無垢な赤いシクラメン

eLe(エル)

彼女の庭園

 不思議な夢を見るのだ。


「誰かいるの」


 真っ暗闇の中、次第に少しずつ目が慣れる。そこには黒い花と赤い花が点々と咲いていた。ここがどんな場所か、想像も付かない。


 すると、どこからか音がする。闇に包まれた視界で視点だけ動かすと、そこには突然、一人の少女が映し出された。


 彼女は純白の細い足で、薄暗い花畑を進む。黒い花を踏み潰すと、彼女の足からは真っ赤な血が滲む。どうやらそれには棘があるようだ。彼女は構わず、赤い花も踏みつけた。すると、赤い花は砕け散って、花弁は宙を舞った。その花弁はまるで、砕かれた宝石のようで。


 踊るように進む彼女は一切の躊躇もなく、花畑に轍を作る。流れた血液は黒い花に吸い込まれ、赤く染まっていく。一つ、二つ、三つ。凍結されたように輝く真っ赤な花弁が、無邪気な彼女を包んでいく。


 ——そうして、どれだけの時間が経っただろうか。真っ黒なキャンバスの上に粉々にしたルビーをばら撒いたような景色が、そこにはあった。




 *




 転校生が来るなんてイベント、特別興味が無かった。淡々とした自己紹介を聞き流し、読み途中の小説の栞を捲りながら、次は何の本を読むか考えていた。


「……え?」


 しかし、そこにいたのは彼女だった。何かの見間違いじゃないのか。そう思って眺めるものの、やはり今朝夢に出てきた少女に瓜二つ。


 だが、それだけだった。


 結局彼女と話すこともなく、変わらない本と向き合うだけの時間。学校は、最低限の成績を修めて卒業出来ればいい。残った時間は出来るだけ、読書に当てたいのだ。


 ちょうど放課後に今の小説が読み終わり、新しい本が読みたいと図書室に向かうが、今日は臨時で休み。肩を落としながら帰っていると、ふと今朝の夢を思い出す。


 異様にリアルで、幻想的で、痛々しかった。


 それが何なのか、あの少女が誰なのか、転校生との関係は。そんなことを実際、ミステリーよろしく解き明かすのは自分の趣味ではなかった。


 と、その時。


「ッ! あ、赤い……猫?」


 思わず驚いて立ち止まる。少し先に、真っ赤な動く何かが合った。すぐにそれが猫だと分かるものの、目を疑う程に赤かったのだ。例えるならちょうど、全身に血飛沫を浴びたかのような。


 けれどその猫は悶えも怯えもせず、凛と佇んでいた。怪我も見当たらなかったので、あれは生まれつきなのだろうか。そんなことを思っていると、猫はこちらに向かってくる。思わず身構えるも、猫は平然と自分の横を通り過ぎていった。


 つい気になって振り向くと、もうその猫はいなくなっていた。


 *


 その翌日。


 またあの赤い花が、ゆっくりと砕け散る。目の前でそれを、スローモーションで見せられていた。どこからか女の子の笑い声が聞こえる。無邪気な、蔑むような、嘲笑うような、けれどどこか寂しさの滲む声。


 その数秒間だけが記憶に残って、目が覚めた。


 登校してすぐに図書室に向かうと、目当ての本が無くなっていた。いや、確かにあったはずだ。もう一度読みたいと思った本。読んだのは一度や二度ではない。


 受付で確認してみた。誰かに借りられているのかと。すると、


「うーん……ごめんなさい、聞いたことがないタイトルです。少なくともこの図書館にはないかな……」


 その言葉に愕然とした。そんなはずはない、国語の教科書にだって載ったことのある作品だ。けれど、受付の人が嘘をついている風にも見えない。


 その帰り、学校から近い本屋に立ち寄った。そこにもない。ふと思い立って携帯でそれを調べた。あり得ない。そのタイトルが、一切ヒットしなかったのだ。


 と、ショックを隠せずに立ち竦んでいると、どこからか昨日の赤い猫が現れた。


 猫は何か言いたげに、じっとこちらを見つめていて。


「……何か用?」


 思わず話しかけてしまうと、猫は急に歩き始める。釣られて猫を追い掛けるものの、道無き道を進む猫に翻弄されてしまう。


 そうして夢中になっていると突然、目の前を猛スピードのバイクが通り過ぎて——


 また、彼女が駆け回っていた。次々に踏み荒らされていく花々。ふわり煌く硝子細工に怯えもせず身に纏うように、彼女は楽しそうだった。


 しかし、花畑を見回せば、そこは惨憺たる有様だった。彼女は心からの笑顔を湛えながら、何故か泣いていた——


 目が覚めると、大勢の人に囲まれていた。身体は動く。どうやら自分は、轢き逃げに遭ったらしい。猫は既に見失った。


 けれど、今はそれどころではなかった。この胸騒ぎはなんだ。すぐに思い当たる節を探す。携帯で調べるのは心許ない。周りの制止を振り切って、大型の書店に駆け込んだ。


 *


 数日後に、同じ書店を訪れたが、結果は変わらなかった。日は暮れ、とある路地裏で座り込んでいた。


 名だたる文豪の著作、近年の受賞作から、好みだったマイナー作家の短編集、ライトノベルに至るまで、悉く無かったことにされていたのだ。


 これは自分の中にだけある記憶だろうか。いいや、そんなはずがない。読書家としてこれだけは断言することが出来る。自分が、あれらを創造できるわけがないのだ。


 しかし、思い立った一部の作品は確かに書店にもあったし、同時にネットからも購入が出来る。ただ、古本はもちろん、Web小説でさえも、一部の作品は消え去っていた。


 それが一体なんなのか分からずに、日々は繰り返される。


 毎日毎日、まるで自分の中の本棚が荒らされていくみたいな感覚で、本が消えていく。


 ふっと顔を上げると、そこにはまたあの赤い猫がいた。


「……君の仕業か?」


 猫にそんなことが出来るのだろうか。まだタチの悪い夢でも見ているのか。


 しかし、猫は表情を変えぬまま歩き出す。


 半ば自棄気味にその赤い猫を追って、一層細くなっていく路地を進んでいった。



 *


 どれほど歩いただろうか。猫は歩く速度を変えず、けれども確かに意思を持って進んでいた。


 辺りはもう、知らない場所だった。雑木林を抜けて、山林の方へ。街灯もないこの場所は、人はもちろん家も見当たらない。この時間に森や山に入るには気が引けるが、今更引き返すわけにもいかない。


 だんだんと樹木が頭上を覆い隠し、やがて月の光さえ届かなくなる。あたりはほんの僅かに差し込む光と、闇の中に浮かぶ猫の眼だけだ。


 怖い。今すぐに引き返したい。このままとんでもないところへ連れて行かれてしまう。そう思いながらも一歩、また一歩と足を踏み出していく。猫は待ってくれない。


 けれどそこは、どこかで見た景色だった。


「ここは……」


 薄暗い森の中、だったはず。けれど足元で何かが崩れる感触がして、目を凝らす。そこには赤い花が咲いていた。


 まさか、あの夢の中?


 そう思って周りを見渡すと、そこに花畑は無かった。代わりにあったのは、暗闇に浮かぶ背の高い本棚。そのほとんどは空っぽで、ざっと数えるだけで十数冊の本が所々に並んでいた。


 ふと、その中の一冊の背表紙に見覚えがあって、駆け寄る。


「これ、あの時消えちゃった本だ」


 それは確かに、図書室で見つけられなかった本だった。そうしてよく見ると、その本棚に飾られた本達、全てに見覚えがあった。


「君が連れてきてくれたのか」


 足元に佇む赤猫は何も答えない。けれど、一体この本棚は何だろう。


 目一杯首を上向けても、本棚の最上段が霞んで見えない。と、少しずつ開けていく視界に、思わず声が出てしまった。


「な、なんだ……」


 そこには同じような本棚がいくつも聳え立っていた。元々あったのに気づかなかったのだろうか。少なくとも、十個以上ある。それが草原の上に弧を描いて並んでいて、まるで天まで繋がっている秘密の図書館みたいだった。


 すると、赤い猫が別の本棚の前に移動していく。目の前を吹き抜けていく生暖かい風。それに乗って、夢で見たのと同じ赤い輝きが集まって、本棚の中に溶けていく。


 それがしばらくすると本になって、また猫が歩き出すと、本が増える。その繰り返し。どんどんそのスピードは加速して、瞬く間に本棚に本が集められていく。


 それを見ていて、始めは心踊った。けれど、これは何かが違う。だって、増えていくのは自分の目の前から消えた本ばかりだったから。そうして新しく集められていく本も、自分が知っているものや、興味のあるタイトルばかりだったから。


「おい、もしかして、君が集めてるのか?」


 猫に声を掛けると、ゆっくりと近づいてくる。何となく、彼は分かっているみたいだった。


 だとしたら。集められていく本棚を見て、


「……ひどいじゃないか。君は集めたかったのかもしれないけれど、僕にだって大切な本だ」


 猫はぴくりともしない。けれど、ずっとこちらを見据えたまま。


「本は独り占めしていいものじゃないよ。みんなで共有出来るから、魅力的なんじゃないか」


 すると、何を言ってもずっと傍若無人だった彼が、初めてこちらに擦り寄ってきた。


「これを、元に戻せないかな? そうしたら僕は、君とこの本達のことを、語り合いたいよ」


 相手は猫だと分かっていても、そこに集められた本達を見て思ったのだ。しかし、猫は答えない。そこには自分の声が響くばかり。得体の知れない図書館は、未だ暗闇に包まれていた。


 祈るような思いでその場に屈み込み、両手を軽く広げる。ゆっくりと近づいてくる彼に、何かが通じたような気がした。


 と、その時。


「にゃあ」


 初めて猫が一鳴きすると、一転して急に本棚の方へと歩き出す。


「あ、待って」


 どうしたのだろう。怒らせただろうか。


 彼は本棚の隙間を縫って、暗闇に消えていった。


 見失ってしまったかと思ったその時、暗闇に浮かぶ白い何かが見えた。


 それをゆっくり追っていくと、夢の景色と合致した。


「君は」


「にゃあ」


 白く細い足。そこに、傷は一つもなかった。


 けれど、それ以外は変わらないままだった。彼女は無表情で歩を進めて、何も言わずに本棚の前で立ち止まった。彼女を連れてきたよと言わんばかりに、猫は鳴いた。


 それは紛れもなく、あの転校生だった。たったの一度だって、言葉を交わしたことはないけれど。この場所か、それに似たような夢の中では、幾度となく繰り返し会っているはずだけれど。


 彼女の足元に留まった猫は見上げて、何か言いたそうにしている。


 満足げな表情をして、構って欲しそうだった。彼と彼女をただ、じっと眺めている。彼女はゆっくりと屈み込んで、猫を引き寄せた。


 ——ありがとう。


 彼女が言い放ったわけじゃないのに、どこからか声が聞こえた。振り向いたけれど、誰もいない。向き直るとそこには、赤い猫が彼女に抱き抱えられながら、溶けていくのが見えた。


 猫は徐々に赤い粒子となって、その身が欠けていく。それが、まるで彼女の心臓だったみたいに、当たり前に彼女の胸元に染み込んでいく。


 それが完全に溶けて無くなった時、音も光もない世界で、どうしてか彼女の姿だけが光るみたいにくっきりと見えていた。


 気づけばその後ろに屹立した本棚は、跡形もなく消え去っていて。


 それからどれだけの時間、彼女と相対していたか分からない。



 ——ねぇ。



 そうして彼女は言う。


 初めて聞く声じゃない。ずっと昔から聞き覚えのあるような声色で——


 咲いたような彼女の表情を見て、思い立ったように本棚の本を一つ手にとって、渡した。そうすれば彼女がどう思うか、どんな表情をするのか、手に取るようだった。


「行こう」


 辺りに花畑は見当たらない。


 二人の軌跡に残された一輪の赤い花は、瞬く間に色を失って。


 彼女の残響で、溶けて消えた——



「初めまして」




 了

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