白蔵主 四
「先代の――八百万人事課って」
もう何年も前の話ですよ、と御手洗さん。そんなことを言われると、この人は何歳なんだっていう、いつも訊こう訊こうとして忘れてしまう疑問が頭を擡げてくる。
「わたしがここに来た時の直属の上司でした。今、八百万人事課が担当している職務の殆どは、白蔵主によってわたしに伝えられたものです」
随分と狐に縁がある人だ。ひょっとして、この人も正体は狐なんじゃ――。
そんな疑惑が、顔にありありと浮かんでいたのだろう。御手洗さんは顔を顰めて、
「及川さん、勘違いしないでくださいよ。わたしは人間ですからね。戸籍もあるし、親の顔も分かっています」
そんなこと思ってませんよ、と慌てて打ち消すわたし。御手洗さんはそれでもなお不満そうに、
「神様と関係する仕事ですからね。他の部署ではない縁を結ぶことが多いというだけの話です。大体、今でもわたしたちのブレインは蛙なわけでしょう」
多邇具久様――言われてみれば、そうだったな。昔は今より、種族的にバラエティーに富んでいたというだけのことなのか。
「白蔵主とは、どれくらいの間、一緒に働いていたんですか?」
数えるのも面倒なくらいの長さです――と御手洗さん。背もたれをギシギシ言わせながら天井を睨んでいる。あんまり、良い思い出はなかったらしい。
「八百万人事課のノウハウを私に仕込んで、後は任せると言い残して蒸発したんですよ。勝手に彼岸に帰っていった。それ以来、私には何の便りもありません」
そんな相手が今更、部下に接触して何か吹き込んできた、となれば良い気持ちがしないのは当然のことか。
昨日の詳しい話、聞きたいですかと訊いてみた。御手洗さんは即座に首を横に振り、
「白蔵主がわたしを飛び越して、及川さんに直に接触してきたのには、それ相応の理由があるのでしょう。そこを私が言及する筋合いはありません。大体、見当が付くこともでもありますしね」
大方、わたしとは別の道を探せとでも言ったんでしょう。そう言って御手洗さんは嗤った。わたしは肯定とも否定ともつかぬ、曖昧な相槌しか打てなかった。
「元々狐は引っ掻き回すのが好きですからね。それに加えて、白蔵主は説得好きだ。言葉を連ねて及川さんの前に道を設えることなど、白蔵主には朝飯前ですよ」
「そう――ですか」
やっとそれだけを言うと、下を向いてしまうわたし。胸の中に漲っていたはずの気持ちが、面白いくらいの勢いで萎んでいくのを感じた。
昨夕、自分の心を自分で決めた心算だったのだ。
白蔵主の言葉に背中を押されて、自分で自分に誓った心算だったのだ。
ここでやっていこうと。御手洗さんを、超えられるように頑張ろうと。
そう、自分で決めたはずだったのだ。
それが、白蔵主という狐の掌の上で、踊らされていただけだったなんて――。
やはりわたしという人間には、何もかもが手に余るらしい。
「及川さん――また変なことを考えていますね」
御手洗さん、今度は速かった。もう慣れっこなのだと思うと、その速さも情けなく感じた。
「大方、白蔵主に誑かされただとか、都合の良い駒に仕立て上げられてだけだったとか、そういう風に感じているのでしょう」
「そう――いう感じですかね」
この人は毎度毎度、何でわたしの中のモヤモヤを言語化できるのだろう。言葉になる前は、すっごく切実な気持ちのはずなのに、御手洗さんに言葉という枠に嵌められてしまうと、急に遠くなったように感じる。
思えば昨夕もそうだった。白蔵主に、自分の胸中を打ち明け、それを言葉で整理され、不思議とすっきりした気持ちになったのだ。
これが客観視という奴だろうか。――。
そこまで考えて、はっと思い至った。
「漸く、分かったようですね」
御手洗さんが、眼鏡の奥だけで笑みを見せた。
「受ける側になって初めて、見えてくるものもあるでしょう。白蔵主は、それを伝えたかったのですよ」
八百万人事課のわたしたちが、神様に向けて行うアプローチ――。
その神様を形作るもの全てを言葉に変えて肯定し、その上で行くべき道を示す――。
わたしは、神様と同じことをされていたのだ。
白蔵主と、御手洗さん。
二人の、八百万人事課に。
「そこまで分かったなら、もう一つ大切なことにも気付けるはずですよ。我々は、確かに言葉によって整理をつけ、道を示す――。しかし、示した道を強要することはない。最後の最後には、神様自身の選択に委ねます」
そう。むしろ神様に示した道を選択してもらえるよう、言葉を尽くすのだ。それは強要ではなく、説得――そうか。白蔵主が、殺生の罪を猟師に説いたように、心を尽くして説得するのだ。
そして、どれほど頑張っても猟師が首を縦に振らない場合があったように、決めるのは結局、自分自身――。
「劒山の鬼の時に言ったでしょう。相手の真意ははかれない。それは神であっても、人であっても同じことです。及川さんのような分かりやすい人が相手でも、全てを汲み取れるわけではない」
分かりやすくて悪かったな、と言いたいところを抑えて、今は聞き手に回る。
「どれほど言葉を並べ立てて説得したって、最後に決めるのは自分自身の心一つです。白蔵主の言葉は、及川さんの心の深奥にある、一番強い気持ちを、言語化することによって擽っただけ。それは洗脳じゃありません。人を誑かすのが好きな狐とは言え、曲がりなりにも八百万人事課として、私の上にいた器です。幻術の類で人の心を惑わすような真似には及ばない」
「――」
「白蔵主に何らかの目論見があって及川さんに接触したのだとしても、見たことがないものが夢に出てこないのと同じように、端から心に宿らぬものには肯けないようになっているんです。だからね、決断までにどのような経緯があったのだとしても――たとえ、あの白蔵主に相談した上での決断であろうとも、私は、及川さんの選択を尊重します。及川さんの勤め先は、来年も、ここで決まりですよ」
その勤め先ってのを、居場所と言い換えてくれたなら、わたしは号泣したかも知れない。勤め先と言われると、何かちょっと違う感じがして、感情が沸いてこないというか……しかし、白蔵主と御手洗さん、二人がかりの働きによって、どうやらわたしの心も、解きほぐれたようであった。
少しの徒労と、言い知れぬ満足。わたしたちが出会ってきた神様――異動を前に、此岸への別れを前にした神様たちも、同じような心持だったのかも知れない。
「しかしそうなると――困ったことになりますね」
「白蔵主のことですか? やっぱり、まずいですか?」
「及川さんが気に病むことではありませんよ。私に一言もなしに及川さんを迷い家に誘ったのには癪が障りますが……その反面、相手が白蔵主で良かったとも言えまず。もっと変なのに誘われていたら、今頃こうしてお喋りなんかできなかったかも知れないし」
ゾッとするようなことを、結果的に何にもなかったんだから良いじゃないか、と言わんばかりの軽さで口にする御手洗さん。頭から血の気が引くのが分かった。
そうだった。職業柄、彼岸との関りが多くなるわたしたちは、他の人よりも良くないモノに取り込まれやすいんだった。
しかし、御手洗さんはそれを気にしているわけではないようだ(むしろ、気にしてほしい)。そう言えば、いつからか御手洗さんの顔から険が消えて、たいぶ和らいでいるような気がする。その顔で、困ったことにと言われても、何に困っているのだか見当がつかない。
「さっきの話だと、白蔵主も及川さんに留まることを望んでいたのでしょう」
「え? ――いや、明確にそうだとは言ってませんでしたが……でも、わたしが異動する道は示していなかったように思います」
「つまり及川さんは、白蔵主――わたしの元上司のお墨付きを得たということになります。これは今までのように蔑ろにできないですよ」
蔑ろにしていた自覚はあったんですね。
それにね――と御手洗さん。
「白蔵主は言ったんでしょ? 私のやり方が全てではない。別のやり方を指摘し得るのは、私ではなく他の誰かであると」
そう。その誰かを、わたしがやれというような口振りだった。
「ってことは、及川さんはわたしの部下であり、相棒であり、同時にライバルでもあるわけです。今後、及川さんがわたしの下でスキルを積み、八百万人事課の仕事への理解を重ねた果てに、私の先を行く存在になるかも知れない。そうなった場合――異動するのは、私になるかも知れません」
えっ? そんなにたいそうなことになるの?
そんなバチバチに火花を散らさなくても、定員二名という枠を取っ払いさえすれば良いと思うのだけれど。
わたしがそう言うと御手洗さんも頷いて、
「もちろん、そうした諸々の諸条件だって今後、変わっていく可能性はあります。つまり、これまでの私の居場所だった八百万人事課が、及川さんの手によって作り変えられていくわけですね。神様たちがそうであるように――私たち人間も、いつまでも同じ場所にいられるわけではないのだから」
「作り変えるなんて――わたしに、そんな力があるのかどうか」
「白蔵主のお墨付きを得ているんですよ? 何の理由もなく、誰彼構わず焚きつけるようなことはしませんよ、あの狐は」
な、なんだか、話が大きくなってきたな――。
わたしの耳の前あたりを、冷たい汗が流れた。御手洗さんに言語化されて初めて覚える実感というのもあるのだ。白蔵主、そして目の前の上司に期待されている、わたしの役割――かなりトンデモない大役のように思われてきて、早くも気持ちが萎えてきた。
「大丈夫ですよ、及川さん」
御手洗さんの声は弾んでいた。この人の中にあるわたしへの妙な信頼感、その正体を、わたしは今なお推し量ることはできない。
わたしなら大丈夫――いつものようにそう言って、わたしの心を前に向けるのだろうか。しかし御手洗さんの口を突いて出た次の言葉は、
「どうなるかは及川さん次第ですから」
という、まったくフォローする心算のないものだった。
そりゃそうだ。ライバルなんだから。
わたしは嘆息した。これからも御手洗さんは、わたしに色々なことを教えてくれるだろう。そしてフェアに、わたしが意見する機会を提供してくれるだろう。利害が衝突するからと言って必要な情報を与えないとか、そういった卑怯なことはしない人だ。
御手洗さんの雄弁にも沈黙にも、必ず何かしらの意味がある。
それだけは信じて良い。この一年間でわたしが得た、彼への一番強い信頼である。
だからこそ、本当に、わたし次第なのだ。
わたしが何を学び得るか。何を意見し得るか。その果てに、どんな道を探し得るか――。
それは他の誰にも託すことのできない、わたしだけに課せられた役目なのだ。
「及川さん」
名前を呼ばれた。気付けば、御手洗さんが立ちあがっていた。
そっと、右手が差し出された。
「八岐大蛇以外に、言う相手などいないと思っていたのですが――改めて及川さん。貴女はここ、八百万人事課にお留まりいただきます。願わくば恨みを鎮め現実を受け止め、取り敢えず向こう一年、また僕を手伝ってください」
変な口上だ。すぐには返事ができなかった。
わたしは黙って、右手を差し出し、御手洗さんの手を握った。御手洗さんの手は強くもなく弱くもなく――しかし、わたしの手をしっかり握り返して離さないような、そんな感じがしたのだった。
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