第28話 九郎義経『頼朝暗殺』阻止す。
建久元(1190)年9月 京都 鞍馬山 貴船神社
九郎義経 (32才)
先月、安徳帝と建礼門院様が九州太宰府から京の御所に戻られ、兄 頼朝を『征夷大将軍』に任じて、鎌倉幕府が誕生した。
安徳帝の傍には、母上の常盤御前と陽炎、陽向達大山里の女衆、帝と年の近い水面銅三郎、鼠丸を配した。
油断はできないが、母上がお傍にいればだ、兄 頼朝も無謀なことは言えないだろう。
さて、面倒なのは公卿の対応だが、朝廷が政に関与しないことで、摂政も置かず、朝廷から幕府へ要請することは、俺と協議することに取決めて、安徳帝を困らせることがないように、せねばならぬ。それは、俺の役目だ。
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関白 九条
「義経、そもそもその方は、殿上人に非ずして我らを召集するなど、不届きではないか。」
「さようかですか、ならば直ちに、皆様の官位を解いて、対等な立場にするのがよろしいのですね。
少々お待ちいただければ、帝の裁可をいただきます。」
「そなた、我ら公卿を愚弄いたすかっ。」
「お立場を分かっておられませんね。政は武家が行う世に変ったのです。
故に公卿などは不要となりました。
それを不満と口にするならば、幕府に対して謀反の咎で、死罪とするがよろしいか。」
「何をほざくっ、我ら公卿がおらねば、朝廷の運営など立ちゆかぬぞっ。」
「先例を知る知らぬということかな。
心配ご無用、先例を知る者をことごとく滅すれば、誰も咎めませぬ。」
「なっ、なんと、我らを脅すのかっ。」
「脅しではなく、役に立たぬ者どもは始末するとの幕府の決定である。九条殿、そなたは今の政の役に立つつもりはお有りか。」
「そもそも、今ある公卿は、承和7(840)年に藤原良房が正当な皇統の継承者である恒貞親王を廃し、自分の甥である道康親王を皇太子とし文徳天皇として即位させたのだ。
以来、藤原良房の家系が天皇の外戚としての地位を紡いで、三公九卿、太政大臣、左大臣、右大臣の『三公』の地位、三位以上の貴人や参議の官にある『卿』を独占している。
それを糺すのに、何の憂慮もいらぬのだ。」
「 … … … 。」
「皇統を歪めた謀反人どもは、既に他界しているから、死罪にはできないが、子孫であるその方らを無官にすることなど容易い。
それで良いかと、聞いているのだ。」
「 … … … 。」
「向後、帝はこの国の象徴として、崇拝され、民の安寧を守る存在になられる。
帝の権威を利用して、私利私欲を慾る者など決して許さぬ。」
「 … … 、我らをどうしようというのだ。」
「今までどおり、帝にお仕えしろ。
ただし、太政大臣と言えども名ばかりのものとなる。確と認識せよ。」
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鎌倉幕府の開設とともに、急に諸国の騒乱が止んだ。権力が定まったことで、迂闊には動けなくなったのだろう。その代わり任官を求める動きが活発となった。
都の民達は、貴船神社の差配の主が俺と知りその俺が安徳帝の傍に付き添っていると知って安徳帝への信頼は高まったようだ。
内裏への昇殿は、身分地位に関係なく、帝への奏上することを予め書面で提出し、認めた者とした。その役目を公卿に与えた。
そして、内裏の空気を入れ替えた。
「まあ、今日の甘味は柔らかく、ほのかな甘みが、なんとも奥ゆかしい味の菓子だわ。」
「建礼門院様、もっと蜂蜜や楓密を掛けらた方が美味しゅうございますのに。」
「陽炎、私は出家の身ゆえ、世情の民と格段の暮らしは慎まねばなりませぬのよ。」
「建礼門院様、九郎が蜂蜜と
」
「ほんに九郎殿は物知りで思慮深くて、常盤御前殿の育て方をご指南いただきたいですわ。」
「あっ、それ、陽炎が存じておりますわ。
建礼門院様、要は無茶振り為さることです。
出来ないようなことを数多言い付けて、一つでも出来ましたら、褒めることですわ。
そうやって俺は母上に育てられたと、九郎様が言っておりました。
私が、千鶴丸殿の乳母になる時に、お話されましたのっ。」
「まあ、褒められている気がしないわっ。」
「「「ほほほ (うふふ)、あははは。」」」
内裏の昼餉も
各料理の前には、調理人が居並び、毒の混入などを厳しく見張っている。
それで、安徳帝も建礼門院様も皆と一緒に、食事をする。お二人には、さらに熊野の薬師が付いて警戒しているけれどね。
おかげで、昼餉の内裏は賑やかこの上ない。
やはり姦しいのは、女官達で食事の後には、廊下に並ぶ伊勢大山屋の店の商品を吟味する。
一番人気は、やはり白粉などの化粧品で鉛の入っていない安全商品だ。
さすがに、下働きの下女下男の昼餉は、この昼餉の後、別室でとなるが、料理は同じだ。
俺が内裏に持ち込んだもう一つは、庭に数十頭の犬を放し飼いにしたことだ。
犬達は、奥州で訓練されており、隠れている者や品を嗅ぎ当て、夜間の警備を担う。
餌は警備の平泉の者からしか受け入れない。
これで数倍の警備強化になっていると思う。
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建久2(1191)年5月 駿河国 富士野 神野
源 頼朝 (45才)
今年3月の夜、鎌倉は大規模な火災に見舞われ、大蔵幕府やその周辺の御家人の屋敷などが多数焼失した。
儂は郊外の安達盛長邸に逃れて無事であったが、鎌倉の街造りは一から出直しとなった。
征夷大将軍となって、鎌倉に幕府を開いた頼朝は、その権威を知らしめるため、富士裾野で
大規模な巻狩りを行った。その人数は10万である。
巻狩の目的としては、征夷大将軍たる権威を誇示するためや軍事演習などの目的があった。
古から、巻狩りと類似する鷹狩りがあるが、
その動員人数は、数十から数百人規模であり、豊臣秀吉が小田原城攻めを終え、秀次への関白の禅譲を控えて行った『大鷹野』でも、数万と思われるから、その軍事力を誇示する意味合いは、半端ないものだったのである。
鷹狩りが獲物を求めて、狩り場を移動するのに対して、巻狩りは広大な狩り場を包囲して、縮めることで獲物を追い詰めるのである。
そのため、勢子となった軍兵は狩り場の周囲に分散することになる。
そんな機会を狙った事件が起きた。
曾我祐成 (22才)と曾我時致 (20才)の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ち果たしたのだ。
17年前、兄弟の父 河津祐泰が伊豆国奥野の狩庭で工藤祐経の郎従に暗殺された。
暗殺の標的は伊東祐親であったが、狙った矢は河津祐泰に命中し、非業の死を遂げた。
その後、兄弟の母が曽我祐信と再婚したため兄弟は曽我姓を名乗ることになっていた。
この巻狩において頼家が初めて鹿を射止め、頼朝は喜び山神 矢口の祭りが執り行った。
頼家が嫡子として、山神に認められたことを意味するからであった。
28日の夜に御家人の工藤祐経が曾我兄弟の仇討ちに遭い討たれる。『保暦間記』によると、宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると
『吾妻鑑』には、次のような記述がある。
『曽我十郎祐成、同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す』
曽我兄弟は富士野の神野の御旅館に押しかけて工藤祐経を討った。
このとき酒の相手をしていた者達も討たれ、傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大混乱となり、宿侍が走り出した。
曾我兄弟と頼朝の御家人の間で戦闘が始まり、多数の武将達が死傷を負った。
兄の曽我祐成は、祐経の郎党に討たれるが、弟の曽我時致は、頼朝を目掛けて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったが、大友能直がこれを押し留め、時致は御所五郎丸に取り押さえられた。
その頃、御旅館の周囲には騒ぎに駆けつけた御家人達の郎党達が数多御旅館に入ろうとしていた。
だが、いつの間にか現れた数百人の山伏達に阻まれて、御旅館に入ることは叶わなかった。
「うぬっ、どけぃっ。主が襲われておるのだっ。邪魔だてするなっ。」
「中には、頼朝公、頼家公がおられる。此度は事件の最中に、お二方を殺めようとする謀反。
暴れておるのは、若者二人のみ。その程度で倒される武者ならば、未熟者にしかすぎぬ。
そなたらの中に、真の謀反人が潜んでおる。
向かって来る者は、容赦せぬぞ。」
その声にも拘らず、飛び込もうとした数人が山伏達のボウガンで針鼠となった。
その後も断続的に、強行突破しようとした者達が、矢の餌食となった。
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【 九郎義経side 】
鎌倉で大火があった後、俺は配下に命じて、その夜の御家人達の所在などを調べさせた。
出火場所は、大蔵幕府の付近であり、前日に鎌倉の大火を予言した者がいたなどと、不審火を示唆するようなことが多い。
「御曹司、やはり鎌倉の御家人達の間で不穏な動きがござる。誰がというより、皆が怪しく、動きが掴めませぬ。」
「御家人が郎党達を集めても不審ではない時、おそらくは『富士の巻狩り』の最中あたりか。
金太郎、銀次郎。巻狩りの最中には兄を警護せよ。鍛えた羽黒の山伏達を使えっ。
なにか騒ぎを起こし、その隙に兄を殺めるつもりだろう。抜かるなっ。」
「「はっ(はいっ)。」」
戦時体制から平時体制への移行を進めていた頼朝と御家人たちとの間で意識の懸隔が生じていて、挙兵以来の歴戦の御家人の中には平時体制では力を発揮できず不満や反発を募らせていた者もいた。
そのような不満分子が曾我兄弟の仇討ちの混乱に乗じ、頼朝を倒し範頼を擁立する反北条の
曽我時致の烏帽子親が北条時政であることから、時政が曽我兄弟を煽り事件に導いた黒幕と見る向きもあるが、真相は不明である。
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【 頼朝side 】
事件の翌日、頼朝の面前で、弟の曽我時致の尋問がなされ、頼朝は時致の勇姿を称え宥免をしようとするが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日斬首とした。
祐成の妾である虎は無罪とし、出家させ信濃善光寺に赴かせた。
しかし、祐成らの末弟が兄たちに連座して鎌倉へ呼び出したところ、甘縄で自害した。
事件の最中、忽然と現れた山伏を率いる者に問い質したところ、九郎配下の山伏達で、密かに儂を倒す謀反を防ぐよう命ぜられたそうな。
九郎からは、また厳しい一言を言われたわ。
『仇討ちを成した者のみを誅せば、その元となった罪は蔑ろにされ、生き残るのは悪人ばかりなり。ましてや、兄も俺も仇を持つ身。
如何なる正義で、曽我兄弟を処断したのか、鎌倉幕府に正義はあるのか、懸念致す。』
相も変わらず、言うてくれるわっ。
ましてや、儂の命を狙った謀反だとっ。
これでは、頼家への政権移譲が不安で仕方ないわ。儂の周りは敵ばかりじゃ。
曽我兄弟の仇討ちは、赤穂浪士の討ち入り、伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本の三大仇討ちの一つとされている。
いずれも、仇討ちを成した者が無罪放免とはなっていない。武士道の矛盾である。
俺は義経、兄になんか殺されてたまるか。 風猫(ふーにゃん) @foo_nyan
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