白蔵主 三
出勤してすぐ、異動願を御手洗さんに白紙のまま返却した。
既にデスクで何かしら書き物をしていた御手洗さんは、わたしから受け取った用紙をちらりと眺めてすぐ、
「及川さん――人事調書なんですから、異動希望がないならないで、ここの部分は記入してください」
と突っ返された。ああすみません、と慌てて取り返すわたしを一瞥する御手洗さんは、いつもの感情を読み取り難い声色で、
「来年も、ここでいいんですね」
とだけ訊いた。わたしはなるべく強い意志が見えるように頷いて、
「いろいろ考えましたけど、わたし自身の気持ちで、ここでやっていきたいって思ったんで。御手洗さんの希望がどうとかは、考えてません」
それでいいですよ――と、御手洗さんは口元を緩めた。
「及川さん自身の気持ちが確かなら、私が四の五の言う問題ではありませんから。しかし――昨日の今日で心を決められるとは思っていませんでした」
「わたし、そんなに優柔不断に見えますか?」
「及川さんに限らず――です。誰だって悩みますよ。昨日話したような、将来的なリスクはあるですからね。及川さんの決断の速さ、今までで最短だと思いますよ」
真向かいの机に座ったわたしを、御手洗さんは眼鏡を少し持ち上げて探るように見た。心のうちを見透かされているようで良い気持ではないが、ここで目をそらすと、何となく意志が弱い奴だと思われそうで、一所懸命見つめ返してやった。
「及川さん――誰かに会いましたね」
びくっとした。そんなことまで分かるのか。
何気に長い沈黙の後で、――分かります? とだけ答え返した。
御手洗さんはふふっと笑って、
「分かりますよ――と言いたいところですけど、確証があったわけでも、及川さんの顔が分かりやすいでわけでもありません。カマをかけてみただけですよ」
そんなもんかね、とわたしは肩を竦めた。御手洗さんは机に肘をついて両手を重ね、その上に顎を置いて、
「及川さんのプライベートにまで踏み込む無粋な真似はしたくないのですが――差し支えなければ、話してくれますか。八百万人事課の仕事について、相談できる相手なんて、そう多くはないでしょうし、興味があるのですよ」
「は、はあ――別に、話して困るようなことはないと思いますけど」
それから夕べに起こったことを搔い摘んで話した。昨日、老僧相手に話した時とはまるで違って、かなり要領よく話せたと思う。相手が御手洗さんであるだけで、こうも違うのかと、自分に戸惑いすら覚えたくらいだった。
ここ二日間くらい、けっこう自分語りしている。自分のことを話すなんて、あんまり経験がなかった。やってみると意外と難しく、意外と頭がすっきりするものだ。
そんな気持ちなわたしの前で、御手洗さんの顔は何故だか急激に曇っていった。わたしが老僧にあれこれ言われて気持ちを固めたくだりの辺りで、顔が曇りを通り越して険悪になり、反吐の一つも吐きたそうな感じになっていた。
あれ? わたし何か、悪いこと言ったか? 御手洗さんのやり方がどうだとか、御手洗さんへの想いがどうだとかっていう、面倒くさくなりそうなところは、ちゃんと省略した心算だったんだけど……。
話し終わっても、今度は御手洗さんが沈黙したままだった。嫌~な空気が流れていて、それを払拭したくて、お茶でも淹れてこようと席を立つ。
十分くらいして、二人分のお茶を淹れて戻って来ても、御手洗さんは、まったく変わらぬポーズで静止していた。その顔は、険悪かつ不機嫌であるには違いない一方、子どもが不貞腐れている様子とも、わたしには思われたのだった。
「及川さん――」
自分の席でお茶を啜っていると、御手洗さんに名前を呼ばれた。何ですか、と訊き返すと、御手洗さんは溜息一つ吐いて、
「及川さんが迷い家で遭遇した、得体の知れない僧侶の名前は、白蔵主です」
と言った。
「あ、やっぱり知り合いだったんですね」
白蔵主とやらが昨日、御手洗さんのことを何度も、あの男と呼んでいたから、面識があるのは明らかだったのだ。ただ、あんまり良い印象ではないようだ。得体の知れないなんて、わたしは言っていない。
あれはね、狐ですよ。御手洗さんは、そう言った。
「狐――ですか?」
「狂言『釣狐』の題材ともなるくらい、以前は名の知られた霊狐でした。永徳元年に和泉は少林寺塔頭の耕雲庵の住侶に白蔵主というのがいて、竹林にて三本足の白狐に遭い、連れ帰って世話をしたんです。この白狐が霊性を持っていてね。白蔵主の甥にあたるのが、狩猟好きであるのを恐れ、白蔵主に化けて甥に殺生の罪について語るのですよ。そこですったもんだがあるわけですが、それを物語としたのが狂言の『釣り狐』です」
人に化ける狐――なんだか、似た話を聞いたことがある。
「この白蔵主は、無駄に人間臭い霊狐でしてね。狂言が作られ、狂言師が、自分の物語を演じている様を見て、老人に化け、狐の動きを教えたと言われています。今もかどうかは知りませんが、昔は『釣り狐』を演じる際、役者は上演の際に少林寺に参詣して祈祷を上げたうえ、境内の逆目竹を杖として舞台で使用する習わしがあったそうですよ」
「へえ――そんな形で、人と関わる狐もいるんですね」
「そうかと思えば、こちらは竹原春泉の『絵本百物語』に載っているんですが、甲斐の宝塔寺の住職が白蔵主という名前でね。彼の甥の弥作が猟師で、狐の皮売りをしていたんです。近くの夢山に棲む白狐はこの弥作をたいそう恨んでいてね。一計を案じ、伯父の白蔵主に化けて弥作を尋ね、殺生の罪について説くところまではさっきの話と同じなんですが、その時に金を渡して狐の罠を持ち去るんです。ところが、弥作は金を使い果たして、再び金を乞いに寺に来ようとする。焦った狐は再び白蔵主になりすますんですが、今度はそのために白蔵主を食い殺してしまうんです」
「えっ? なぜ――?」
「煩わしくなったんでしょうね。白蔵主に化けた狐は、弥作を追い返し、それから五十年以上もの間、宝塔寺の住職を務めることになります。まあその後、犬に本性を見抜かれて、今度は狐の方が食い殺されるところで『絵本百物語』は終わるんですが、霊狐ですからね。そう簡単に、くたばるもんじゃないですよ」
いつになく乱暴な御手洗さんの口調。何かあったのかと勘繰る一方で、わたしの中で納得がいったところがあった。昨日、白蔵主は老コ心と言っていた。わたしは、老婆心を老子心と言い違えたのだと思ったのだが、正しくは老狐心だったのだ。
しかしなぁ……と、頭をガシガシやりながらぼやく御手洗さん。その目は虚空を睨んで離さない。
「よりにもよって、あの白蔵主に気に入られるとは――。及川さん、よほど奇異な星の下に生まれたと見える」
「気に入られるって――白蔵主に遭ったのは、わたしが偶然、迷いこんだからで」
まだまだ甘いですね、と今日何度目かの溜息。御手洗さんは、わたしの前にしゅびっと人差し指を立て、
「相手が狐狸だと分かった以上、その言葉の全てを鵜吞みにするのは危険ですよ。確かに迷い家は此岸の至る所に扉を開いていますが、行きつく先があの白蔵主となると、これは単なる偶然とは考えない方が良い。及川さんが迷っているのを見て、これ幸いと自分の塒に誘ったのでしょう」
なんだか不安になってきた。明確なことなど何一つとして言われていないのに、急に相手を物騒に感じ出したのだ。さっき、無記入の異動願を渡した時の強い心はどこへやら、生唾を呑み込みながら、
「御手洗さん――白蔵主って、いったい――」
と、虚空に呟くように問いかける。御手洗さんは、わたしが淹れたお茶を啜って、
「白蔵主は、わたしの元上司。先代の八百万人事課の課長ですよ」
と言った。
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