伝わらないかもしれないが、この作品はアルフレッド・テニスンの「シャロット姫」のような、機を織ることに対する悲愴が含まれている。布を織り続けた先には、何も残らない。千切れた糸が散らばるのみ。つまり、その行為自体は、全く意味のない形式的なものなのだ。しかし、布を彩る模様は語る。口よりも雄弁に、言葉よりも鮮明に。それが何とも虚しく、そして切ない。しかし、シャロット姫は一人で機を織ったが、ラオとエギは二人で機を織った。それが、この作品の優しさなのかもしれない。
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