シャボン玉

真花

シャボン玉

 僕が生きたいのは君のせいではない。僕は何の理由もなく生きたいと思っている。だけど、生きていてはいけないとも思う。君だけを先に逝かせて、のうのうと生きてはいけないのではないか。……もしかしたら、同じ理由で、生きなくてはならないと思っているのかも知れない。だから今日まで生き永らえて来たのは、とても積極的に生きようとしていたとは言えない。むしろ、その連続する生が途切れるのを待っていたのかも知れない。

 五年前のあの日も桜が舞っていたね。僕は君と、伊藤いとう先生の前に座っていた。

「余命三ヶ月です」

 君は表情を変えずに「そうですか」と頷いた。


 待合室の壁には、花瓶の絵が飾ってあって、赤や緑や青の塊が、この場所に不釣り合いに生命力に溢れている。君はいないから、僕は一人で伊藤先生の話を聞かなくてはならない。君と同じ病だと告げられたとき、僕は「ではあと三ヶ月の命なのですね」と伊藤先生に言った。彼は「ステージで違いますから、検査が全部終わってからそのことを考えましょう」と微笑んだ。僕は抜きかけていた自分の気力をじわりじわりと元に戻して、今日を迎えた。

 君は余命三ヶ月のところから、半年生きた。奇跡の三ヶ月間だった。君は「生きたいのに死ななくてはならない。自殺をする人の気持ちが全然分からない。交換出来ればいいのに。私は生きたい」と言って泣いた。でもいずれそう言うことを言わなくなった。本当のところはどう思っていたのかは分からないけど、最後に話したとき、君は「ありがとう」と言った。君は僕を縛らなかった。生きろとも死ねとも言わなかった。僕が君を失った後に苦しまなくていいようにしてくれたのだと思う。でも、僕は生きていいのか迷った。その迷いのままここに座っている。

倉橋くらはしさん、どうぞ」

 僕は診察室に入る。伊藤先生がカルテに目をやっていて、僕に気付くと「どうぞ」と椅子を指す。

「先生、どうでしたか」

 先生がステージや転移と言った言葉で説明をしてくれるのだけど、全く意味が分からない。一連の説明が終わった間に、「つまり、どう言うことでしょう」と問うと、先生は居住まいを正す。

「余命三ヶ月です」

「妻と同じですね」

「そうですね」

 僕は表情を変えることが出来なかった。君もそうだったのだ。その後先生が何を言ったのか覚えていない。

 僕は病院を出て、馴染みの食事処に向かった。二階建ての二階の窓が開け放たれて気持ちのいい、君とよく行った店だ。僕はもう生きなくてもいい。ずっと待たせていた君のところに行く。

「いっそすっきりしたよ」

 僕は死ぬ。君のときは信じられない三ヶ月の延長があったけど、僕にそこまでの徳はないだろう。どうしてかな、生きたい気持ちが全然ない。後に迷惑のないようにきっちりやっておこう。胸はむしろ軽いよ。

「いらっしゃいませ」と言ってから、店主が顔を顰める。

「倉橋さん、何かありましたか?」

「いや、別に」

「ならいいですけど。何だかとっても辛そうだから」

「そんなことないですよ。逆に気持ちが軽いくらい」

「そうですか。いつもの二階の席、空いてますから、どうぞ」

 木の階段を軋ませながら二階に上がる。僕は辛いのだろうか。そんなことはない。いや辛いかも知れない。一段一段を上がるごとに自分の状態についての見え方が揺れる。二階に着いたときの左足が示していたのは「辛い」だった。僕は首を捻って、一番奥の窓のある席に向かう。

 窓は出窓になっていて、開け放ちながらその出っ張りに腰掛けて外を眺めるのが好きだ。でもそれは食後にすることにしている。だからまず「いつもの」を注文して、座布団の上に座る。ここの店主にもいよいよ死ぬ前には挨拶に来なくてはならない。君も一緒によくこの席に座っていた。そして食後には出窓に座って。

 いつものカツ丼が来て、食べる。味がちゃんとする。僕は生きているのだと分かる。窓から風が吹いて来る、それが頬に当たる感触、他の客の雑談が耳を忙しくさせる感覚。僕は生きている。これから死ぬのだとしても、今は生きている。それは不思議だけど、その通りだと感じた。生きているからこそ、このまま静かに終える、君のところに行ける。

 食べ終えたら店主がもう一つの「いつもの」を持って来た。シャボン玉だ。

 僕は出窓に腰掛けて、外に向かってシャボン玉を吹く。キラキラとした淡い玉が風に乗って飛んでゆく。それを目で追う。僕にも一生があるように、シャボン玉にも一生がある。それはとっても短いけど、平等に終わりが来る。

「さあ、先生、こちらへ」

 一際大きな声で誰かが向こうの席に招かれる。ついたてがあるから、お互いに顔は分からない。

「いや、すまんね」

 その二人の席が近いのと声が大きいのとで、会話がまる聞こえで、僕はシャボン玉を飛ばしながら耳に入って来る声を聞く。

「先生のところは繁盛してますね。いや、病院が繁盛ってのも変な話ですけど」

「まあ、必要があってのことだから、繁盛してもいいんじゃないかな」

 先生の方は伊藤先生だ。

「私常々思っているんですけど、患者にきついことを言わなきゃいけないこともあるじゃないですか。そう言うの辛くないんですか?」

「必要なことだからね。でも、慣れもある」

「例えば、余命宣告とか、しんどくないですか?」

「いや」

「何かコツとかあるんですか?」

 少しだけ間が開いて、先生が喋り出す。

「余命ってのは、その病期の平均余命のことなんだけどね、これはデータ。で、患者に伝えるときには短く言うんだよ」

「はぁ。どうしてですか」

「絶望がそれより早く来たら苦しいでしょう? 言ったのより長く生きたら奇跡と捉えられる」

「先生は感謝される、と」

「それが目的じゃないよ」

 そこで店員が来たのか二人は黙る。僕はシャボン玉を吹く。けどここにいたくなかった。決して顔を見ないようにしながら、一階に下りて、シャボン玉を持って行くことを店主に告げて店を出た。


 君が死ぬまでの時間が宣告よりも長かったのは、仕組まれた演出だった。先生は善意でしたのかも知れないけど、僕達二人の絆が穢されたように感じる。

 僕は君の墓の前に来た。真っ青な空には雲一つない。そして他に誰一人この場所にいない。春の暖かい風が吹いていて、墓石をそっと撫でる。僕は手を合わせずに、どっかりと墓の真ん前にあぐらをかいた。シャボン玉を出して、吹く。かたい墓標の側を柔らかい玉が踊るように駆け抜けてゆく。シャボン玉はそのまま天に昇って見えなくなった。

 僕の余命も、三ヶ月じゃなくて半年なのだろう。そう思った途端に、より生きられることに安堵した。僕は、……生きたかったのだ。

「あと少し、生きたいと思って、生きたいとだけ思って生きても、いいかい?」

 僕はもう一度シャボン玉を吹く。今度は君と一緒にやるみたいに。ゆらゆらと二つの玉が僕の前に残った。一つ目が割れ、二つ目もいずれ消えた。


(了)

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