四季の化身 二十四節気と七十二侯の徒然

小早敷 彰良

1,立秋の醜聞

 大暑が続く、長い夏だった。九月も終わりの時期なのに、真夏日が続いていた。

 俺は乾燥した水田のあぜ道を歩いていた。周囲では農作業をする住民たちが水田の様子を見ている。

「こう暑いと、稲もへたってしまう」

「水田で海老が茹だって赤くなっていたぜ」

 暑さは猛威を振るっていた。長く暑い夏に、その地域の人間は辟易していた。

 俺の両隣は本来ならば、金色の茂る稲穂が首を垂れているはずだった。しかし、連日の猛暑で異変を起こしたのか、まだ青く、しおれた稲しかいない。

 さくさくと、俺は田舎道を歩く。空気が乾燥しきると、土の道でも、歩くたびに乾いた足音がする。

 この夏の暑さと長さは異常だった。

「いや、暑いね。旅人さん」

 かけられた声に振り向けば、黒く日焼けした女性が麦わら帽子と動きやすい恰好をして立っていた。どこか浮世離れした雰囲気の、美しい人物だった。

 自らの雰囲気を吹き飛ばすように、彼女は人好きのする笑みを浮かべた。

「いらっしゃい! 今日来る予定のお客さんかい。案内するよ」

「お世話になります。そう言うあなたは、今日泊まる宿のおかみさんですか」

「おかみさん、か」

「あ」

 含みのある反応をする彼女の様子に、気に障ったかと、俺は慌てる。おかみさんという言葉には、妻帯者や年配のニュアンスが含まれることがある。どれだけかかるかわからない調査の拠点の責任者に、嫌われるのは避けたかった。

 おかみさんは、微笑みながら手を振った。

「いや、私は宿の居候だからね。責任者のように言ってもらえて嬉しかったのさ」

「失礼でしたら謝ります」

「まさか。ああ、過剰反応だったね。気にしないで」

 私はそう、夏美と呼んでくれればいい。彼女はそう名乗った。

 蝉一匹鳴いていないあぜ道を渡っていく。長すぎる夏は、動物たちや虫たちにも影響を与えていた。

 道案内の夏美は、道中の水田の水をちゃぷりと触った。

「これじゃ風呂の温度だ。まだ朝だってのに」

「本当に。なぜこんなに夏が続くのでしょう」

 夏美は季節のことだから、と、困ったように笑った。

 俺はまた、後悔する。人間に答えを求められないことを言ってしまった。

 この女性の前では、変なことばかり言ってしまう。きっとの彼女の話しやすい空気がそうさせていた。

 悔いる俺の様子を伺っていた彼女は、話題を変えるのではなく客の話に合わせて、天気の話題を続けることにしたらしい。

「そうだね。まったく、秋はいつ来るのかわからない。私たちは皆困っているよ」

「それを調べるのが、俺の仕事です」

 彼女の雰囲気に、俺はつい口を滑らせた。はしと口を押える俺を、おかみさんはじろじろと見た。

「お客さん、学者かい?」

 俺は観念し、渋々肯定した。

「本当かい、この間も国の役人が来たんだが、また来るとは」

 俺はおや、と思う。彼女は取り繕った表情と異なり、心底嫌そうな声を出していた。

「国はお嫌いですか?」

「……いや別に。何とも思っていないね」

 彼女は嘘をついている。そう気がつきながら、俺はひとつ頷いた。本当に何とも思っていなければ、俺がそう聞く理由を聞いてくるはずだ。

 彼女は取り繕うように、遠くを指さした。

「ほら、あれが、私たち自慢の宿、夏屋旅館」

 俺は思わず目を見張った。

 その宿は小さいながらも瓦屋根の重厚な造りをした、風情ある温泉宿だった。清められた石畳から鈍く光る柱まで、隅々まで人の手が加えられて、よく目をかけられていた。


「温泉まであるとは、予想外だ」

 俺はほかほかと温まった身体に浴衣を身に着けて、秋には季節外れの夏風を受ける。

「それを知らずに来たんか? 珍しいお客さんや。仕事ってのは大変ですな」

 そう言うのは、夏屋旅館の若旦那だった。彼は今、部屋の支度をしてくれていた。若旦那のにこやかな顔に、冷ややかな視線が混じっているのはなぜだろう。

 俺は窓の外を見ながら、何とはなしに聞く。

「若旦那は関西弁なんですね。この地域の人には珍しくはないですか」

「ええ。ここの、祖父が亡くなるまで西の方にいまして」

「名前は?」

「夏屋、と言います。若旦那でも、好きな方でお呼びください。下の名前は知らんでもええでしょう」

 何でそんなことを聞くのだ、といぶかし気な目が告げている。仕事だから仕方ないのだと、説明できない言い訳を内心する。

 そう、全ては俺の仕事のためだ。

 若旦那はため息を吐いた。

「もうええですか? そろそろ仕事せんと、夏美に叱られてまう」

「夏美さんは居候とおっしゃってましたが、怒るのですね」

「まあ、将来の若女将ですから」

 しっかりと告げられた言葉には、もはや隠そうとしない、俺への敵愾心が宿っていた。

 気のせいなら良いが、と前置きして、夏屋は言った。

「夏美に変な気を持たんでくれ」

「は?」

「お客さん、涼やかな美形だから、夏美を盗られるんでないかと気が気でないんや」

「人間に興味はないですよ。ましてや、ここには仕事で来たんだ」

 首を振って見せても、若旦那は信じていない様子だった。

 今回の仕事も災難の気配がする。部屋は快適で、食事は美味かった。それだけで終わらないものかと、内心嘆く。

 先ほど食べた料理は、量は少ないが絶品だった。とうもろこしの天ぷら、豚肉と野菜を柑橘で〆た炒め物。ご飯は枝豆との混ぜご飯で、ほくほくとした塩気に包まれており、どれも絶品の一言に尽きた。

 こちらに敵愾心を向けながらも仕事を続け、せっせと食器を下げている夏屋に、気を取り直した俺は声をかける。

「後は仕事をするんで、お構いなく」

「そちらも夏美にはお構いなく」

 その言葉は無視する。しばらくすると、若旦那は言った。

「かしこまりました。朝餉はいつ頃お持ちしましょ」

「そうだな、七時頃とかできます?」

「かしこました。では、ごゆるりと」

 パタン、と音を立てて、ふすまが閉まる。俺は念のために、足音が廊下の向こうに消えるまで待つ。


 これからすることは、人間には見られてはいけないものだ。


 俺はそっと鞄から、虫かごを取り出して、話しかけた。

「待たせた。温度調節は上手くいっていたか」

「おう。涼しくて快適でしたわ。退屈だけはなんともならんですけどな」

 返事をしたのは、ひぐらしだ。

 上司との会話は動植物や虫たちが介してくれる。現代の通信機器を使うには、上司たちは歳をとりすぎている。

 ここからは人知を超えた話だ。

「ひぐらし、二十四節気が一人、立秋に伝えておくれ」

 虫かごから解放された喋るひぐらしは窓辺にじっと座って、俺の言葉を待っている。

「この地域のどこかに、夏の化身、十三人のうち誰かが潜伏している。だから、夏が終わらない。そう、俺、涼風至すずかぜいたるは推理している」


 世の人は知らないが、四季の化身という者たちがいる。

 四季の化身の大きな仕事は、お察しの通り、各地を旅して、季節を変化させること。

 特に季節の変化に鋭いこの国には、四季の四人だけでなく、さらに季節を細分化した二十四節気と七十二侯もそれぞれ、二十四人と七十二人、化身が存在する。


「異常な暑さの続き、振らない大雪、季節に合わない何か。すべからく、四季の化身が関係している。この続く暑さはまさにその異常だ」

 そう、俺に教えたのは俺の上司、秋の二十四節気の化身、立秋だった。

 俺は立秋の下で、季節、特に秋の異変を調べるしがないひとり、涼風至だ。

「立秋の言うように、これは夏の化身の仕業だ。しばらく俺はここに留まって、夏の化身を探す」

 ひぐらしは得心して頷いた。

「あんたのいつもの仕事ってわけですわ。至さんはとっちめるのは上手いものな」

「とっちめるのは、とはなんだ」

「他の仕事は苦手でしょう。待ち合わせ時間は守れない、事務は事後処理ばかり」

 その顔面で許されるのは若いうちだけですぜ。そう言い捨てて、ひぐらしは窓辺から飛び立っていった。

 残された俺は、ガシガシと頭を掻く。ひぐらしは、どうやら、温泉と若旦那にかまけて籠から出すのが遅れたことを怒っていたらしい。

 窓からふと視線を落とすと、人影があった。彼らは宿の全ての部屋の窓からおぼろげに見える位置で抱き合っていた。

「なんとまあ、悪い恋だ」

 見せつけたいのか。そう察しながら、夏屋と夏美とのあいびきに、俺は辟易としながら、しっかりと窓を閉めた。

 仕事をしないことはこんなにも、感じが悪いものだ。ひぐらしが帰ってきたら謝ろうと、俺は心に決めた。


 このとき俺は、数時間後、ひぐらしがこの世からいなくなると知らなかった。


「なあ、立秋さん」

「なんだい、ひぐらし」

「至さんの好きなものを知っていますかね」

 数時間後、四季の化身の眷属だけが知っている回廊を通って、立秋の元にたどり着いたひぐらしは、立秋に問いかけた。

 ぴくりと反応した立秋に、ひぐらしは言い加える。

「さっき、普段の態度について、言い過ぎまして。お詫びの品を持って帰りたくてですな。俺たちは樹液なんかごちそうですが、至さんには無用の長物でしょう」

 立秋は、すっと笑った。

「ひぐらしは、僕たちのために働いて何年だったかな」

「はあ、七十年になります。そりゃ至さんは優秀で獅子奮迅の働きですが、経験ではまだ負けないつもりですよ」

 もちろん立秋さんの四季の化身としての働きには皆劣りますが。そんな言葉に、立秋は物憂げな顔をした。

「蝉の寿命から言うと、人生十回分は僕らに捧げてくれている訳だ」

「もうそんなに経ちますか」

「悪いね」

「いえいえ、そんな」

「ところで、夏の化身がこの地域にいると知っているのは、君らだけかね」

 ひぐらしは、いぶかしみながら、その固い首を動かした。人型にもわかりやすいように、彼からすると背面反りを、何度も行う。

「ええ、至さんはいつも人を巻き込むことを好みません。国の方にも上手く言い訳して調査しております」

「そうか、そうか」

 立秋は晴れやかな顔で首肯した。

 次の瞬間、ひぐらしは自身の外殻が砕ける、ぱきりとした音を聞いた。同時に、色を目にできないはずの目で、白い体液が立秋の足を汚すのを見た。

「なに、か、してしまいま、したか」

 ひぐらしとしての最期の言葉にも、立秋は耳を貸さなかった。

 ただ、褒美を与えるような晴れやかな顔をしていた。

(ああ、こらあかん)

 今わの際に、ひぐらしは思う。

(涼風至にどうにか、謝りたかった。そんなに怒ってないと言えば良かったわ)

 ひぐらしは、有能ながらもまだ未熟な後輩の行く末を案じながら、その長い生涯を終えた。



 どれだけ聞いて回っても、この地域の異常事態として挙がるのは、夏の長さと、夏屋と夏美の醜聞だけだった。

 俺はいっそ投げ出したい思いで、何度目かの醜聞を聞いていた。

「ここらで夏の前にやってきた余所者なんて、夏屋の居候くらいさ! もう何ヶ月も前になる」

 農作業の手を止めて、住民の一人は気色ばんだ。

「よく気のつくのは良いんだが、夏屋の若旦那と合わさると遊び惚けて、まあしゃべることしゃべること」

「夏屋の若旦那も若旦那だ。諫めもせずに、好きにさせて」

「彼の経営の立て直しの早さはさすが跡取りなのだが」

「ただ、若旦那の関西弁もどうかと思うぜ。この地域で商売するのに、別の言葉を使うなんて」

「夏屋の先代が急に亡くなってしまって、それでも規模も小さくせずに、ひと月で盛り返しているのは偉いんだがな」

 ふてくされながらも、皆、俺が差し入れた冷えた井戸水をぐいと飲んだ。

 彼らと別れ、ふむ、と俺は考える。

 季節の化身には、いくつもの守らなければならないルールがある。そのうちの一つが、季節の名前以外の名前は漢字二文字まで、というものだ。

 現代の名字と名前両方がある文化からすると、化身は潜みにくくなった時代と言える。

 夏屋の居候、夏美の名字は名乗られていない。あれだけ嫉妬深い恋人、夏屋の若旦那がいながら、呼び捨てで呼ばせるだろうか。

 考え込みながらあぜ道を歩く俺は、ふと、足を止めた。何枚もの田畑の向こうに、大荷物を担ぐ女性の姿が見えたからだ。

「ああ、お客さん」

「なんだその荷物は。少し持つ」

「今夜の食材さ。お客さんに持たせる訳にはいかないよ」

「荷物持ちの一人くらい、連れてくれば良かったのに」

 曖昧に笑った夏美を見て、俺ははっとした。周辺のの住民にまで噂が回っているくらいだ。悪評判ばかりの居候に割り当てられた仕事の手を貸す人間は、夏屋旅館にはないのだろう。

「夏屋の若旦那は何と」

「言ってない。言ったらそれこそ、威を借るキツネでしょう」

 さくさく、とあぜ道を歩く。

 秋の薄い雲がかかり、薄荷色の空をしていている。夏の濃く青い空と入道雲は、もうない。空は季節の化身の異常滞在では変化しない。空だけはいつも、正常な季節を映している。

 雲を俺は見とがめた。

「雲の流れが速い。早ければこの後すぐ、雷雨になるかもしれません」

「さすが季節の学者さん。夏屋と同じことを言うのね」

「夏屋の若旦那と?」

「ええ。あの人、異常に季節に詳しくて」いや、と彼女は言い直す。「季節に執着しているというか、我が事のように言うというか」

 西の方でそういったことを学んでいたらしいんですよ。そう、彼女は言った。

「経営にも詳しくて。急におじいちゃんが亡くなったものだから、誰も取り仕切れないなか、一人でここまで立て直して。まったく頭が上がらないよ」

 それで、どうしたよ? そう彼女は俺に問いかけた。

 俺は答えることも出来ず、立ち尽くしていた。

「西の方、関西弁」

 夏雷が頭の中に落ちたようだった。関西弁について話していたとき、彼は何と言った?

「涼秋さん?」

 宿に入る際に名乗った、俺の外向きの名前を、夏美は恐る恐る呼んだ。

「夏美さん、一つ聞いて良いですか」

「ええ」

「夏屋の若旦那の下の名前は何ですか」

 はく、と夏美は口を開けて、閉じた。

「教えられない」

「存在しないのではなく?」

「ないわけないでしょう」

「でも教えられない?」

「しつこいわね」

「夏美、どうした」

 はっと二人で振り返る。そこには、怒色ばんだ男がこちらを睨んでいた。

 夏屋は言う。

「宿の人間に聞いたで。女でひとつで持てる量じゃない。周囲の人間を頼れと言ったやんか」

 そして、と彼は俺を睨みつけた。

「やはり、こいつは怪しかったわ」

「何を」

「困っている女に詰め寄って何やってたんや」

 泊まった時から夏美さん目当てなのだと直感していたのだと言い募る彼に、俺は指を向けた。

「俺は人間に興味がない」

 信じようとしない男に、はぁとひとつため息を吐いてやる。

「夏屋、俺はお前とは違う」

 水田の真っただ中の乾燥しきったあぜ道で、涼しい風が吹く。ここからは仕事納めの時間だ。

 俺は、異常滞在する夏の化身について、推理を披露する。

「おかしいと思ったのは、お前が関西弁を話していること。この排他的な地域で、祖父が跡取りに表向きの言葉を改めさせない訳がない」

 もうひとつ、俺は不可解に思った点を指摘する。

「夏屋は、先ほど宿の人間と言ったな。季節の化身は皆、人への関心が薄い傾向にある。俺だってこの仕事でなければ、人の名前は覚えていられない。しかし、夏美さんは接客を担当して、客一人一人の名を覚えている」

 俺は、夏美に向き直る。

「本来の夏屋の跡取りは貴女ですね。夏屋夏美さん」

 そして、話を聞いてもらえない彼女に代わって、先代の急逝からひと月で旅館の経営を立て直した、本来の居候は誰だったか。

 夏前にやってきたのが夏美。夏屋と名乗る彼がやってきたのはひと月前。

 夏美が異常気象の始まりの原因とするには、計算が合わない。


「この夏屋と名乗る彼が、この異常気象の原因である夏の化身です」


「何を馬鹿なことを」

「夏美さん、そんなことを言われれば、普通の人は、何を言っているのか、と問い返すものなのですよ」

 もはや、夏美はただ、首を振るのみだった。

 そっと彼女の肩を抱く男に、俺は夏の化身の名前を呼び連ねる。

「夏、夏至げし乃東枯なつかれくさかるる菖蒲華あやめはなさく半夏生はんげしょうず小暑しょうしょ温風至あつかぜいたる蓮始開はすはじめてひらく鷹乃学習たかすなわちわざをならう大暑たいしょ

 一つだけ、反応があった。

「ここにいたのか、七月下旬の化身、大暑」

「お前こそ、八月初旬の化身の癖に、九月のお出ましとは。涼風至すずかぜいたる

 夏屋と名乗る男は、この地域の夏を長引かせていた夏の二十四節気の化身こと、大暑だった。

 季節の化身は、時期に合わせて移動をしなければ、その地に災いを齎す。

 彼の言う通り、俺は秋の七十二候の化身、涼風至すずかぜいたる。親しい者からは至と呼ばれる、初秋の化身だ。

「最近は秋の化身も見なくなったなぁ」

「……お前たち夏の化身の力が異常に強くなりつつあるからだ」

「違いないわ」

 けらけらと笑う彼は、動きやすい洋装の若旦那の恰好から、着流しに下駄という、夏の化身としての恰好に姿を変えている。

「さて、お前は私の正体を見破ったやん。見逃してくれんか?」

「あり得ない」

 交差したのは、真夏の熱風とひんやりとした空気だった。秋風のささやかな涼しさが、真夏の風に飲まれて掻き消えていく。

 四季の化身はいるだけで力を齎すだけでなく、自らその力を振るうことが出来る。

 俺が出来ることはささやかな涼風を送るだけだが、この夏のささやかな足止めにはなることが出来る。そう、信じていた。

「七十二候の力は、二十四節気の力に及ばない。諦めろって」

「いや、まだだ」

 俺は手を振り、合図をした。途端、濃い霧と蝉しぐれの轟音が、俺たちの周囲を取り囲んだ。

 立秋の七十二候、蒙霧升降ふかききりまとうの濃霧と、無数の寒蝉鳴ひぐらしなくの轟音だ。

「ここからは、秋の意地を見せる。お前はこの地から去れ。長い夏は嫌われるぜ」

「笑止! 四季ですらなく、二十四節気も満たない、七十二候の化身ごときに何ができるというんや!」

 熱風が顔を焼いていく。七十二候の涼風至とてわかっている。自分の力は微々たるもので、これが足止めにしかならないことくらい。

 ただ、この騒ぎの間にひぐらしが立秋を連れてきてくれれば勝機がある。

 そんな俺の思いを、大暑は一刀両断する。

「もうあきらめろ。立秋は既に夏の化身に落ちた」

 濃霧の向こう、うだるような暑さと蝉しぐれのなか、信託のように大暑は告げた。

「これが証拠だ。長年の重臣すら、彼は踏みつけにした」

 彼が地面に投げ捨てた、つぶれたそれは、濃霧で形しか見えるものではなかった。

 しかし、蝉しぐれが一瞬、沈黙する。それだけで、俺にはひぐらしがどうなったのか、わかってしまった。

 俺はぐっと唇を噛む。

「時間稼ぎの意味はなくなったろう。俺はここにいたいだけや。季節の化身やからって、それだけのことが許されないのは、おかしくないか?」

 空気が湿り出す。ゴロゴロと大空で音が鳴り始めた。夏と秋の力のぶつかり合いに、天候が崩れ始めた。

 夏美ははっと天を仰いだ。

「濃霧のなかで落雷は危ないです。大暑様、もういいでしょう。宿に帰りましょう」

「おん、どうやら七十二候が徒党を組んでも、俺を追い出す力はないようや。良かったな、もっとお前と一緒にいられるんや」

「本当に、悪い恋だな」

 俺の言葉に、大暑は殴りつけてきた。口のなかが切れて、鉄の味がする。季節の化身と言えど、感情も、身体も持ってしまうゆえに、痛みを感じてしまうのだ。

「このまま、この土地を焼死させる気か」

「異常気象なんぞ何するもんや。季節が化身によって起こっているとは誰もわからん。冬はお前ら秋と違ってよほど強い。冬になればなんや、少しは涼しくなって、土地も冷える。万事解決や」

 そんな訳ないと、俺も、彼自身も知っている。冬までの長い期間、暑さに耐えられる生物はいない。冬に急に切り替わり、対応できる生き物も、ほとんどいない。

「どれだけ短かろうと、この国には四季が必要だ」

「いらへん。特に秋なんて、短い期間なんかな」


「吠えたな、二十四節気ごときが」


 雷の音が一斉に止む。代わりに鳥が鳴き始める。あれは、セキレイの空を切る笛のような鳴き声だ。七十二候、雷乃収声かみなりすなわちこえをおさむ鶺鴒鳴せきれいなくが天から見下ろしていた。

 傍らには九月上旬と下旬の二十四節気、白露と秋分が控えている。

 秋の化身たちは皆一様に、首を垂れていた。

「何を。今、吠えたと、獣のように私を言ったのは誰や」

 濃霧は既に晴れている。蝉も口を噤んでいる。二十四節気が首を垂れる時点で、現れる者は既にわかっていた。

 俺も、皆に合わせて首を垂れた。


 四季の化身、秋。


 彼が現れただけで、夏の熱さに茹だった地平線の果てまで、冷えるようだった。二の句を告げないでいる大暑を、秋は一瞥した。

 たったそれだけで、彼は、消え失せていた。

「大暑……?」

 残された夏美の声が、か細く空気に溶ける。俺は静かに目を伏せた。

 四季の化身、秋は厳かに言った。

「季節は次々過ぎ行くもの。人には引き留められぬもの。諦めよ」

 夏美が大きく目を見開いた。その後の悲鳴は聞いていられないものだった。

「ごめんな」

 俺は大暑の代わりに、そっと告げる。

「季節は次々変わっていく、人の言うそれは正しい言葉だ。四季の化身は人と共にいられない」

「七十二候が一人、涼風至。お前は此度の働きと長年の働きを持って、二十四節句、立秋に任ずる」

「大暑様と立秋様は、どうなるのですか」

「消える。至はよく知っているだろう」

 夏美人間の叫びに、その場の誰も、反応を返さない。

 俺は我ながら、人のために働く化身だ。それは秋の到来を各地で喜んでくれる人がいたからだ。

 うだるような暑さを連れる大暑は、各地でどう扱われてきたのか。そんななか情愛を交わせる相手ができたらどうなるか。

 俺は少し、大暑の気持ちを理解してしまった。

「秋様。立秋の任、謹んでお受けいたします」

「そうか」

 夏美人間の叫び声を背後に、俺はそっと言う。

「二十四節気となれば、化身のため働く者を選ぶことが出来ると聞きます」

「生涯で三人だけだ」秋は俺の言う言葉がわかったらしく、眉を顰める「早急な決断はお勧めできない」

「わかっています。しかし、ここでそうしないと、「元」涼風至ではないので」

 音もなく、ひぐらしが、「元」立秋が、そして、「元」大暑が、輪廻の果てから引き出されて、影から立ち上がる。

「「元」立秋、お前は次代涼風至の従者に任ずる」

「好きな名前を名乗っても?」立秋と呼ばれていた男は、夢を叶えた顔で赤面した。「恋をしても?」

 答えたのはひぐらしだった。

「ええで。俺も大いに恋していたからな」

 そう言って彼は昆虫の身で片目をつぶってみせた。

「そう言うことでええよな、立秋様」

「ああ。ひぐらし、お前が次世代の涼風至だ。好きにすると良い」

 夏美人間が俺の足元の人影に縋っている。

「大暑、大暑!」

「もう私は、大暑じゃないやんな」

 影から立ち上がりもせず、彼は笑っていた。

「こうすりゃよかったじゃないか」

「そうするには、私は大暑として長く生き過ぎた。三人はもう昔に選んでしまった」

 彼は顔を覆って、うずくまっていた。俺は彼に言う。

「お前は今回罪を犯した。秋を馬鹿にもしている。ならば、秋の従者として今後この地を拠点とし、季節の化身をもてなし続けることが罰である」

 ああそういえば、ちょうどいい宿があるじゃないか。俺がそう、言い終える前に、大暑は夏美と強く抱きしめ合った。

「では、季節は巡る」

 秋の言葉を契機に、七十二候、雷乃収声かみなりすなわちこえをおさむ鶺鴒鳴せきれいなくが、二十四節気、白露と秋分が消えた。

 秋の化身が二人、消える前に俺に囁いた。

「昇進おめでとう、今回のことは貸しだからなお前」

「十倍返しで絶っ対ぇ(ぜってぇ)返せよ」

 そう囁いて、蒙霧升降ふかききりまとう寒蝉鳴ひぐらしなくも消えた。全員、次の土地に季節を告げに行ったのだ。

 秋の化身は総じてせっかちな気質の持ち主だ。

「さて、長く続いた夏のせいで、秋は数日しかいられない訳だ」

 俺の言葉に、たった今現れた寒露かんろが頷いた。続けて、彼は十月上旬の二十四節句であり、最上位の上司にあたる秋の姿に目を見開いた。

「秋様、なぜここに?」

「うむ。この人間どもがもてなしてくれると至に聞いてな。仕事も、醜聞がたっていた立秋の交代も済んだ。ゆるりと楽しむ所存だ」

 俺はそっと、大暑だった者に耳打ちをする。

「秋様が滞在するほど土地は豊かになる。夏が痛めつけた土地だ。せいぜい長くもてなすと良い」

 元大暑であり、夏屋の若旦那はそっと頭を下げた。

「もったいない裁き、ありがとうございます。お前、いや、あなたはどうするんや」

「俺は立秋、八月上旬の二十四節句だ。次の土地に向かわねば」

 涼しい風を吹かせる。立秋となった今でも、この能力が最も使いやすい。

「夏がいくら暑くても、秋は来ると人に知らさなければいけないな」

 俺は天高らかに宣言する。宣言が夏屋の若旦那たちに届いたかは知らない。秋はせっかちなものだ。

 そんなことより、次の土地に向かわなければ。

 秋風が天地の間に吹き荒れた。

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四季の化身 二十四節気と七十二侯の徒然 小早敷 彰良 @akira_kobayakawa

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