再び 箒神

「お久しぶり――ですね」

「随分と長い間――お待たせしてしまいました」

 檜皮色の着物の神様は、微笑みながら、頭上を見上げた。

「前に来てくださった時から、どれくらい経ったのかしら。私たちとあなたとでは、時の感覚も違うものね」

 夏の昼下がり。虚空から投げかけられる緑。蝉の声。水の流れる音。

 八月の酷暑も、ここまでは届かない。柱に背中を預けると、ひんやりとして気持ち良かった。一息吐いている間に、向こうから話しかけてくる。

「あなた――以前に来ていただいた方と、同じ方かしら。ごめんなさいね。どうも、人の顔を覚えるのは苦手で」

「地縁が薄れた現代社会では、それも仕方のないことかも知れませんね。わたしも、全然人の顔を覚えられません。それでよく怒られます」

 神様は相槌を打たず、目を閉じて水の流れる音を聞いているようだった。暫くの沈黙があった後、

「ここも――随分と寂しくなりました」

「村がなくなってしまったのは、三年ほど前ですか」

 そうでしたかね、と神様は肯きも否みもしなかった。

「あの日、一人の少年が私を頼ってくれたから――私はこの地に留まることを許されました。しかし過疎化は進んで、村からは人が消えた。あの少年も都会に帰って――もうここには戻りません」

「――」

「今度こそ本当に、役目を終えた感じがします。待っていただいて、ありがとうございました。気持ちの整理がついて、今ならもう、常世の国へ行ける気がします」

 視線を落とし、自分の両掌を見つめている。とても小さく見えるその背中に、語りかける。

「本当にそれで――良いのですか?」

「だって――仕方がありません。そのために来たのでしょう」

 穏やかな物言い。顔も微笑んでいる。が、こっちを見ようとしない。

「わたしはもう――この世に必要ないのだから」

 思わず背筋が伸びる。さあ、ここからが勝負どころだ。

「確かに、箒神様の力を借りずとも、人間は自分たちの手でお産を行うことはできます。ただ――」

 言い淀んだ。どうすれば、道を示せるか。相手が神様だからこそ、気を使う。

「ただ、どれほど科学が発展しても、人の心の中には常に不安があります。どれほど大丈夫だと分かっていても、心の曇りを完全に晴らすことはできない。あの少年が、自分にできる最後の神頼みとして箒神様を頼ったように――最後の最後に縋りたい、精神的な拠り所は必要なんです」

 相手が目を丸くしているのが分かって、思わず笑いそうになった。こんなところで笑うわけにはいかないと、膝の皮を抓る。箒神にとっては、今後の人生――いや神生を左右する局面なのだから。

「あなたは――私を迎えに来たのではないのですか?」

「この廃村からは連れ出します。こんなところにいては、神様の居腐れですので」

 宝の持ち腐れを上手いことアレンジしてみた心算だったけれど、語呂が悪くてあんまりウケなかった。箒神様はいよいよ戸惑いを見せつつ問う。

「それでは――私はどこへ行くのです」

「それは――箒神様次第です」

 きっぱりと言い切って、立ち上がる。

 箒神様はまだ座したまま、わたしを見上げていた。

「箒神様。確かにわたしたち八百万人事課は、箒神様をお迎えにあがりました。しかし、箒神様の行く先は、箒神様自身がお決めになることです。神様の目を通せば万物が巡るましく移り行くこの人世において、各々の神様の役割も移り変わらざるを得ません。嘗ての役割を全うした満足を胸に常世の国に旅立たれるか、或いは、この時代においてもなお必要とされる役目を、わたしたちと一緒に探すか」

「――」

 箒神は、まじまじとわたしの顔を見たまま、何も言葉を返そうとしない。わたしの言葉の真意をはかろうとしているのがよく分かった。

 大きく息を吸う。箒神に向き直って、そっと、右手を差し出した。

「神も人も――永遠に変わらぬものなどありません。この世の居場所は――自分で作るしかない。そのお手伝いを、わたしたち八百万人事課にさせていただけますか」

 束の間の無音。何もかもが押し黙って、時間が凝縮されて、一瞬にも永遠にも感じられる、世界の静止――。

 それを破るように、箒神の手が動いた。そして重さを感じない掌を、わたしの上に重ねる。

 ここまで来るのに、五十六柱との交渉、そして五十六回の失敗があった。

 ここで漸く――わたしなりのやり方で、上手くいきそうだ。

 わたしは微笑んだ。空はいよいよ青く眩しく、まるで今生まれたばかりのように、きらきらと輝いていた。

(了)

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八百万人事課 ――神様、ご異動願います―― @RITSUHIBI

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