侯爵令嬢レティーシャ・プレスコットと、ある男爵令嬢の因縁
ふとんねこ
侯爵令嬢レティーシャ・プレスコットと、ある男爵令嬢の因縁
「エミリア・ハリソン男爵令嬢! お前が我が婚約者レティーシャ・プレスコット侯爵令嬢に対して行った悪事の数々、まことに許しがたい!!」
ああ、ついにこの日が来ました。
私の望みが叶う日が。
「――よって、お前を国外追放とする!!」
私の望みは、今日ようやく叶うのです。
私の犯した罪によって。
――――――――
侯爵令嬢レティーシャ・プレスコットは類い稀なる美貌の人である。
緩くウェーブのかかった艶やかな金の長髪と、同色の睫毛に縁取られた気の強そうな鮮やかな緑の瞳を持つ。
白い肌は陶器のようにすべらかで、淡く色付いた頬には隠しきれない色香が漂っている。
学園内を歩けば誰もが目を奪われる、そんな存在だ。
王太子の婚約者であり、輝くような気品と優艶な所作で人目を惹き付けてやまないレティーシャであったが、最近は今までに遭遇したことのない大きな問題に悩まされていた。
人の少ない廊下を歩いていると、向こうから栗色の髪の美少女が歩いてくるのが見えた。
レティーシャは自分を見つめる彼女の青い瞳からそっと目をそらす。
(困ったわ、こんなところで彼女と会うなんて……)
最近、レティーシャを悩ませている大きな問題。それは向こうから歩いてくる彼女――エミリア・ハリソン男爵令嬢そのものだった。
普段なら、すれ違う者には「ごきげんよう」と声をかけるレティーシャが、エミリアからは目をそらす理由。それは――――
「きゃっ!!」
こうして毎日彼女に転ばされるからだ。
足を引っかけられて、短い悲鳴を上げながら転んだレティーシャはきゅっと眉根を寄せ、立ち止まったエミリアを見上げた。
「……何故、こんなことを」
貴族令嬢として、転ばされることに耐性がないレティーシャは、それでもつとめて理性的に問いかける。
冷たい目でレティーシャを見下ろしていたエミリアは、それを聞いてにっこりと花が咲くように笑った。
「ふふふ。私、貴方が嫌いだからです、レティーシャ様」
そう言って、彼女は床に座り込むレティーシャの肩を「えいっ」と強く押して突き飛ばし、きゃらきゃら笑ってその場を去っていった。
ショックでしばらく床に座り込んでいたレティーシャだったが、近づいてくる足音にハッとして立ち上がる。
「レティーシャ」
制服についた埃を手で払っているところへやって来たのは、婚約者であるリンフォードだった。
彼を振り返り「ごきげんよう殿下」と完璧な淑女の礼をする。そんなレティーシャにリンフォードは気遣わしげな顔をして、彼女の頬に触れた。
「何か、あったのか」
「……いいえ、何もありませんわ」
「そうか……」
華やかな美貌に柔らかな笑みを浮かべたレティーシャ。
こうして彼女に隙のない笑みを浮かべられると、リンフォードはそれ以上踏み込めなくなってしまう。
幼馴染みで婚約者なのに、と顔を曇らせるリンフォードであった。
「……分かった。だが、何かあればすぐ相談しろ、いいな」
「ええ、殿下。感謝いたします」
淑やかに頭を下げた彼女に「またな」と告げて踵を返す。
このところ彼女の様子がおかしいのに気づいたのだが、その原因が分からない。間違いなく何かあるのに、レティーシャは頑なにそれを口にしないのだ。
何故、と訊いても無駄だろう。彼女は生まれもあって穏やかだが気位が高い。そして自分の問題は自分で解決すべきと思い込んでいる。
いずれ国母となる者として、強い女性になろうとするのは良い。だが時として他者を頼ることも必要だ。
頼ってほしい、と素直に言うのは照れが勝って難しかった。大人びているリンフォードだが、そういったことにはまだ慣れない。
(とにかく、彼女が頼ってきたときに応えられるようにしなければ)
彼は一人頷いて、そう決意を固めた。
――――――――
今日も今日とて、レティーシャはエミリアに転ばされた。更には教科書を破かれ、鞄に傷をつけられ、流石のレティーシャも気が滅入ってしまった。
(わたくしが何をしたというの……)
中庭のベンチに座り、小さく溜め息をつく。いつも周囲を固めている取り巻きたちも気を遣って離れていった。
ふと、上げた視線の先にリンフォードの姿があって、知らず知らずのうちに頬が緩む。愛おしく、優しい婚約者。
しかし突然その傍らにエミリアが現れてレティーシャは固まった。
二人の声も聞こえないほどに距離が開いているため、どんな会話をしているのかは分からない。だが、二人はどこか親しげだった。
(そん、な……まさか……)
膝の上で震える手を握り締めたレティーシャに、エミリアだけが気づく。青い目が妖艶にゆるりと弧を描いた。
エミリアはそのままレティーシャから視線をそらして、リンフォードの腕に絡み付く。困ったような顔をする彼に可愛らしく笑いかける。
「っ!!」
耐えきれなくなったレティーシャは立ち上がり、彼らに背を向けて足早にその場をあとにした。その姿を、内心の読めない笑みを浮かべたエミリアだけが、じっと見つめていた。
翌日も、その翌日も、エミリアからの嫌がらせは続いた。
レティーシャは毎日、必ず一度は転ばされ、制服を汚され、荷物を荒らされ、水をかけられたりもして疲弊していった。
そしてエミリアはリンフォードと親しくなっていった。
学園内で二人並んで親しげに言葉を交わす様子がよく見られるようになった。
レティーシャの取り巻きたちは「婚約者のいる殿下に何てこと」「お労しやレティーシャ様」とさざめく。
そんな彼女らに「お黙りなさい。ただの噂よ、本気にするべきでないわ」と釘を刺しながらも、レティーシャの心は沈んでいくばかりだった。
花の精のように愛らしい容姿のエミリアと、冷たいとも評される鋭さのある容姿をした自分。リンフォードは、可愛らしいエミリアの方が好みなのだろうか。
(わたくしは、幼馴染みで婚約者なのに)
可愛げのない自分は、飽きられてしまったのだろうか。
でも、時に可愛らしさは未熟さの言い換えとなる。その称賛は、高位貴族の令嬢には相応しくない。いずれ国母となる自分には相応しくない。
唇を噛むこともなく、ただ泰然と背筋を伸ばして耐えなければ。
(わたくしは負けないわ)
何度転ばされようとも、立ち上がってみせよう。
手のひらがどんなに傷だらけでもいい。周りに見えなければ、見せなければ、自分は傷一つない完璧な侯爵令嬢のままなのだから。
幸い、エミリアは全ての嫌がらせを人目に触れないようにやってのけている。
このまま乗り切れば、いずれは。
決意して、図書館へ行こうと階段を下りていたそのとき、誰かに背中を強く押された。
「あっ……」
落ちながら、振り返る。
そこにはレティーシャを突き落とした者がいて――彼女は甘く微笑んでいた。
――――――――
目の前を歩く華奢な背中を強く押す。
階段を転げ落ちていく彼女を見下ろす。
気分はいくらか晴れた。
けれど、彼女がここにいるだけで自分にはそれはもう耐え難い苦痛だった。
いっそ殺してしまえばいいのだろうか。
踊り場に転がった彼女が震えながらこちらを見上げる。怯えたようにわななく唇がかすれた声を紡いだ。
「どう、して……?」
――いったいこれは誰の記憶だろう。
砂嵐のような不穏な夢に魘されて、レティーシャがゆっくり目を覚ますとそこは学園内の保健室だった。
彼女が身じろぎしたことで、傍らに座っていたリンフォードが気づき「目が覚めたか!」と嬉しそうに立ち上がった。
「よかった、痛むところはないか?」
「わたくしは、いったい……」
「階段から落ちたそうだ。エミリアが、ああ、ハリソン男爵令嬢が発見して、お前を保健室まで連れてきてくれた」
「え……」
「礼には及ばないと言ってすぐに帰ってしまったがな……次に会ったら声をかけるといい」
礼には及ばないのも当然だ。
――彼女がレティーシャを突き落としたのだから。
穏やかな表情でエミリアのことを話すリンフォードを見つめながら、レティーシャは震える唇をきゅっと引き結んだ。
いつの間にファーストネームで呼ぶほどの仲になったのか。
「ハリソン男爵令嬢は……」
レティーシャは俯いた。
そして、無理矢理笑みを作ってから再びリンフォードを見る。
「とても、お優しい方なのですね」
真実を話して、信じてもらえなかったらと思うと怖かった。なんて恩知らなのずだと叱責されるかもしれない。失望されてしまうかもしれない。それは嫌だ。
「そうだな」
「……最近、殿下と親しくしておいででいらっしゃいますよね」
「ああ、お前が最近……その、元気がないようだから、同じクラスの彼女ならば何か知らないかと思ってな……」
「っ、ご心配、痛み入ります……」
「気にするな」
それで話してみたら話しやすくて、と楽しげに続けるリンフォード。レティーシャは青い顔でそれを聞いていた。
「結局、彼女もよく知らない、とのことだったが……お前のことを心配していたぞ。階段から落ちてしまうほど疲弊しているのでは、とな」
「それは……」
「無理はするな、レティーシャ。お前が強くあろうとしているのは分かる。だが時には、俺に、頼ってくれないか……?」
「殿下……」
「蒼白い顔で眠るお前を見て肝が冷えた。死んでいたかもしれない、そう考えると恐ろしくてたまらなかった」
「……殿下」
「そんなにも俺は頼りないか……?」
眉尻を下げて、悲しげに言ったリンフォードの手を、レティーシャは強く握った。
「そんなことはありませんわ。ただわたくしが、殿下にご迷惑はかけたくないと思っていただけで……」
「迷惑なんかじゃない」
「……ありがとう、ございます」
「頼むから、これからは無理せず俺に頼ってほしい」
リンフォードの、鮮やかな空色の瞳を見つめて、レティーシャは頷いた。
「ええ、そうさせていただきますわ。感謝いたします、殿下」
「ああ、そうしてくれ」
「ええ」
レティーシャは何も言えないまま、微笑むしかなかった。
リンフォードに支えられて帰路につきながら、レティーシャは悔しさと悲しさに唇を引き結んだ。
(あなた様を信じきれないわたくしをお許しください、殿下)
せめてリンフォードがエミリアと親しくなければ言えたかもしれなかった。
他者の信頼関係を外から崩そうとする者は、その善悪に関わらず他者からの信頼を失いやすい。
相手のためを思って言っても「あんなにいい人の悪口を言うなんて」と悪し様に罵られることがほとんどだ。
レティーシャはそれが怖かった。リンフォードに嫌われたくなかった。
貴族令嬢は感情を激しく表に出してはならない。その教えを叩き込まれている彼女は、涙の一筋も流せないまま、その夜眠りについた。
同じ夜。
リンフォードは自室で、蝋燭の明かりの中、書き物をしていた。
「……テオ」
『ご用かい、殿下?』
呼べば天井から返答がある。
「日中はレティーシャにつけ。彼女に何かする者がいれば、名前と、したことを漏れ無く報告しろ」
『はいはい』
「それから――――」
他にもいくつかの指示を与える。姿は見えないが紫眼の優秀な密偵は、その美しい瞳を煌めかせて緻密な計画を立てていることだろう。
「以上だ。たのむ」
『了解。じゃ』
気配がスッと消える。
あんな会話をしはしたが、きっとレティーシャは弱音を漏らさない。だからこうして自ら動くしかないと判断した。
他にも彼女の周りに関わることで少々きな臭いものを感じたので、丁度よかった。
これで解決すればいいがな、とリンフォードは溜め息を漏らして蝋燭の明かりを吹き消した。
――――――――
取り巻きの令嬢たちを引き連れて、学園内を歩く。こういうときはエミリアも近づいてこないから安心だ。
密やかに安堵しながら、レティーシャは取り巻きたちの囁くような会話に耳を傾ける。
その時。
レティーシャはバシャッと頭から水を被った。上から降ってきたものだと思う。そのことを正確に理解する前に、今度は花瓶が目の前を通過して地面に落下。シンプルな白い陶器の花瓶は彼女の足元で粉々に砕けた。
「レ、レティーシャ様っ!」
「ご無事でいらっしゃいますか?!」
「私のハンカチーフをお使いになってくださいまし!」
「わたくしのものも!」
取り巻きたちが顔を蒼くして差し出す手巾をありがたく受け取って、濡れた顔や髪を軽く拭いながら、レティーシャは上を見上げた。
三階建ての校舎の窓が並ぶそこ。レティーシャたちがいる場所の真上にあたる二階の窓が一つ開いていた。
(きっと犯人はあそこから……)
姿は見ていないのに、レティーシャの脳裏には花瓶を逆さにして中の水を降らした後、その花瓶をレティーシャ目掛けて落とすエミリアの姿が浮かんだ。
ゾッとした。
あと少し、あと少し前に出ていたら頭に花瓶が直撃していた。そうなればレティーシャはただでは済まなかっただろう。
今、目の前で粉々に砕けている陶器の花瓶はそれなりに大きいものだ。砕けたときの音からしても、そこそこの重さがあったことが窺える。
(これが頭に当たっていたら……)
水を被るだけで済んで良かったと、レティーシャは震えを押し殺しながら思った。
「大丈夫ですか、レティーシャ様?」
「……ええ、大丈夫よ。行きましょう、遅れてしまうわ」
「あのっ、犯人捜しはしなくていいのですか?!」
小柄な子爵令嬢が、レティーシャを気遣わしげに見ながらそう言う。彼女を見やって、レティーシャは毅然とした表情を崩さずに「必要ありません」と答えた。
「で、ですが」
「結果としてわたくしにも、あなたたちにも被害は出ていない。それで騒ぎ立てても仕方がないことよ」
「そんな」
「動揺しては犯人の思う壺でしょう。それに、悪事を働くものはいずれその報いを受けるもの。今は時ではないということよ」
「そうです、ね……」
しゅんとしてしまった彼女に「わたくしを思うあなたの気持ちはありがたく受け取ります」と告げて、レティーシャは再び歩き始めた。
悪事を働くものはいずれその報いを受けるもの。
自分に言い聞かせるように、レティーシャはその言葉を胸の内で繰り返した。
レティーシャの見事な金髪や制服の肩を濡らしていた水が完全に乾いた頃。
講堂で取り巻きたちと共にエミリアの席の隣を通ろうとしたときだった。
「っ!」
不意にエミリアが机から足を出してレティーシャの足を引っかけた。咄嗟に前方の机に手をついて転ぶことを回避したレティーシャは、信じられないものを見る目で彼女を振り返る。
(どうして……? 今まではこんな人の多いところでは何もしてこなかったのに……)
流石に、エミリアの行動を見ていたものもいたようだ。厳しい目で彼女を睨む目が多数。今にも彼女に対して声を荒らげて追及しそうな表情をしているものもいる。
他には、エミリアの行動は見ていなくても、いつも背筋を伸ばして淑女の手本のような歩き方をするレティーシャが突然転びそうになったことで何か変に思ったものもいるようだった。
「……ハリソン男爵令嬢」
「ふふ。はい、何でしょう?」
「あなた、自分が何をしたか分かっているの?」
「何かしら……レティーシャ様はご存じでいらっしゃいますの?」
レティーシャの問いに対するエミリアのふざけた態度に、取り巻きの一人がついに「しらばっくれても無駄よ!!」と怒鳴った。
「まあ怖いわ、急に怒鳴るなんて……」
「わたし、見ていましたもの! 貴方がレティーシャ様を転ばせようとわざと足を出したところを!!」
「わざと? 何故そう言い切れるのでしょう?」
「なっ……! だ、だって、そうとしか思えませんわ! レティーシャ様が貴方の隣を通るときに足を出すなんて……」
「根拠としては弱いですわね」
「なにをっ」
「……おやめなさい」
尚も食って掛かろうとする伯爵令嬢を制止して、レティーシャは席に座ったまま薄く微笑んでいるエミリアを見下ろした。
「今回は不問に付します」
取り巻きたちがざわつく。
「ですが次は――分かりますわね」
「ふふ、何のことでしょう」
「……行きましょう」
始終、薄い微笑みを絶やさないエミリアから目をそらし、レティーシャは取り巻きをつれてその場を離れた。
(何か、嫌な予感がする)
今までどんな嫌がらせも絶対人目につかないように行ってきたエミリアが、ついに人前で嫌がらせを行うようになった。
そのことが、レティーシャの胸にざわめく予感を囁いていた。
その日からというもの、エミリアは人目を気にせずレティーシャに嫌がらせをするようになった。
教室内で足を引っかけられて転ばされることは日常茶飯事、面と向かって花瓶の水をかけられ、目の前で机に虫を置かれる。
その度に取り巻きたちは憤り、エミリアを激しく糾弾したが彼女はどこ吹く風。いつも薄く微笑んで「何でしょう?」と言うばかり。
「レティーシャ様、リンフォード殿下にお話ししましょうよ」
「そうですわ。殿下ならばきっとあの人を何とかしてくださいます!」
「ねえ、レティーシャ様、そうしましょうよ」
取り巻きたちの声に、レティーシャは長い睫毛を伏せて黙考する。
確かに、エミリアの嫌がらせは学園内でも噂されるようになっている。今ならば信憑性も増して、リンフォードに確実に信じてもらえるかもしれない。
「少し、考えさせてちょうだい……」
胸の中の「嫌な予感」が、レティーシャにしばしの思考を要求した。
――――――――
何故こんなことを、と追いすがる彼女の頬を振り向き様にバシッと叩く。
勢いのついたそれでよろけた彼女の肩を押し、冷たい床に尻餅をつかせた。
嘲笑。
彼女の瞳が涙で潤む。
「泣いたって無駄よ」
目を見開いて、それから俯いた彼女。
華奢な肩が可哀想なほどに震えている。
気にくわない、気に入らない。
「あなたがいけないの」
そう吐き捨てて、彼女に背を向ける。
そんな自分の背中へ、彼女の震えた声がなおも追いすがる。
「もうやめてください――レティーシャ様……」
青い瞳からこぼれ落ちた涙が、いやに煌めいて見えて気に入らなかった。
ハッと目覚める。
(何か、嫌な夢を見たような……)
レティーシャはズキズキと痛む頭を押さえて、ベッドの上で身を起こした。
今日は学園の創立祭。そんなめでたき日だというのに、エミリアのことが気がかりで仕方がないのは憂鬱なことだ。
(エスコートしてくださる殿下のためにもしっかりしなくては……)
軽く頭を振って嫌な想像を振り払う。
流石のエミリアも創立祭の日にまで嫌がらせをするようなことはないはずだ。国王も臨席する式典なのだから、大きな騒ぎを起こしたらただでは済まない。
レティーシャはそう考えて意識を切り替え、朝の支度をするために立ち上がった。
――――――――
豪華絢爛な夜会。
シャンデリアの煌めきと、響く優雅な音楽。人々の衣装は色鮮やかな花のように連なり、会場にはさざめきのような会話が満ち満ちている。
これが王立学園の創立祭の夜会だ。
リンフォードのエスコートで会場に足を踏み入れたレティーシャは、一瞬、その場の眩しさに目が眩んだ。
姿勢こそ崩さなかったが、微かに強張ったその様子を察したリンフォードが「大丈夫か」と囁く。
ええ、と頷いてレティーシャは瞬きを繰り返した。大丈夫、きっと問題ない。何故か急にゾッとしただけだから。
開会の言葉や、国王の挨拶を聞き、自由な歓談の時間がやって来る。レティーシャはリンフォードと共に挨拶に訪れる在学生や卒業生の貴族たちと言葉を交わした。
何事もなく順調だ、と思ったところへ彼女がやって来た。
「ああ、リンフォード様」
「ハリソン男爵令嬢」
「ふふ、ごきげんよう。お会いしたかったですわ!」
「そうか」
薄桃色の可憐な衣装を身に纏ったエミリアは、鮮やかなロイヤルブルーの衣装の裾を優雅にさばいて軽く礼をしたレティーシャに丸い目を向けて微笑んだ。
「レティーシャ様も、ごきげんよう」
「……ええ」
「代わってほしかったですわ。私もリンフォード様にエスコートされたかった」
「…………」
レティーシャの美貌がサッと青褪める。
対するエミリアの表情からその心は読み取れない。
流石のことにリンフォードが顔をしかめて「ハリソン男爵令嬢、それは無理というものだ」と咎めるような声を出す。
それにエミリアは「え?」と可愛らしく首を傾げてみせた。
「でも、レティーシャ様よりも私の方がリンフォード様と仲が良いですわよね?」
「っ、ハリソン男爵令嬢!」
「ふふふ、だってレティーシャ様は可愛げの欠片もありませんもの。リンフォード様だって私の方がいいでしょう?」
「!!」
突然のことにリンフォードも困惑と憤りの入り交じった表情で「何を……」と言葉に詰まっている。
先程彼が少し大きな声を出したので、三人の周りには人が集まってきていた。
しかし、レティーシャはそれどころではなかった。
脳裏が砂嵐で埋め尽くされたようだ。酷い頭痛がして、エミリアの言葉がぐわんぐわんと反響している。そこに入り交じる知らない記憶。
(
――「殿下! 何故婚約者であるわたくしを蔑ろにしてそんな、卑しい男爵令嬢をお連れになっているのですか?」――
――「婚約、破棄? な、何故そんなことを……わたくしはそんなっ!!」――
――「殿下、待って、お願いですからわたくしの話を、どうか、殿下、殿下っ!!」――
ふら、とレティーシャの体が揺らいだ。リンフォードが慌てて支えると、その顔は驚くほどに蒼白くなっており、一目で体調が悪いと分かった。
「レティーシャッ!」
「あ、あぁ、殿下、わたくしは……」
「仮病でリンフォード様の気を引いて楽しいですか? レティーシャ様」
震えるレティーシャに、なおもそんな言葉を放ったエミリアを、リンフォードがキッと睨み付けた。
「黙れ! これ以上我が婚約者を侮辱するのは許さん!!」
鋭い声音にエミリアは口をつぐむ。しかしその目は静かに、怖いほどに静かに凪いだままで、リンフォードはそこに恐ろしいものを感じた。
「もういい、ここまでとは思わなかった。俺はお前の罪をここで明らかにする」
「罪、ですか」
「ああ。これほどに人の多いところでするつもりはなかったがな」
「ふふふ、そうですか」
レティーシャはリンフォードの腕の中から二人のやり取りを見つめていた。リンフォードの体温が彼女を元気づけるが、それ以上に頭を掻き回すような知らない記憶が恐ろしかった。
(これは、なに?)
リンフォードがレティーシャを支えたまま背筋を正した。
「エミリア・ハリソン男爵令嬢! お前が我が婚約者レティーシャ・プレスコット侯爵令嬢に対して行った悪事の数々、まことに許しがたい!!」
その瞬間、エミリアの瞳が輝いたように見えた。
「それらの中には命に関わるようなものもあった。それは嫌がらせではなく殺人未遂と言える!」
レティーシャはエミリアを見ていた。
エミリアもまた、レティーシャを見ていた。
「証拠は揃えてある。言い逃れはできないぞ!」
エミリアは一瞬だけ、レティーシャへ向けてふわりと花が咲くように笑った。
「よって、お前を国外追放とする!!」
直後、その淡い笑みは最初からなかったかのように消える。
国外追放を宣言されたというのに、会場に満ちた沈黙の中、エミリアは薄く微笑んだままだった。
「国外追放ですか……」
そう言いながら彼女はドレスのスカートの生地の重なる部分へ手を差し入れる。ポケットでも作ってあったのか、そこから鞘に包まれた短剣が姿を現した。
「それでは、足りませんわ」
鞘を投げ捨て、銀刃の短剣を握り締めたエミリアがリンフォード向けて突進してくる。周囲で一連のやり取りを見つめていた人々が悲鳴を上げた。
彼を庇おうと、震える体を叱咤して動くレティーシャを押し止めるリンフォード。駆け寄ってきた衛兵がエミリアを捕らえて押さえる。
「王族へ刃を向けることの意味を分かっているのか、ハリソン男爵令嬢」
「ふふ、ええ。勿論分かっております。一族郎党、問答無用の極刑でしょう?」
「っ、まさかお前は――……いや、いい。連れていけ!!」
リンフォードの命令で衛兵がエミリアに縄をかけて連れていく。
行き先は王宮の地下牢だ。そのうち、彼女の養父母であるハリソン男爵とその妻の男爵夫人も捕らえられてそこへ入れられることだろう。王族に刃を向けるということはそういうことだ。
レティーシャは蒼白な顔でその背中を見つめていた。
エミリアの背は、扉の向こうへ見えなくなるまで、真っ直ぐ凛としていた。
――――――――
これは独白です。
私は、誰にもこのことを明かすつもりはありません。ですから、これは密やかな独白、私の心の中の独り言です。
そう気づいたのはいつだったでしょう。
ああ、そうです、それは初めてあの方にお会いした日。入学式の日でした。
艶やかな金の御髪と、鮮やかな緑の瞳を持つあの方を一目見た瞬間に、私は思い出したのです。
これは
そして同時に思い出しました。愚かな私が愚かな選択をした結果訪れた、一回目の無惨な結末を。
忘れようもありません。
あのときの自分の愚かさに羞恥と憤りを覚えるほどです。
創立祭の夜会の、人々がひしめくその真ん中で、私を伴ったリンフォード王太子殿下に婚約破棄を宣言されるレティーシャ様の姿。
あのときの私は、それを見て確かに勝ち誇った気持ちでおりました。
王太子殿下に近づく私を警戒し、嫌悪して、数々の嫌がらせを行ったレティーシャ様についに報いがと、喜んでおりました。
男爵家に養女として迎えられた身でありながら、王太子の婚約者の地位を手に入れて、私は自分に酔っておりました。
物語のようでとても素敵だと、そのときは思っていたのです。悪役の侯爵令嬢に、私というヒロインは勝ったのだと、そう思っていたのです。
ですがそれは、一時のものでした。
王太子の婚約者の父として、本当に少しではありますが、中央への影響力を得た養父は、長年こっそりと進めてきた計画をついに実行に移しました。
恐らく、権力を手にして、更に欲が出たのでしょう。そういう人でした。私を養女に迎えたのも私の容姿が優れていて、様々な使い道を感じたから。
つまりは自分の欲に忠実で、そのためなら何だってする人なのです。
養父は隣国と、そう、西の帝国と密かに繋がっておりました。
今でこそ戦争はしておりませんが、帝国はかねてより王国を征服し、自国の領土とすることを望んでいました。
この王国には鉱山が多くあり、土壌も豊かです。海に面していることから塩にも困ることがありません。
だからこそこの国は他国からの侵略を跳ね返し続けて、今日に続く独立を保ってこられたのです。
養父は、中央で得た様々な国内の情報を帝国へ流しました。
他にもそうした貴族はいたのではないかと推測しますが、私の存在もあって、養父がもっとも多くの情報を流したのではないかと思います。
恐らく、征服が成功した暁にはその功績に相応しい地位を、とかそういった類いの言葉に乗せられていたのでしょう。
王国を瞬く間に覆っていく戦火の中、帝国に渡った私たちを迎えた数多の兵を前にして、養父がそんなことを口走っていたと記憶していますから。
王太子殿下に取り入って、あわよくば婚約者の地位を、というのは養父の指示でしたから、実を言うと殿下に思い入れはあまりありませんでした。
だからこそ戦火を逃れるつもりで、養父と養母と共に帝国へ渡ったのですから。
それなのにレティーシャ様を追い落として婚約者の地位を得たときには自分が物語のヒロインのようだと喜んでいたのですからお笑い草です。
あのときの私は本当に愚かでした。
浅慮で短慮。よく考えることもせず、ただ糸に操られる木偶のように、養父の言うことだけを聞いて生きていました。
それは私が養女として、ハリソン男爵令嬢となってすぐに、躾と称して注がれた暴力の雨のせいであったのだと、言い訳がましくも思っております。
日常的な暴力は人を無気力にするもの。
私は、暴力を恐れて、養父の操り人形になりました。
そうすればもう痛い目には遭わなかったから。
帝国で私はすぐに殺されたので、王国のその後は知りません。
東の小国へ追放されたレティーシャ様のその後も知りません。
ですが、レティーシャ様の涙は知っています。
あの方が、婚約破棄の瞬間ですら涙をこぼさなかったあの方が、たった一粒こぼした涙の輝きをよく覚えています。
何故こんなことを、なんて分かりきった愚問を投げ掛けて、レティーシャ様に振り向き様に打たれたあのとき。
あなたがいけないの、と言い捨てて去っていかれるその瞬間、私は確かに見たのです。その美しい目からこぼれ落ちる一粒を。
本当に私は愚かでした。
ですが天は、何故か私にやり直す機会をくれました。
私に贖罪の機会が与えられたのです。
この王国を滅ぼさないために養父の計画を潰す。できればその計画を明るみに出して王国に帝国の動きを知らせる。
私は、レティーシャ様を見て一回目を思い出したその直後にそう決意しました。
ですがこれは簡単なことではありませんでした。
ちっぽけな男爵令嬢の言葉は、多くの名門の貴族令息・令嬢が通う学園ではまともに聞いてもらえません。
しかも私は養女、元は平民の身です。そんな私の言葉を聞いてくれる人は一人としていませんでした。
養父が帝国と繋がっているなんて、周囲の気を引きたい哀れな令嬢が言う笑えない冗談扱いされても仕方のないことでした。
このままでは、と思ったとき。
私は思い付きました。
こんな私にもできることを。
この思い付きは、一回目の、レティーシャ様の婚約破棄の様子を思い出して考え付いたものでした。
恐らく、そこまで難しいことではないと思いました。そして私の贖罪にぴったりの方法でもありました。
レティーシャ様が婚約破棄を宣言されたあの場で今度は私が断罪されればいい。
そして、それに養父を巻き込む。
これが知識も経験も、何もかもが足りない私が成功しそうだと考えた唯一の方法でした。
それからは簡単でした。
私が一回目にレティーシャ様からされたような嫌がらせを、今度は私がレティーシャ様に対して行いました。
特に転ばせること。
これは貴族令嬢にとって屈辱的なことですから、毎日必ず行いました。
大きな怪我はさせないように、常に細心の注意を払って私はそれらを続けました。
嫌がらせを始めてから驚いたことは、レティーシャ様はすぐに嫌がらせのことを王太子殿下に報告するだろうと思っていたのにそうしなかったことです。
そして嫌がらせを続けるうちに、レティーシャ様は怖い人だという一回目の印象は間違いだったのだと気づかされました。
レティーシャ様は、いつも全ての貴族令嬢の模範たれ、と誰かに言い含められているのではと思うくらいに、常に優雅で気品に溢れておりました。
常に前を見据える緑の瞳は彼女の意志の強さを、しゃんと伸びた背筋は彼女の気高さを、典雅な振る舞いは彼女の誇りを示しているのだと理解しました。
彼女の全身から溢れ出る貴種たるものの輝きは、なにもその血統のみがもたらすものではなかったのだと気づきました。
レティーシャ様を知る度に、私は一回目の自分の愚かさを呪いました。
私はこんなにも素晴らしく優れたお方から王太子殿下の婚約者の座を奪ったのかと。
創立祭が近づくにつれて、私はレティーシャ様に対する嫌がらせを人前でも行うようにしました。
レティーシャ様からでなくとも、これが王太子殿下のお耳に入れば、私の断罪は確実だろうと考えたからです。
ですが……きっとこれでは足りません。
嫌がらせ程度では、与えられる罰はどんなに重くとも精々国外追放でしょう。
養父を巻き込む。そのためには一族郎党何らかの罰を下される必要があります。
ですから私は、殿下に刃を向けることにいたします。
王族の命を狙うのは許されざる大罪。どんな理由であれ死を賜ることになります。
不器用なりに、創立祭の夜会に着ていくドレスにポケットをつけました。ここに短剣を隠して、夜会に出ようと思います。
殿下が国外追放を宣言されましたら、襲いかかるつもりです。勿論、ふりですけれど。
私が殿下を害する姿を見せれば、その養父母にも王家への害意があるのではと疑いが掛けられます。
それによって家宅捜索なりなんなり、ハリソン男爵家を隅から隅まで調べていただけたらと思います。
王家の方々は慎重だと伺っておりますから、きっと、単なる連座で処刑、という形では終わらせないと信じております。
ああ、胸がどきどきとして落ち着きません。
これから私の贖罪の場へ赴きます。
この二回目の世界では誰も知らない私の罪を償う。
ついにこの日が来ました。
ようやくです。
もうあの方に嫌がらせをしなくていいのだと思うと気分が明るくなります。
私をいいようにしてきた養父に一矢報いることができるのだと思うと歓喜に体が震えます。
愚かな養い子の放つこの一矢が、養父の致命傷になるのです。
レティーシャ様、どうかお幸せに。
直接謝罪をすることができなくてごめんなさい。それだけが心残りです。
ですから私の精一杯で、罪を償います。
この独白は誰にも届かないけれどそれでいいのです。
誰も知らない、とある男爵令嬢の贖罪。
誰の記憶にも残らないそれが、私には似合っているのです。
これが私の贖罪。
罪を犯した私のやり直し。
エミリア・ハリソンの罪と罰の物語の閉幕です。
侯爵令嬢レティーシャ・プレスコットと、ある男爵令嬢の因縁 ふとんねこ @Futon-Neko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます