」

「もちろん。――岡村君は離れていてね。途中から聞いてたみたいだから、分かってるんでしょ」

「ちぇっ。しょうがないな」

 岡村が昇降口の方を目指して歩き、充分に離れた段階で、早川は破り取ったノートの紙一枚に、鉛筆を走らせた。なかなかきれいな字みたいだが、内容は見えない。

「じゃ、これ」

 早川が紙片を手渡してきた。丁寧に折り畳んだ上に、おみくじのように四角く結んである。

「できれば人のいないところで開けてみて」

「……」

 須美子は最初の想像が頭の中でぶり返し、思わず相手の顔をじーっと見た。

(告白して来たっていう雰囲気じゃないよね、やっぱり)

 万が一、ラブレターの類なら、もうちょっとぐらい態度に出るだろう。

「ん?」

 じろじろ見られているの気付いた早川が首を傾げる。

「何でもない」

 軽くかぶりを振って、須美子は紙を受け取った。ちょっと考えて、ランドセルの隙間から中へと落とし込んだ。

「これで確実に家に帰ってからになるわ」

「それはそれで忘れられそう」

「信用してよね」

 須美子はランドセルを背負い直すと、これで用は済んだでしょとばかり、小走りで出発した。

「それじゃ、また明日ね」


 下校の間、須美子は吉井や寺沢とのおしゃべりに身が入らず、何度か聞き返してしまった。

 あまりにも度重なるものだから、とうとう、どちらかというとおっとりしたタイプの寺沢に「もー、おかしいよ、今日の須美ちゃん」とぷんすかされる始末。

「ごめん」

「遅れてきたのは、岡村から何か言われたんじゃないでしょうね」

 一方、吉井は心配しつつ、須美子からの返事を待たずに怒り出しそうな気配だ。須美子は首を水平方向に急いで振った。

「ううん、違う。……実はあのあと早川君が現れて」

「え、早川君」

 寺沢が反応する。声が一段、高くなったようだ。

「何で呼んでくれないのよー、須美ちゃん」

「そんな無茶を言いなさんな」

 吉井がたしなめると、寺沢は分かってますよと舌先を覗かせた。

「で、転校生がどうかしたのかな」

「いや、別にたいしたことではないんだけど」

 須美子は内緒話の件を、わざわざ話すつもりはなかった。代わりの答を口にする。

「早川君と岡村君、いつの間にか親しくなってるのよね」

「ほんと?」

 寺沢と吉井、それぞれの声が揃った。

「多分、体育で一緒になったときなんだと思うけど、冗談言い合って、仲はよさそうだった。ただし、岡村君の方が一方的に早川君をライバルとして見ているみたい」

「へー」

 吉井の反応は薄めだが、寺沢は違う。

「そんなに親しいのなら、岡村君に頼んで早川君と近づけないかなあ」

「やめときなって」

 速攻で否定する吉井に、寺沢が不満げに頬を膨らませた。

「何でー? 岡村君、見た目は格好いいし、結構面白いし、女子には優しいって評価高いんだよ。嫌っているのって、双葉ちゃんぐらい」

「いや、他にもいるでしょ」

 名前を挙げ始めた吉井。彼女の個人的な感想によれば、岡村に遊ばれて捨てられた女子は皆不満を持っているという。

(双葉も、岡村君のことになると大げさなんだから。一緒に遊んで、反りが合わなかった、話が合わなかったっていうだけでしょ)

 そんな話題の途中で、三叉路まで来た。いつもの分岐点で、ここで三人は三方向に分かれる。

「じゃあね」「また明日」「岡村に頼るのだけはやめときなさいって」

 友達二人の姿も気配もなくなると、須美子は走り始めた。


 急いで帰って、自分の部屋に入り、早川から渡された紙の内容を確かめたい。

(あれのおかげで、友達とのおしゃべりが楽しめなかったのよっ。これでもしつまんない話だったら、明日の朝一番で……どうしてやろうかしら)

 思い付くより先に、家に帰り着いた。母にただいまの挨拶をして、洗面台に向かい、手洗いとうがいを励行する。

「宿題あるし、部屋にいるね」

 そのまま自分の個室に向かおうとしたら、夕飯までまだ時間があるからと、おやつを勧められた。確かに、おなかは空いている。体重を気にする体型でも年齢でもない。それでもちょっとためらったのには理由がある。

(ひょっとしたら大事な話かもしれない。それを何か食べながら読むのって、失礼にならないかしら)

 迷う須美子だったが、母からの一言で簡単に折れた。

「須美子の好きなフルーツロールケーキ、買ってあるんだけど」

「――食べる」

 お菓子と飲み物の載ったお盆ごと受け取って、改めて部屋に向かった。一旦、床にお盆を置いて、ドアを開けてからお盆を再度取り上げ、中に入る。ドアを閉めてほっと一息。鍵はまだ掛けないように言われている。中学に上がったら、OKしてもらえる予定だ。

 このシチュエーション、いつもなら当然、まずはおやつに手が伸びるところだが、今日は違った。

(やっぱり、気になるからさっさと見ようっと)

 机にランドセルを置いて、椅子に座ると、須美子は問題の紙片を取り出した。きっちり結んであるその紙を、破かないように指先を丁寧に動かし、ほどいてみた。

「――何でこんなに緊張するのよ」

 ほどき終わったところで、独り言を呟いていた。

 深呼吸をして改めてその一枚のノートに臨む。


<先日 地震のあった日のことおぼえてる? 実は今日おかしなメモ書きが下駄箱に入ってた。内容を書き写すと、

『地震の日、教室で女子と二人きりで何をしていたの? 私は見ていた。みんなの前で正直に白状してください。』

 となっていたんだ。

 白状しなきゃいけないようなことに、僕は全然心当たりがなくって、弱ってる。

 柏原さんは何のことだか分かる? 分かったら教えてほしい。 早川和泉>


 読み終える前に、おおよその察しは付いた。声を上げそうなところ堪えて、状況の整理に努める。

(地震の起きた日、教室の中を見ていた人がいたんだ!? 当然、私が早川君に受け止められたあとよね。白状っていうことは……やっぱり、キスのことかしら……)

 真っ先に思い浮かんだのは、やはりあれのことだった。けれども、最初の衝撃が去って少し冷静になると、この想像、おかしいなと感じないでもない。

(唇が重なってしまった間、私と早川君は横たわった状態にずっとなっていた。あれを目撃って、どこから? 普通に外から窓ガラスを通して見たって無理じゃない? 見えっこないわ。見えるとしたら、窓を開けて覗き込むか、少なくとも窓ガラスに頬をすり充てるくらい近付かないと見ることはできない気がする)

 教室の構造を脳裏に思い描いてみて、記憶頼みではあるが、再確認。意を強くした須美子は黙ってうなずいた。

(だとしたら、メモ書きは何を差しているのかしら……キスは見てなくて、抱き合ったことそのもの?)

 またまた思い出されて、顔が熱くなる。かぶりを振って追い払う。

(地震が起きて、私を早川君が受け止めてくれたところまでなら、窓の外、だいぶ離れた位置からでも見えたのかも。けど、キスはともかく、抱き合う格好になったのくらいは勘弁してほしいわ。あれは早川君が私を助けようと思ってしてくれたことなんだから)

 考える内に、段々と腹が立ってきた。どうして私がこんなことにまで悩まされなくちゃいけないのっ。

(やっぱり早川君、女子の間で人気が上がっているのかしらね。でなきゃ、こんなメモを下駄箱に入れやしないでしょ)

 心中で口走り、落ち着こうと飲み物の器に手を伸ばす。一口飲んだところで、また別の閃きが起きた。

(このメモを書いた人って、どうして入れる場所に早川君の下駄箱を選んだんだろ? 普通、好きな男子と女子が抱きしめ合っているのを見て気に障ったのであれば、女子の方に矛先を向けるものなんじゃあ……)

 輪切りの状態で皿に載せられたフルーツロールケーキを、フォークで縁から切り取り、小さな小さなカットピザみたいな形にして口に運ぶ。甘みと酸味、爽やかさを一度に感じて、幸せな心持ちになる。

「おいし」

 笑顔になった。比例して、頭の回転もギアが上がる。

(ついでに好きな男子の靴に触ってみたかった、とかじゃないよね。早川君と誰か女子が抱き合っているのまでは見えたけれども、その相手が誰なのかまでははっきり見えなかった。こう考えたら、メモを私の下駄箱に入れなかった理由にはなる。でも、あの日、私と早川君は同じ日直の当番だからこそ残ってた。それくらいは、クラスの子なら全員が想像が付くはずよね。だけど、実際は分かっていない……つまり、目撃したのはクラスメートではなく、よその組の子?)

 これは大きな発見のように思えた。いつの間にか両手を握りしめていた須美子。

 だが、ちょっと経つと、苦笑を浮かべて力を抜いた。

(私ったら、これじゃあまるで、犯人探しをしてるみたいじゃないの。いい気はしないけど、見ていたのが誰かなんて今は関係ない。今考えなくちゃいけないのは、早川君に何をどう伝えるか、だわ)

 考え始めようとした須美子だったけれども、すぐに気付く。これは時間を取りそうだから、先に宿題を済ませなければ。


 翌日の朝、いつも通りに登校して教室に入ると同時に早川の席へ目を向けた。

(珍しい……)

 新倉達いわゆる悪ガキグループ三人が周りにいる。一瞬、また何かもめているのかと早合点しそうになったけれども、よく見ると三人ともノートを広げて、時折鉛筆を走らせている。

(宿題を写させてもらってる? しょうがないなあ。仲を悪くされるよりはましだけど)

 自分の机まで行き、「早川君、宿題見せてあげるなんて、甘やかしちゃだめだよ」と言いながら、ランドセルを下ろす。

 と、当の早川が何か言おうとするも、それより先に新倉が反応した。

「甘やかされてねーよ。こいつ、見せてくれれば早いのに、一つ一つ教えてくるんだ」

「文句言わない。やればできるくせに。その二問目からだって、自力で解けただろ」

「そりゃ確かにそうだったけど……」

 教えてもらいながら高飛車だが、ちゃんと手は動いている。時間が迫っているという理由があるにしても、言うことを聞いているようだ。

「あら、宿題を写してるんじゃなくて、教えてもらっているのね。ごめんなさい」

 一応、謝っておこう。ポニーテールを揺らして頭を下げる。

「いいよ別に。今それどころじゃねえ」

 邪険にされてしまったが、それもやむを得ないと理解はできる。早川も教えるのに忙しいようだ。

(ちょっと前まで仲が悪そうだったのに、何でこんなことに。この分じゃあ、メモの話は後回しね)

 小さくため息をついて前を向くと、寺沢が立っていた。

「わっ、びっくりした」

「いいなあ」

 寺沢はすぐにしゃがんで、須美子の机で頬杖をつく。そのままひそひそ声で言った。

「私も早川君から教わりたいな」

「頼めば教えてくれると思うわよ。何せ、あの新倉にまで教えるんだから。博愛精神ていうのかな、あは。教え方も上手みたいだし」

「頼むなんて、簡単にはできないって」

 普段は結構、大雑把で大胆なこともできる寺沢だが、こと好きな異性が相手となると尻込みしてしまう口のようだ。

「それなら……私も一緒に頼もうか」

 肩越しに意識だけ早川へ向け、須美子は寺沢により一層低めた声で提案した。

「ほんと?」

「私も時々、分からないとこあるから。彼ならほとんど正解しそうだもの、頼もしいわ」

 そう応えてから、何でこのような提案を寺沢にしたのかを遅まきながら考える。

(多分……早川君と偶然にもキスをしてしまったことが申し訳なくって、その罪滅ぼしにっていう気持ちなのかな。自分でもよく分かんないわ)

 結局、新倉達の宿題は、授業開始の合図ぎりぎりまで続いた。


 その日の休み時間は女子の友達と話したり遊んだりする場面が多く、早川と言葉を交わすどころではなかった。かといって週末である今日を逃すと、直に話せるのは恐らく明けて月曜まで持ち越しになってしまう。

 ちょっと焦りを覚えつつ時間を作れたのは、何と放課後。その少し手前、六時間目の授業のあとのホームルーム、いわゆる終わりの会が始まるまでの間にもチャンスがあったのだが、須美子が保健室を利用したため、無理になってしまった。

「指、大丈夫?」

 本題に入る前に、早川が心配げに聞いてきた。今二人がいる場所は、校舎の東側。壁際に立っている。太陽の沈んでいく方角がちょうど校舎と重なっており、影が濃く伸びているが、気温はそんなに下がったようには感じられない。

「ちょっと痛いけど、平気。軽い打撲だって」

 体育の授業、今日はバスケットボールだったのだが、早いパス回しをわずかに受け損ない、突き指っぽくなってしまったのだ。最初の内は我慢していたが、六時間目の社会の授業中に腫れてきて、辛抱するのがつらくなって保健室に駆け込んだのだ。

「それならいいけど、大事にしなよ。次から水泳でしょ。その指だと難しいだろうから」

「分かってるって。泳ぐのは好きだし、無理しないで治すわ。それよりも」

 ともに壁にもたれて会話をしていたが、ここで須美子は壁から離れた。早川の方を向き、距離を適度に詰めるよう、身振り手振りで合図を送る。

 早川の口が「何?」という形に動いたが、それが声になることはなく、「あ、メモの話か」と首肯した。

「そうよ。まず確認させて。早川君、あなたはメモを書いたのが誰なのかは気になっていないの?」

「そりゃあもちろん、気にはなる。だけど、誰が書いたのかはこの際問わないでおこうと思った。改めるべきところがあるっていうのなら、直した方が前向きだろうって。ただ、何のことを言われているのかが分からないから困ってるわけで」

「なるほどね」

「柏原さんは、誰の仕業か突き止めたいの?」

「ううん。早川君と同じで、気になるけど、気にしないでおく。今の時点では、だけど」

 意見の一致を見て、まずは安堵する様子の早川。

「よかった。それで、柏原さんには分かったのかな、何のことを言われているのか」

「それが……」

 わずかに言い淀む須美子。今朝、家を出るときは決心したつもりだった。しかし、朝一番に言えなかったことで、今またブレーキが掛かりそうになっている。

 須美子は口元を拭ってから、深呼吸して思い切った。

「多分なんだけど」

「うんうん」

 興味津々といった反応の早川。言い出しにくいと感じつつも、もう止められない。

「地震が起こって、机から落っこちそうになった私を早川君が、その、支えてくれたでしょ。あのあとあなたはしばらくのびちゃってたけれど」

「う、言わないでくれ~っ。君をなるべくふんわりと受け止めようとしたら、ああなってしまったんだ」

 早川は半ばおどけつつ、後頭部を押さえる仕種をした。

 須美子の方は、これから大事なことを言うという場面で、少し気が楽になった。

「それは分かってる。感謝してる。ただ……怒らないで聞いてね。唇が」

「え? 何ビル?」

 早川にとって予想の遙か外の言葉だったのか、唇をビルの名前と勘違いしたらしい。

「ビルじゃないって、唇」

「ああ、くち……。それで?」

「く、唇が合わさったの」

 言った。やっと言えた。思わず目を瞑ってしまったので、相手の反応はまだ見えていない。体温が上がるのを感じながら、右目、左目と順に開けた。

 早川は事態を飲み込むのみ時間を要しているようだった。須美子はもっと詳しく説明した方がいいかなと思い、急いで付け足す。

「ちょんて触れた程度じゃなくて、結構長い間重なっていたから、あれを人が見たら、変に思うかもしれない……」

「――えーと」

 早川は片手で頭を掻きつつ、戸惑いが露わな語調で聞いてきた。

「念のために聞くけれども、誰と誰の唇が」

「だからっ。私と」

 皆までは言えず、早川を指差す。

 早川も、最前の須美子がやったように唇に手の甲をあてがった。そして慌てたように頭を下げる。

「ごめん! 知らなくて」

「えっ。い、いや、早川君は悪くないよ。だからって私が悪いんでもないと思うけど。よ、要するに偶然の事故なの。気にしないでおこうって思ったから、黙っていた。それだけなのよ」

 頭を下げたままの早川に、須美子はあわあわと両手を振って、早く状態を戻すように促す。

「でもその、事故だろうと何だろうと柏原さんの大事な――」

 そこまで言って、続きが出てこない。「とにかく謝りたいんだ。ごめんなさい」と言い直した。

「いい、いい。許すから。私の方こそごめん。気を遣わせたのと黙ってたのと」

「――よかった」

 許してもらえてほっとした。面を起こした早川は、そんな風に笑みを見せた。しかし程なくして表情が曇る。

「ああー、でも、仮にこのことで当たっているとしても、白状しろっていうのはどういう意味なんだろ」

「分かんないけど……目撃した人には、私達が、えっと、『抱き合ってキスしてるように見えた』んじゃないの」

 気恥ずかしいところだけ早口かつ小さな声にして須美子は言った。

「それが白状しなければいけないような悪いことなのか……。いや、そもそも、誤解だし」

「そうなのよね。みんなの前で白状って、誤解だってことを説明したら済むのかしら」

「どうだなんろう……目撃した人からすれば、『あいつら嘘ついてる』って見えるかも」

 それは困る。

(私と早川君との間には何にもありません!と言ったって、証拠は全然ない。どうしたらいいんだろ)

 早川の方を見ると、また目が合った。彼から質問があった。

「一応、確認だけど、柏原さんてそのー、付き合っている人はいない?」

「ええ? 付き合ってるって、恋人的な意味の? い、いるわけないでしょっ。悪い?」

 思いっ切り否定。早川はちょっとびっくりしたみたいに口をすぼめ、須美子を見返してきた。

「い、いないならいないでいいんだ。もしいたら、キスだのなんだのは事故だっていう証拠の一つになるかなって思っただけ」

「……そう言うからには、早川君にもいないのね、彼女」

「考えるまでもなく、当たり前でしょ。転校してまだ間がないんだから」

「ううん、どうかしらん。遠距離恋愛ってあるし」

「何なに、その追い詰める感じは。ひょっとして、まだ許してもらえてない?」

「そんなことはないわ。――ついでに聞いておきたいのだけど、これまで女の子と付き合ったことは?」

 友達の顔を思い浮かべながら尋ねる須美子。早川はますます困惑した様子で、口元を少しゆがめた。

「何のついでなんだか」

「いいから。答えて」

「いないよ。どの学校でも、幼稚園の頃まで遡ってもいません」

「そう」

 だったら安心してアタックできるね、直美ちゃん。なんてことを心中で呟いた須美子だったが、そこへ早川のぼそっとした付け足しが耳に届く。

「好きな子はいるけれど」

「え! ほんと? 誰だれ?」

 反射的に聞き返した須美子。早川はさすがにびっくりしたのか、その場から一歩か二歩、横に動いて距離を取った。

「どうしたの。そんな興味ある? 今関係ない気もするけど」

「それは……」

 須美子は少々間を取って、答を考えた。ここは正直に明かさなくてもいいだろう。

「それって片思いなのよね? もしかしたら早川君のその気持ちを知っている誰かが、私と早川君とがごにょごにょしてるとこを見掛けて、腹が立ってメモを書いたんじゃないかと思って」

「理屈は分かった。でも、誰にも言ってないよ。少なくとも、ここに転校してきてからは、今、君に言ったのが初めてだ」

「そうなのね……」

 返事しながらまた考える。

(わざわざ「好きな子はいる」って言うくらいだから、転校した今でも好きなのよね。気持ちを断ち切れていないのなら、直美ちゃんを焚きつけるのもよくないか)

「早川君。仮の話だけど」

「結局、メモを書いた人を探すのかい」

「ううん、それとは違う。仮に、この学校であなたに告白してきた子がいたら、片思いの相手がいるんだってことをちゃんと伝えてあげてね。中途半端に断るんじゃなく」

「はあ……何だかよく分からないけど、伝える。約束するよ」

「そもそも、可能性はあるのかしら」

「……やけに根掘り葉掘り聞いてくるね」

「そりゃあまあ……あなたに自覚があるのかどうか知らないけれども、一部の女子から人気あるから」

 ああ、言ってしまった。できればオブラートに包んだ表現をしたかったんだけれども、よいフレーズが浮かばなかった。

 早川の方はどう受け取ったのか、「はは」と短く笑っただけで、なかなか次の言葉が出てこない。肯定も否定もされないのは、何だか居心地が悪い。須美子は率直な感想を付け加えた。

「私から見ても、早川君は男子の中ではいい人だと思うわよ」

「化けの皮が剥がれてないだけだよ」

 早川は苦笑顔のまま言った。

「じゃあ、化けの皮が剥がれたから、その片思いの子とはうまく行かないまま離ればなれになったの?」

「そんなことはない」

「あれ? そこは随分、自信たっぷりに否定するんだ?」

「当然だよ。僕が言っている子とは、一年生のときに一回会ったきりなんだからさ。化けの皮の剥がれようがない」

「一年生のときに一回だけって、何それ。面白そう。というよりも、ロマンティックな感じがするじゃないの」

 俄然、興味が湧いた。友達にとって参考になるかもという思いもあって、須美子は前のめり気味に聞いた。

「その話、詳しく聞かせてほしい」

「おーい、メモのことはどうなったんでしょうか?」

「その件は難しいから、ちょっと後回しにして。いいでしょ」

「……しょうがないな……」

 早川は改めて校舎の壁にもたれ掛かると唇をちょっとなめた。長話になるぞという覚悟の表れか。

「話すのはかまわないけれど、二つ、約束してほしいことがある」

「うん、約束する」

 即答する須美子に、早川は一瞬ぽかんとなって、それからため息をついた。

「返事は、約束の条件を聞いてからにしてください。一つは、聞いた内容を誰にも言わないこと」

「あ、そうなんだ……いいよ」

 寺沢の援護射撃に使えないことになるが、やむを得まい。

「もう一つは、最後まで笑わないで聞くこと」

「笑うようなところがあるの?」

「ないと思うけど、でも男子と女子じゃ感覚が違うって言うし」

「ふうん。分かったわ。笑わない。いいなって感じて、微笑ましくなるのは大丈夫なのよね」

「……そうだね」

 早川は周囲を警戒するように、ざっと見渡してから改めて口を開いた。

「一年生の夏休みのとき。多分、八月に入っていたと思う。母に連れられて、東京で開かれていたあるイベントに行ったんだ。小さな子供向けの催し物で特に有名人が来ていたとかではなかったんだけど、夏休みとあって会場はかなり混雑しててさ。僕も注意していたつもりなのに、母とはぐれてしまって。結構心細かったんだけど、見た目は何でもないふりをして、母を探しつつ、観覧も続けていたんだ」

 須美子は相手の話に耳を傾けながら、自分にも似たような経験があったなあと思い出す。

(私も確か、一年生のときだったな。早川君たら、今はしっかりしている風に見えるけれども、さすがに六、七歳の頃はそうでもなかったのね)

 にまにま笑いを隠し、早川の横顔を伺った。

「心細さや不安をわずかでも軽くしたくて、胸ポケットに入れていた物に手を当てていた。イベント会場のお土産コーナーで買った物なんだ。そのイベントは宇宙や天体の最新成果をまとめて紹介する展示会みたいなものでね。買ったのは、はくちょう座を象ったバッジだった」

「――え?」

 何かがすとんと胸の内に落ちてきた。そんな感覚に囚われて、須美子は思わず声を上げていた。

(同じ一年生のとき、天文に関係する催し物で、はくちょう座のバッジ……)

 要素一つ一つが、自分の思い出と重なっている。須美子は早川の顔をじーっと見つめてみた。

(……分かんない。あのときの男の子に似ているような気がしてきたけれども、断言する自信はないわ)

 彼女のそんな様子に、早川も気付き、「また? どうしたのさ、一体」と訝しむ。

(話の続きを聞けばきっとはっきりする。けど、もしも早川君が本当に、あのときの“十字星の男の子”だったとして、そうしたらどうしよう?)

 寺沢の顔がぱっと浮かぶ。

(やっぱり、双葉の言うことを聞いておけばよかった? 私も転校生を好きになるかもって直美ちゃんに言っておけば)

 まだ確定したわけではないが、後悔が先に来る。今からでも言えば間に合うだろうか。

 須美子には次の選択肢が決められなかった。

「――あのっ」

 息止め競争の我慢から解放されたみたいに、須美子は言った。

「な、何」

「急に用事思い出したの。だからこの話は今日はここまで。ね?」

「え? ちょっと。この話って、どっち? 僕の昔の話なのか、あのメモのことなのか」

 追いすがるかのような早川の声に、すでに動き出していた須美子は立ち止まることなく答える。

「どっちも!」

 あとを追い掛けてくる気配はなかった。早川も毎日なるべく早く帰りたい事情があると言っていたのに。多分、須美子のことを気遣ったのだろう。

 須美子自身がそのことに思い至るのは、だいぶあとになるけれども。


 答を知るのが怖いと思った。

 でも、知りたいと願う気持ちも強い。

 知ることそのものは簡単。今からでも早川に電話して、続きを話してもらったらそれで決着だ。

 そうしなくても、週明けに学校へ行けば、否応なしに彼と顔を合わせる。必然的に、今日の話の続きになるだろう。

(偶然、同じような経験をした、なんて可能性は)

 ありそうもないと感じる。だがその一方で、五年前にほんのちょっぴり関わって瞬間的に人生がクロスだけの二人が、今また再会するなんていう偶然も、ありそうにないというのが常識的な判断というものじゃないだろうか。

 ただ、どちらに分があるかというと、偶然、似た経験をしただけという方じゃないかという気持ちが広がっている。何故なら。

(もし早川君が“十字星の男の子”だったら、早川君は私のことに全然気付いていない? そんなことってある?)

 自分自身のことは棚に上げて、ではあるが、そんな疑問が浮かんでならない。二人とも忘れてるなんて。

(あり得ないとは言わないけど)

 早川が転校初日、挨拶したときのシーンがふっと、思い出される。

(でも私、早川君の声が懐かしい感じに聞こえた。あの感覚って、昔のことを思い出したからなのかな)

 それからその日の出来事を思い返す。

(早川君、やたらと私に話し掛けてきた。席が前後だし、『ごめん』の一件があったけれども、それらを抜きにしたって、やけに気にしていたような。私の思い込みかしら?)

 迷う心は巡り巡って、結局のところ、彼・早川和泉が“十字星の男の子”であることを期待している――かもしれない。

 次の休みの日、あのイベントが開催された場所まで行ってみようか。いや、イベント自体は期間限定で会場もそのとき限りだろうから今は残っているはずないし、距離も結構あるから、簡単には行けない。だから――。

(駅までなら行ける。駅からの帰り道を辿れば、細かいところまで思い出せるかも。あの日は、両親が迷子になっていた私をなだめるために、駅のレストラン街に連れて行ってくれて、好きな物頼んでいいぞって)

 それで機嫌がだいぶ直った。改めて思い出すとちょっと、恥ずかしい。でも、大切なことを思い出すためには我慢する。

 とにかくターミナル駅まで出掛けて、レストランの前まで行き、そこから引き返してみよう。そう心に決めた。


 ……しかし。

(土曜の休みを潰して行ったのになあ)

 ターミナル駅から自宅の最寄り駅までの電車内で、須美子は何度もため息をついた。

 結果から言えば、十字星の男の子に関して新たに思い出せたことは何もなかった。

(やっぱり、会場跡まで足を延ばさなきゃいけないのかしら。はぁ……)

 やがて最寄り駅に到着。時刻は午後二時を五分ほど回ったところ。帰りは夕方になるかもと行って出て来たので、どこかに寄って行こうかなという考えが浮かんだ。

 が、空の遠くの方に怪しい黒雲が広がり始めているのに気付く。ゴロゴロという雷らしき音も、小さくではあるが聞こえる。

 雷が苦手な須美子は駐輪スペースから急いで自転車を出すと、慌て気味に跨がった。もしスカート履きだったらサドルに引っ掛けて転んでいたかもしれない。

 漕ぎ出して間もなく、鼻のてっぺんに水滴を感じる。

「やだ、降り出してきちゃった」

 急ごうと立ち漕ぎの姿勢になったが、それから程なくして土砂降りに。視界が白くなって、無闇に飛ばすのは危険だ。でも、雷が近付いてくるのも分かる。怖い、早く帰りたいと願いつつも、足の方はうまく運べなくなってしまった。

「だめだっ」

 短く叫んで、雨宿りできそうな場所を探す。が、見付からない。人の家の軒先を借りるのもためらわれ、仕方がなくスローペースで慎重に進んだ。

 通行可であることを確かめて歩道に乗る。その途端、大きなトラックがそばを通過し、水を跳ね上げた。ひゃっという悲鳴が勝手に出る。今さらトラックの巻き上げた水しぶきを浴びても、すでに濡れ鼠だから関係ないという向きもあるかもしれないが、雨水と泥混じりの水ではやはり違うのだ。

 気を取り直してまた漕ぎ出すと、すぐそこにあるバス停が目に留まった。ちょうど市営バスが須美子の自転車を追い抜いていき、今、一時停車したところだ。

 待っているお客さんは見当たらないから、降りるお客さんがいるってことだわ。

 須美子はそう理解して、自転車のスピードをさらに落とした。ぶつからないようにするのはもちろんのこと、驚かすのも避けなくては。

 乗降口から出て来たのは一人で、すぐに傘を差してしまったからどんな人なのかは分からないけれども、あまり背は高くない。同じぐらいの歳の子供かもしれないと思った。

 降りた客は歩道に自転車がいることを認識していたらしく、バスが動き出すとともにすぐに後ろを向いた。

「あ、やっぱり柏原さんだった」

 顔は雨のおかげではっきりしないが、聞き覚えのある声に須美子は思わず目を見開いた。

「誰?」

「僕だよ、早川です」

 言いながら駆け寄ってきた彼は、雨傘を差し掛けてくれた。

「うわ、ひどいな。今さらだけど、傘や雨合羽はどうしたの」

「天気予報、見てなかったから……」

 何となくではあるが、ほっとした気持ちになった。こんなに濡れてしまったのに、それでも傘がありがたく思えた。

「早川君は何してるのよ。私に気付いて降りたんじゃあないでしょ?」

「うん。自転車の人がいることには降りる前から気付いていたけど。ていうか、すぐそこなんだ、僕の家」

「あ、そうなんだ」

 雨宿りさせて欲しい!とすぐに思ったが、クラスの男子においそれと頼めるかというとそうでもなく。その迷いが顔に出たのか、そしてそれを彼が読み取ったのかどうかは分からない。

 とにもかくにも早川は言ってきた。

「まだ家まで距離あるんじゃない? そのままだと風邪を引くかもしれない。雨宿りして行きなよ」

「……でも」

 ありがたいけれどもすぐに飛びつくのも恥ずかしい。と、このタイミングで雷が鳴った。

 ドガーンとピシャンが折り重なったような音が鳴り響き、空気を震わせ、肌に感触が伝わる。

「きゃあ!」

 須美子は自転車を放り出し、早川の胸に飛び込んでいた。

「あの、柏原さん?」

「ご、ごめん。少しだけ、こうさせて」

「――うん、了解」

 小刻みに震える須美子の二の腕に、早川は手をあてがった。

「雷、苦手なの?」

 彼からの問いに須美子は黙ったまま、こくりと頷いた。

「じゃあさ、雨と雷が収まるまで、やっぱりうちに来なよ。お母さん――母も父もいないからろくなおもてなしはできないけれどさ」

「……お願いします」

 それからもう少しして雷の気配がひとまず収まると、早川は須美子に傘を持たせ、自らは須美子の自転車を起こした。

「ああ、まずい。袋がびしょ濡れだ。中身は本? 大丈夫かな」

 前かごに入れておいた雑誌の包みはビニール製で、今は大小の水滴ができては消え、できては消えしている。

「大丈夫と思う」

「よし、じゃ、行きますか。ついて来てね」

「うん。あの、傘……」

「いいよいいよ。もう僕も濡れたし。それに――」

 先を行く早川は肩越しにちらっと振り向き、またすぐに前を見た。

「ど、どうしたのよ」

「怒らないで聞いてほしいんだけど、それ以上濡れたら危ないでしょ、その、服が」

「あっ」

 濡れたおかげで、透けそうになっていることにようやく気付いた。


 恥ずかしさが生じたとは言え、今の濡れ鼠状態を抜け出せるという誘惑の方が勝った。

 須美子は早川家にお邪魔することになった。一軒家ではなくマンション暮らしで、三階の三号室というわかりやすさ。

「さあ、どうぞ。とりあえず上がって。床なんかが濡れるのは気にしなくていいから」

「お邪魔します……」

「だから誰もいないって」

「これは一応のご挨拶よ」

 そんなやり取りをしながら中へと通された。部屋のドアはどれも閉じられていたので中は見えないが、きれいに整ったダイニングキッチンが目に飛び込んできた。

「えっと。どうしよう」

「あの、リクエストしていいのならドライヤーを貸して欲しいな、なんて」

「あ、そうだね。それじゃお風呂場はあそこだから。シャワーを使いたかったら使って」

 シャワーを使えたら嬉しい、けど、初めてお邪魔したクラスの男子の家で、服を脱いでシャワーって。激しく迷う。こんなときの定番であろう、「覗かないでよ」と冗談交じりに言おうとしたら、先に早川が話し始めた。

「実は母さんは服のデザインを仕事にしていて、趣味でも女の子の服を作るんだ」

「うん?」

 唐突な話に聞こえて、すぐには飲み込めない。

「女の子も欲しかったらしくてさ。サイズは分からないけれども、僕ぐらいの年齢の女子を思い描いて作っているから、ひょっとしたら合うかも」

 須美子は透けかけの服を思い出して、胸の前で手を交差させた。

「ほんと? 見せてもらってもいい?」

「いいよ」

 二つ返事で応じるや、今来たばかりの廊下を戻り、一つの部屋のドアを開ける早川。程なくしてできてた彼は、紙袋一つを手に提げていた。

「一部だけど、今の季節はこれかな。適当に選んで使って。生地が肌に合わないと思ったらどんどん交換していいから」

「うわ、いっぱいある。本当に着ていいの?」

 服が何着もつまった紙袋を受け取り、滴る水で濡らさぬように気を遣いながら最終確認をする須美子。

「もちろん。むしろ、着てくれる人がいたら母さん、大喜びするよ」

「それじゃお言葉に甘えさせていただきます……で、念のために言っておくけど、これは早川君を疑っているんじゃないから気を悪くしないで。ただ、言っておかないと私の気持ちが落ち着かないというか」

「はいはい、覗きません」

 両手を軽く上げ、くるっと背を向ける早川。

「鍵は内側から掛かるし、それでも心配だったら、僕は外に出とくよ」

「ううん、しなくていい。じゃ、本当にお湯、もらうわね」

 須美子は教えてもらった浴室へ通じるドアを開けた。


 思った以上にさっぱりして、気持ちよくなった。あたたかさに触れて、気力も体力も復活した感じ。

 幸い、下着はさほど被害を受けておらず、また履いても大丈夫そう。それから数あるハンドメイドの服の中から、青と白からなるセーラールックのワンピースが気に入ったので、選んでみた。

「わ、すごい」

 あつらえたみたいにぴったりとは言わないまでも、ほんの少し大きいだけで充分に着られる。これは濡らすのは勿体ないと改めて感じ、髪を乾かす際には肩から別のタオルを羽織った。

 あらかた乾かし終え、冷風を髪に送っていると、扉をこんこんと叩く音に気が付いた。

「はい?」

「濡れた服を入れるビニール袋、きれいなのが見付かったら、外に置いておくよ」

「分かった、ありがとー!」

 すっかり元気になって、声も弾む。早川に服の感想も言おうとしたけれども、足音が遠ざかったので、後回しにした。

 さらに三分ほどして洗面所を出た須美子は、用意してくれた厚手で色つきのビニール袋を拾い上げるとすでに折り畳んだ服の上下と靴下を入れた。

「ほんとに、ありがとう。いいお湯でした。早川君も入ったら?」

「いや、僕はそこまで濡れてない。さっき頭をタオルで拭いたからいい。それに」

 キッチンのテーブルの方を指差す早川。白と茶色が混じった液体に満たされたカップが二脚あった。

「紅茶を入れてみたので、飲んでくれる? 冷たいのがよければアイスティにするけれども」

「ううん。あったかいのでいい。わあ、ありがとう。ミルクティ大好き」

「期待されると困る。それぞれの家庭の入れ方があって――」

 お茶請けのクッキーを出しながら予防線を張る早川。でも漂ってくる香りだけでも、きっと美味しいに違いないと予感した。

「飲んでいい?」

「どうぞ」

「いただきます」

 少しだけぬるめだけど、シャワーを浴びたあとにはちょうどいい。まさに適温。くすぐるような香りと、抑えめの甘みと、そして子供にとっては苦手な渋みまでもいい感じのアクセントになっている。

「何これ。すごくおいしい。好みに合う」

「そりゃどうも」

「お世辞じゃないよ」

「なら、よかった。クッキーもどうぞ」

 小さな皿に六枚載っている。三種類あって、プレーンとナッツ入り、ドライフルーツ入りのようだ。

 須美子は手前のプレーンから手に取った。そして早川の目を気にしつつ、さく、と一口。

「うわ。思ってたのとちょっと違う」

「え、まずい?」

「じゃなくて、バタークッキーだと思ったら、ちょっと爽やかな感じがしたから」

「サワークリームを使ったからかな。バター風味のはナッツだったと思う」

 その言葉が誘い水になって、須美子はすぐに二枚目としてナッツ入りに手を出した。

「――ほんと。とっても香ばしい」

 味わいながら、気になった点を確かめてみる。

「早川君の話を聞いていると、ひょっとしてこのクッキー、手作り?」

「そうだよ」

「へえ。料理上手だね」

「あのー、一応言っておきますが、そのクッキーを焼いたのは僕。母から教えてもらいながらだけど」

「えっ。本当に?」

「信じられないならいつか目の前で作って見せてもいいけど」

「ごめん。信じる。ただ、お店で売っているのよりもおいしいかも。少なくとも私は好きよ、この味」

「よかった。味覚が近くて」

 そう答えると、早川は初めて彼自身のカップに口を付けた。どうやら味の感想を聞けるまで待っていたらしい。

 一息つくと彼は窓の外に目をやった。

 つられて須美子も振り返る。雨はまだ粒が大きく、はっきり見えた。雷も完全には去っていないようだ。

「もうしばらくいさせてくれる?」

「もちろん。歓迎するよ。ただ……女子が来たことなんてないから、何をしていいのやら」

「おしゃべりでもゲームでも何でも。あ、宿題が残っているんなら手伝おうか」

「宿題は大丈夫。ゲームは僕、あんまりしないんだよな。どちらかって言うと、トランプやオセロの方が」

「そうなんだ? 他の男子とゲームの話をしてるみたいなのに」

「転校が多いとね、共通する話題を持っている方がいいとしみじみ感じるよ、真面目な話」

「あ、そうよね」

 四度も転校していると聞いたのを思い出す。これだけ気さくに話せて、見た目もまあいい方なのに、案外苦労してるのねと感じ入る。

「そうだ、あれなら興味を持ってくれるかも」

 急に云い出したと思ったら、席を離れて部屋――さっきとは別の、多分早川自身の部屋に入り、すぐに出て来た。

 手にはトランプと思しきサイズの紙製の箱が一つ。開けると、やはり中からはカードが出て来た。

「トランプ遊びなら二人でやって面白いのってなかなかない気がするけど。ポーカー?」

「いや、こういうこと」

 一組のトランプを左手に持った早川は、一番上のカードをめくってそれがスペードの3だと示す。再び裏向きにして、須美子の方へカード全体を差し出してきた。

「一番上をめくってくれる?」

「うん」

 まさか……とある予感を抱きつつ、言われた通りに一番上のカードをひっくり返す。と、ジョーカーになっていた。

「わっ。び、びっくりした」

「そんなに絵柄が怖い?」

「違うわよ。マジックにびっくりしたの」

「よかった。驚いてくれて。マジックも人と親しくなるのに使える。ただ、そのために習ったんじゃないんだけど」

「他にもできる?」

「いくつかはできる」

「見せて」

 早川は須美子のリクエストに応じ、カード一組から一枚を選ばせた。ダイヤのクイーンだった。裏返してカードの山のトップに置き、テレビで見たことあると思うけどと断りを入れつつ、トップカードの中程に軽く折り目を付けた。

「ひょっとしてあのマジック?」

「多分、柏原さんが思っているのと同じ」

 言いながら折り目を付けたカードを手に取ると、山の真ん中辺りに差し込む。おまじないを掛けるような手つきをしてから、カードの山に視線を集める。すると、一番上のカードが折り目付きの物になったように見えた。

「めくってみて」

「――ダイヤのクイーンだわ」

 真ん中ぐらいに入れたはずなのに、いつの間にやらエレベーターのごとくカードが上がってきたことになる。あり得ないと思いつつも、目の当たりにすると不思議でならなかった。

「すごーい。他には?」

「じゃあ……山から十五枚、カードを選んで。どこからでもいいよ」

 須美子は言われるがまま、適当な場所から一枚ずつ抜き取って、十五枚のカードを揃えた。その十五枚を受け取ると、早川は一枚ずつテーブルに置き始めた。一枚、二枚、三枚、四枚と声に出してカウントしながら。

 すると不思議なことに、十七をカウントしたところでカードが早川の左手からなくなった。

「あれ?」

 二枚増えてる。

「おかしいね。もう一回やってみよう」

 今度もさっきと同じように数えながら置いていくのだが、終わってみると十四枚になっていた。

「ええ? 減った!」

「こんなパターンもあるよ」

 早川がまたしてもカードをカウントしながら置いていく。今度は途中でカードが消えて、透明なカードを置いていくふりをする。と思ったら再びカードが現れて。最終的に二十枚まで行った。

「何よもう、全然分からない、不思議」

「はは。お気に召していただけたようで何よりです」

 かいがいしい召使いのように、胸元に片手をかざし、こうべを垂れる早川。

「ネタ切れになる前に仕舞おうかな」

「待って。最後にもう一つだけ。お願い。見せて」

「それじゃあ」

 早川はカードの山全体を表向きにして、四枚のエースを抜き取っていった。改めて須美子にカードの束と抜き取ったエース四枚を見せてから、それぞれのエースを別々の場所に差し込んでいく。

「この通り、四枚のエースは全く別の場所に挟んだよね」

「ええ」

「ではこれをこうして揃えて」

 言葉の通り、カードは揃えられ、エースは判別でいなくなった。さらに何度かシャッフルする。これでもうどの辺りにあるのかもよく分からない。

「よく見ておいてください」

 カードの束を一振りする早川。大半が右手に移るが、一枚だけ左手の中に残っている。

「めくってくれる?」

 須美子は息を飲んで驚きに備えた。それでもエースが、クラブのエースが現れるとどっとする。

 早川が、今度は右手から左手へカードを一振り。右手に残った一枚を表裏反対にするとダイヤのAだった。

 三枚目は違うカード、スペードの5が現れ、一瞬、失敗したかのように見えたが、それも含めて演出。カードの束全体をひっくり返し、マークと数が見える状態で、上から五枚目を見るように言う。

「スペードのエースだわ」

 段々、驚きよりも感動の方が勝っていく気がした。

 最後の四枚目のエースは、須美子の自由意志でカードを裏向きのまま指差してもらい、それを早川が指で弾くとハートのエースとなって現れた。

「凄いじゃない、やるじゃない早川君」

 拍手しながら絶賛する須美子の前で、早川はトランプを仕舞い、頭をかいた。

「それほどでも。褒め称えられると格好付けたくなるんだけど、やっぱり言っておくと、全部本を見て覚えた」

「種があるのは当たり前よ。それを本で見て覚えて、できるようになるのが凄い。誰にでもできるような種じゃないんでしょう?」

「まあ、そうなのかな。その本、見てみる?」

「え――見たいけれど、種は知りたくないような知りたいような……」

「へえ。種を知りたがる子ばっかりだったから、意外だ」

「だって、知ったら幻滅しちゃいそうで。不思議なことは不思議のままで置いておきたいじゃない?」

「なるほど。でもまあ、マジックの中には、その原理を知っても美しさや見事さを改めて理解できる物もあるよ。やっぱり一つぐらい、種を見てみる?」

「どうしてそんなに誘惑するのよー。負けちゃいそう。種は知らなくてもいい。そうだわ、見せてくれるんならあなたの部屋が見てみたい」

「ええ? 何で」

 ちょっと嫌そうに眉を動かし、考える顔つきになる早川。ひょっとしたら、今日は部屋の中、整理してたかどうかを思い出そうと努めているのかも。

「興味あるもん。女子の間では話題の的よ、あなたの個人情報」

「そんなまさか」

 信じられないという風な早川に、須美子はちょっと距離を詰めて「いいから見せてよ」と求めた。

「トランプを取ってきた部屋がそうなんでしょ。行こう。案内してくれなきゃ、あなたの隙を見て侵入するかも」

「仕方ないなあ」

 部屋の前まで行き、ドアをゆっくりと開けた。中を覗くと、案外片付けが行き届いていた。比較的散らかっていると言えるのは、机の上ぐらいか。あと、ベッドの上の布団が、少しだけ乱れている。

「何か色々チェックされそうだ」

「チェックしてるわよ~。どんな本を読んでいるのかとか、趣味のは何かとか、芸能人のポスターは貼ってないのかとか」

「もう、荒らさないでくれ~」

「本棚の本、見ちゃだめ? さっき言ってたマジックの本とかは?

「じゃあ、その辺。この本棚のこの一画は自由に見てもかまわないよ」

 高さ天井まである本棚の、真ん中から下半分をぐるっと囲うように腕の動きで示した早川。そこに並ぶ背表紙をぱっと見て、須美子はすぐに察した。

「ずるーい。三分の一ぐらいは教科書とか教材じゃないの」

「ず、ずるくはないだろ。実際問題、転校が多いと転校先で使えない教科書も多くて、結構かさばるんだよね」

 そのとき、電話のベルらしき音が聞こえてきた。携帯端末のそれではなく、この家の固定電話のものらしい。

「ごめん、ちょっと離れる。さっき示したとこの本は自由に見ていいよ。他はだめだからね」

「はーい、分かりました」

 気楽な返事に不安そうな顔をする早川だが、電話に出ないわけにもいかない。念押ししてから自室を出て行った。

「もっと信用してよね」

 笑いを抑えながら須美子は呟いた。

「言われたことは守る。ただ、見てもいいところは徹底的に見るから」

 人差し指と視線をさまよわせていると、ふと気になる文字が目に留まった。

「アルバム?」

 須美子は慎重な手つきで、背表紙にアルバムとある冊子を手前に傾けてみた。卒業アルバムの類ではもちろんなくて、ごく一般的な家庭用のアルバムだと分かる。厚さはさほどでもないが、高さがその棚の上から下まで目一杯使うほどある。

(これこれ。こういうのが見てみたかった。友達にもおやみげ話ができるかな)

 須美子はなおも慎重にアルバムを床に置くと、絨毯の上にぺたんと座ってアルバムのページを繰った。

「わ。かわいい~」

 生まれて間もない頃だと思われる赤ん坊の写真があった。普通、もうちょっと猿っぽくてしわが多いだろうに、写真に映る赤ちゃんはもう結構なハンサムに見えた。写真の脇の台紙には手書きで、早川の下の名前である「和泉誕生」というメモと撮影日と思しき数字がある。

「小さい頃からもてたでしょうね」

 直美らの顔をお思い浮かべつつ、これはライバルが多いんじゃない?と感じた。もしかしたら、これまで住んだ町々に一人や二人、彼女がいるんじゃないかしら、なんて。

「あら。ちょっと顔つきが違う」

 ページをめくり、進んでいくと、早川和泉の写真の顔は一時的にきつく、険しい印象になった。

(……何かあったのかしら。ちょっと目つきが悪いくらいだよ、これ)

 年月日を見ると五歳を過ぎた頃か。考えても分かるはずもなく、あきらめてさらにめくって、現代に少しでも近付こう。

「――あら。また戻った」

 メモによると七歳ぐらい。このときの早川は今とはまたちょっと違うが、意志の強そうな目がはっきりしてきて、将来、頼りがいがありそうな大人に成長しそうに見えた。

「……」

 そんな小学一年生の早川を見ている内に、須美子は不意に記憶を刺激されるのを自覚した。

「え、待って。この顔、この姿って……」

 声に出してしまっていると気付き、慌てて口を閉ざす。

(そういえばあの話が宙ぶらりんになってたんだわ。今日は雷のせいで、すっかり忘れていたけれども。早川君は一年生のときに、私がしたのとよく似た体験をしている)

 そう意識し、もう一ページ、アルバムをめくった。

「あっ」

 間違いない。そのページの左上にあった最初の一枚。そこに映る早川の姿は、須美子の記憶の中にある十字星の彼ときれいに重なった。理屈は入り込む余地のない。見れば分かる、見ただけで感じ取れる。そういった領域の話だ。

「あのー、柏原さん。もうすぐ母さんが、母が帰ってくるんだけどどうする?」

 電話を終えて戻って来た早川は、須美子の背中に向けてそんなことを言った。普通なら「えっ」となって多少慌てる場面かもしれないが、今の須美子は違った。

「柏原さん?」

「早川君」

 ぺたんと座った姿勢のまま、ゆっくりと向きを換えて立ち上がる。そして早川の顔をじっと見た。

「アルバム、見ました」

「あ? うん、別にいいよ」

「あなたがどこまで覚えているか知らない。けれども、私は思い出したわ。五年前にはくちょう座のバッジを私に譲ってくれたのは、早川君あなただって」

「――ああ、アルバムを見て思い出したんだね」

 早川は得心したように答えた。

「それってもしかして、早川君、あなたは最初から?」

「うん。転校してきたその日から。柏原さんを見た瞬間、あのときの子じゃないかなって思ったよ」

「な、なぁんだ。そうだったの」

 だからいきなり話し掛けてきたのねと思い出す。思い出して、笑ってしまった。

「でも、だったらもっと早く話してくれてもよかったのに」

「もちろんそういう風にも考えたけど、万が一、違っていたらどうしようって思うと、簡単には言い出せなくて。そうしている内に、普通に、今の君のことをどんどん好きになったから」

「――」

「その上で昔のことを持ち出した結果、違っていたり、変な風に受け取られたりするのが怖かった。それで言えなかったんだけど、あの脅しめいたメモが届いたから、これは早めにはっきりさせた方がいいのかなと思えてきて」

「それであの放課後、話し始めたのね。ごめんね、逃げちゃって」

「まあしょうがないかなって今では思える。急だったし、僕も君の方から言い出してくれないかな、気付いていくれないかなって試す気持ちがあったから。そうして見切り発車で話してみたら柏原さん、帰っちゃうから、あのときの女の子とは別人だったのかな、でも何か変な反応だったという思いでしばらくもやもやしたよ」

 それに、と早川は伸びをした。

「ああ、今思い出してくれて、凄くすっきりした」

「そっか。ちょっと遠回りしてしまったけれども、これでよかったわ」

 須美子は早川の手を取った。

「早川君。私、思い出話や他にも話したいことがたくさんあるわ」

「僕も」

「でも、さっきあなた何か言ってたよね? お母さんが戻ってくるって」

「言いました」

「……どうしよう?」

 長い間思い描いていた十字星の男の子が早川だと分かっただけでも大きな出来事なのに、彼のお母さんと初対面の挨拶をするのはなかなかにハードだと思う。ましてや、許可をもらわない内から家にお邪魔して、シャワーを浴び、着替えまで借りている。厚かましさに、景色がぐるぐる回りそうだ。

「きょ、今日は帰った方がいいかな」

「かもしれないね。服のことは僕から母さんに伝えておくから心配しないで」

 早川に微笑まれると、真に安心できた。月曜日にまた学校でねと約束し、その日は別れた。雨上がりの午後、自転車に乗っているというのに、スキップでもしているかのような気分に浸る須美子だったが、濡れた服を持ち帰ることを思うと、ちょっと気重になるのであった。


 日曜の夕方。

 とんとんかちゃかちゃと炊事の音が響くようになった頃、電話が掛かってきた。手が離せない母親に代わり、須美子が出る。元々、固定電話に掛かってくるのは、携帯端末をまだ持っていない須美子宛であることが多い。

「はい、もしもし」

「――須美ちゃん?」

 寺沢の声は、どこかほっとしたようなところがあった。親が出た場合に備えていたらしい。

「うん。何?」

「これからちょっと話せない? 直接会って」

「会って? どうしたの、何か大ごとでも起こったみたいじゃない」

 送受器を握り直し、耳に強く押し当てる須美子。寺沢はいつもに比べたらやや低いトーンで答えた。

「うん。それも会ってから話そうと思ってる。公園まで出て来られるかなあ?」

「大丈夫と思う。それに私も会いたいなって、考えていたところ」

「ほんと? じゃあ……七分後に○○公園でいい?」

「自転車を使えば大丈夫」

 電話を切ると、須美子は母親に「クラスの友達と持ち物が入れ替わってたみたい。公園まで行って、交換してくる」と伝えた。

「気を付けなさいよ。それに早く帰ってきて」

 母親はあまりいい顔はしなかったけれども、許可はもらえた。須美子はありがとうのあとに、「ちょっとぐらいおしゃべりするものよ」と小さな声で言って、外へ出る支度を簡単に済ませた。ダミーの手提げ袋を忘れずに。


 公園に着いたのは、須美子と寺沢、ほぼ同時だった。自転車を押して、車止めのある出入り口を通って中に入る。さすがに暗くなり始めていた。もう外灯が点っている。

「それでお話って」

 空いているベンチに腰掛けながら促した須美子。公園には二人の他には誰もおらず、虫の鳴き声が断続的に聞こえてきた。

「えっと、その」

 隣に座った寺沢は揃えた膝頭に両手を乗せ、やや俯き気味にしている。話しにくいことのようだ。

(この様子だと、私が先に話をした方がいいかも。なるべく気安い調子で話したいし)

 そんな考えがよぎった矢先、寺沢が口を開いた。

「実はね。あの紙切れを置いたのは私なんだ」

「――? え、紙切れって、早川君の靴入れに入っていたメモ書きのこと?」

「そう。ああ、やっぱり、早川君の方に入れちゃってたんだ」

 気まずそうにしていた寺沢だが、表所に苦笑が混じった。

「最後、ぎりぎりまで迷って、うわーってなって。早川君か須美ちゃん、どちらの下駄箱に入れたのか、分からなくなってたんだよね」

「ちょ、ちょっと待って。直美が? 何で?」

「それはもちろん、あれを見てしまってから……」

「……そうだよね、メモを書いたんだから。ごめん、今まで黙っていて」

 なるべく寺沢の方を向いて、頭を垂れる須美子。寺沢の方も恐縮したように首を振った。

「こっちも謝らなきゃいけないから。私、本当は最初から分かっていた。早川君の目が須美ちゃんの方ばかり見ているって」

「そんなことは」

「ううん。そばから見てる方が分かることもあるんだよ。ぜーったいに、早川君は須美ちゃんを気にしてた。だけど、須美ちゃんの方にその気がないなら、私にもまだチャンスあるかなって思って、気付かないふりをしてた」

「……びっくりした。けど、謝られるようなことじゃないわ」

「違うの、まだなの。転校してきた日以降も、早川君は須美ちゃんを気に掛けていて、須美ちゃんも段々と早川君をいいなあって感じるようになったでしょ?」

「……うん」

 認める。認めざるを得ない。

「それでも私は気付かないふりを続けて、須美ちゃんを試すようなことをちょっとしてみた。須美ちゃんが言葉にして認めないから、どうしようって考えてた。そんなときに、あの地震が起きて」

「直美ちゃんが目撃したのは、たまたまなの?」

「それも違う。あの日、須美ちゃんと早川君が先生の指示で、急に日番のペアになったでしょ? 私は前から気になっていたから、須美ちゃん達が二人きりになったらどんなことを話しているのか、聞いてやろうというつもりでいたの。立ち聞き、盗み聞きしようと思ったんだよ。だからごめん」

 勢いよく頭を下げる寺沢。須美子は友達がそこまで思い詰めていたのかと、驚き、感心するとともに、「謝らなくていいよ」と応じた。

「そうしたら、予想以上にショックなことが起きて。隠れながら見ていたから、全部を最初から最後までは見ていなかったのもあるけど、地震のせいでハプニング的にああなったんだなってことぐらいは、私でも想像が付いた。ただ、その時間がとても長く感じられて……最初はハプニングでも、そのあとは本気だったんじゃないかって、見えてきた」

「そんな」

 口元を指先で押さえながら、須美子はぷるぷると頭を左右に振った。

 寺沢は一つうなずき、「結局、早川君が声を上げるまで見ていて。あとは見ないで帰ったの。家でしばらく考えて、すっごく悩んだんだけど……聞いてみるのが一番じゃないかって思えてきて、それであんなメモを書いた」と舌足らずな言い回しで説明した。

「あとは早川君と須美ちゃんが、偶然かどうかは別にして、キスの形になってしまったことをみんなの前で言ってくれたら、私は須美ちゃんもライバルだと思って競争するつもりだったんだ」

 だったんだ、と過去形なのが引っ掛かる。須美子はその点を寺沢に尋ねた。

@@**

「この間の金曜日、学校で須美ちゃんと早川君に注意を向けていたら、放課後、会うっていうのが分かってさあ……また立ち聞きしちゃったんだよね」

「また……忍者になれるよ」

 驚きを通り越して呆れた須美子は、思わず冗談を飛ばした。空気が弛緩したのを感じ取ったのか、寺沢も軽口を叩いた。

「大変だったんだよ。ばれないように後を付けて、聞こえる場所に隠れるのって」

「でしょうねえ」

「――それから、聞いていたら、何故だか知らないけど、早川君の思い出話になっちゃって。どうなってるのと混乱しかけたんだけど、はくちょう座のバッジが話に出て来たときに、はっとしたわ」

「え、どうして」

 真顔で聞き返した須美子。寺沢は信じられないものでも見たかのように、目を見開いた。そして実際に口でも、「信じられない!」と叫んだ。

「むかーしだけど、須美ちゃんが言ってたよ。『前の夏休みに迷子になりかけたんだけど、どこかの男の子に助けてもらっちゃった。格好よかったなぁ』って感じで」

「え? え? 本当に? 私そんなことを」

 誰にも言っていないつもりだった。だけど寺沢が今はっきりと話したくらいだから、一度は一年生時の夏休みにおけるエピソードを打ち明けているのは間違いない。

「はくちょう座のバッジをくれた男の子が好きだとは言わなかったけれども、頼もしいとか優しいとかベタほめだったよ。ああ、好きなんだろうなって誰にでも分かるくらい」

「あ、そっか。夏休みの思い出みたいな感じで喋ったんだ。好きな男子とか、“十字星の男の子”なんて言い方はしなかったのね、私」

「何それ、“十字星の男の子”って。星の王子様みたい」

 軽く吹き出す寺沢。まあ、笑われても仕方がない。今は腹も立たない。須美子は肩の力を抜いて、「そうよ、王子様よ」と開き直って答えた。

 寺沢は「はいはい」と適当感あふれる相づちを打って、それからほーっとため息をついた。

「でね、その王子様の話まで結び付くんだったら、これはもうだめだなあって思った。早めにあきらめないとつらくなるし、早川君にも須美ちゃんにもうまく行ってほしいし、何より、須美ちゃんとずっと友達でいたいし。だから決心したの、会って全部話そうって」

「そうだったんだね……」

 ここに至った怒濤の経緯をかみしめる。

「やっぱり、私の方が悪いわ。直美はこうして全部話してくれたのに、私はそれに乗っかって話しただけだもの。今日、こうならなかったら、もうちょっと先延ばしにしていたかもしれない」

 再び頭を下げた須美子。その肩に寺沢の手が伸びてきて、半ば強引に起こされた。

「どっちもどっちってことでいいじゃん。それよか、あの放課後の話、あれからどうなったの? 途中で急にやめて帰っちゃったでしょ。理由が分からなかったから、ほんとに急用を思い出したのかと」

「違うわ。最後まで聞くのが怖くなって、逃げたの」

 しゅんとなった須美子に、寺沢が悪気のない口調で追い打ちを掛ける。

「ああ、それは早川君、ショックだったかも。避けられているように感じてさ。けど、家に帰ってから、すぐに電話したんでしょう?」

「ううん、その日は何もしなかった。メモという謎の怪文書もあったしね」

「もうそんなにいじめないでよー」

「いやいや、そんなつもりは全く」

 どうにかこうにか、深刻な雰囲気にはならずに、須美子と寺沢の大事な話は終わりを迎えたようだ。

「それでね、昨日のことなんだけど」

 須美子は早川がはくちょう座のバッジをくれた彼だったと分かったことを、短くまとめて話した。

 聞き終わった寺沢は感嘆することしきりで、「運命の恋ってあるのね」と憧れる口ぶりでぽつりと言った。


 結局のところ、須美子が早川の母親と対面を果たすのは一週間後になった。

 それまでの間、須美子と早川の仲が急速に進んだかというと、それほどでもない。学校ではいちゃいちゃできないし、どちらかの家を訪れたにしても似たようなものである。

 ならばせめて電話で話せばよいと考えるものだが、こんな大切な思い出について電話で話すなんてもったいない。二人ともそんな意識が働いた。

(だいたいさあ、中途半端なのよね)

 早川の家に自転車で向かいながら、須美子は考えていた。前かごにはお土産にと買った有名店のお菓子が入っている。なのでなるべく揺らさないように、ゆっくりとしたペースで走っている。

(私と早川君、思い出が重なることを確認しただけで、どちらかも告白していないんだもの。私は早川君が好きだし、早川君も私が好きなんだと思うけど……はっきりとした言葉で聞きたいよね)

 もうひと品、前かごのスペースを占めているのは、あの突然の雷雨の日に借りた服だ。もちろんクリーニングに出して、きれいにして返すところだ。

 なお、須美子が服を借りたいきさつを話したら、須美子の母は大笑いをしたあと、恥ずかしくないだけのご挨拶とお返しをしなさいよと言ってきた。

(こういうときって、お母さんが一緒に来て、申し訳ございませんて言い添えてくれると思ってた)

 だから直接、母に言ってみたのだが、返ってきた答にまたびっくりした。母が言うには、我が娘が服を借りたと知ってすぐに先方へ電話を入れ、一応話はついているらしい。あとはあなた次第よというわけだ。

「はあ。どきどきしてきた」

 早川家の入るマンションのてっぺんが、視界に捉えられた。

(早川君は早川君のお母さんに、私のことをどんな風に言ってるんだろう? まさかいきなり彼女だなんて言うはずないから……一年生のときに偶然会ってたんだ、ぐらいかな。それなら私もまだ話をしやすいかも)

 いよいよマンションの全景が視界に入る地点まで来た。一旦、自転車を止めて深呼吸をする。

 最終リハーサルをしておこう。『和泉君にはとてもお世話になっています、同じクラスの柏原須美子と言います。先日は雨の日に服までお借りして』云々かんぬん。

 二度目のチャレンジで淀みなく言えて、最後の踏ん切りが付いた。さあ行こう。ペダルに置いた足に力を込めたそのとき。

「――もしかして、あなたが須美子ちゃん?」

 すぐ横に赤系統の乗用車が停まったなと思う間もなく、話し掛けられた。

「は、はい?」

 振り向くと、薄い茶色のサングラスを掛けたスーツ姿の女性が、運転席から反対側のドアへと身を寄せようと頑張っている。

 須美子は一時停車の車に近付き、改めて「はいそうですが」と言った。

「どうやらそうみたいね。私、早川透子とうこ。和泉の母です」

 ええっ、予定外だよ!

 パニックを起こし掛ける須美子だったが、それではみっともないと踏みとどまった。

「はじめまして! 私は和泉君のクラスメイトで、柏原須美子です。あのっ、先日はお洋服を勝手にお借りしてすみませんでした」

「ああ、あれ。いいのよ~。着てくれて本当にありがとう」

 運転席から降りてきた早川の母は、満面に笑みをたたえながら須美子の手を取り、ぎゅっと抱きしめた。

「あ、あの?」

「サイズが合うんだったら、全部持って行ってくれてもいいのよ、須美子ちゃん。それにね、リクエストがあったら言ってみて。私、腕によりを掛けて作ってあげる。こんなに作りがいのあるかわいい子だなんて、うちの息子の見る目は確かだったわ」

「えっ」

 家庭の中ではかわいいと言ってくれてるのだろうか。それは嬉しいような恥ずかしいような。

 須美子が目の下辺りを赤くしていると、斜め前方の頭上からさらに声が飛んできた。

「遅いと思ったら母さん、何やってるのさ!」

 マンションの一室から様子を見ていた早川が見付けたらしい。

(見付けてくれたのは嬉しい。けど、大声で反応しなくたって)

 須美子はこれから早川とお付き合いをしていくことに、たっぷりの楽しみとちょっぴりの不安を覚えるのだった。


 おわり

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初恋×クロスロード 小石原淳 @koIshiara-Jun

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