一九四五年五月八日、ドイツは戦争に敗けた。

 戦後、父は職を追われた。いろいろな事実が明るみに出て、そのために母はあのマイセン磁器を手放さなければならないはめにもなった。

 そんな時期でも、ぼくは「なにはなくとも、紙と鉛筆さえ持たせておけば手のかからない」――とは母のことばだ――子どもだった。

 だが、絵描きになったわけではなかった。どんなにうまいといっても、食べていけるだけの才能かどうかはぼくにはわからなかった。それでも細々と描き続け、強制収容所の子どもたちが描いた絵の展覧会があると、ぼくは出かけていった。

 収容所で父が、いや、父のような親衛隊員たちがなにをしていたかを知ったのは、戦後ぼくが大きくなってからだった。

 当時ぼくは大人たちがなにをしていようと関心はなかった。学校と、丘の上にあったぼくの家と、そしてイーゼルのあるぼくの部屋が世界のすべてだった。だから、今になっても、あのときの収容所のことなど知りたくはなかった。ただ、ダヴィドのがあるのではないかと思って。

 彼の絵ならすぐわかる。繊細でやわらかなタッチ。どんなに殺風景な光景でも、彼の手にかかるとまるで夢の中のできごとだった。

 そこで見ておどろいたのは、彼らの絵が色とりどりだったこと。紙は書き損じた書類の裏だったり、黄ばんでいたりしたが、そこは収容所ではなかった。紙の上はごちそうの並んだテーブルを囲む家族だったり、学校で遊ぶ子どもたちだったり、青空と花畑がそこに描かれていた。

 ぼくはそんなものを収容所で見た覚えはない――少なくとも、ヴィラの外では。あそこは灰色と黒の世界だった。

 ダヴィドの絵はなかった。輝く夏の庭の絵は。

 かわりにそこにあったのは、黒と灰色で描かれた、強制労働をさせられている囚人たちの姿だった。

 泥を運ぶ囚人の列。SSに鞭打たれる彼ら。きゅうくつな三段ベッドに横たわる、うつろな目をした、痩せこけた、だれがだれだか区別のつかない……。

 ダヴィドが見ていたのはだったのだろう。

 サインはなかった。彼はいつもサインをしなかった。タッチはたしかに彼のものだったけれど、描いた人間の名前はどこにもなかった。


 彼を見つけることは、ついにぼくにはできなかった。



 Fin.

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Monochrome 吉村杏 @a-yoshimura

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