原敬の誤算
『ドンネルの男・北里柴三郎』を読み進み、原敬や後藤新平との接点を見つけた。
北里柴三郎はある日、意見書を持参して原敬を芝公園の私邸に訪ねて談判に及ぶ。
「伝染病研究所ノ内務省所管ナラサルヘカラサル事」と題した意見書の概要は……。
壱) 〈伝研〉は国家の公衆衛生に寄与しているので、廃止はあり得ない。
弐) また、伝染病予防事務に関する審事機関として設立された経緯があり、教育機関である文部省とはなじまない。
参) さらに、内務省は〈伝研〉を所管してこそ社会民衆のための衛生行政が円滑化される。
そして柴三郎は、〈伝研〉自体に収入源があり国庫負担も軽微であるとして詳細な歳入・歳出の計算表も示した。
それを、原は黙って読んでいた。
「分かった。きみの意向は無視しない」
最後に、原はそう言ったのである。
それ以来、伝研廃止や移管の話は沙汰止みとなった。
この意見書は後日、世間に公表された。
柴三郎はこの問題がもう二度と蒸し返される心配はないと判断していた。
ところが、大正三年の十月に再燃したのである。
柴三郎は後藤新平に相談した。
「文部省に移管しても、そのまま残ればいいではないか」
後藤の発想に柴三郎は半ば失望した。
盟友だった後藤はすでに男爵を授けられ政治家が板について、研究者の心理や志が理解できないようだった。
だが、柴三郎の独立には反対しなかった。
十月十四日、勅令二二一号が官報に公布された。
「伝染病研究所官制中左ノ通改正ス。 第一条中「内務大臣」ヲ「文部大臣」ニ改ム。第三条中「内務大臣」ヲ「文部大臣」ニ改メ左ノ一項ヲ加フ。所長ハ衛生行政ニ関スル事項ニ付テハ内務大臣ノ指揮監督ヲ承ク。附則 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ実施 ス」
伝研移管は既定事実となったのである。
ここでタラレバだが……。
原が北里の意向を汲みとり、東大側の無理無体を退けていれば、今ごろ日本にもアメリカのCDC(疾病予防管理センター)に相当するシステムができたかもしれない。
さてコロナ禍の日本での話。
厚生労働省のホーム頁に、中国語で「新型冠状病毒感染症」という記述がある。
新型コロナウィルス感染症のことだ。
「冠状」はコロナで「病毒」はウイルスの意味なのだろうが、ここでは穏やかに「微言流素」と借字しておこう。
「ヴィールス」と読んでほしい。
百年前にもパンデミックが起きていた。
「微言流素」が発見されていない時代のこと、不当にも「スペイン風邪」と呼ばれて世界中を震え上がらせた。
その原因には諸説あるが、アメリカ軍が(第一次世界大戦の)ヨーロッパ戦線に持ち込んだらしい。
であれば「アメリカ・インフルエンザ」と呼ばれたかも……。
1918(大正7)年9月29日の政権発足から間もなく、原敬首相も〈スペイン風邪〉にかかっていた。
『原敬日記』の十月には……。
「二十六日 午後三時の汽車にて腰越別荘に赴く。昨夜北里研究所社団法人となれる祝宴に招かれ其席にて風邪にかかり、夜に入り熱度三十八度五分に上る」
「二十九日 午前腰越から帰京、風邪は近来各地に伝播せし流行感冒(俗に西班牙風と云ふ)なりしが、二日間斗りに下熱し、昨夜は全く平熱となりたれば今朝帰京せしなり」
「三十日 余流行感冒後一週間を経ざる付御前に出づることを遠慮して出席せず」とある。米籾輸入税中止の緊急勅令などを巡り枢密院の会議があったものの、さすがに大正天皇との同席は避けたのだ。
コロナ禍の令和の御代なら即入院だろう。
スペインかぜ(インフルエンザ)は合計3波あったが、その第2波に原敬首相はかかったのである。
ちなみに、日本では同年春から夏にかけ第1波が襲来し、秋からは(突然変異により致死率が急激に高まった)第2波に見舞われた。
ここからは「もしも……」の話をしよう。
「もしもし北里柴三郎先生、こちらは原敬ですが~」と平民宰相は腰が低い。
「あっ、総理。先般は粗宴に御臨席賜り誠にありがとうございました。承りますれば、その席でスペインかぜをお召しになられた由、誠に申し訳なく存じます」
「すでに快癒したので気になさらずとも……。それよりも、北里先生に御願いがあります。スペインかぜの原因究明と予防法の開発に全力で当たってください」
この30年ほど前(1886年)ドイツ留学を命ぜられた北里柴三郎はベルリンでローベルト・コッホに師事。
そこで〈破傷風菌の純培養〉に成功し、〈抗毒素の発見ならびに血清療法〉を確立していた。
当時の実験には〈シャンベラン濾過器〉という器具が用いられた。
これは素焼きの濾過器で細菌を通さないため、濾過液は濾過性病原体(生命を持った感染性の液体)と呼ばれた。
もっと目の細かい〈北里フィルター〉を使うと、濾過性病原体は少し減少できたそうだ。
これこそがウイルスだったのだ。
しかし実際に(光学顕微鏡で見えない)微細世界が明かされたのは、20世紀半ばに電子顕微鏡が開発されてからであった。
1921(大正10)年に〈原敬暗殺事件〉が起き、それから10年後の1931(昭和6)年に北里柴三郎は脳溢血で生涯を閉じた。
「大変遅くなりましたが、ついに治療法と予防法を開発できました」
「北里先生、それはすばらしい。すぐに国民へ届けてください。令和の頼りない指導者に、国民は困っているようだから」
……なんて、今ごろ天国で語り合っているだろう。
津軽でもコロナの嵐は吹き矢まず神仏頼りに職場へ向かふ
⚡ ドンネルの男 ⚡ 医師脳 @hyakuenbunko
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
📰 詠み書きステト 🩺/医師脳
★24 エッセイ・ノンフィクション 連載中 96話
📚 爺医の一分 📚/医師脳
★21 エッセイ・ノンフィクション 完結済 24話
👴 爺医の矜持 👴/医師脳
★6 エッセイ・ノンフィクション 連載中 14話
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます