ときじくのかぐのこのみ

香久山 ゆみ

ときじくのかぐのこのみ

 おばあちゃん家の縁側で、ユマは将棋盤を挟んでパパとにらめっこする。胡坐をかいたパパの膝の上では、小さなカグが大きな欠伸をしてちょこんと眠っている。ぽかぽかした陽射しが温かい。傍らではおばあちゃんがうふふと将棋盤を覗きながらミカンを食べている。

「ユマちゃんも食べるかい?」

 おばあちゃんがミカンを差し出す。ユマもパパも受け取って、皮を剥いて頬張る。カグがふんふん鼻を動かし、パパの指をぺろりと舐める。ユマは白いすじまで全部取ってから食べる。すっぱー! 口をすぼめる。本当はユマはミカンが好きじゃないのだ。噛み切れない薄皮をしばらくもぐもぐしたあと、思い切って飲み込む。おばあちゃんのくれたミカンを、ゆっくりゆっくり食べる。

 将棋に飽きると、ユマとおばあちゃんはおしゃべりする。パパとカグは仏壇の部屋でぐーすか昼寝している。おばあちゃんはあまり自分のことを話さない。ユマが話す学校のことや友達のことを、にこにこ嬉しそうに聞いている。陽だまりの中で。おばあちゃんの家で過ごす時間はいつものんびりしている。

 けれど、それも昔のおはなし。

 最近のおばあちゃんはおしゃべりだ。とてもよく話す。何度も何度も同じ話を繰り返す。ママはうんうんと何度でも話を聞いてあげているけれど、ユマは退屈だ。だって、すごい昔々の話ばかりするんだもの。

「戦争が終ったばっかりの時にね、仏師だった父ちゃんがまだ小さいあたしに仏像をあげると約束したのにね、店先に飾っていたその仏像を進駐軍が欲しいと言って渡しちゃったのよ。あたしは結局父ちゃんに仏像をもらえないまま嫁いで……」

 おばあちゃんは話しながらポロポロ涙を溢す。ミカンがのったコタツを囲んで、仏間は薄暗い。ユマはそっと抜け出して、日当たりのいい縁側に寝転ぶ。そうだ、今度の敬老の日には、明るい色とりどりのお花と、美味しいお菓子をプレゼントしよう。まどろみながらそんなことを考える。ユマは、おばあちゃんが大好きなのだ。

 しかし、その翌月、敬老の日を迎える前におばあちゃんが入院した。

 ユマにはおばあちゃんの病気の詳しいことは分からなかったけれど、深夜に階下からひそひそ聞こえる両親の話し声がざわざわとユマの心を不安にさせた。

「……思っていたよりもずいぶん悪くて……」

「……もう、あまり……」

 ユマは何も知らない、何も分からない。けれど、心臓がドキドキと早鐘を打ち、時間がない時間がない急がなきゃ急がなきゃ、なぜだかそんな思いに囚われた。どうしようどうしよう、なんとかしなくちゃ!

 そんな折、ユマは商店街でこんな話を耳にした。

「欲しいね欲しいね、あれが欲しいね」

「ときじくのかぐのこのみ、あれがあったらね」

「あれさえあれば、不老長寿も思いのままさ」

 誰が話していたのだか、まるで思い出せない。けれど確かに聞いたのだ。「ときじくのかぐのこのみ」というものさえあれば、長生きできるのだと。おばあちゃんを助けることができるかもしれない!

 居ても立ってもおられず、ユマは駆け出した。

 とたんに、何かにぶつかって、ドシーンとしりもちをついた。

 顔を上げると、目の前に同じようにしりもちついて「あいたたた」とおでこをおさえる少年がいた。幼馴染のカズヤだ。

「いってえー、急に振り向いて走り出すなよ」

 ユマに気づいたカズヤが背後から声を掛けようとしたところ、振り返ったユマとぶつかったのだ。

「ごめん、ごめん」

 カズヤに手を借りて立ち上がりながら、謝る。

「そんなに急いでどこ行くんだよ。……あ、おばあちゃんのところか?」

 家族ぐるみで親しいので、カズヤも事情を知っているのだ。

「ううん。ちがう」

「はっ?」

 はっきりと答えたユマに、カズヤが驚く。

「ねえ、カズヤ。ときじくのかぐのこのみ、って何か知ってる?」

「何それ。聞いたこともないよ。それより……」

「私、探しに行かなきゃならないの。これがあればおばあちゃんを助けることができるかもしれないから」

「は、何言ってんだよ。おばあちゃん今、入院してるんだろ。早く会いに行ってあげないと……」

「だから、私は今からときじくのかぐのこのみを探しにいくんだってば」

「ばか! 一緒におばあちゃんとこ行くぞ」

 カズヤが掴んだ腕を、ユマは振り払った。

「ばかって言うほうがばかなんだから!」

 カズヤをつきとばして、ユマは商店街を駆け抜けた。背後から、再びしりもちついたカズヤが「ばか!」と叫ぶ声がしたが、ユマは走り続けた。

 走って走って走り続けたユマは、気づくと薄暗い竹やぶの中にいた。

 さわさわさわ。人気のない竹やぶに笹の葉が揺れる音だけがこだまする。ユマはゆっくりと竹林を進む。あの子に、会いに来たのだ。あの子ならきっと私を助けてくれる。

「カグ、いる?」

 辺り一面に緑の竹が揺れる中、ユマはおそるおそる声を出した。そしてじっと息をひそめて、耳を澄ました。

 すると。

 奥の一際しなやかな竹が揺れて、その根元から小さな影が現れた。

「ユマちゃん!」

 小さな影は、とことこと真っ直ぐにユマの胸に飛び込んできた。あたたかくてふわふわの体。ちぎれんばかりにしっぽをぶんぶん振っている。

「カグ!」

「ユマちゃん!」

 よかった、またカグに会えた。

 ユマはほっと安心した。カグと一緒なら、きっと見つけられる。

 ユマはカグに、おばあちゃんの体調が悪いことを告げた。「そっか、おばあちゃんが……」カグがかなしげな顔をする。だからほらきっと、カグなら協力してくれる。

「でもね、ときじくのかぐのこのみがあれば、おばあちゃんは長生きになるんだよ!」

 ユマはカグに熱弁する。だから一緒に探しに行こう!

 なのに、カグはさっきよりもいっそうかなしそうな顔をした。クゥ~ン……と、しっぽを垂れる。

「カグ、どうしたの?」

「あのね、ユマちゃん。ときじくのかぐのこのみが何なのか、カグは知らない。おばあちゃんのことも大好きだよ。でもね、ユマちゃん。どうしたって仕方のないことってあるんだよ。……知ってるでしょ」

 カグが真っ直ぐ真剣な眼差しでユマを見つめる。ユマもじっと見つめ返す。泣いちゃいそうだ。涙をこらえて、ぎゅっとこぶしを握る。

「……知ってるよ。分かってる。でも、もうあんな後悔したくないの。私にできることなら、ぜんぶやりたい」

 ユマが震える声で言う。

「本当にそれでいいんだね」

「うん」

 ユマは大きく頷いた。「分かった。カグも手伝うよ」と言って、カグはユマの顔をペロッと舐めた。ありがとう。カグ、大好き。カグもユマが大好きだから、一緒に行ってくれるのだ。人間と犬だけれど、ふたりは姉妹で、大切な家族なのだ。

 ところで、さて。一体どこへ行けばいいのだろう。ふたりとも、「ときじくのかぐのこのみ」が何なのかさえ知らないのだ。

 ひとまずあそこに行ってみよう。

 ふたりは竹やぶを抜けた里にある小さな家に向かった。

「こんにちはー」

 大きな声で玄関先から中に向かって声を掛ける。家の中はどたばたとにぎやかな様子。しばらく待つと、おじいさんが出てきた。

「おお! こんにちは」

 息を切らせたおじいさんが笑顔を向ける。赤ん坊がやんちゃで家中動き回って大変なのだと、応対が遅れた非を詫びた。ももちゃん、ももちゃん、と奥からはおばあさんの黄色い声と、きゃっきゃとはしゃぐ幼い笑い声が聞こえる。小さな家はしあわせに満ちている。

「どんなご用かね」

 おじいさんに、ユマは事情を説明する。ときじくのかぐのこのみを知りませんか?

「ふーむ、じくじくのかずのこ? 知らんなあ」

 おじいさんは首を傾げる。

「しかし、あいつなら知っているやもしれん」

 博学の物知りがおるんじゃ。そう呟くと、おじいさんは海岸までの道のりを説明してくれた。

「おじいさん、ありがとう。行ってみます」

 お礼を述べて、ユマとカグは海岸へ向かった。

 ふたりは里山を行く。緑いっぱいののどかな風景。ユマとカグは同じ足並みで進む。知らない道も、ふたりで歩けばへっちゃらなのだ。おじいさんに教えてもらったとおり、小道にぽつぽつと咲く白いハマユウの花を辿っていくと、じきに海岸へ出た。

 潮風にカグがぴくぴくと鼻を動かす。真っ白な砂浜に足跡がつくのが面白くて、ふたりは少しだけきゃっきゃと走り回った。

「あ」

 ふと、砂浜にユマとカグ以外の足跡があることに気づいた。ふたりよりも大きな足跡。パパと同じくらいだから、大人の男の人のものだろうか。クンクンと、カグが身をかがめて足跡のにおいを嗅ぎながら慎重に進む。においを嗅がなくても足跡が続いてるのがくっきり見えてるんだけどなあ、と思いながらも、砂につくカグの小さな足跡とふりふり揺れるおしりが可愛くてユマは黙ってカグのあとを追う。

 岩場を越えたところで、カグが立ち止まった。ユマも岩場の先を覗く。

 一瞬、白髪の老人が倒れているように見えてユマは思わず身を乗り出した。けど、違った。背の高いもじゃもじゃ頭のおじいさんが、しゃがみ込んで木の枝で砂にがりがりと一心不乱になにやら書きなぐっている。数式のようだが、ユマが見たこともないヘンテコな記号でいっぱいだ。岩場からふたりが覗いていることにもまるで気づかない。あまりに夢中でがりがり砂を削るものだから、口の中に砂が入ったようで、おじいさんはわわわっと立ち上がって、ぺっぺっとつばを吐いている。そこでようやくユマは声を掛けた。

「こんにちは!」

 おじいさんはぺっと舌を出したまま、顔を上げる。ぎょろりと大きな目で、岩場に立つユマを見上げた。ふとユマはその顔をどこかで見た気がしたが、いっこう思い出せなかった。

「おお、こんにちは」

 ユマの姿を認めると、おじいさんは笑顔を向けた。

「何か用かな?」

「あの、ときじくのかぐのこのみを探しているんですけれど、知りませんか?」

 ふむ、おじいさんは腕を組み大きな目で左上の空間を見つめてじっと考えた後、「知らないなあ」と答えた。

「その、ときじくのかぐのこのみとやらについて、もっと詳しいことを教えてくれないかい。どんなものなのか。特徴とか。どんな目的で必要なのか」

 そうすれば、名前を知らないだけでじつは知っているものかもしれないし、そうでなくても、何かべつのヒントを出してあげられるかもしれない。そう言って、おじいさんは大きな目でユマをじーっと見つめる。ユマはしどろもどろ緊張しながらも一生懸命に説明した。

「あの、私もそれがどんなものでどこにあるのか全然分からないんです。ただ、それがあると長生きできるって聞いて。それでええと。私のおばあちゃんがいま具合が悪くて入院してるんだけど、それがあれば病気も良くなって長生きできるようになるんじゃないかって、そう思って……」

「なるほど」

 おじいさんはじっと目を閉じて静かに息を吐いてから、ぱちっと大きな目をユマに向けた。

「ひとつ、僕の話を聞いてもらえるかな」

 ユマはこくんと頷く。カグもユマのそばに大人しく座っている。

「僕はね、昔この砂浜で亀を助けてその礼に海の向こうの楽園へ連れて行ってもらったことがあるんだ。美しい歌に踊りに美味しいごちそう、それはそれは素晴らしい場所で、つい家のことも忘れて過ごしてしまった。そうして数日後、砂浜に帰ってきた僕は驚いた。辺りの景色がずいぶん違っている。僕は数日だけ留守にしたつもりが、こっちではずいぶんな時間が経ってしまっていたのだよ」

 嘘みたいな話。だけど、おじいさんの瞳は揺らぎもせず真っ直ぐだ。

「一体全体どうしてそうなってしまったのか、訳が分からない。そこで僕は、事態を解明するために研究を始めたんだ」

 おじいさんが足元を指す。砂浜にはびっしりと数式が書き広げられている。ユマはまだ子どもだから、その数式のどれ一つだって理解できなかった。

「そうして閃いた。あの楽園は波に揺られてつねに動いていた。そこから推論し、計算を重ねてようやく考えついた。――速く動くものほど時間はゆっくり流れるんだ」

「速く動くものほど、時間はゆっくり流れる……」

 ユマはおじいさんの言葉を繰り返した。それってつまり、いっぱい運動すれば長生きするってこと? ユマは閃いた!

「おじいさん、ありがとう!」

 こうしちゃいられない、ユマは立ち上がると、おしりの砂を払いもせずに駆け出した。砂浜って走りにくい。「ちょっと待ちなさい、話はまだ終っていない……」おじいさんが呼び止めるのも聞かず、ユマは駆けた。

 走って走って走って……、ユマはおばあちゃんの入院する病院に辿り着いた。

 真っ白な病室の真っ白いベッドの上におばあちゃんは眠っていた。病室の隅のパイプ椅子にパパが座っている。ママは必要な書類を取りに帰っているのだという。数週間の入院で、もともと小柄だったおばあちゃんの体はさらに小さくなった気がする。細くて柔らかくてしわしわの腕には点滴のチューブが繋がっている。ユマは、ぎゅっと口を結んだ。それから、勇気を出して口を開いた。

「おばあちゃん」

 白いシーツはぴくりとも動かない。だから今度はもっと大きな声で呼んだ。

「おばあちゃん!」

 おばあちゃんがゆっくり首を動かす。ユマの姿を捉えると、かさかさの唇が微かに動いた。けれど、その声はユマの耳まで届かなかった。けど。かわいいユマちゃん、きっといつもみたいにそう言った。ユマは胸がきゅうっとなった。

 ベッドまで駆け寄り、点滴を射していない方の手に触れた。ひんやりしている。おばあちゃんはふっと微笑んで、点滴の手をそっと動かそうとしたけれど、途中で諦めた。ユマはおばあちゃんの手をぎゅっと握る。

 次の瞬間、さすがにおばあちゃんも目を見開いた。ひゅっと息を洩らした。

 ユマは、握ったおばあちゃんの腕をばっと持ち上げたのだ。それから布団をめくって、足も動かそうとした。

「おばあちゃん、動いて。散歩いこう。いっぱい動いたら長生きになるんだよ」

 ようやく異常事態に気付いたパパが慌てて椅子から立ち上がる。

「ユマ! よしなさい!」

 それでもユマはおばあちゃんの体を揺すった。駆け寄ったパパに引き剥がされるぎりぎりまで、おばあちゃんの手を離さなかった。

「何するんだ!」

 パパに怒鳴られて、ユマは俯いたまま顔を上げなかった。涙が流れてしまいそうだったから。分かってる。もう今はおばあちゃんはいっぱい動くことはできない。だからやっぱり、ときじくのかぐのこのみを探すしか方法はないのだ。

 ユマちゃん。

 囁くような声が聞こえた、気がした。顔を上げると、パパはくしゃくしゃになったシーツを直していてその声には気付いていないようだ。確かにおばあちゃんの声だった。おばあちゃんの顔を見つめると、さっきあんな無茶をしたにも関わらず、ユマに向かって微笑んでいる。小さく口が動く。ありがとう。そうユマに届いた。けど、ユマはまだおばあちゃんのために何もできていない。ユマのことをいつもかわいがってくれたおばあちゃんのために。

 時間がないのに。ふとそう思ったのは、おばあちゃんの枕元の置時計が目に入ったからだ。何年か前の敬老の日にユマがプレゼントしたものだ。その時計の針は深夜を指している。外はまだ午後の日が射すというのに。昨日電池を交換したところなんだけどな、パパは言った。壊れているのだ。

「行ってくる!」

 時計を手に取ると、ユマは病室を飛び出した。

 壊れてしまったおばあちゃんの時計。そのせいでおばあちゃんは昔話ばかりするようになったり、未来の時間が足りなくなったりするのではないか。だから、直さなきゃ。

 病院を出て、商店街の一番奥の時計屋へ向かって、走って走った。

 走りながら考えた。どうして時間は平等ではないのだろう。私達は永遠ではないのだろう。時間って、怖い。時間とは何なのか。私達はどこから来てどこへ行くのか。ユマは一日お休みがあればなんだってできると思う。十分の休み時間でさえ校庭でドッチボールして遊ぶ。でも、ママはいつも時間がないって言っている。おばあちゃんなんて縁側でぼーっとしてたら一日が終っちゃうなんて言っていた。大人と子どもでは時間がちがうのだろうか。人間は八十歳くらいまで生きるけど、犬は十数年しか生きられない。なのに、私達は同じ時を刻む時計を持っている。どうしてどうしてわからないわからない。

 ぐるぐると考えているうちに、いつの間にか時計屋に辿り着いていた。

 蔦の絡んだ木のドアをぎいいっと開ける。店内には棚の中、床の上、壁掛け、天井から吊るされて、無数の時計がコチコチカッチン時を刻んでいる。

「いらっしゃい」

 いつの間にかユマの目の前に小さな腰の曲がった魔女みたいなおばあさんが立っている。ユマはおばあさんに置時計を差し出した。

「この、おばあちゃんの壊れた時計を直してください!」

 魔女のおばあさんは時計を受け取るとまじまじと眺めて、ひぇっひぇっひぇっと笑った。

「この時計はもう直せないよ。部品がくたびれちまってる。よほど大切にずっと使っていたんだろうねえ」

「そんな。部品を交換して、直してください」

「ひぇっひぇっ。けど、新しい部品と入れ替えちまうと、これはもうあんたのおばあちゃんの時計じゃあなくなっちまうよ。思い出を留めた部品を交換しちまっていいのかえ?」

「でも……」

 両手の上に返された時計をユマはじっと見つめる。しゅんと涙声になる。

 コチコチカッチン、店中の時計の音が騒々しい。ふと見上げると、先程まで同じ時間を刻んでいたはずの時計の針たちは、いつの間にかそれぞれてんでバラバラに動いている。ゆっくり進む針、速く進む針、止まった針、くるくるくるくる回り続ける針。ぽかんと見上げているとおばあさんが言う。

「いろんな時計があるけれども、この世界の時計はうしろには戻らない。おじょうちゃんは先へ進むしかないのさ」

「けどどうしてもおばあちゃんを助けたいの。なのに、ときじくのかぐのこのみだって見つからないし」

 ユマが呟くと、おばあさんが大きな目をぎょろりと向けた。

「ときじくのかぐのこのみを探しているのかい?」

「え。おばあさん知ってるの」

 おばあさんはひぇっひぇっと笑う。

「知ってるさ。非時香木実ときじくのかぐのこのみは、永遠に枯れない木の実だよ。それを食べると不老長寿になるという」

「どこにあるんですかっ」

 前のめりで質問する。

「無謀なことは考えなさんな」

「無茶でもどうしても手に入れたいの!」

 若いねえ、ひぇっひぇっ。教えてやろうかね、それでどうするか決めるのはおじょうちゃんさ。歌うように呟いて、魔女のおばあさんは教えてくれた。

「ときじくのかぐのこのみは、になるのさ。あの世界のどこにあるかは知らないけどね。それでも行くのかね」

 ユマは力強く頷いた。

 おばあさんに案内されて、店の奥の大きな柱時計の隠し扉をユマは一人くぐった。

 柱時計の中の真っ暗な道を進む。

 いつの間にかユマの手は懐中時計を握りしめている。チクタクチクタク。

「時間を恐れるたあ、おじょうちゃんも大人になったねえ」

 背後でおばあさんの声が遠く聞こえた。

 暗闇を進む。気配はないのにあちこちから声が聞こえる。時間がない時間がない急がなきゃ急がなきゃ、チクタクチクタク、ワニだワニだ、怖い怖い、時間よ止まれお前は美しい……。声たちは時間を恐れ、懇願する。それでも時間は止まらない。ユマも振り返ることなく先を急いだ。

 走って走って走って、足がもつれて転んで、顔を上げたらそこはすでに竹林の中だった。

「大丈夫? ユマちゃん!」

 カグが駆け寄って、ユマの足をぺろと舐める。うん、大丈夫。すぐに立ち上がったユマの足元に、カグはちょこんと座って見上げた。

「……ユマちゃん、戻って来ちゃったの?」

「当たり前だよ」

「おばあちゃんのそばにいてあげなくてよかったの」

「私は、おばあちゃんを助けたいんだよ。ずっと一緒にいるために。カグ、分かるでしょ」

 カグは少し困ったように静かに微笑んだ。

「カグは、ユマちゃんの力になりたい」

 それでふたりは再び出発した。

 とはいえ、ときじくのかぐのこのみがどこにあるのか見当もつかない。そんな木の実は聞いたこともないのだもの。ユマとカグはうんうん唸った。そしておずおずカグが口を開いた。

「ねえ、ユマちゃん。砂浜のおじいさんに会いに行こう?」

「え。でも、あのおじいさん、知らないって言ってたじゃん」

「うん、でも……」

 カグが真っ直ぐユマを見つめる。かわいい瞳で。

「なんとなく、あのおじいさんにもう一度会いたいんだ」

「本能?」

「うん、それ」

 じゃあ行こうか。二人は砂浜に向けて出発した。

 散歩する時にはよく、カグが行きたい方向にまかせてユマはついて行った。カグはユマの知らない道でもぐいぐい進む。それでさんざん行った後にふと足を止めて、ユマを見上げるのだ。どうしようユマちゃん、道が分かんなくなっちゃった。そんな時には今度はユマが前を歩き、家路を辿ることになる。ふたりで歩けばどんな道だって怖くなかった。

 砂浜への道は迷うことがなかった。白いハマユウの花を辿ればよかったから。

 砂浜へ着くと、おじいさんはいた。砂浜に数式を書いたりはせずに、海を見つめてぽつんと座っていた。

「おじいさん!」

 振り返ったおじいさんはふっと笑った。

「戻ってきたのか。……会いたかったような、会いたくなかったような。複雑な気持ちだよ」

 ずいぶん長いことそうしていたのであろう、おじいさんの足元には砂で作った人形が何体も並んで、慰めるように祈るようにおじいさんにそっと寄り添っている。ぱっぱっとおじいさんは手の砂を払って立ち上がる。

「時間は、止めることも戻すこともできなかっただろう」

「うん」

「僕もずっと計算したけれど、どうにもならなかった。だから後悔ばかりしている。家を離れて一人で海の向こうの楽園に遊びに行ってしまったこと。その間に両親達はいなくなってしまった。その謎を解明するために来る日も来る日もずっとこの砂浜で計算し続けた。けれど、本当はそんな答えの出ない問題よりも、もっと大切なことが、寄り添うべき人があったのじゃないか。僕は大切な時間を大切な人のそばにいるために使うべきだったのではないかと、後悔してるんだ」

 おじいさんは白い眉毛をしょぼんと八の字に垂らした。カグがおじいさんの足元にそっと座る。顔を上げてユマをじっと見上げる。カグもおじいさんと同じように思っているのだ。ユマはおばあちゃんのそばにいるべきだと。でも、ユマは曲げない。絶対にときじくのかぐのみを手に入れる。もう誰も喪いたくないから。二度と同じ後悔をしたくないから。カグの時みたいに。

 ユマはおじいさんの手をぎゅっと掴む。

「おじいさん、それでも私は行きます。ときじくのかぐのこのみが何なのか分かったのよ。ときじくのかぐのこのみは、木の実なの。ただ、その在り処は分からないんだけれど」

 瞬間、おじいさんの目が真ん丸に見開いた。閃いたのだ。

「そうか、そうだったのか!」

 おじいさんは砂浜の上をぐるぐる歩きながらぶつぶつ独り言をいう。

「僕がね、海の向こうの楽園に出発する時に、塩水で喉が乾くといけないからどうぞこれをお食べなさいと、亀から果物を渡されたんだ。黄金色の丸い果実。そうか、あれがときじくのかぐのこのみだったのだ。だから僕は、他の人間よりも老いることなく楽園での時間を過ごしたのだ」

「おじいさん、ときじくのかぐのこのみを食べたの? 亀が持ってるの? どこにいるの?」

「いや、その果実は、楽園へ向かう途中で小さな島に立寄って手に入れたんだよ。ここから西へ舟を進めると辿り着くだろう」

 けれど、舟なんてない。どうしよう。河口近くまで行くと舟が出ているとおじいさんが教えてくれた。お守りにこれを持っていきなさい。小さな木の人形を渡されて、ユマとカグは河口へ向かった。おじいさんはふたりの背中をいつまでもいつまでも見守っていた。

 船着場には二隻の舟が泊まっている。

「いらっしゃいいらっしゃい、どうぞこっちの木の舟にお乗りなさい。軽くて速いよ」

「おいでおいで、こっちの土の舟に乗んなされ。重くて丈夫だよ」

 兎が木の舟、狸が泥の舟の船頭をしているらしく、それぞれ元気に呼び込みしている。ユマは迷わず速い木の舟を選んだ。チェッと舌を出しながら狸も木の舟に乗り込んでくる。「でもこのエンジンはおいらが作ったんだからね」と狸。「狸は手先が器用だからなあ。器用に土を捏ねて丈夫な信楽焼を作るんだぜ」兎が言うと、狸がえへへと頭を掻く。「でも、舟漕ぐ技術じゃあ兎どんの右に出る奴はいないじゃないかあ」、今度は兎がえへへと頭を掻く。二匹は仲良しのようだ。

「おっと、お嬢さん。出発には船賃をいただかなきゃあ」

「え。私、お金を持ってきてない。でも、行かなくちゃならないの」

「困るなあ」

 と、兎はユマのポケットからシャランとこぼれる銀の鎖に気がつく。

「お嬢さん、いいものを持ってるじゃねえですか。ここには時間というものがないからね、それはたいへん珍重なものだ」

 そう感嘆する兎に、ユマは迷わず船賃として懐中時計を差し出した。兎は上機嫌でそれをチョッキのポケットにしまった。

「ほい、エンジンの準備ができたよ」

 狸が声を掛ける。

「じゃあ、行きますか」

「せーの!」

 兎と狸が声を合わせると、舟はびゅんと海へ飛び出した。

 舟は海岸線を西へ進む。潮風を受けて、ユマの髪もカグの耳も兎と狸のチョッキもパタパタ靡く。カグはぐっと顔を上げて鼻をクンクンしている。ユマも真っ青な空と海にじっと目を凝らす。とても小さい島だといっていたから、見落とさないようにしなきゃ。

「ワン!」

 カグが大声を上げる。あそこ! 見ると、海岸の果て、大海原に出るちょうど手前に小さな岩礁があり、一本の木が生えている。こんもりと緑の葉が茂るうちにぽつぽつと黄金色の丸い実が見える。あれが――。

「兎さん、あの島につけて!」

「あいよ!」

 ぐっと舟が旋回する。全速前進、ぐんぐん島に近づく。あと少し、というところで、急に舟がうしろに流されはじめた。

「いけねぇ、差し潮だ」

「エンジンも効かないよぉ」

 兎が懸命に舵を切り、狸が必死にエンジンを吹かす。だが、舟はみるみるときじくのかぐのこのみの島から遠ざかっていく。ぐるぐると渦に巻き込まれるようになす術もない。

「こいつぁ駄目だ。河口まで流れが逆流している」

「きっと誰か川を渡る人がいるんだよぉ」

「ちっ、巻き込まれちゃいけねぇや」

「もう巻き込まれてるよぉ」

 ユマもカグも船べりにしがみつくよりほかない。舟はすでに河口まで戻され、さらに流れに乗って川を遡っていく。「よし、ようやく流れから抜けられそうだぜ」兎がそう言った時、

「ワンワン! ユマちゃん、あれ!」

 カグが声を上げた。飛ばされないようカグの体を支えながら、ユマも顔を上げる。川に立ち上る靄の向こうに影が見える。川を渡ろうとする大きな舟。その舟の乗客に見覚えがあった。

「おばあちゃん?!」

 向こう岸へ渡る舟に乗っているのは、間違いなくユマのおばあちゃんだった。おばあちゃんはユマに気付かない。

「兎さん、あの舟に近付けて」

「なんだって? せっかく流れから逃れられそうなのに。駄目だ駄目だ。向こう岸に渡るってのがどういうことだか分かってんのか。帰ってこられなくなっちまうぞ!」

「分かってるよ! だから、お願い! おばあちゃんを引き戻さなきゃ!」

 懇願して兎の櫂を奪わんばかりのユマの肩は、うしろから狸に抑えられた。兎はほっと息を吐く。ユマはじたばたもがくけれど、狸の力は強くて振りほどけない。狸は言った。

「あの舟へ向かって進んでやっておくれ」

「なんだって?! 冗談だろ!」

 狸は落ち着いた声で言う。

「なあ、兎どん。もしもお前さんが向こう岸に渡ろうとしていたら、おいらもお嬢さんと同じようにお前さんを引き戻しに行くだろうさ」

「ば、ばかやろ。おれだってそうさ。……くそ、分かったよ。けど、チャンスは一度だけだぞ。じきに潮の流れが変わる。あの舟に近づけるのはたった一度だけだ」

 兎はピンと耳を立てると、舳先に立って、櫂を深くまで突き刺した。

「いくぜ、相棒!」

「ほいさ!」

 兎の刺した櫂を軸にして、舟がぐりんと回る。瞬間、狸がエンジンを燃やした。ぐ、ぐん! 舟がまた川を上る。おばあちゃんの渡し舟に近づく。ぐんぐん近づく。靄が切れて、おばあちゃんの姿を顔をはっきり捉える距離まで近付いた。

「おばあちゃん!」

 ユマが舟から身を乗り出し叫ぶ。おばあちゃんがようやく振り返り、驚いた表情を向ける。

「ユマちゃん、どうしてここに? カグちゃんまで!」

「助けに来たんだよ。おばあちゃん、帰ろう」

 ユマがおばあちゃんに手を伸ばした瞬間、兎が叫んだ。

「潮目が変わる! 今度は海へ流されるぞ。無理に渡し舟にくっついてると一緒に向こう岸へ運ばれちまう」

「待って! もう少し」

 ユマは舟からうんと身を乗り出して精一杯手を伸ばす。カグがユマの服の裾をしっかり咥える。おばあちゃん、掴まって! けれど届かない。もっと、もっと。

 兎は懸命に竿を立てる。けれど、舟は少しずつ意思とは違う方向に流されていく。だめ。まだ、まだ。ユマは舟から落っこちそうなくらいに腕を伸ばす。カグもユマを支える歯をぐっと食いしばる。でも届かない。が。

 ふっと、ユマたちの舟とおばあちゃんの舟の距離が縮まった。兎が悲鳴をあげる。

「くそっ。渡し舟に捕まっちまった。ばあさんを助けるどころか、この舟から誰かひとり渡し舟に乗るまで解放されないぞ」

「そんな。どうしよう!」

 慌てるユマの耳に声が届く。

「ユマちゃん」

 助けに来てくれてありがとうね。おばあちゃんは嬉しいよ。しわくちゃの細い手がユマの頭に触れる。手が届くくらいの距離におばあちゃんがいる。ユマは抱きつきたいのに体が動かない。

「カグちゃん」

 おばあちゃんが呼び掛けると、カグははっと思い出したように、ユマの鞄から小さな人形を取り出して、おばあちゃんの手に渡した。おばあちゃんが人形を掴むと、二隻の舟はまたすうっと離れていき、もう二度と近づくことはなかった。

「おばあちゃん! おばあちゃん!」

 ユマは一生懸命手を伸ばす。ユマちゃん、カグちゃん、ありがとうね。靄の向こうでおばあちゃんのさよならの声が聞こえた。それでもユマは手を伸ばしたが、もう届くことはない。目の前はどんどんぼんやりと、濃い靄に包まれていった。

「――ユマ!」

 ママの声で目を覚ました。もう朝? じゃ、ない。窓の外は真っ暗だ。時計は深夜を指している。ユマ、おばあちゃんが――。ユマも慌ててパジャマのまま上着を羽織り、病院へ駆けつける。家を出る前、ユマは台所に寄った。あの世界で手に入れられなかったときじくのかぐのこのみ――、けれどユマははっきりと見たのだ。海上で微かに見えた黄金の実、あれは確かにユマの知っている果実だった。

 パパとママと、いつものお見舞いとは違う入り口を通って病院に入る。薄暗い廊下を通って、病室に到着する。病室は煌々と明るくて、うそみたいだった。白いベッドの上におばあちゃんは眠っている。とてもとても静かに眠っている。

「おばあちゃん、食べて」

 ユマはうちの台所から持ってきた果実をおばあちゃんの手に押し付ける。丸くて黄色い果実。ときじくのかぐのこのみは、おばあちゃんの大好きな果物だった。もっと早くにお見舞いで持ってこればよかった。ユマは丸いミカンをぐいぐいとおばあちゃんの手に押し付けるけれど、その手はもう動かない。ひんやりしたミカンの奥のおばあちゃんの手はまだ温かいのに。

 お医者さんがパパとママに何か説明して、時間を読み上げる。白い人達が頭を下げる。時計が止まる。ユマは間に合わなかったのだ。

 そうして込み上げてきたのは後悔だった。どうしてもっといい子じゃなかったんだろう。もっと会いにいけばよかった。もっと一緒にいればよかった。なのにおばあちゃんはいつでも無条件で可愛がってくれた。家族だから。

 かなしい。くるしい。やりきれない。止まらない、涙が。涙。泣いているといつの間にかそっとそばにカグがいた。

「カグもおばあちゃん大好きだったよ」

 そう言ってそっとユマの体に身を寄せた。とても温かくて、ユマは安心して声を上げて泣いた。

「私ね、もっとおばあちゃんのために何かしてあげたかったよ。もうできることなんて何もないのかな……」

 カグもユマと一緒に考えてくれた。敬老の日のプレゼントをまだ渡せていないのだ。おばあちゃんが好きなものはなんだったかな。甘いお菓子に、ミカンと縁側と家族とそれから。何か欲しいものを言っていなかったろうか。そうだ。ユマは思い出した。おばあちゃんが泣いているのを見たのは、あの時だけだ。

「おばあちゃんのお父さんの仏像を探そう」

 ユマがそう言うと、カグはぶんぶんとしっぽを振った。

「ユマちゃん、それならまた砂浜に行ってみよう」

 確かに砂浜にはいろんなものが流れ着きそうだ。

 砂浜に行くと案の定あのおじいさんがいた。ユマたちの顔を見ると、「また来たのかい」と破顔した。

 ユマはおじいさんに、ときじくのかぐのこのみを手に入れられなかったこと、おばあちゃんを助けるのに間に合わなかったことを話した。話すうちに涙がこぼれて止まらなかった。おじいさんは優しくユマの頭を撫でた。おじいさんの手はとてもごつごつしているのになぜだか懐かしいような気がした。

「ねえおじいさん。おじいさんの手はどうしてそんなにごつごつしているの?」

「それはね、昔仏像を彫っていたからさ」

 へえ。なら、こんな名前の仏師を知ってる? おばあちゃんのお父さんの名前。ユマが尋ねるとおじいさんは静かに微笑んだ。

「この砂浜にはいろんなものが流れ着くんだ。ついさっきも大きな古木が漂着したとこだ。大丈夫だよ。あとは任せなさい」

 それからね、おじょうちゃんはあまりここに来るべきじゃあないよ。でも来ちゃうんだもの。じきにきっと来れないようになるよ、大人になったらね。そう言いながら、おじいさんはパカッと玉手箱を開けた。煙がもくもく立ち上がり、ユマの目の前は真っ白に覆われた。待って、待って。遠のく意識の中でユマは必死にもがいた。クーン。ユマちゃん大丈夫だよ、カグの声がして、ユマはそのまま眠りに落ちた。

 目を覚ますと、すっかり現実の世界に戻っていた。


   *


 四十九日後、ユマはカズヤと一緒に、仔犬を連れて菩提寺へ墓参りに来た。

「大丈夫か?」

 ユマの歩調に合わせて歩くカズヤが尋ねる。

「うん。でもね、カグとお別れした時みたいに後悔したくなくて頑張ったんだけど、結局また後悔しちゃった」

 ユマは努めて明るく答えた。でもどことなく鼻声になってしまった。

「こないだ読んだ本に書いてあったんだけどさ。時間生物学の概念で、心拍数と寿命についての話があって。生物はドキドキと鼓動を一定回数刻むと寿命を迎えるようになってるんだって。だから犬ってドクドクって人間より心拍が速いから、人間より早く寿命を向かえちゃうんだよ。逆に、おばあちゃんは心臓を動かしきるくらい長いこと生きたんだよ。……なんて、ごめん。訳わかんないよな。だから納得しろってことじゃないけどさ……」

 カズヤはたくさん本を読んで勉強は得意だけど慰めるのはまだ下手くそなのだ。

「時間なんて永遠に止まっちゃえばいいのに」

 ユマがぽつりと呟く。ずっと子どものままで、これ以上何も失わなければいいのに。

「いや、それはそれで困る」

 カズヤが右手をそっとユマの左手へ伸ばそうとしたところ、仔犬のモモが「ワン」と吠えて立ち止まる。カグがいなくなってからうちに来たモモは、少しカグに似ていて、けっこうカグに似ていない。

 モモが見上げる先に視線を向ける。ちょうどおばあちゃんのお墓の向かい、お堂の内の一体の仏像がこちらを向いて微笑んでいる。するりとユマの手をすり抜けたモモがトコトコと走って、また「ワン」と立ち止まる。お堂の脇の格子窓から先程の仏像の背面が見える。ちょうど夕陽が背中を照らしている。なにか、見える。キャンキャン騒ぐモモのことはカズヤに任せて、ぐっと目を凝らす。そこには仏師の名が彫られている。

 それは、おばあちゃんから聞いたあの名前だった。

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ときじくのかぐのこのみ 香久山 ゆみ @kaguyamayumi

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