そっと撫でてあげる

キズキ七星

そっと撫でてあげる

 人は、どのようにして人に寄り添うことができるのだろう。

 頭を撫でて、優しい言葉を与えることが寄り添うということなのだろうか。それとも、想い続けることで寄り添うこともできるだろうか。

 もう一度、あなたに会いたい。

 例え会えなくても、僕の心はそっとあなたに寄り添い続けたいと思う。




 沙和さわは今年で二十歳になる。

 お酒は二十歳から、なんて言われているけれど、大半の大学生は入学してすぐにコンビニでお酒を買うもんだ。沙和も同じく手に取った。初めて飲んだお酒は、大人ぶった結果、ハイボールだった。同級生がほろよいやレモンサワーに手を伸ばす中、沙和は少し格好つけたかったのだ。

 それからというもの、沙和はハイボールのみを飲むようになった。ビールや酎ハイも試してみたかったのだが、同じくお金を出すのならば、ハイボールを買わないと損をした気分になりそうだった。

 大学までは電車で通っており、最寄駅の周りには飲み屋街が栄えていて、二十歳になったらすぐにでも来てやろうと思っていた。年齢確認が怖くて入店はしなかったが、ぶらつくことはよくあった。

 飲み屋街は、大人の街、という印象だった。仕事帰りの人や大学生が気分を良くして騒ぎ、ナンパらしき光景は日常茶飯事。恐ろしい、と思いつつも、どこか羨ましさも抱いていた。

 沙和は二十歳になって最初に行く店は既に決めていた。飲み屋街の中にある交差点の角、明る過ぎない照明に包まれたハイボール専門店。目立つ位置にありながらも、賑わう飲み屋街でその空間だけが異様に落ち着いて見えた。同級生と騒ぎ立てながら飲むのも楽しいかもしれないが、初めてはここしかない、と一目惚れしたのだった。




 桜が散る頃の誕生日当日、沙和は意気揚々と大学を後にした。ようやく、あのハイボール専門店に行ける日がやってきたのだ。この興奮しきった胸の内を抑えることなど出来やしなかった。

 駅に到着し、飲み屋街までの道をスキップするような足取りで歩いていく。まだ空は薄く明るいが、金曜日ということもあってか、飲み屋街は賑わっているようだ。大学生だって華金という言葉を使っても良いだろう。なんてったって、今日は誕生日なのだから!

 〈諸事情により、本日は臨時休業とさせていただきます〉

 店の壁には、一枚の張り紙がしてあった。沙和は信じられない気持ちで、ただ立っていることしかできずにいた。一年前から楽しみにしていたというのに、今日に限って。

 沙和の心に雨が降り注ぐ。それも、とびっきり強い雨。

 沙和は何度も張り紙を読み返してみたが、やはり、臨時休業という現実が書かれているだけだった。

 茫然自失とする沙和の背後から、ねえ、と声がする。振り返ると、見知らぬ女性が立っていた。

「ハイボール、飲みに来たの?」

 マスクをしていて目元しか見えないが、とても綺麗な人だ。しかし、見覚えはない。

「はい。でも、臨時休業……」

 彼女は張り紙を一瞥し、ふふっ、と笑った。

「私もここに飲みに来たんだけど、あんたが呆然と立ってるのが見えて休業だなって確信したよ」

「……なんか、恥ずかしいです」

 親しげに話しかけてきたが、やはり沙和の知り合いではない。茶色のブラウスに黒色のロングスカート。枝毛ひとつない艶やかな髪は、胸辺りにかけて綺麗に巻かれている。

「帰ろうかと思ったんだけど、あんたがあまりに悲しそうに見えたから、声かけちゃお! って思って」

「ずっと楽しみにしてたので」

「そんなに? 特別な日とか?」

 沙和は少し戸惑う。

「はい、今日、誕生日なんです……二十歳の」

 あら、と言う彼女の目が細く伸びた。

 おめでとう、と優しい声で言った彼女にお礼をすると、うーん、と言って彼女は考える素振りをした。

「そうだね、お姉さんが奢ってあげよう!」

 唐突な提案に、沙和はすぐに反応することができなかった。

「いいですよ、そんなの。初対面ですし」

「初対面のバースデーボーイには奢ったらダメなの?」

 沙和は、どう反応したらいいか分からなかった。お姉さん、と言ったから歳上なのだろうが、なにせ沙和には歳上の女性と話す機会など無かったので緊張していた。

 タダ酒だぜ? と調子の良い彼女に沙和は困ってしまったが、明るい調子とは裏腹に、光の無い彼女の瞳に沙和は惹かれていた。初対面だが、空元気にしか見えないその様子が気になった。

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「そう来なくっちゃ!」

 少し歩いたところにもう一つハイボール専門店があるらしく、そこに向かうことになった。本当にご馳走になって良いのだろうか、とも思ったが、今更になって断るのも失礼かもしれないと言葉を飲み込んだ。




 ジャズってなんでこんなにノリにくいのだろう。聞いてる分には心地良いのだが、リズムを取ろうとすると急にテンポを外してくる。

「誕生日おめでとうっ」

 乾杯、とグラスを鳴らす。一口飲むと、ウイスキーの辛みが喉を刺激した。

「社会人はやっぱり違いますね」

 彼女はきょとんとしている。

「学生は初対面の他人にお酒を奢る余裕なんてないですから。その分、ノリで奢れるなんて大人の所作ですよ」

「会話で〈所作〉なんて言う?」

「言いますよ」

 まだ早い時間だからなのか、客は少ない。少しよそよそしい男女と、三人組の男たちだけだ。それなのに、スタッフは三人もいる。

 あと二時間もすれば徐々に満席になっていくのだろうか。

「二十歳をお祝いできるなんて光栄だねぇ。私なんか、成人してからもう五年も経っちゃったよ。おばさんだ、おばさん」

 何がおかしいのか、彼女はくすくすと笑う。

「そんなことないですよ。お綺麗です」

「お世辞でもありがとう」

「えっ、お世辞なんかじゃ……」

 彼女は顔の前で手をひらひらさせて否定した。

 カウンターの奥にはウイスキーがたくさん並んでいる。どれも知っているものだ。沙和はこの日のために、暇さえあればウイスキーについて調べてきたのだ。

 本来飲みたかった店とは違う場所にいるのだが。

「そういえば、名前聞いてないです」

「あっ、そうだね。ごめんごめん」

 彼女は口に含んでいた生チョコレートをハイボールで流し込んでから言った。

明美あけみです。小野寺おのでら明美」

「あけみ、さん。今日はありがとうございます」

 明美は再び顔の前で手をひらひらさせて、いいのいいの、と言った。




 ふと窓の外に目をやると、いつの間にか空は眠り込んでいた。

 楽しい時間は時間の経過が早いと言うが、今は楽しいのかどうか沙和には分からなかった。綺麗な女性とこうして酒を飲んでいるというのは楽しいことだが、なにせ先ほど会ったばかりだ。

 ——つまらない、なんてことは断じてないんだけど。

 緊張しているせいか、沙和の酔いは急速に回っていく。もう、脳は機能を果たしていない。明日、この素敵な瞬間を覚えているか不安だ。

「ほんと、お酒好きね」

 明美はそう言って、ふふっ、と微笑む。

 沙和は頭が回らない中、必死になってウイスキーについてのウンチクを並べていた。歳上の女性に少しでも賢く見られたいからだろうか。同級生と飲む時より、確実に口数が増えている。

 今の自分、絶妙にダサいな。

 男は喋りすぎると馬鹿に見える。楽しませる技術があれば良いのだが、自分にはちょっとしたウイスキーの知識しか無い。

「ほんと、楽しみにしてたので……」

「それは残念だなぁ。私も今日は絶対にあの店で飲もうって決めてたのにさっ」

 声は弾んでいるのに、瞳は光が無いまま。

「あの、変なこと聞いてもいいですか?」

「内容によるねぇ」

 明美は揶揄うようにケラケラと笑う。

「今日、何かあったんですか?」

 言ってから、この質問は答えにくいだろうと沙和は思った。

「あ、えっと、なんだか元気が無いように見えて……」

 失礼に当たってないか心配になったが、明美は意外にもサラッと答えた。

「元カレが亡くなったの」

 ——え?

「それは、ごめんなさい」

「なんで謝るの〜。別に失礼だとか思ってないから安心してよ」

「ヤケ酒ってやつですか」

「まあ、そんな感じだねぇ。なんせ、まだ好きだったから」

 その時、グラスが落ちて割れる音がした。大変失礼致しました〜、とマニュアル通りのスタッフの謝罪が聞こえる。

 明美はグラスの縁を指で撫で、どこも見ていないようだった。

 そうだっ、と言い、明美は提案をする。

「今夜ホテルを取ってるんだけど、もし良かったら来ない?」

 突然の提案に沙和はたじろぐ。

「嫌だったら別にいいし、泊まらなくても全然いいの。警戒するかもしれんけど、ただ、今夜一人でいるのは寂しくってさ」

 沙和の心臓は今にも弾けそうになる。

 男女がホテルの一室にいるとなると……そんな不純な考えが一瞬過ぎったが、沙和は頭を横に振って打ち消した。

「お邪魔でなければ……」

「……そう来なくっちゃ!」

 二十一時を回った頃、沙和と明美は店を後にした。




 明美がシャワーを浴びている間、沙和はベッドの上から動けずにいた。アルコールの入った男女がホテルの一室にいる。つまりはそういうこと……沙和は再び首を振った。

「お待たせっ」

 バスルームから出てきた彼女は、素っぴんには見えないほど美しかった。沙和は渦巻く腹の下辺りを抑えて理性を保とうとした。

「沙和くんも入ったら? 暑かったし、汗かいたでしょ」

「あ、いや……はい、お借りします」

 私の家じゃないじゃん、と明美は口元を抑えてゲラゲラと笑った。




「二十五歳になってお互い売れ残ってたら結婚しようかって約束してたの。ただの口約束なんだけどさ」

 ベッドに横臥しながら明美は言った。

「彼、来月で二十五歳になるはずだったの。だから、もうすぐ結ばれるんだって、私、嬉しくって。でも死んじゃった」

 沙和は、今、自分が泣いてしまうのはお門違いだと分かっていながらも瞳は潤んでしまっていた。

「聞いていいか分からないですけど、死因は……?」

「自殺。事故なら自殺よりは諦めがつくかもしれないけど、やっぱり自殺ってなると、なんでって思うよ」

 明美は天井をじっと見詰めている。

 沙和は何と声をかけていいか分からない。今、どんなことを言ったとしても、彼女の心を癒すことなどできやしない。

 いくら初対面だと言えども、自分の非力さを痛感せざるを得なかった。

 ——でも、黙っているのもなんだか。

「理由は分からないんですか?」

「それが分からないんだよぉ。最近は連絡も取ってなかったし、どこで何してたか分かんない。でも自殺するくらいだから、辛い思いしてたんだろうなぁって。昨日、たまたま連絡したんだけどさ、彼はもういなかったから返信は来なくて。もっと早く連絡すれば良かったなって後悔してる。人が死んだら結局のところ何かしら後悔しちゃうんだろうけどさ、やっぱり後悔するもんはするよ」

 沙和は、そうですね、としか言えなかった。

 ホテル独特の香りにふわふわと覆われ、睡魔に襲われる。沙和の中から不純な考えはとっくに無くなっており、どうにか明美に寄り添ってやりたいとだけ感じていた。

「今日は、ここに、います」

 沙和は明美の目をじっと見て呟く。

「いて、いいですか」

 そう言うと、明美は沙和の瞳に穴が空くほど見詰め返す。

 夜が深くなったからか、世界はしんと静まり返っている。それは、先ほど天井をじっと見詰めていた明美の心の内のようだった。

「ごめんね」

 明美はそう言うと、「ほんと、誕生日おめでとう」と改まり、沙和の頭をそっと撫でた。




 朝、目が覚めると、明美の姿が見当たらない。メイクでもしているのかとバスルームを覗いたがやはりいない。

 身支度を済ませ、とは言っても寝癖を直すくらいだが、忘れ物がないかを二回ほど確認してからロビーに向かった。

「支払いはお済みでございます」

 そう告げられた時、沙和の心に深い亀裂が入った。一夜の短い時間だったが、彼女への想いが何よりも大きくなっていたということに、ここで気が付く。

 ——もう、あの店には行けないかもしれない。

 行けば、明美との一夜を思い出して胸がキュッとなってしまうだろう。


 名前と、あの日の悲しみ以外何も知らない。もう会うことはないかもしれない。もし会えたとしても、明美は自分のことを覚えていないかもしれない。

 でも、だけど、もう一度会いたい。会って、話がしたい。寄り添いたい。力になりたい。支えになりたい。




 彼女のことは、ハイボールを飲むたびに思い出すことになるだろう。でも、僕は、今日もハイボールで喉の渇きを潤す。

 それは、ハイボールが好きだからというだけではない。

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