白蔵主 二
昔、化野念仏寺の千灯供養に行ったことがある。
京都の化野は、北の蓮台野、東の鳥辺野と並んで西の風葬の地。弘法大師空海が、この地に打ち棄てられていた遺骸を埋葬して、五智山如来寺を建てたのが、化野念仏寺の始まり。境内からは多くの石塔や石仏が出土し、その数約八千。これらを供養するために設えられた「浄土」に、夏の二夜、参拝者が千の灯火を献じる――これが、千灯供養。小学生の頃に、祖母に連れられて、一度だけ参加したのだった。
千灯供養自体に、そこまでの思い出はない。わたしの記憶に深く刻みつけられているのは、念仏寺までの道中にあった、竹林の小径だった。
嵯峨野線の嵐山駅で降りて渡月橋を渡り、野宮神社から天龍寺北門を経て大河内山荘へ抜ける竹藪の道。季節を問わず空を竹が多い、昼間でも森閑として薄暗い。夜ともなれば、本当に一寸先は闇。完全に視界を閉ざされる空間となるのだ。
よく覚えている。振り返れば野宮神社の灯籠。その奥から聞こえてくる嵐山の活気。前を向けば、黒洞々たる夜。背中から伸びてくるはずの明かりを拒絶する黒。自分が立っている位置の前後で世界が断絶しているかのような、現世と幽世の狭間を跨いだかのような、そんな怖くて魅力的な気持ちになったものだった。
それから十年ほどを経た今、全く同じような「境目」に立っている。
不思議な僧に誘われて、古臭い障子戸を経て不思議な寺堂に足を踏み入れた瞬間、わたしは息を呑んだ。
寺堂の中は存外に狭く、座敷の奥はすぐに縁側になって庭に繋がっている。
その庭が、昼日中の陽光を受けて燦々と煌めいているのである。
芒や、竜胆や、金木犀や、桔梗……様々な草花が縁側を超えて畳にまで迫ってくる、そんな勢いで咲き乱れている庭であった。
振り返れば、夜の闇である。前を向けば、そこは麗らかな秋の昼下がりである。そして、その陽光は座敷の中だけに留まっていて、わたしの背後に黒々と渦巻く夜闇に投げかけられることはない。ちょうど、わたしが今立っているところで、世界が綺麗に断絶している。
あの時と同じ、不思議な気分。懐かしいというよりも、またここに来たなという、なんとも形容し難い気持ち。
怖くはなかった。不安もなかった。わたしが本来いるべき世界はたぶん、背後の夜なのだと思う。それでも今は、この境目を通って、寺堂の先にある幽世に足を踏み入れることこそが、今のわたしには相応しいように感じられたのだった。
縁側には、件の僧が座していた。錫杖を地面に突いて、少々面長の顎をその上に置いて、ぼんやりとした目で庭を眺めている。
何か言われたわけではなかったけれど、取り合えず座ってみようと思った。
綺麗に整えられた畳の上を、ずかずか歩くことはさすがに気が引けた。見よう見まねの摺り足で、あんまり音が出ないように注意しながら、わたしは老僧の傍に正座する。
――ぬしァ……何者じゃ。
わたしが座るなり、しわがれた声で老僧は言った。上がって行けと言った割には茶も出さないし、随分なものの言い様だとは思ったが、突拍子のない言動には日頃から鍛えられているわたし、この程度でたじろく肝ではない。
八百万人事課の者です、と答えた。それでたぶん、分かってくれる確信があった。
案の定、老僧は納得したように何度も頷き、少しだけ砕けた調子で言った。
「成程な。道理でここに引き寄せられ、またここを見ても驚かなんだわけか。だが……話に聞く男のなりとは異なるようだ。その連れの方か」
連れ、という言葉が何を意味しているのか分からなかったので、とりあえず、部下です、と答えておく。老僧はさらに深く、殆ど頭をぐらつかせているも同然の頷きを見せ、
「あ奴の下で働いておるのか。そりゃァ随分と――気苦労も多かろう」
気苦労をかけているのはわたしの方なんだけど――と言いたい気持ちもあったが、曖昧に微笑んでおく。胸の閊えが取れたというか、恐らくは無意識に感じていた違和感なのか不安なのか、まあたぶんそうとでも言うしかない、胸を騒がせるものが、これで一気に溶けていったのを感じた。御手洗さんの知り合いなら、幽世に迷い込んだ先であっても、そんな変なことにはならないだろう。
老僧が一人納得して口を閉じてしまったので、えらく静かになった。このままいつまでも庭を見ているわけにもいくまい。わたしはおずおずと、
「あの――ここは、いったい、どこなんでしょう」
と訊いた。老僧はわたしを方を見ず、秋の草花に説くような様子で、
「人世の名付で呼ぶなら、そうさな――迷い家、とでもしておこうか」
迷い家――迷わし神といい、今日のわたしはだいぶ揺さぶられているらしい。
迷い家って何ですか、とは聞けなかった。神様でも物の怪相手に、物事の由来や意味を聞くのはご法度なのだ。解釈一つとっても、人による尺度と、人外による尺度は必ずどこかで違ってくるから――と。だからこそ、いつもは御手洗さんが解説してくれるわけなのだが。それがいないとなると、分からぬことは分からぬままで放っておくしかない。
わたしは曖昧に微笑んで話を打ち切り、老僧と同じ方向を向いて、綺麗な庭ですね、と答えた。老僧は深々と息を吐き、やはり、わたしではなく眼前の草花に物語かけるような様子で、
「拙僧が人世におったころ、棲んでいた寺の近くを模したのだ。和泉の少林寺だったが、甲斐の宝塔寺だったか……細かいことは忘れてしもうた。ただ、寺の近くにあった夢山という名を気に入っていた記憶はあるから、恐らくは甲斐の宝塔寺だと思う」
「はあ――」
中々会話が続かない相手だ。或いはわたしの対話力に難ありなのかも知れない。向こうは、それなりの文量、話してるのだ。それを活かすことなく終わらせているのは、わたしの中途半端な相槌だ。
とりあえずここまでの話を総合してみると、わたしがいるのは迷い家であり、わたしの話し相手は、昔々、大阪と山梨のお寺に住んでいたお坊さんだということになる。
結局、何も分かっちゃいない。わたしはまだ、スタート地点にすら立っていない。
あの人が居ないだけで、こんなにダメダメだとは――。
御手洗さんだったら、こんなことにはならないんだろう。それを思うと、心底溜め息が出た。
傍にいるときもそれ相応に「すごい人だ」と思っているけれど、傍に居ないと、その有能っぷりを嫌でも痛感させられる。
いや――痛感するのは、わたしの無能っぷりの方だろうか。
こんなんじゃ、異動を勧められるのも仕方がないか。
情けなくって、涙が出そうになる。気づかれまいと、目を瞬かせて秋の庭を眺め、花粉にやられたような顔をするわたし。と、横に座した老僧が、猫背の先の首を曲げ、わたしの方を見て、
「なんじゃ――何か、思い詰めたことがあるようだの」
と言ってきた。誤魔化したつもりが、完全にバレている。わたしは曖昧に微笑んで、分かりますか――と訊き返した。神様相手に嘘は通じないから、こんな返答しか思いつかない。
「分かるも何も――迷いなくして迷い家に迷い込む奴などおらぬ」
そもそも迷い家とやらが何なのか、さっぱりなのだけれど……ややこしくなりそうだから、そうですね、と同意を見せた。老僧は鼻をくんくんさせて、
「ぬしに話す気がないならば言わぬでも構わぬが――現行、拙僧とぬしとは利害が衝突する間柄ではなし。彼岸にいるからこそ、見えるものもあろう。話したくば――話してみよ」
と言った。さすがのわたしも多少は逡巡したけれど、結局、今日のことを洗い浚い打ち明けることにする。
かなり長い時間がかかった。最初は、今日のことだけ話せば良いと思ったのだ。それが、ちゃんと分かってもらうためには、大蛇退治の顛末も話さなければならないと気付き、その時わたしがどう思ったかを語るためには、金霊に泣かされた話もしないと行けないと悟った。そこまで話した上で、今日の異動願云々のところで、わたしが受けたショックや迷いの深さを伝えるには、普段わたしが八百万人事課で、いかに仕事ができてないかについても語らねばならないことを思い知って……と、こんな具合に、次から次へと、伝えねばならないことが出てきて、どんどん話の尻尾が長くなっていったのだった。
その上、わたしの中には感情のうねりがあった。普段なら、鈍臭いわたしであっても、もう少し整然とした話ができたはずだ。感情が昂って変に湿っぽくなったかと思いきや、冷静な心を取り戻して先の言葉を慌てて打ち消したりなど、随分と聞き辛い話だったと思う。それでも老僧は、何一つ苦言を挟むことなく――ついでに何一つ相槌を挟むこともなく、静かに聞いてくれたのだった。
「事の次第は――相分かった」
喋り草臥れて一息吐いた矢先、老僧は目を瞑りながら口を開いた。まじかよ、と目を丸くするわたし。喋った本人がこの言い方はどうかと思うが、絶対に分からんだろうなと思っていたのだ。御手洗さんは、神様の思考は謎めいているとよく言うが、たぶん、人の話の中で拾い上げる部分や、知り得た情報を繋ぎ合わせる手段が何かしら異なっているのだろう。直に話すと、そんな気がした。
それで、と、一息の間を置いてから老僧は、
「ぬしは、どうしたいじゃ」
「どうするって――」
それが決まってたら、こんなところに迷い出やしない。わたしがそう言おうとすると、相手は首を横に振って、
「拙僧が訊くのは、心算ではない。ぬしの希望じゃ」
と言った。何のこっちゃ、とわたしが顔を顰めると、老僧は溜息一つ吐いて、
「聞くだけ野暮とは思うてはいたがな。仮にぬしの心が、異動に傾いでいるならば迷う必要はあるまい。次の場所に移るが良かろう。然様に踏み切らぬ時点で、ぬしの心が移動先にないことは分かっておる。ぬしの希望は、初めから決まっておる」
わたしは黙って聞いていた。心を解きほぐされているようだった。悪い気分ではなかった。自分の中の靄々が次第に晴れていくようで。何か確かなものが見つけられそうで。
だがな――、と老僧は続ける。
「今の職場に残りたいと素直に言えば良いのに言えない――その躊躇い瑕の正体は、ぬしの中にある自覚じゃろ。己は八百万人事課にいるべきではない。その理由は己自身の職能。上司がいなければ何もできぬ己を恥じておる。そういうことじゃろ」
そこまで言われると――いや、実際そうなのだろう。
御手洗さんの前で、残りますと、異動願の書類を突き返すだけの自信がないのだ。ないとは思うけれど、それを見た御手洗さんが意外な顔をしたり、わたしが残っても有益なことにはならないみたいなことを言われたりなんかしたら……本当に、立ち直れない気がする。それが怖いのだ。
老僧はまた嘆息した。頻繁に溜息を吐くひとだ。それから、拙僧の言葉など響かぬかも知れぬが――と前置きして、
「今のぬしにとっては、あの男が指し示す道こそが全てなのだろうな。しかし――誠にそうなのか」
あの男とは、御手洗さんのことだろう。本当にそうかと言われても、わたし達の仕事は、あまりに前例に乏しすぎて、御手洗さんのやり方以外に何があるというのか見当もつかない。
そうであろ、そうであろ、と老僧は独り頷き、
「特殊な仕事ゆえ、あの男に示された以外の正解を知らぬ。――がな、そもそも正解なぞなく、またぬしにとっても、今の居場所はそろそろ特殊ではなくなってきた筈。ぬしの眼に映るものが、そこから感じ得るものが、以前とは違ったものになってはいまいか」
それが一分も変わっておらぬなら、早々に移るが良い――。そう締め括って、老僧は目を剥いた。犬や猫を思わせるような、獣染みた眼。さすがに怖気づいた。
首を竦め、考えてみた。御手洗さんの示す道に、唯々諾々と従ってきただけのわたし。自分一人では何もすべきかも分からず、たとえ何かを成し得たとしても、それはそうしようという意図の元の成果ではなく、単なる成り行き――それとても御手洗さんの敷いたレールを渡った果ての結果でしかなかったわたし。
……。
…………。
……………。
………………。
いや、そればかりでもなかったかも知れない、
確かに基本的には、御手洗さんの敷いたレールの上で全ては決着していた。
けれど――わたしが何も考えぬ機械のように、その上を辿っていたわけでは、多分なかったと思う。
事あるごとに御手洗さんに口を挟んだ。そして窘められた。
納得できる理屈もあれば、納得できない理屈もあった。
答えなんて見つかるか分からない。正解なんて存在しないと断言された、此岸と彼岸の仲介役の仕事。職務内容を人に紹介しようも思っても、初めの言葉で行き詰るようなこの仕事で――。
わたしはわたしなりに――わたしだから見える世界の中で――。
きっと、それなりに考えていた。
今の自分は――今のやり方は――。
本当にこれで良いのかって。
だからこそ今、迷えるんだ。
「分かったようだの」
横を向いた。老僧は庭を見ていた。表情は変わらない。わたしごときの心を変えたところで、このひとには達成感とか満足とか、そういったものは微塵も感じられないのだろう。
「ぬしは無力か。無知か。なるほど、あの男に比べれば経験的には遥かに劣っているかも知れぬ。が――だからこそ見えることもあろう。急激に変わりゆく世界の中で、此岸と彼岸のありようとて変わらざるを得ない。あの男のやり方とて、いつの間にか形骸化しているかも知れぬ。それを指摘し得るのは、あの男本人ではなかろう」
「――」
「ぬしの役目は、あの男と同じ道を行くことか。成程――そういう道もあるやも知れぬ。が、その道一本だけを目指すなら――あの男からの評価それ一つが、ぬしの指針となる道を選ぶなら、ぬしを迷わせる心の靄は、当分晴れることはなかろう。老子心から言うが――人に勧める道ではない」
老婆心では――と思ったが、言及しないでおいた。神様の言い間違いは、よくあることだ。
「八百万人事課が己の居場所であると、あの男に認められて――断言されて初めて、ぬしは心を安んじられると思うておるのだろうが、山に棲む禽獣でも分かる理よ。居場所なぞ、己で作らねば生じぬ。それがたとえ、前に立つ者との衝突を意味することになろうとも――それが、縄張りという奴だ」
「でも、それじゃあ――」
案ずるな――と、老僧はわたしを手で制した。
「正直な顔ゆえ言いたいことの察しは付く。案ずることはない。あの男のやり方に対して持つ違和感がたとえあったとしても、ぬしがあの男に対して持つ想いは、相反するものでも矛盾するものでもない」
顔が赤くなった。全て見透かされていると分かったから。それは、相手が人外の存在だからだろうか。山奥に棲む「覚」のように、相手の気持ちが何でも分かってしまう力を持っているからだろうか。それとも――わたしの顔が、そんな情報まで読み取ることができるほど、いわゆる「正直」だからなのだろうか。
そろそろ帰る時かの――そう、老僧は言った。
「ここは年中秋の庭じゃが、向こう側は夜も進んで星が瞬いておる。ここにいると――つい時を忘れる」
老僧の後について、わたしも立ち上がった。どんな顔をして良いか分からず、何を返して良いかも分からず、促されるまま外に出た。ぽっかりと口を開けた夜の向こう。わたしが戻るべき先には冷たい風が吹き、大通りを行きかう車の音が、唸り声のように聞こえてくる。
――あの寒々しさに比べて、時を忘れた彼岸の何と心地良さそうなことか。
一瞬よぎった、そんな思いをわたしは慌てて打ち消した。また何か、別の迷いに囚われそうな気がしたから。此岸と彼岸とは、そう容易く交わるものではないと、御手洗さんも常々言っていたじゃないか。
夜の中に足を踏み入れ、足早に狐の狛犬が居並ぶ石畳を過ぎた。階段の手前で振り返ると、あたたかな逆光を受けた老僧の影法師が、物言わずわたしを見下ろしていた。
自然と頭が下がった。相手からは何も返ってこなかった。ただ――わたしをここまで誘った、あの鈴の音が、どこからともなく聞こえたような気がした。
暗い中を独りで歩かねばならぬ不安が、恐怖に変わる前に意を決して階段を駆け下りた。行きはよいよい帰りは怖い――しかし、帰りは早かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます