果樹園SF
狂フラフープ
神果
先を行く兵士に引き上げられて、魏成は最後の岩壁を越える。
まさに桃源郷とでも呼ぶべき光景であった。
連なる岩峰を越えた先、一際高くそびえる山嶺の頂に、無数の果樹が立ち並ぶ楽園がある。それは伝承の謳う光景そのものであり、旅路の果てに魏成が皇帝の命を遂げた証である。
簒奪により帝位についた新たな皇帝は、なによりも己の正統を証す大義を求めた。
皇帝は己の腹心を各地に放ち、自らが王朝の正しき後継者であることを示す徴を探させた。無論、魏成もまたその一人である。
五国八朝の果てたる崩山のさらに北、連なる厳峰に抱かれた果樹園に、この世で唯一皇帝のみが口にすることができるという果実、『神果』が成るという。
神果は即位に際して捧げられ、帝の血肉は天子のそれとなる。広く知られる伝承も今やお伽噺の類であり、帝に捧げられるのは神果に見立てられた物珍しい異国の果実に過ぎない。
であればこそ、真なる神果を持ち帰ればその功績は計り知れぬ。
目に映る果樹はどれひとつとして見知った果実を実らせてはおらず、ぶら下がる無数の奇怪な果実の内のひとつでさえ、都に持ち帰れば物好きが大枚を叩くに違いなかった。
「――よくぞおいでになられました」
そう声を掛けられるまで、その場にいた誰もが男の存在に気が付いていなかった。
身なりからして農民ではあるまい。絹糸のような髪に整った顔立ちをした青年であったが、あまりに場違いな雰囲気からして、かえって彼の者が尋常の存在でないことを物語っていた。
男は菰游を名乗り、一行の内ひとりだけを奥へ案内すると申し出た。
魏成は連れ立った四人の兵士にその場に残るよう言い含め、菰游の背を追って果樹園の奥深くへと足を踏み入れた。
「……ここより先は神域です。決して道を逸れぬよう」
しばらく歩き、行く手を塞ぐ断崖の麓、裂け目のような洞窟の手前で、前を行く菰游が振り返らずに言った。
洞窟を抜けた先には、見上げる程に巨大な大樹がただ一本そびえている。
これこそ神樹、そしてその一枝より下がる果実こそ神果であると理解した。
促されるままに、枝より神果を捥ぐ。
その耳元で菰游が囁いた。
「この果実を口にしたものが、この世界の王となるのです」
その言葉を聞いた途端、手の内の重さが何倍にも増したようにさえ思う。
「何が言いたい」
言わずともわかりましょう、と菰游が笑う。魏成の頬を冷汗が伝う。皇帝は神果がどのようなものであるかを知らず、この場には魏成と菰游しかいない。ここで魏成が神果を口にしたとて、見たこともない奇妙な果実さえ持ち帰れば言い訳は如何様にも利くだろう。
固唾を呑み、魏成は菰游に問いを向ける。
「であれば、なぜお前は果実を口にしないのだ」
「果樹は果実を食しませぬ」
振り返れば、菰游は忽然と姿を消していた。
ひとり残された魏成の手の内に、神果が怪しげな輝きを放っている。
菰游から許可を得た故、魏成が手ずから働きを労おうと伝えたとき、兵士たちは一片の疑いも見せずに切り分けた果実を平らげた。
その中の一欠けをどの兵士が食したかを、魏成は違わず見届けた。
やがて意識を失い昏々と眠り始めたその兵士が、再び動きを見せたのは夜も更けてからのことである。
おぼつかぬ足取りで天幕を抜け出す兵士を魏成が追うと、果たして兵士は神樹へと続く洞穴へと迷わず向かう。
洞穴の先の神樹には、その背面に大きな虚がある。昼間は気付かなかったが、ちょうど人ひとりが収まるほどの大きさだ。兵士はそこへ躊躇なく身を滑り込ませると、洞の中で動きを止めてしまった。
神樹が蠢き、虚が閉じていく。
それから、神樹は大きなひとつの実を付けた。
神果ではない。
僅かに透ける果肉の向こうに、膝を抱えた人の影が見て取れた。
果肉に剣を宛がい、切り開く。
兵士だ。虚に呑まれた兵士が、神樹に成った果実の中から姿を現した。
目を開けてこちらを見上げ、兵士は訳もわからぬとばかりに困惑した声を上げた。
「魏成様? ここはいったい?」
あまりに理解からかけ離れた出来事に、魏成は思わず剣を突き付け兵士に問うた。
「何があった。包み隠さずすべて話せ」
「覚えているのは、魏成様が振舞ってくださった果実を口にしたところまでです」
怯えながらも弁明する兵士の言に、嘘があるようには思えなかった。
お互い言葉を失くして沈黙していると、洞穴の方から声がした。兵士と魏成の不在に気付き、痕跡を追って他の者が追い付いたのだ。
何事ですかと尋ねられて、魏成はやむを得ず剣を収める。
なんでもない、と口にして、夜明けとともに帰途に就くよう、皆に命じた。
都へと引き返す道中、魏成は神果を口にした兵士を見張っていたが、兵士はまるきり怪しい様子など見せず、なにひとつこれまでと変わりがなかった。
他の兵士との会話を聞いていても、話が食い違うこともなく、散々難航した往路の苦労話を飛ばし合う。話はすべて、魏成の記憶とも一致するものだった。
あの神樹での出来事がいったい何であったのか。
魏成は頭を捻り、何度もあの夜見た光景を反芻する。
虚に食われた兵士と、目の前のこの男は果たして同じものなのか。兵士が別の存在にすり替わっているとして、果たして何かを企んでいるのだろうか。
あの神果は、本来であれば皇帝が口にするはずのものであった。ならば、皇帝に成り代わるのが目的であろうか。
成り代わる? そう考えて、誰が皇帝に成り代わろうというのかという疑問に突き当たる。果樹園にいた奇妙な男、菰游であろうか。だとすれば何故、菰游は神果を口にするよう魏成を唆したりしたのであろう。
考えあぐねている内に、山道は人家の間を縫い始め、答えが出ぬまま山々の麓の城市に辿り着いてしまった。
しかしながら、あの人だかりは何であろうか。
近付くにつれそれが皇帝麾下の、見知った将軍の部隊であることが見て取れた。こちらに気付いた歩哨が駆け寄ってきて、魏成らを留めて人を呼びに走る。
待たされると想像したよりずっと手早く、部隊の長は姿を見せた。
「お久し振りです李俊将軍。しかし何故このような場所に」
報告の文を欠かすことはなかったし、果樹園への大きな手掛かりを得たとは伝えてはいたが、それにしても軍を寄越す理由が思い付かない。渋面の将軍は魏成だけを伴って、供回りも付けぬまま天幕の奥深くへと進んでいく。
その寝台に横たわっているのが、皇帝その人であることを飲み込むのに、魏成はしばしの時間を要した。その皇帝が既に物言わぬ骸と化していることを受け入れるのには、その更に数倍の時間が必要だった。
「――病床の陛下の、神果へのこだわりようは尋常ではなかった」
李俊がゆっくりと語る。
「陛下は明らかに、何かを知っておられた。答えよ魏成。神果とはなんだ」
李俊の剣呑な目は、下手な返答をすればすぐさま首を刎ねてやるという意志を満ち満ちと伝え、故に魏成は背嚢より一部の欠けた神果をその眼前に置いて言った。
「将軍も私も、陛下の後ろ盾なくば破滅は避けられぬ身。ここはひとつ、腹を割って話しましょうぞ」
断崖に張り付くようにして綱を引く兵士たちは、自分たちの運ぶ荷物が皇帝の遺骸であるとは夢にも思うまい。一団を先導する魏成は背後を見返しながら、なんとも恐ろしい話になったものだと震えを殺す。
荷の中身と目的を知るのは、魏成を除けばすぐ隣を行く李俊将軍のみである。
魏成と李俊、それから李俊の部下の一団が果樹園へとたどり着くのに、丸五日を要した。懸念した亡骸の腐敗が進まなかったのは、切り分けた神果が腹の中にあるからであろうか。
菰游の姿は、やはりどこにもなかった。
李俊と共に遺骸を引きずって、洞穴を抜け、神樹の下へたどり着く。
神樹の裏で再び口を開ける虚へと、皇帝の骸を収めると、果たして虚は以前と同じように口を閉じ、神樹はその枝に人間一人分の大きさの果実を垂らした。
皇帝の実である。
あまりの出来事に気圧される李俊を叱咤し、ふたりで果実を切り分ける。
中から出てきた皇帝は、明らかな生者の血色を湛え、魏成たちの目の前で身じろぎをした。
「陛下……!!」
喜色を露にする李俊の傍らで、魏成は皇帝の目に浮かぶ明らかな困惑の意味するところを、慎重に測っていた。皇帝は、自らの目の前に居るはずのないものに向ける目を、魏成でなく李俊に向けていた。
「……何を覚えているか、話していただけますか?」
魏成の質問に、皇帝は躊躇いと当惑を滲ませながらもおずおずと口を開く。
「覚えているのは、魏成様が振舞ってくださった果実を口にしたところまでです」
その言葉の意味するところを理解して、魏成はまず李俊の首を刎ねた。それから皇帝の首を刎ね、次に神樹に実る神果を捥ぐと、ひと口かじり、神樹の虚へと潜り込む。
意識が遠のき、目が覚めると身体は何かに覆われている。
身体を覆う果肉を両の手で掻き分けて、魏成は外の世界へと生まれ出でた。
目の前には思った通りに二つの死体が並んでいる。
李俊と、皇帝。いや、皇帝の姿をした兵士の死骸だ。魏成はほくそ笑み、神果の残りを皇帝の姿をした兵士の死骸の腹に納めると、再び開いた神樹の虚へ押し込んだ。
やがて神樹は実を付け、切り分けた果実からは再び皇帝が転がり出る。
「お前は私だな?」
問い掛けに対して皇帝は首肯し、ゆっくりと立ち上がる。
自分自身に手を貸しながら、魏成はにこやかに言った。
「どうした私よ。それとも陛下とでも呼ぶべきか? 全て目論見通りだ。もう少し嬉しそうにしたらどうだ」
「いや、少し考え事をな。それより、あれはなんだ」
そう言って、皇帝の成りをした自分が指を差す。振り返った先には洞穴があるが、特におかしなところはない。
いったい何を指差したのか自らに尋ね、それから魏成は背後から首を裂かれ死んだ。
果樹園SF 狂フラフープ @berserkhoop
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